少年の言葉に、子供はにっこりと笑って頷いた。戸惑うように俯いた少年を安心させるような仕草に、相手がまだ幼い子供である事を一瞬疑ってしまう。
本当は、自分と同じく全て記憶に残っているのではないか、なんて。有り得る筈もないと悟っている希望が頭を擡げてしまった。
「取り合えず、ちょっとの間だろうけど、安全は安全だし、自己紹介と状況説明すっかー」
「へ?あ、あの、君、は?」
やけにのんびりした子供の態度は、先程までの必死に駆けていた時とはまるで違うもので、どこからどこまでが本当なのか解らなくなってしまう。
まだ幼い子供に見える。それこそ10歳前後だろう。それなのに、この子供はそんな風にクルクルと自分自身の状況によって切り替えていけるのだろうか。
………………出来るのかも、知れない。子供は意外に、大人が考える以上に多くの事を知っていて、出来るものだ。
外見の小ささ故に半人前とされても、心は大人と同等だ。もしもこの子供が、経験を積んでいる『ブックマン後継者』であるとすれば、この幼い姿の彼であったとしても、その程度の真似は出来るだろう。
思い、訝しむ眼差しを微かな憂いに溶かして向けてみれば、子供はきょとんと目を瞬かせたあと、首を傾げた。
「ん?だ・か・ら、自己紹介!俺はジュニア。名前は今ないから、そう呼んでくれる?」
ラビ、と。そう告げるかと思った名前は綴られなかった。
外見上の特徴も、その声も、確かに見覚えのある青年のものだというのに、この子供は名前だけは名乗らなかった。
警戒されているのか、それとも本当に別人なのか。混乱しかけた脳内で、クルクルと青年と目の前の子供の像が入れ替わり立ち代わり蠢いた。
「へ?え………あ、れ?ジュニアって………え?ブックマン……?」
呆然と呟いた少年の言葉に、子供は驚いたように目を丸めて首を傾げた。
一瞬その眼差しに煌めいたのは、なんだろうか。少年が考えるより早くに、それは好奇心に輝く瞳に隠されてしまう。
………けれど、知っている。その、眼差し。
自分もずっと携えていた。探るように、相手を見極める眼差し。自分に近づくものが何を考えているのか、それを分類する為に。
少年は己の腕の奇形の為に。この子供は…おそらくは『ブックマン』という秘匿の一族の後継者であるが故に。
見知らぬ人間への警戒を、深く刷り込まれ生きている。
「あれ?ジジイの知り合い?って事は、もしかしてお前、結構年上かも?」
人懐っこい笑みを浮かべ、子供は言った。少しだけ距離を取ろうと、少年が背を洞窟に預ける間すら、その眼差しが観察しているのが解る。
苦笑が浮かびかけて、少年は俯いた。………彼は感情を読む事も長けている。浮かんだ表情が何かを語ってしまう事を避け、目蓋を落としてゆっくりと深呼吸をした。
それらは子供の言葉に警戒しているように見せるには十分で、ドジを踏んだと焦ったらしい子供は、慌てて少年の顔を覗き込んで戯けた声で話しかけた。
「ここさ、魂しかいないみたいで、時間軸狂ってんだ。だからたまに、実年齢より歳食ったり若くなったりするんだよな。結構面白いけど♪」
「え?ええ?!って、待って下さい!!」
楽しい内緒話をするように子供が擦り寄って告げた言葉に、少年は慌てて顔を上げた。
目の前には嬉しそうな子供の顔。……ホッとしたように映るのは、もしかしたら泣いているとでも思ったせいだろうか。
先程からどうにもこの子供に対して困惑が先に浮かび、距離が上手く定まらない。名前が、こんなにも大事だなど思いもしなかった。
少年には、青年を見分ける術が無かった。もしも青年自身がそこに居るならば解るだろう。けれど、今ここにいるのは、青年であったとしても過去の子供の頃の青年だ。
それが正しく青年自身なのか、まったく別の時代の、彼によく似た『後継者』であるのか、少年には解らない。
告げていいのか、悪いのか。………ついブックマンの名を口にしてしまったけれど、そこに浮かんだ疑惑の眼差しは、それ以上この子供にその話題を振る事を許してくれない。
もっとも、たとえ問い掛けたところで、この子供は答えないだろう。ブックマン一族の事は語るものではないと、確か老人が言っていた。
それならば、今は解決すべき問題がいくつかある。子供の出自はこの際目を瞑り、自身の現状把握、及び、現在居る場所の状況把握。
上擦りそうな声をただす為に息を飲み込み、恐る恐る少年は自分の顔を覗く子供に問い掛けた。
「………あの、僕、今何歳くらいに見えますか?君は10歳くらいにしか見えないんですが?」
「ん?同い年?」
あっさりと楽しそうな声が告げて、少年ががっくりと項垂れた。
10歳であれば、イノセンスが発動しない事も、左目がAKUMAを感知しない事も当然だ。まだその頃の少年は、ただ養父に愛されピエロとして一緒に旅をしていただけの、普通の子供だ。
12の冬の日まで、ずっとそれが永遠だと信じて疑わなかった頃の、無力な身体だ。思い、少年は顔を歪めて地面を睨んだ。
AKUMAが、いるのに。それなのに、ここにいる自分は、それを救えない。この子供を守れるかすら、解らない。
先程駆けた時の身体の重さに、呆気にとられたものだ。あの頃から身は軽いと思っていたけれど、戦闘を知りイノセンスに助けられながら鍛え上げられた15歳の身体に比べて、この身体は重く頼りない程薄っぺらで柔らかい。
どうするべきかと思い悩む少年の頭に、ぽんっと子供の手のひらが乗った。
多分慰めてくれているのだろうその手は、赤い髪をクシャクシャに撫でて面白そうな声で言った。
チラチラと目の前で踊る自身の前髪が赤い事も、今はもう違和感の方が強いのだから、余程自分は業深いらしいと自嘲した。
「って事はやっぱ年上か?ま、ここだと外見ってあんま関係ないし、気にしない方がいいぞ?」
………多分、慰めている筈だ。その声の響きがとても楽しそうで愉快そうなのは、きっと彼の性格上の問題で、心配はしてくれているのだろう。
そうでなければ、わざわざあの時、少年の手を引いてまで駆ける必要は無かったのだし、今現在もこんな風に構う謂れはないのだから。
解ってはいるのだ、が。それでもこの幼い子供に頭を撫でられながらそんな事を言われると、尚の事、落ち込んでしまうのはどうしてだろうか。
「なんか君に言われると凹みます………」
「失礼な!で、お前ってばジジイと知り合い?ブックマン知ってんだよな?」
本気で沈んだ声で告げられて叫び返した子供は、一転、少年の顔を両手で持ち上げて目を合わせた。
問う声に秘められている冷たさを、きっとこの子供は笑みで隠しきれていると思っているだろう。
どれくらい長い間この子供が老人とともに記録の旅を続けたのか、少年は知らない。青年は自ら告げる事はなく、少年はそれを問い掛けていい範囲のものではないと判じている。
だから、その声に沈む悲哀が、子供の中での軋みに由来している、なんて。解る筈もない。
それでも笑みと声を連動出来ない程には世界の残酷さを知ってしまっている。それだけは解って、少年は遣る瀬無く歪めかけた眉を凛とした眼差しに変え、子供を見上げた。
「…………………黙秘、します」
「へ?なんで?!」
自身の頬を包む子供の両手を静かに握り締めて離し、少年はその小さな手のひらを見つめてから、そっと目蓋を落とした。
何を言えばいいだろうか。どこまでであれば、告げてもいいのだろうか。
この子供が彼であるならば、ここは真実時間という概念が狂っている。未来と過去がごちゃ混ぜだ。そんな中、少年の持つ情報は、この子供にとってマイナスになり得ないだろうか。
公平に中立に傍観者である筈の『ブックマン』だ。その後継者の彼が未来の情報を得てしまったら、その眼差しに偏りが出るのではないだろうか。
………それは、決してあってはならない事だ。
思い、少年は閉ざした目蓋にキツく力を込めた。いっそ全てを告げて打開策を共に探りたい衝動が、ないわけではない。どこまでこの子供に隠し通せるか、自分でも解らない。彼は、子供であったとしてもきっと、人を探る事がひどく上手いだろうから。
それでも、見破られるわけにはいかない。
…………そう、覚悟を決めて、少年は再び子供の小さな手のひらを見つめ、寂しく笑んだ。
「だって、『ブックマン』の事をそう簡単に話していいわけがありません。ましてや君はジュニアなら、後継者でしょう?でも、君は僕の知る『後継者』とは違う」
真っ直ぐに、探る無機質な子供の眼差しを受け止めて少年は告げる。
逸らす事もない眼差しは揺れない。それを見極めるように眇められる幼い翡翠は、感情の色を消し去っている。
………きっとそれすら無意識だろう。まだまだこの子供は、彼に到達するには長い時間がある事を教えた。
「君と僕が同じ時代に生きているとは限らないのに、僕が話した事を君が記録してしまったら、歴史に狂いが出るかもしれません」
確実に、少年が『未来』だ。情報を与える事が可能な立場にいて、それをこの子供は細部に渡り全てを記録してしまえる。忘れる事もなく、貪欲に全てを。
それはあってはいけない事だと、少年が言う。眇めた子供の眼差しが、一瞬だけ泣きそうな色を灯した。
それに驚くよりも早く、子供の目は柔らかく綻んで先程と同じ人懐っこい笑みに彩られた。
「えー?いいじゃん、別に。聞いたからってちゃんと黙ってるし、俺」
後ろ頭に腕を組んで、軽口を叩くようにそんな事を言う仕草は、青年と同じだ。
懐かしいと思ってしまうのは、そんな姿をここ数日見る事が無かったせいだろうか。………枯渇しかけた心に気付いて、少年は苦笑した。
たかだか数日で、見えなくなった仕草を寂しがるなど、自分もまだまだ子供だ。この目の前の子供を諌めるのも役不足に感じる。
それでも、自身で解っている過ちは犯さぬようにと、律した心を奮い立たせて、懐かしい愛しい仕草を見つめた。
「………そんな軽々しく言える子供に教えられませんよ?」
「子供扱いすんなよ!俺、お前より絶対、い〜っぱい、物知ってんだかんなっ」
首を振って子供の言葉には従わない事を示せば、子供は途端に拗ねたような声をあげた。
むくれる子供の頭を軽く叩き、少年は苦笑する。いくらスタイルを辿るように自身を振る舞わせても、どうしたって心は幼い部分を残すものだ。
なんとなく想像はしていたけれど、やはり幼い頃の彼は少し尖っている。………傲慢とまではいかないけれど、手にした知識に目が眩んで、周囲と自分の優劣を気にしている。
……もっとも、子供はえてしてその傾向があり、一人前と認めてもらいたがって己の優位を誇示したがるものだけれど。
そんな自分に自覚はあるのか、宥めるような少年の手のひらに唇を尖らせ、子供はそっぽを向くと頬を膨らませたまま、小さく唸るような声で問い掛けた。
「じゃあ、名前。それはいいだろ?」
せめてもの譲歩だというように告げる子供の声は、拗ねていて幼い。
彼を知らない大人ならばコロリと騙されそうだと、少年は忍び笑った。
「名前、ですか。………そうですね、それなら仮に『マナ』と呼んで下さい」
「仮?!なんでさ!」
今度こそ驚いたように子供は目を丸めて振り返る。その顔には先程までのむくれた色も拗ねた色ものぼってはいない。
ただ純粋に驚いたような、そんな眼差しが乗せられているだけだ。
「なんでって………だって、君だって『ジュニア』でしょう?名前を教えてくれないのに、僕だけ答えるなんてフェアじゃないです」
君は名乗れるの?と問えば、子供は押し黙って目を逸らす。当然だ。後継者は名を捨てる。それ故に、今の子供は名を持たない。ログ地に向かう途中、まださすらっている最中だった。この前のログ地では厄介事に巻き込まれたので、すぐに名を捨てざるを得なかった。その為、今現在は師にもジュニアと呼ばれるばかりで正式な仮の名を与えられていないのだ。
仮の名のどれかを口にするのは簡単だが、そこから足取りがバレる可能性もある。仮の名はただ一度限りだ。決してそれ以後名乗らない。
だから答えられない子供は、それでも嘘の名を告げるという選択肢は選ばなかった。
「………名前くらい、いいじゃんか」
結局そんな事を言い募るしか手がなく、子供が恨めしそうに少年を見遣った。
そんな子供の誠実さは、この先の未来で少年が愛しんだものだ。生来のものらしいそれに少年は微笑み、詫びるように子供の赤毛を撫でながら、そっとその理由を口にした。
「だって君、名前を知っていれば、そこからいくらでも調べられるって思っているでしょう?なら教えられないですよ?」
「………ちぇー、お見通しか」
初めからバレバレだった事を漸く認め、子供はバツの悪い顔で小さく呟いたあと、にっこりと笑んで少年を見た。
「じゃ、仕方ないか。うん、マナ、な。暫くの間よろしく」
「よろしく、ジュニア」
差し出された右手を同じように握り締め、少年は懐かしい養父の名を綴る幼い子供の声に微笑んだ。
その笑みに惚けた子供は、ひどく嬉しそうにまた笑って、はしゃぐように握手した手を振り回した。
…………そうして始まった、仮初めの世界での、生き残りを賭けたゲーム。
捕まれば死の待つ鬼ごっこ。
鬼は、いつでもすぐそこに。勝つ方策すら解らぬまま、ゲームは開始された。
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…………おかしい。名前を名乗り合う事とジュニアの事を書くだけで、なんで1話分?(汗)
でもとりあえず、過去と現在ごちゃ混ぜ空間でのお話が進みます。
たまに思い出したようにブックマン達の方も書きますよ、多分。
………入ってくれればね(遠い目)
10.11.7