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名乗り合ったのはいいが、その後の話合いはなかなか奇妙だった。
ジュニアは二日程前にここに迷い込んだらしい。時計はないが、彼自身の記録能力から算出した時間がそれを教えるという。
眠った時間は無理だろうと問えば、ここでは眠くならないのだと言われてマナは驚いた。
それだけでなく、空腹も排泄もない。言うなれば生き物が生きる上で必要な要素が何一つないらしい。
その癖、怪我は怪我のまま残るという。その証拠だと見せられたジュニアの左腕には確かに裂傷があった。
AKUMAから逃げる際に、まだこの洞窟内を調べていなかったため、誤って落ちた時の傷だと言うが、裂け目に落ちてその裂傷のみで済んだというのであれば、相当ジュニアの体術が優れている事を示していて、マナは幼い子供の頼もしさについ顔を綻ばせてしまう。
それを目の当たりにしたジュニアは唇を尖らせて頭を掻き、照れ隠しをするようにそっぽを向きながら話を続けた。
「多分、俺はAKUMAに撃たれたせいだって思うんだよな、ここに来たのは。なんかジジイ、AKUMAには特殊能力あるって言ってたし。それなんじゃないかなーって」
「………AKUMA、ですか?さっきの変な人?オバケ?」
少しだけ悩んだあと、マナはAKUMAを知らぬ振りをした。
話を聞く限り、おそらくジュニアは青年の幼少期だ。しかも、幻でもなんでもない、その時の青年がそのまま魂だけこの空間にいる。
同じように少年もまた、この空間にまるで違う時間軸から加わってしまった。名前は名乗らず『マナ』と変えてジュニアに関わる事で、極力未来への影響を減らしたつもりだけれど、考えてみればそれだけでは甘いのだ。
マナは、『アレン』の養父の名だ。『ブックマン』である彼らは教団の人間のプロフィールなど全て記録している筈だ。赤い髪が白く変わり、左目に呪いを受けても、おそらく彼は顔立ちを見誤るなどしてくれない。
ならば、少しでも情報を狭めなくてはいけない。
マナは何も知らず、たまたま巻き込まれた。あるいは臨死中であり、ジュニアとは違う理由によって迷い込んだ。そんな奇天烈な理由くらいで、この不可解な空間では丁度いい筈だ。
どのみちイノセンスが使えないのであれば、エクソシストである事はバレない。左腕さえ見られなければ、印象にも残らない筈だ。
慎重に、少年はジュニアに渡す情報を選んだ。いくらでも記録を貯蓄出来るこの子供は、今は解らなくとも時とともに咀嚼したあらゆる情報を糧に、いつかきっと事実を見出してしまう。
それが、少なくとも少年との別れの前でないように。現在が変わってしまわないように、少年は戸惑いを瞳に乗せながらも問い掛けた。
その迷いはAKUMAという存在への疑問と受け止められたらしく、ジュニアは失念していたというような顔をしてから、慌てて説明をしてくれた。
「オバケじゃないけど、うーん、まあ兵器なんだよ、あれ。兵器だから、人間殺すの。自動操縦の殺戮兵器だから、止まらないし、逃げなきゃいけないんだ。あれを壊すのは特殊な武器がなきゃ駄目だから、俺らだと逃げたりちょっと足止めしたりくらいしか出来ないんがネックだよな」
随分と乱暴な説明だったけれど、それでも何も知らない人に伝えるならば、そのくらい噛み砕いてしまった方がまだいい。そんな事を思い、少年は小さく笑った。
まるで何かの冒険物のゲームのような設定だ。思い、そんな風に思えるのも己がイノセンスを使えない状況にいるからこそだろうと、嘆息する。
………本来なら、自分こそがこの子供を守る為に、真っ先にAKUMAに立ち向かうべきなのに、それすらままならない。
「特殊な武器、ですか?この洞窟にはそれ、ないんですか?」
「無かった。って言っても、俺が探索した場所には、だけど」
むすっと、不貞腐れたような声が答える。多分、先程の溜め息が自分の説明を子供の夢物語とでも呆れられたと思ったのだろう。
そうではないと教えるように、マナは隣に座るジュニアの肩に背を押し付けて惑うように周囲を見遣った。
「それだと……僕達、いずれは捕まっちゃうっていう事、ですか?」
「大丈夫、マナ。伊達に二日間、一人で逃げ回ってないし?俺と一緒にいれば、その武器持った奴が来るまでちゃんと守ってやるよ♪」
添えられた体温に、頼られていると思ったらしいジュニアは、途端に機嫌よくそんな事を言う。
きっと、ずっと老人の加護のもと、叱られ注意を受け、己が足手まといである事を自覚して生きてきたのだろう。まだまだ子供の肉体しかないジュニアは、どうしたって争い事のただ中では邪魔にしかなれない。
己の身を守る事は出来ても、老人を守る事は出来ないのだろう。
頼られる事もなく、優秀であるが故に相応の自尊心の高さも持ち合わせる子供には、その事実は不満であったに違いない。
そこに降って湧いたような、自分よりも弱い存在を守るべき立場だ。浮かれる気持ちも解らなくはないと、少年は胸中で笑んだ。
「マナは?やっぱAKUMAに撃たれたん?」
マナが年上だという事を認識はした筈のジュニアは、それでもやはり外見上の問題なのか、周囲を警戒するように眺めるマナの頭を優しく撫でて、彼の経緯を問い掛けた。
それに苦笑しながら、少年は首を振る。原因と言われても、よく解らないのだ。
AKUMAのウイルスは浄化した筈だ。だというのに、突然身体が熱くなり、心臓が痛んだ。そうして閉ざした目蓋を開けてみれば、ここに居たのだ。説明のしようもない。
仮説なら、成り立ちはする。ジュニアの話を聞く限り、最後の痛みは体内に残ったAKUMAの特殊能力の弾丸への、イノセンスの拒否反応だろう。ウイルスは浄化出来るが、特殊能力は個々のもので、この体内にも抗体はない。寄生型と言えど、AKUMAに対して無敵ではないのだ。
そうして左腕ではなく心臓に走った痛みは、きっと血液の循環を妨害されたからだ。
身体機能を最低限の状態に一時的にせよされれば、人は仮死状態と言えるだろう。その状態で魂を絡めとられ引き込まれたのであれば、何も知らぬままにこの空間に落とされても誰も事の経緯を正確には論じれない。
「いえ、ええと……僕は確か、凄く胸が心臓が痛くなって、その時ちょっと大怪我していたから、そのせいかと思ったんですけど。気を失って、目が覚めたら………」
「ここにいたって?そりゃ、あんだけ惚けもするな」
にやにやとマナの頭を撫でながら、からかう声が言葉を繋げた。
ムッとして睨んだ先、ジュニアは楽しそうな目で見下ろしている。……そんなところは、まったく変わらず成長したのだと思って、つい少年は唇を尖らせて反論してしまった。
「………………寝ぼけていたわけじゃないですからね?!」
確かにぼんやりはしていたが、それは驚いたからだ。全然見知らぬ場所にいて、AKUMAが迫り、子供に怒鳴られ、イノセンスは無反応だ。混乱するなという方が無理な話だ。大体、寝起きの悪さならば青年の方が上である事は、旅の最中に経験済みだ。
けれどそのどれもをジュニアに告げる事は出来ないのだから、少年に残された反論手段は拗ねたような言葉しか無かった。
それを知る筈もないジュニアには、少年の反応は可愛い反抗にしか見えなかったのだろう。楽しげに頭を撫でるばかりで、いなされてしまった。
不満を言えばその理由も口走りそうで言うに言えず、押し黙っていた少年に、不意にジュニアは隻眼を顰めるように細めて問い掛ける。
「でもさ、心臓って………マナ、なんか疾患あるん?」
もしも無理を出来無い身体ならば、逃げるにも限度がある。いくらこの世界が肉体から解放されているとはいえ、怪我は怪我として残る事を考えるならば、病気もまた、残る筈だ。
おそらく現実世界にある肉体は、保護されてさえいれば負った怪我も癒えるだろうが、それが望めない状況であるのならば、放置された怪我が致命傷にもなる筈だ。
心臓の病気であれば、尚の事その処置が適切に行なわれる場所にいなければ、出来る事があまりに限られてしまう。
「疾患……というべきか解らないですが、ありますね。だからきっと、それが原因かと思っていたんですけど。まさかこんな場所に来るとは思わなかったです」
「薬とか、そういうの必要なん?」
「いいえ。以前怪我をしたので、ちょっと弱っているだけです。一般的な運動程度はまったく支障ありませんよ?」
真剣なジュニアの口調に、何を憂いているのかを悟った少年がにっこりと笑んでそう告げた。
問答の間、きっと無意識だろうジュニアの指先は、頭を撫でるものから包むものになって、本当に弟を心配する兄のような眼差しで顔を覗いてくるから、少年にはそれがひどく心地良くてくすぐったい。
よく、青年もこんな風に顔を覗いては心配してきたり諌めたり、色々な言葉をくれた。
それはどれも心地良くて、少年は青年が傍にいる事を随分当たり前に感じていた自分に驚いた程だ。
………それも、今はもう遠い距離に過ぎ去った話だけれど。
「でも、ジュニアは、AKUMAっていうのになんで撃たれたんですか?普通は逃げるんでしょう?」
ふと、子供の告げた理由を思い、少年は訝しんで問い掛ける。
彼は無知ではない。それ故に、無謀でもない。蛮勇とは遠い位置にいる子供だ。だからこそ、不思議だった。
ジュニアであれば、きっとAKUMAと遭遇した時点で己が敵う相手ではないと判断して、逃げただろう。それが最善の策なのだから、恥じる必要もない。ましてや、まだ彼はイノセンスを得てはおらず、対抗策もないのだから。
その彼はAKUMAから受けた攻撃故にここにいるという。それが妙な符合に思えて問うた言葉に、ジュニアは顔ごと視線を逸らして言いづらそうに口籠りながら、小さく答えた。
「んー、なんつーか、ドジった?」
出来れば言いたくないというその響きに、少年は目を瞬かせる。
まだ後継者としてすら半人前の立場だろう彼は、己の身を守る事がまず第一優先事項だろう。その彼がドジを踏んだというのならば、それはその第一優先事項を失敗したという事、だろうか。
思い、一瞬で悟ったその事実に、少年は間の抜けた間の手を入れてしまう。
「え………?」
「………ジジイに逃げろって言われて、隠れようとしたらさ。エクソシストを狙った流れ弾に当たっちった」
少年の不可解そうな声に誤摩化せそうにない事を悟ったのか、殊更可愛らしい子供を装ってジュニアが告げた。
にっこり笑顔とともに言われれば、確かに大抵の大人はつい苦笑ひとつで見逃してしまうだろう。が、いま彼が言った事は、そんな簡単に流していいような内容ではない。
たまたま、AKUMAの銃弾は運良くウイルスではなかった、それだから生きている。そうでなければ彼は既にこの時に死んでいるのだ。
さっと、少年は顔を青ざめさせた。もしもこの時、その運良くが適用されなかったなら、青年は少年と出会う前に失われ、老人は新たな後継者を連れていたのだろうか。
そんな恐ろしい未来も、有り得たという事か。出会う事すら許されず、得る以前に失う、なんて。
思ったと同時に、少年の手が振り上げられた。子供が驚く暇もなく、それは振り下ろされる。
………クロウリーから日本への旅の途中、一度ウイルスの弾丸を彼が身に受けた事を聞いた時も殴ったが、それと同等の力で、無意識に少年は目の前の子供の頭を叩いていた。
「馬鹿ですか?!なんの為の記録の目ですか!ちゃんと記録した位置覚えて、最善の逃げる道を導き出すのも君の役目でしょう?!」
「痛いって、マナ!!わかってんよ、絶対ジジイ怒ってるな~」
もう一度振り上げられている腕を見上げ、今はジジイよりマナの方が怖い、なんて。笑って嬉しそうにジュニアは言った。
叱られて叩かれて、でもきちんとこの子供は、マナが心配したからこそ怒った事を解っている。それを感じて、少年は大きな溜め息をひとつ落とすと、仕方なさそうに笑んで振り上げていた腕を戻した。
自身の不手際をきちんとこの子供は知っているのだ。それなのに尚叱りつけるのは、ただの八つ当たりだ。不安にさせられた分を押し付けるような真似をしたくなくて、少年は大きく吸い込んだ息を吐き出す事で、その全てを霧散させた。
たんこぶにはなっていなくとも未だ痛みは続いているだろう子供の頭を撫で、少年は痛みがあるだろうに妙に満足げな子供の顔を覗きながら、問い掛けた。
「………ブックマン、怒るんですか?」
いつもよく叱りつけられているけれど、青年はさして老人が怒りっぽいとは言わない。きちんと相手が叱る理由を知っていて、その根底に流れるものを掬い取っている。
そんな二人の間に流れるぬくもりは、少年が大切に愛でているもののひとつだ。
不満げな子供の声とは違う未来の姿を思い、少年は不思議そうに髪を梳きながら答えを待った。
「……怒るに決ってんじゃん。殴られるし蹴られるし!容赦ねーの」
唇を尖らせて辟易とした顔でジュニアが言った。それは心底嫌そうだけれど、その言葉の内容に少年は破顔し、嬉しそうにジュニアの髪を掻き混ぜその頬を撫でた。
「はは、なんだ。愛されていますね、ジュニア」
「…………俺もジジイもそんな特殊な嗜好してないからな」
殴られて蹴られてそれが愛情表現など冗談ではないと顔を引き攣らせたジュニアに、マナは不思議そうに目を瞬かせると首を傾げた。
「特殊???」
何か変な事を言っただろうかと、まっさらな眼差しが問い掛けていて、年上の筈の少年に、ジュニアは別の意味で顔を引き攣らせそうになってしまう。
何歳であるかなどは一切口にしていないので知らないけれど、それでもそう凄い歳の差はない筈だ。それは言動から推察出来る。
そうであったとしても、今の会話が成り立たないというのは、彼が疎いのか、自分が擦れているのか。どちらであっても取り合えず、説明をするような話でもない。
数秒の間を開けてはしまったが、ジュニアはマナに空笑いを向けて話を流してしまうと、改めて無邪気な笑みを浮かべて首を傾げてみせた。
「いんや、なんもねぇや。で?どこが愛されてるん?」
つい楽しげに弾んだ声が出るのは、新しい何かを見つける前の高揚故だ。
彼の見るものはいまいち自分とは違うらしい。なんとなくそう感じ、ジュニアは新しい本を読むようなワクワクとした心持ちで問い掛ける。
…………マナは不思議な人だ。
決して多くのものを知っているわけではないし、きっとジュニアの方が知識はあるだろう。けれどジュニアが知らないモノを、マナは見つめている。
そうして、彼の世界の後継者やブックマンを守るように、マナはジュニアに提示するものを選り分けている。それはマナの言葉を探す仕草でジュニアにも察せた。
自分や師を知るものが、果たしてそんな真似をしてくれるかどうか。考え、子供は空虚な思いが胸に湧いた。
…………そんな事、考えるだけ虚しい事だ。自分達の詳細を知れば、誰もがそれを利用しようとするだろう。
自分達を守るのは己自身と互いだけだ。それ以外の全ては敵と見なして関わらなくてはいけない。そうでなければ、近寄った分、ぱっくりと闇が広がっていく。
マナのような存在は、希有だろう。自分達のような生業をするものには、特に。
だから彼の声を聞いているのは不思議と心地良かった。彼が、差し出した右手を握り笑んでくれた時、心が浮き立ったのを覚えている。
それはきっと、彼の目が何も浮かべなかったからだ。いつだって差し出した右手を握る相手は獰猛で貪欲な闇を見せていた。それを満たす為に、裏歴史を必要としていた。
それなのに、マナの瞳はどうだろう。自分達を知っている筈なのに、その眼差しに溶かされているのはあたたかく優しい感情ばかりだ。
…………まるで愛おしいと教えられているような錯覚に、目が眩んでしまいそうだ。
きっと自分は当たり前のものにひどく飢えているのだと、マナを見ていてそんな事を自覚してしまう。これでは師に窘められ溜め息を吐かれても仕方がないと、一人胸中で溜め息を落とした。
そんなジュニアの眼差しの先、マナは目を瞬かせて首を傾げている。
「え?だって、心配したから怒るんじゃないですか。君の事が大切だから、生き残れるようにその術をいつだって叩き込むんでしょう?愛されていますし、ブックマンは優しいと思いますよ」
マナは不思議そうな顔で当然のようにそんな事を言う。やはりジュニアにはよく解らない理論だ。
けれど、マナの声は優しくて耳に心地いい。
それは彼がそれを受け入れているからだ。疑う余地すらなく、信じているからだ。
「う~ん……?マナはお人好しって言われるっしょ?」
クスクスと楽しげに問い掛けてみれば、思った通り頬を膨らませてマナが顔を逸らせた。
「………………僕のところの後継者にも言われましたよ。『ブックマン』が優しいもんかって」
尖った唇が子供のようだ。今はその外見も自分と同じ程の子供で、年上である筈の彼は、ひどく幼く自分が守らなければ傷付いてしまう赤子のように純粋だ。
二日間、ジュニアはこの洞窟にいたのだ。その間、他の人間も見た。中には数時間ではあるけれど、一緒にいたものもいた。けれど、誰もがAKUMAに怯えて余裕がなく、ジュニアを邪険にするか殻に閉じ篭るかで、話し相手にすらならなかった。
だから、ひどく今こうしてマナと話している事が楽しいと感じてしまう。
………気が弱っていたのかと、己の脆弱さに微かにジュニアは苦笑した。
そんなジュニアの顔を見つめ、少しだけ不思議そうに瞬きをしたマナは、ふわりと、薄暗い洞窟の中で月明かりのように笑んだ。
「でもね、ジュニア。覚えていて下さい。目に見えるだけじゃなく、示される態度だけじゃなく、ちゃんとその底にあるものを、見て下さいね。何故それを差し出されたか、考えて下さい」
「?なんで?」
目を瞬かせ、ジュニアは不思議そうに問い返す。
感情を読み取れと、師に言われる。それは機械には出来ない、人だけが備えた洞察だ。だからこそ、目を養い、心の機微を読み取り記録する、その為の知識と手腕は叩き込まれている。
それはブックマンとして当然だ。………けれど少年はそれで終わるなという。
その感情の流れがどこから起こり何故に発生し、どのように変化し表出するか。………おそらく、ありふれたその言葉が告げたい事は、そんな事だ。
じっと、マナの瞳をジュニアは見つめた。ブックマン後継者としての、記録の眼差し。それが冷たいものだなど知りもしないまま、無機質に子供は少年を記録した。
その無遠慮さを許し、記録される事を受け入れて、少年はゆっくりと伝えるべき言葉を探して音を紡ぐ。…………洞窟の中、奏でられる芳しい花弁の音色。
「ブックマンは……いえ、人はね、とても不器用だからですよ。素直に全部出すなんて、出来ないんです。だから、考えてあげて下さい。そうすればきっと、君は一杯の優しさに包まれている事に気付きますよ」
澄んだ音色が響いた。洞窟の中、決して反響などする筈もない小さな声だ。ジュニアにだけ向けられた、マナの声だ。
それを記録者の眼差しは眩そうに細めた瞳に映し、ぎゅっと、目を閉ざしてしまう。
眩過ぎる音色は、あまりに今まで垣間見て来た世界と異質過ぎて、どのカテゴリーにも分類出来なかった。
そう感じ、思い知る。今まで自分が公平に見たつもりでいたものが、どれ程偏りに満ちていたか。人を愛おしいなどと思う隙間を、いつの間にか消去していた自分の中身の空っぽさに、苦笑も出ない。
「………やっぱりマナはお人好しで、夢見がちだよ」
軽く吐き出した吐息は呆れたのではなく、感嘆からだ。
世界の汚濁は見飽きた。そんな愚かな生き物なのだと、そう割り切らなくては辛いばかりだ。
それでも誰も知る事のない真実を、ただ一人知る事の出来る『ブックマン』という立場を、どうしても手放せなくて………記録を続け、喉を潰しそうな現実を見つめ続けているけれど。
そんな世界の中で、何も知らない無垢な幼子のような事を、この少年は綴るのだ。
…………ブックマンに関わるものならば、きっと自分が見続けた汚濁を垣間見ている筈なのに。
それでもマナは、その身に宿った善性を穢さず朽ちる事なく花開かせている。だからこそきっと、その声も眼差しも笑みも、ひどく優しく美しく見えるのだ。
……………同じ泥を知っているから尚、輝く花弁の荘厳さに、息を飲むのだ。
「言われましたよ、彼にも」
クスリと、力なくマナは笑んで、寂しそうに俯いた。
マナの言う彼が誰だかは解らないけれど、予測するならば、きっと彼の世界のブックマン後継者。自分と同じ立場の、おそらくは彼と同じ程の年齢の人だ。
それならば尚の事、今の自分よりも世界を忌避している事だろう。思い、そんな人物にまでそんな事を言ったのだろうマナに、呆れるよりもおかしさが込み上げる。
「………なあ、マナ」
それはきっと、自分に告げるのとは違う感情故だ。だからマナは、彼を想起する時、そんなにも切ない顔で微笑むのだ。
思い、呟いた声は随分と静かだった。
その声の質に首を傾げたマナは、穏やかな笑みを唇に乗せてジュニアを見遣った。
「はい?」
傾げられた首は細くて呆気無く縊れてしまいそうなくらい、脆弱だ。
その上に乗る笑みは尚の事儚くて、この暗闇の中、一瞬で掻き消されるロウソクよりも淡いのに。
………ずっとずっとそれが携えられたのは、その後継者が傍に居たから、なのだろうか。
どれくらいの月日を彼らが共に過ごしたのか知らないし、自分など一ヶ月も同じ場所に留まらないのだから、彼の世界の後継者も、既に消えた後かもしれない。
そんな今現在共にいる可能性の方が微かな、彼らなのに。ふと思いついて出た言葉は、そんな物からは遥か遠い単語だった。
「マナの知っている後継者ってさ、マナの好きな人?」
「な、なんですか?!それは!?!?」
途端、先程までの穏やかそうな笑みが消えて、真っ赤になった顔にジュニアは目を瞬かせた。
ちょっとした軽い気持ちの、からかいだった筈なのだが、思いの外核心を突いてしまったようだ。彼、というからには男で、マナも可愛い顔はしていても男で、そうなると、宗教の支配の強い国の中、決して祝福はされないだろう思いだ。
考え、もしかしたら彼の生きる時代では、そうした規制も緩んだのだろうかと首を傾げてみる。情報が足りな過ぎて、推論にもならなかった。
どちらにせよ、マナには特別な相手がいるのだ。だからきっと、同じ立場の自分にも優しいのだろう。
そうでなければ、出会ったばかりの見知らぬ相手に、そんな風に優しくしてくれる筈もない。
………そんな卑屈な事を考えた自分の意識に驚きながら、ジュニアはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべると、からかう明るい声を弾ませながら響かせた。
「あ、図星?へー、物好き♪」
声は随分を尖っていた気がする。別に糾弾するつもりなど無かったけれど、なんだか胸がもやもやとしたのは確かだ。
………それは少しだけやっかんだ、嫌味を滲ませていたかもしれなかった。自分の知らない後継者が、なんとなく疎ましく思ったのも確かだ。それでもそれはそこ迄あからさまではなく、それなりに隠せていたと思う。
そうだというのに、そんな些細なものにすぐに気付いてしまう少年は、大きなその瞳を鋭くして、優美な曲線を描いた眉を吊り上げて、そうして叱りつけるその声を惜しげもなく子供に叩き付けた。
「ジュニア!例え君でも、彼を侮辱しないで下さいっ」
「だって、『ブックマン』を好きになるなんて、報われないっしょ?」
離れる事が前提でしかない相手への冷ややかさは、多分諸刃の剣として己の心も刺す。ジュニアは同じ立場だ。綴る言葉の全ては、己自身に返ってくるからこそ、その声は底冷えするものを孕んでしまう。
だからこそか、少年の声は鋭い。何一つ責める事を許さない、音色だ。
その声はどこまでも相手を擁護する音だった。同性への思いをからかわれたとか、そんな自分自身が貶められた可能性など気にもかけないで。
ただ響いた音は、献身の音というべきなのか。
………そんなモノを知らない子供は、何に驚くべきかも解らず、目の前の不思議の塊を魅入るように見つめた。
告げた言葉は、多分痛かっただろう。その痛みを知らない子供は、それが故に目を瞬かせた。
また同じように怒鳴りつけられると思ったのに、その眼差しが一瞬、揺れた。寂しい悲しい、けれどどこまでもそれらを抱き締めて慈しむような、静かな瞳。
「そんなの、解ってますよ。だからあの人は、僕の傍にいられないって、言ったし」
ジュニアの視線から逃れるように、マナは膝に顔を埋めて小さく呟いた。
………それは記録を厭うのではなく、捧げるべき相手のいない場所で晒したくないというような、仕草。
それに痛んだのは、そんな悲しみを間近で記録した事が初めてだったからだ。きっとそれだけだと思いながら、その顔をもう一度笑みに変えたくて、戯けた声をあげてみる。
「へ?もう告白済み??」
キョトンとした音は、わざとだった。………マナが顔を上げないか、そんな期待を込めた音。
けれど彼はきっとそれもきっと解っていて、俯いたまま、ただ首を振った。
その顔を見たかったけれど、彼はそれが消えるまで、きっと顔を上げてくれない。それが解って、落胆した。
…………無理矢理に顔を引き上げさせたら、怒るだろうか。
嫌われる、だろうか。思い、そんな事には慣れている筈の心がしくしくと痛む事に首を傾げた。
「いいえ。………でもまあ、お互い多分、知ってましたよ。それが恋愛感情かって言われると、難しいですけど」
躊躇いがちな声。きっと、教える事も回避したいのだろう。
それでも強請る自分に教えるのは、それがこの先自分にもあり得る別れだからだろうか。マナの好きな人と自分が、同じ立場だからだろうか。
知らず伸ばした腕が、マナの髪に触れた。赤い、自分とは少し違う赤い髪。その先端を摘んで、いじった。
「でも、好きですよ。それは離れたからって消えるものじゃないんです。………あの人はその事解ってないみたいですけどね」
その悪戯を窘めもしないで、マナはさえずる。寂しそうな声。
大きな目に涙を溜めているのだろうか。それはきっと、海の中で漂う真珠のように頼りない事だろう。
優しい面立ちは悲哀に沈んで、それでももしかしたら……笑んでいるのだろうか。
寂しそうで悲しそうな音色。けれど肌に伝える響きは、慈しみ深い慈悲だ。
それ以上戯ける事も出来ず、ジュニアはマナの髪を撫で、時に引っ張り戯れて、自身の知らない場所に蹲る心を惹き寄せようと試みた。
「ふーん。なあマナ、こっち向いて?」
甘えるように強請ってみれば、首を振られる。まるで髪を梳く指先すら拒まれたようで、何故か胸が痛い。
「………嫌ですよ。解っていて言わないで下さい」
掠れる事もない、静かな声。きっともう、マナはいつもの顔を取り戻し始めている。
彼の世界の後継者になら、その顔を見せるのだろうか。涙を見せて、悲しいのだと訴えるのだろうか。
自分には、俯いた赤い髪しか見せないのに。初めて出会ったこの幼い純正の魂は、その魂を差し出す相手を、もう既に見つけてしまっている。
それは自分と同じ立場の、自分の知らない世界の後継者。
「見せたくないん?それも、そいつの為の顔?」
「………いつか、君も誰か掛け替えのない人を見つけたら、解りますよ」
マナの声が先程までのものに戻った。柔らかい、慈しみ深い大人の音色。
それにホッとしたのは、きっとマナの寂しさを自分ではどうする事も出来ないと解っていたからだ。
………沢山の知識を持っているのに、彼の悲しみを癒す術は知らない、なんて。
まだまだ自分は学び足りない未熟者だ。師に課題を増やされるのも当然かもしれない。そんな苦笑とともに、マナの悲しみを思い、唇を歪めそうになる。
「遊び相手は欲しいけど、そういうのはいらないな。今のまんまが気楽でいいや」
「あのね、ジュニア」
マナのような悲しみは見たくない。そう思い告げた声は少しだけ沈んでいて、少年は困ったような顔で子供の顔を覗き、その鼻先を軽く弾いて窘めるように告げた。
「気持ちは、理屈じゃ括れないんですよ。いつか……君も知ります。その時は、君が後悔しない道を選んで下さいね」
少しだけ痛む鼻先を押さえ、疑問に顔を顰めさせながらジュニアは首を傾げた。
「?相手と思いを遂げろって?」
「いいえ。君自身が辿る道を、自分自身の意志で決めて下さい」
キッパリとした声が心地いい程鮮やかに響く。それは遂げられなかった自身の思いを卑下する事もなく、ただ己の中にある信に沿った、清艶な音。
「誰かの為とか、使命とか、そんなものじゃなく。君が生きるこの先の時間、後悔せずに進む為に」
真っ直ぐに、煌めく銀灰が輝いた。それは無条件で美しい煌めきだ。
薄暗い洞窟の中、それでもその煌めきは損なわれずに捧げられる。………それが本当に与えられるべき相手は眼前の子供ではないけれど。
それでも、遠くはない未来で彼が選択するものが、少しでも彼自身の為になるように祈り、少年は告げる。
同じ道など歩む意味はない。自分が自分の道を曲げられぬように、彼は彼の道を誇りながら歩めばいいのだ。その為に必要な別れなら、自分は受け入れられる。
互いの意志を曲げて寄り添うなど、いつかはきっと、相手を疎んじる遠因にしかなり得ないのだから。
それくらい、自分達は意固地で我が侭で………頑固だ。
だから、選べばいい。自分自身が悔やまぬ道を。それが故に失おうとも、彼の背が蹲らずに歩む道を進む為なら、悲しみなどどれ程の事もないのだから。
「それが、振った相手への誠意というものです」
寂しいけれど。悲しいけれど。それでもその人が選んだ道を進むなら。悔やむ事なく煌めく魂を燻らせずに、進むなら。
………笑んで見送り、別れられるのだ。
それが、互いに背負った物故だなんて、愚かな嘆きは叫ばない。選んだのは己だと、飲み込み糧として、己の足もまた進ませるだろう。
思いを穢さず、愛おしみ慈しみ花開かせながら、歩む道を彩らせ、進んでいける。
だから悔やまぬ道を己自身の為に選べと告げる少年を見つめ、ジュニアは微かに顔を顰めて幼い指先を自身と同じようにまろみある頬に添えた。
濡れていない、けれど。………きっと、彼を選ばなかったその人は、彼の望むこの美しい祈りを聞く耳を持ち得なかったのだろうと、思う。
傷つけて、離れたのだ。彼を、ではなく。自分自身の歩みを。
…………それが悲しいと泣く眼差しは、それでも嘆く事を忌避して切なく綻ぶ月下の花のようだ。
「なんかさ、俺、思うけど」
目元を辿るように撫で、そのまま髪を梳いたジュニアは、そっと互いの額を合わせた。
今マナが望むのは、自分ではない。どこの世界にいるかもしれない、自分と同じ立場の馬鹿な後継者だ。
何代目かも解らない。それが未来か過去か、それすらまだ見通せない。その時代のブックマンが、どれ程過酷かも、知らない。
それでも確信出来る事がたった一つ、ジュニアにはあった。
「…………マナを選ばなかったその後継者、きっと後悔すんだろーな」
こんなにも優しく世界を見ている人を、手放すなんて、愚かだ。
この世界の汚濁なんて、もう疾うに見尽くして、自分ですら人という種族に諦観しか持ち得ていないのに。
そんな自分にすら、マナの笑みも言葉も、優しく愛おしく響くのに。
得る事を許されていながら手放す、そんな愚かな選択をした馬鹿な後継者を胸中で詰り、ジュニアは重ねた額をずらし、腕の中にマナを抱き締めた。
小さい腕だ。マナ一人抱き締めるのも精一杯の、まだ幼い腕。それでも同じ程に細く小さな肩はなんとか腕の中に収まって、ホッとする。
「俺ならきっと、マナを選ぶよ」
呟きは、思いの外本気の響きで、ジュニア自身が少しだけ焦ってしまう。
それでも嘘ではないのだと教えたくて、抱き締めた腕に力を込めた。その背を、マナの小さな指先が優しく叩いた。まるで母親が赤子をあやすような、慈しみの仕草で。
「……………ありがとう、ジュニア。慰めてくれて。君は優しいね」
響く声は優しくて、それがひどく胸を痛ませた。
自分では駄目なのだと、言われたようで。彼を捨てた誰かでなくては、その声は喜色に染まらないと教えられたようで、悔しかった。
同じようにブックマン後継者なのに、彼とは出会えない自分の世界がひどく寂しいものに思える。
「だって俺のが、この世界じゃお兄さんだし」
だからいくらでも頼ってと、泣きたい気持ちを押し隠してジュニアはマナを抱き締めた。
いっそ彼が泣いてくれれば、一緒になって泣けるのに。
マナは微笑むばかりで、許すばかりで、泣いてなどくれないのだ。
「うん、そうだね。ありがとう…………」
それでも戦慄く指先が背に添えられて、抱き締められる。肩に押し付けたマナの瞳が熱い。
………きっと、その唇は噛み締められて、零せない水滴を耐え忍んでいるのだろう。思い、彼の世界の後継者を、罵った。
世界は醜いけれど。愚かしいけれど。
それでもいつだって、こうして一輪の花は咲き誇る。
その花を愛でるのではなく、摘み取り枯らす、なんて。
…………そんな愚かな選択、自分は決してすまいと、誓いながら。
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アレンは自分の道を変えられないし、ラビに変えて欲しいとも思っていなくて。
お互い選んだ道は違うから、その為の別れが来る事も解っていて。
それでも、それを嘆くのではなく、お互いの為の歩みを支え合う為に、いつかという無言の約束を糧に、笑んで別れる覚悟があるけど。
…………現在のラビにはまだ、それが出来なくて。結果今回のこの状態、みたいな。
そしてジュニア、罵っているのは未来の自分ですよー。頑張っていい男に成長して下さいな。本当に。
10.11.10