休んでいられるのは、大体数時間が限度だ。そうジュニアが言っていた通り、二人が話している最中、ジュニアは突然立ち上がり、マナの腕を引いた。
鋭く周囲を見渡し、空気の流れを読むように彼の神経の全てが張りつめている事が少年にも解った。
身動きすら邪魔になる。呼吸すら惜しんで少年が押し黙っていると、ジュニアはニッと笑ってマナの腕を掴み直し、こちらだと言うように引くと、勢いよく走り出した。
何故解ったのか、それはマナには解らない。けれど駆け出す一瞬前に背後を窺ってみれば、遠く洞窟の先、枝分かれするその場所に朧に浮かぶ影が見えた。
………まるで幽霊のようなその幽かさにゾッと肌が泡立つ。AKUMAはまだいいけれど、幽霊などの怪奇現象は苦手な少年は、顔を引き攣らせて子供の横に並び立つようにして駆けた。
逃避行は、先程と同じくらいで終わった。
そう長くはないが、短くもない。その間をずっと全速力で駆け続けるのは流石にキツく、少年は子供の速度が緩み始めた時には全身が虚脱感に包まれていた。
それでも子供の方は軽く息が弾んでいる程度で随分と余裕がある。きっと走っている間も、こちらの事を気遣ってくれていた筈だ。
これでは自分が年上など到底思えない。そう思いながら、頼もしい子供が周囲を見遣りながらにっこりと笑顔を浮かべるのを見遣った。………どうやら完全にAKUMAからは逃げられたらしい。
まだ息が上がり呼吸が苦しいので、小さく笑むだけでその意味を理解した事を示せば、ジュニアも少年の隣に座り込んだ。
「またあいつだ。多分、AKUMAってのはアイツしかいないみたいだなー」
のんびりした口調でそんな事を言うジュニアには、どうやら相手の見分けがついているらしい。
少年も垣間見たAKUMAはどうやらレベル2らしく、身体的特徴はAKUMAの中でもっとも顕著に現れるタイプだ。確かに彼の言う通り、初めに見たAKUMAも、先程朧に見えた影に似ていた。
それでも魂までを見たわけではない少年には断言が出来ない。が、きっと記録の目を持つジュニアには造作もない見分けなのだろう。部屋一杯にある鍵の中から本物を見つけだせるくらいだ。AKUMAの選別くらいは朝飯前と笑われそうだ。
「ジュニ、ア、これだけ、走って、余裕です、ね」
「慣れてるもん、これくらい♪マナは体力なさすぎ」
肩で息をしながら、ジュニアに驚きを示してみれば、ニヤリとからかう笑みを浮かべた彼が楽しげに返す。
打てば響くように言葉が返るのは、きっと彼の頭の回転の早さ故だろう。
そんな事を思いながら、青年もやはりいつだってすぐに言葉を返してくれた事を思い出す。彼はいつも、小さな声で呟いた事すら掬い取って、いつでも見守っている事を教えてくれるように笑んでいた。
蟠りそうな胸の奥を飲み込むように深呼吸をしながら、少年は少しだけ不貞腐れた声で睨むように子供を見遣った。
「…………これでも、現実では、もっとずっと、体力、あります、よ」
途切れがちな声は、それでも随分マシになった。呼気の乱れも落ち着いてきて、その回復力を見れば、確かにマナは鍛えればしなやかにその身を育てられるだろう要素を窺わせる。
それでも今はまだ、未開拓の子供のままだ。素地があろうとそれだけでは伸びる事はない。
解っているからこそ悔しさもあるのだろうマナの仕草は、ジュニアには楽しくて仕方がなかった。
考えてみると、こんな風に自分と歳の近い子供と長く一緒にいる事は稀で、そのせいもあって随分はしゃいでしまっているのかもしれない。
「はいはい、取り合えず休も♪俺がここに来てからの計算だとさ、AKUMAは一定の距離まで離れるともう追いかけてこれねぇんだ」
「ヘェ……よく見てますね」
驚いたようなマナの瞳が、まん丸の月のようになった。
それを見遣って、子供は得意気に笑むと首を傾げてその顔を覗き込む。
マナの仕草はどれもこれもジュニアには珍しい。いつも表情の少ない師の傍にいるせいもあるけれど、こんな風に素直に感情を見せる人間は、ジュニアの周りにはいない。
だからきっと、素直になれるのだ。零してしまう声も表情も、きっとそんな作用だ。
「マナだって得意じゃないん?英国でブームの博物学の基本は、観察と分類っしょ?」
「うーん、僕はそういうのにあまり興味が無かったんですよね。それに、僕が生まれた頃にはすっかりブームは終わってましたよ。父が興味を持ってはいましたけどね」
「そうなん?マナは上手に助手出来そうだけどな〜」
何気ない会話の中、そっと国と時代選定の為の単語を練り込んでみる。………やはりマナは、自分に近い時代で生きているようだ。
英国での博物学のブームは19世紀前半。その中で自然神学に基づく博物学は、進化論の台頭によってその勢いを衰退させた。神の足跡を辿り創造主の御技を世に知らしめる意味を失ったため、国民的なブームは過ぎ去り、他の分野同様、それを専門とする学者だけに帰依してしまった。
マナが生きているのは、宗教をバックボーンに博物学と自然神学が結びつき、一世を風靡していたその時代の、僅かに後だ。
………それはひどく自分の生きる時代に近い。自分の前か、後か。どちらにせよ、ジュニアを軸に、100年とない時間軸の中にマナは存在する可能性が高い。
素直なマナは、やはりお人好しだ。問い掛けに対して答えずに無視をするという真似が出来ない。
「でも父も僕を連れるようになってから、あまり目を向けなくなったようです。手伝ったりとか出来なかったですし。僕にはジュニアみたいに計算とかカテゴリー分けとか、する知識ないですしね」
ニコリと笑う笑みは、誰かを褒める事に誇らしさを持つ大人の笑みだ。やはりこの人は年上なのだと、今更ながらに思う。自分達子供は褒める事よりも褒められる事を糧に、前に進むのだから。
そんな事を思いながら、その指先が頭を撫でてくれないか、なんて。思いつつ、弾んだ声で問い掛けた。
「偉い?凄い?」
「はい、カッコいいですよ、ジュニア」
まるで解っているというように笑んだマナが、優しく赤い髪を撫でてくれる。同じ程に小さく短い、幼い手のひらだ。それなのに、何故かマナが差し出すそれは、ひどく心地良くジュニアを満たす。
慈しむ事をよく知る指先だ。そう、思う。そうでなければ、こんなにも心地いい理由が思い当たらない。
「へへっ♪でなでな、消えたAKUMAは、また一定時間が過ぎると獲物…まあ俺らの近くに出現するんだよ」
もっと褒めて欲しくて、ジュニアはマナに語りかけた。
この世界に先にいる自分が、彼に教えられる事は意外に多い。先程彼に自分の方がお兄さんだといったのも伊達ではないのだ。
「出現?見つけるんじゃなくてですか?」
目を瞬かせて不思議そうにマナが言った。当然の疑問に、ジュニアはエッヘンと言わんばかりに胸を反らせて、その情報源を提示した。
一度、ここにきて間もない時に、偶然見た光景。それは調度子供のいる場所とは亀裂を挟んだ対岸で休んでいた誰か……ここに先に来ていた人間の間近に、まるで煙が湧くように薄らとその形を象り現れた影。
………自然と顔が引き攣ったのは言うまでもない。あんな反則技で近づかれたのでは、どこに逃げようと逃げ場がない。
おかげで見通しの効く場所ばかりにいたからこそ、マナを見つけその手をとれたのは、多分僥倖というべきだろうけれど。
「一回見たんだ。なんもない場所に幽霊みたいに出てくるの。速攻逃げた」
「ですね、それは怖いし………」
顔を引き攣らせた少年の意味合いは、どちらかというとその出現方法への危惧よりも不気味さへの怯えのようだった。
その点は頭を撫でてくれた指先に免じてからかわず、子供はピッと少年の眼前で指先を振って、改めて最も注意すべき点の念押しをした。
「だから逃げる時も、必ず二股以上の道がある場所で休むの。いい?マナはすぐ行き止まりにいくけど、それは駄目。逃げ道なくなるから」
どうしても奥まった場所や閉塞感のある場所へと足を向けてしまうのは、隠れ易さに引かれてだろう。確かにただの鬼ごっこならそれで鬼を躱す事は出来る。けれど、ここでの鬼はAKUMAだ。見逃してなどくれない。
その上、一緒に逃げ回った立った2回で、なんとなく予想出来たのだが。………マナは方向音痴だ。AKUMAが現れそうな方向を予見出来ないのはまだしも、大まかに逃げるべき方向を把握出来ず、数度曲がり道を通り過ぎると、何故か元来た方向へと足を向けてしまっている。
その事にすら、マナ自身は気付いていない。だからこそ、逃げる時はその腕を掴んでいないと、いつはぐれるか解ったものではないのだけれど。
「なんだか、ジュニアの方がお兄ちゃんのようですね」
軽く溜め息を吐いて、マナは降参するようにそんな事を言った。
マナは正直だ。年下の子供が偉ぶってこんな事を言っても、それに腹も立てずに素直に感心するばかりだ。
けれどそんなマナの感嘆はひどくジュニアには嬉しいもので、パッとその顔を無邪気に輝かせて笑むと、マナの髪に手を伸ばして乱暴に撫でて、上機嫌の声を奏でた。
「うん?そう?じゃあさ、マナもっと俺の事頼っていいさ♪」
言った声も言葉も、ひどく明るく軽やかだった。
自分でも幼い言葉だと思う。この小さな腕に頼るなんて、大人達は考えもしない。だから、きっとマナは苦笑を返すだろうと、ジュニアは思っていた。
けれど、見えた表情が違うもので、目を瞬かせる。
「………?え、ま、マナ??どうしたん?」
…………赤い前髪の先、ジュニアの指に揺れるその前髪の奥で煌めく眼差しが、眇められた。
痛みを耐えるようなしなだれた眉に、揺れる事を恐れるような瞳。その瞳が湖水に塗れていない事が不思議なくらい、それは哀惜を孕んでいる。
「え……?」
けれど当の本人はそれを知らないのか、戸惑うように首を傾げるだけだった。
「顔。泣きそう……?」
「あ、いえ……違います。えっと、懐かしいなって」
戸惑う声にマナは驚いた顔で自分の目元を擦った。そんな乱暴な指先では赤くなるだけだろうに、気にもしないで擦っている。
人に触れる時はあんなに優しいのに、どうもマナは自分自身をぞんざいに扱う。
「何が?」
思った通り赤くなった目元からマナの手をとって、ジュニアは辿った。少しヒリつくのか、マナの眉が微かに歪んだ。
「君の話し方。彼に似てました」
その歪んだ眉のまま笑んだせいか、マナの笑みは泣き笑うような笑みだった。
それは回顧しているせいか。………誰かに重ねられた痛みなど知らない子供は、その笑みが痛ましいのだろうと己の痛みをすり替え、首を傾げて笑いかけた。
「話し方……んっと、『頼っていいさ』?」
「そう。彼も『〜さ』っていうのが口癖だったんですよ。最近、話していなかったから懐かしいなぁって思って」
明るい笑みを浮かべるジュニアにつられるように、マナの声は沈む事なく綴られる。
その事にホッとしながら、ジュニアはじっとマナを見つめて、先程は途切れてしまった話をもう一度蒸し返した。
「ふーん……。なあマナ、まだそいつの事、好きなん?」
ワクワクと好奇心に輝く瞳に、マナは苦笑を浮かべる。
知りたがりで興味を持つとしつこいのだと、科学班の面々が言っていた青年を思い出してしまう。……彼自身なのだから、幼くともその本質は変わらないのだろうけれど。
「ジュニア、その話好きですね………」
「だって気になるし!」
他人の色恋に興味を持つのはもう少し先だろうに、この子はどうも早熟だ。
………もっとも、自分達の感情が、彼が定義する恋愛に当て嵌るかどうか、かなり疑問ではあるけれど。
何一つ隠す気もなく、真っ直ぐに知りたいとその目は語り、少年は小さく吐息を落としてジュニアの頭を窘めるように優しく撫でた。
「あのね、ジュニア。僕の知っている後継者だからって、君の手本にはならないんですよ?君は君の道を見つけるものだし、彼の話を聞いて自分の道を決めるのは賛成出来ません」
確かに未だ特別を知らないこの子供には、後継者を思う自分も、その自分に別れを告げた後継者も、気になる存在だろう。
あの老人の事だから、そうした経験をこの子供に語るとも思えないし、自分が語る事で余計な先入観を植え付ける可能性もある。
それは避けたい少年にとって、出来ればこの会話は忌避したいのが実情だ。
そう願う声に気付かないわけではない子供は、それでも知らない振りをして子供の仮面のまま首を振った。
「違うって。俺が興味あるのは、ブックマン後継者を好きになったマナの方♪」
「へ?ぼ、僕ですか?」
真っ直ぐ指差された先の瞳は驚きに瞬き、綺麗な月明かりを零すように煌めいている。その輝きすら不思議で、ジュニアはついマナの顔を覗き込んでばかりいた。
近い距離の視線も、マナは厭わないのだ。不思議そうに見返しはしても、記録者の目を持つ子供の視線を、拒みはしなかった。
………たった一度だけ、彼の世界の後継者への思いに染まった顔だけ、見せてはくれなかったけれど。
「マナが見ているもの、凄く興味あるん。俺は見ていないものばっか見てるし。だから教えて、一杯、もっと沢山!」
「駄目ですよ。言ったでしょう?僕と君は生きているのが違う時代かもしれない。君に多くの事は教えられません」
輝く目に映るのは純粋な知的好奇心、だろうか。少年は困ったように眉を寄せて、言い含めるようにまた同じ言葉を綴った。
それは予測の範疇だったのだろう。子供はニッと笑うと、マナの両頬に手を添えて目を合わせ、極上の笑みを浮かべながら、彼の琴線に触れた声を奏でる。
「マナの事ならいいさ!」
明るく響く幼い声。これがもっと低く甘くなれば、青年の音色に変わる。そうして、その思いを溶かしたように優しい音色は、今もまだ少年の心に残っている。
消える筈もない。例え彼が手を離そうと、少年が彼を守る意志に変わりはないのだから。
それを知る筈もない子供は、それでも少年がその音色を好み零したものだけは知っていて、上手にそれをなぞるように、目を逸らす事も許さずに差し出した。
「………ジュニア、それは卑怯です」
子供の手管などたかがしれているけれど。与えていない情報故に、推論も成り立たない筈だけれど。
それでもこの子供は聡くて人の機微に鋭くて。
もっと上手に青年の事を隠さなければ、いつバレるかしれたものではないと、改めて実感した。
「なんで?俺なんもしてないもん。ただちょっと前のログ地のお国言葉が出ちゃっただけさ〜?」
「まったく、厄介な子ですね、本当に!」
楽しげな声は歌うように綴られて、少年は苦笑した。自分の頬に添えられた手のひらを同じように包んで引き離し、愛おしむように両手で包んだまま、己の指先に口吻けた。
…………多分、この子供は寂しいのだ。
だからきっと、自分と同じ立場の後継者を大切に思う情にひどく関心があって、少年にも甘えるようにその腕を差し出す。
与えられるなら、そんな物いくらでも与えたい、けれど。
それを与えるのは、自分では駄目なのだ。自分の抱える全ては、彼にはあまりに重荷だ。記録者だからこそ尚、その事実に彼が傷付いてしまう。
「だったら教えてよ。ほら、今ならまだAKUMA来ないしさ。いいでしょ?」
煌めく知性に支えられた幼い瞳は、無邪気に笑んで望みを叶えてくれる言葉を待っている。それは多少の打算を含んだ、笑みだ。
時折青年も零していた、与えられる回答を知っていて差し出す問いかけのような、そんな笑み。
それでも与えたいものを与えられなくて、少年は寂しそうに眉を寄せた後、そっと飲み込んだ吐息は、ひどく苦くて苦笑した。
「……なら、先にジュニアが話して下さい」
その苦笑のまま、マナは小さく呟いた。柔和に細められた瞳が、何故か泣き出す子供のように水の気配を教えた。
驚いて、目を瞬かせる。きっとマナは仕方なさそうに笑んで、ほんの少しだけならと、話してくれると思った。
後継者の事でも、彼の生きる時代の話でもない。ただ彼が持つその思いを教えて欲しいと言っただけだ。
それすら駄目だと言ったなら、彼と交わす言葉すらない筈、なのに。
「へ?俺??」
瞬く瞳の先、マナは神妙な顔で頷き、包んだままだったジュニアの手のひらを解放した。
温かかったぬくもりから離れたせいで、なんとなく肌寒く感じる。いっそ口吻けを、この指先の落としてくれれば温かかっただろうに。
マナはまるで何か痕を残す事を恐れるように、ジュニアに与えるものを選んでいる。
それはこれから先に影響を与えるからだというその事実以上に、何か彼の心を占めているような気がして仕方がない
いっそ、この先の未来で、マナに出会えればいいのに。
「当然です。僕だけ情報を提供するなんておかしいでしょう?君が話してくれた分、僕も君に教えます。それならフェアで調度いいじゃないですか」
額を軽く弾く指先も、ジュニアと同じ小さな爪の乗った指先だ。彼が同じ年齢程の身体を携えているのは、この世界の時間軸が狂っているが故だ。
だから、実際彼が何歳なのか、自分とどれ程の歳の差があるのか、解りはしないけれど。
会えないだろうか。過去は不可能でも、未来でなら。
自分か彼か、先に生まれたものがどちらかは解らないけれど、今こうして互いの意識の共有がそう難しくないのだ。それを考えれば、きっと出会う事が不可能な程隔てた時代にいる存在ではない筈だ。………近しい時代に、いる筈だ。可能性は、徐々に確定されつつある。
「うー………なら、マナが先に」
ただ、それでも。………離れた歳月がどれ程か解らなければ、探す手がかりもない。情報が欲しい。彼の、情報が。
「僕が先に話したら、君は何も話さないでのらくら躱すでしょう。却下です」
言うと思っていたのか、少年の返事は即答で、その上素っ気なくつれない。
取りつく島のないその返事に、子供は唇を尖らせて弱々しい抗議をした。
「うー……卑怯さー」
「先に卑怯な手を使ったのは誰ですか?」
苦笑とともに言われた言葉に、ジュニアは言葉に詰まる。………それはまさにジュニアだ。マナが好む口調を知ったから、それに甘えて強請ったのだから。
けれどそれは、それ以外に手立てがないからだ。この世界は不安定で、どうなるかなど誰にも解らない。そんな中で、悠長に彼が口を割るまで待っているなんて、出来るかどうかも解らない。
それなら打てる手段全てを打ちたいと、そう願うのはおかしくない筈だ。
不貞腐れたように頬を膨らませる子供に、少年は諭すように優しく静かに声を掛ける。
「ね?だからこの話はおしまい。君だって話せないでしょう?」
それは、どこまでも語る事を拒むのではなく。語らせる事を避けるような、声。
その音色を聞きながら、ふと思いついた言葉が、勝手に唇から零れ落ちた。
「…………なあ、マナ」
まさか、と思いつつ。自分なら有り得ないと、考えながら。
それでも大部分の心がそれを肯定していた。ざわめいたのは、多分、心以上に感性という部分だ。
「もしかして、………そいつから何も聞こうとしてないん、さ?」
自分なら全部教えてと強請ってしまう。知る事は相手を得る事に繋がるから。
情報を得なければ、何も確固としてこの手に残らない。そんな不安な事、人間は耐えられない。思う事なく過ごすのであればまだしも、今まで見て来た誰よりもたおやかに人を思う瞳を携えるマナが、それに耐えられるなんて、思えない。
………それなのに、マナは笑んだ。
困ったような、躊躇うような、そんな顔。知っているだろう事を重ねて告げる事を思い悩む唇は、それでも揺れる瞳で切なく笑んで語り出した。
「だって、ジュニア。解りませんか?」
「………?」
「いつかは別れがきます。君達は渡り鳥でしょう?その時に立つ鳥が後を濁すような真似、したらいけませんよ。僕は君達のありのままだけで十分ですし、君達が伝えられない事を苦に思う必要もありません」
呆気にとられたように自分を見つめるジュニアを、マナは苦笑を色濃くして見つめた。
…………何もおかしな事は言っていないのだ。
それでもきっと、この子供には理解出来ない事だろう。その叡智を溶かした新緑は鮮やかに花開く前の、蕾だ。
きっとジュニアはまだ、その心に誰も住まわせた事がないのだ。己の師でさえ未だ、師である以上の情を寄せていない。だからきっと、解らない。解る筈もない。得ていない人間には、きっと永遠に解らない事だ。
この世の中に、喪う以上の悲しみなどある筈もない。永遠の別れは、どう足掻いても何も捧げられない場所にその人を追いやるのだから。
そうして、生きるその中の別れならば、歩む足を誇らしく進める背中を見られれば、それ以上の喜びもない。
その背には、必ず縁という名の糸が、繋がっているから。寂しくとも、またいつかまみえる事も出来る別れだ。
まだそれを知らないから、子供は驚いた顔をする。青年のように、切なく揺れる瞳を落とすのではなく、純粋な疑念と好奇心の、色。
それがいつかは、世の愛おしさと背中合わせの切なさを思い知るのだろう。それ故に深まる新緑は芽吹いて、美しく花開く。
自分がそれを見る事が叶う事はないけれど。それでも、彼がそれを得る為に進む道の中、蔓延る茨くらいは、きっと払いのけて見せようと決めている。
そうして、彼らを見送るのだ。己の足で決めた道を歩む彼らを。
………きっとあの老人ならば、この先そうした別れを差し出してくれるだろう。永遠であれ有限であれ、必ず。そう、思い。少年は微笑んだ。愛おしい世界に住まう、世界の記憶を抱き締め歩む師弟を思って。
「僕は、ブックマン達がそこにいてくれる、それだけで十分幸せですし、多くのものを与えて貰えています。それ以上望むのは、欲張りすぎですよ」
不思議そうに傾げられた首は、細く白く幼い顔を乗せるにもか弱い。
赤い髪をその首に纏わせながら、マナが告げる声は純粋過ぎて、ジュニアは苦笑する。………望むものなど何も無いような、そんなマナの音色はどこか儚い。
「マナって本当に『マナ』さ」
「?」
「神々の糧食。………食べられちゃうだけで、与えられちゃうだけで、なんも望まないで消えちゃう真っ白なフワフワの神様の食べ物」
告げる言葉に目を瞬かせるマナに、ジュニアはその指先を彼の鼻先に押し当てて、からかう声に寂しさを溶かして告げた。
旧約聖書は未だ民間人が自由に読めるものではない。きっとマナは知らないだろう。だからだろうか、彼は瞬かせた目をそのままに首を傾げ、少しだけ悩んだように眉を寄せている。
「僕はどこも白くないですけどね?」
とりあえず、解る部分で解答したらしいマナの率直さに忍び笑い、ジュニアは仕方なさそうにマナの鼻先を軽く弾いて赤い髪を弄るように乱暴に掻き混ぜた。
「マナは、心が真っ白すぎるんさ。本当に食べらちゃわないようにしなきゃ駄目さぁ?」
「うわ、ジュニアっ!もう、鼻は痛いし髪はひどい事になるし、なんなんですか、まったく!」
からかう事で胸に忍び寄る寂寞を追いやろうとするジュニアの悪戯に、マナは頬を膨らませて抗議した。
それをこそ望んでいたジュニアは、ホッとしたようにその顔を目に映して軽い調子で謝罪を送る。
我が侭な子供を見つめるような眼差しでジュニアを見遣った後、マナは仕方なさそうに息を吐き出し、お返しのようにジュニアの髪をぐちゃぐちゃになるように掻き混ぜた。
そうして、抵抗するその指先が腕を掴むと、それを合図にするようにジュニアの顔を覗き、その目に映るものを探った。
………綺麗な緑の中に落ちた、ほんの微かな闇色。それを寂しさとか悲しさとか、そんなモノに転嫁するのは、見たものの勝手な感傷だろう。
それでも感じたその孤独を癒す資格のない少年は、困ったように笑んで、せめて伝える事の出来る言葉を送った。
「………ねえジュニア。あんなAKUMA相手ではそうも言っていられないですけど、生き抜きますよ、精一杯。僕もここで果てるわけにはいかないですから。ちゃんと帰らないと」
「そいつが、悲しむ?」
「いえ、その前に怒鳴りたいんです」
問い掛けた瞬間、キッパリと言いきったマナの目が光った。
優しいとか穏やかだとか、そんな柔らかいイメージしか抱いていなかった彼が持つには、それは鋭過ぎる程鋭利な眼差しだ。
その落差に思わずジュニアは顔を引き攣らせて凍り付く。据わった目が見据えるのはジュニアではないけれど、それでもその視線の先の岩が崩れるのではないか、なんて。変な危惧を抱いてしまうくらい、マナの眼差しは憤りを乗せていた。
「へ?」
なんとなく、彼が憤るという想像がつかなかった。ずっと、マナはジュニアに対して受動的だった。求めるのではなく、与える側で、そんな彼の声が何かを掴み寄せるように荒々しく奏でられる様が、不思議だった。
「…………その人にもですが、ブックマンともう一人一緒にいた人にもです。散々人には無茶な戦い方だとか怒る癖に、あの人達だって十分無茶したんですよ………!」
戦い方、と。その言葉にジュニアの目が僅かに眇められる。それは貴重なマナの情報だ。彼は、戦う事を知っていて、それを誰かと共有する立場らしい。
………だからこそ、ここに来る直前に大怪我をした、という話が繋がるのか。ならば、その怪我すらマナは知らぬAKUMAの存在によるものなのかもしれない。
そしてそこにはブックマンもいる。そうであれば、やはり彼は歴史の動くどこかのログ地で生きる人だ。英国か、あるいはそこから派遣された別の地域か。
記憶を辿りながら検索し、なかなかヒットしない事実は未来に起こる事だからか、まだジュニアへとインストールしていない裏歴史だからか。まだ、確定は出来ない。
記録した音を保存し、ジュニアはマナに甘えるように肩に擦り寄る。
「じゃあマナ、生きなきゃ駄目さね。なんとかAKUMA倒す方法探さなきゃなぁ」
「逃げるばかりじゃ、どうしようもないですもんね。本当に、どうしたものでしょうね」
ブツブツとその方策を考えているらしい少年の肩、寄り添う子供はうっそりと笑む。
………少しずつ、情報を引き出せば、もしかしたら彼が手に入るかも知れない。
会話の中、彼が知らず零す音には、彼の生きる時代を大まかに選定出来る内容がある。それはかなり、自分の生きる時代に近いのだ。
過去か未来か。どちらかはまだ判ずるには難しけれど、現実でも会えるようにする為に、もっと沢山、彼から情報を得なくてはいけない。
彼を得る為には、情報を。
けれどなかなか彼は手強くて、きっと同じように提示しない限り、それらは与えられない。
何がいいだろう、どれならば許されるだろう。
AKUMAから逃れる術以上に、そんなことにひどく頭を使っている自分が、何故か滑稽で、面白かった。
前 次
この間読んでいた本のおかげで、どうやってジュニアに時代を推測させるかが楽に決りましたよ。ビバ博物学ブーム!!
まあ実際は『仮想19世紀末』なので若干の時間のズレ&歴史の違いは当然ありますけどねー。そこは見ぬ振りで!!
10.11.13