「じゃあさ、名前は無し、年代も無し、地域の特定も無し。で、いいなら話せる事あるさ?」
ニッと笑い告げるジュニアの突然の宣言に、マナはきょとんと目を瞬かせた。
それにニコニコと笑顔を貼り付かせて返事を待ってみれば、胡散臭いと言っても過言ではないくらい顔を顰めたマナが、躊躇いがちに問い掛けてくる。
「…………え、もしかして、さっきの話の続きですか?」
随分と嫌がる顔だと思いつつも、ジュニアは笑顔を消さずに大きく頷いた。いくつか脳裏にあげた候補の中、どれなら上手く情報を引き出せるか、マナの反応を眺めながら優先順位を決めていく。
「当然!俺は一回興味持ったらしつこいさ〜?」
「…………ジュニア、それはあまり褒められる物言いじゃないですよ?」
呆れたように言ってみても、ジュニアの笑顔は崩れない。そんなところは、ここ最近の無理矢理笑んでいた青年と同じ笑みで、どうも気持ちが落ち着かなかった。
ソワソワと視線が泳ぎ、溜め息を落としてみると、少しだけジュニアは困ったように眉を寄せて、それでも決して引かない事を教えるようにまた笑んで、逸らした顔を求めるようにペチリと頬を叩いた。
仕方なく視線だけを向けてみれば、ホッとしたように和んだ眼差し。
驚いて、顔ごとジュニアを見れば、明るくなった笑顔が弾む声を紡いだ。
「一途と言って♪で、どう?それなら、話してくれる?」
歌うように楽しげな声。それは作り物ではなくて、好奇心と知識欲に包まれた好意の、どうすれば上手にそれを受け止めてもらえるか探っている賢しさ中の、不器用さだ。
大人のような手管の中の拙さに苦笑して、マナは軽く息を落とすと、降参するように洞窟の天井を見上げた。…………あんな風に無理に笑顔を作られるよりは、ない頭を絞って考えて、与えられるものを見つける方が、ずっと心に優しかった。
「仕方ないですねぇ。でも、駄目だと思ったら、途中でも口塞ぎますからね?」
軽い溜め息と一緒に告げたマナの言葉に、ジュニアは楽しげに目を細め、からかうように銀灰色の瞳を見遣った。
「それ、普通は話す俺がいう言葉さ?」
そんなところまで心配するなんて、どれだけ過保護だろう。そんな揶揄が溶けた音に、マナは顔を真っ赤にして、怒鳴るような勢いで返した。
「君は調子に乗り易いんですよ!ブックマンの情報はブックマンしか語っちゃいけないって聞きましたよ?!」
「平気さ。ジジイいないし。それに、今から話すのは裏歴史じゃないさね」
ちゃんと自分達の境界線を理解してくれているらしいマナの言葉に、ジュニアは笑んだ。
たとえそれを知っていても、子供の自分を丸め込み易い対象と定めて、餌で釣って情報を引き出そうとする人間なんで、掃いて捨てる程いるというのに。
欲がないのか、無知なのか。マナはむしろ、聞いてしまう事がジュニアの首を絞めるのではないかと、そんな事ばかり心配している。
確かに、自分が知る事は過去であれ未来であれ、マナの世界にも通ずるだろう。そうして、それを不用意に口にすれば、その世界の後継者が情報源として疑われる。
………いっそ、そうであってもいいのに。あんな風にマナを悲しませるのだから、少しくらいの痛い目、その後継者とて味わうのは当然の報いだ。
そう、微かに玲瓏な冷たさを孕んだ若葉色の瞳は、綻ぶ前に楽しげな笑みに隠された。
「俺の生まれた場所のこと。………って言っても、実は俺もそこがどこだったかは知らない」
自分でもあやふやな情報ならば、それはそう多くの事実を象らない。点と点があっても、それを辿るべき線がない状態ならば、一族へと辿る道は現れない。
だから選んだ、重要そうに聞こえて、それでいて決して明かせぬ一族の姿を浮かばせぬ情報。
いっそ本当に、後継者しか知り得ぬ情報を与えて、それを彼が誰かに誤って語ってもいいと、思ってしまう。そうする事でマナに刻まれた傷と同じように、その後継者にも刻まれるといい。
………同時に、そんな真似をしたら、この二人が永遠に分つ事のないもので繋がれる事に気付き、ジュニアは胸中で嘆息した。
嫌味も報復も出来やしない、知らない世界の見た事もな後継者の存在が、どうにも喉に刺さる棘のように邪魔だった。
「…………それは話していい情報ですか?」
躊躇いがちに、ひどく真剣な眼差しが問い掛ける。そう思ってもらわなくてはマナの口とて割れない。
微かな逡巡の振りをした後、ジュニアは小さく頷き、神妙な声でひたと見つめるマナに告げた。
「特定出来なきゃ意味ないし、特定なんて、誰にも出来ないんさ」
その言葉に、………パチリと、音がしそうな程大きくマナの睫毛が揺れて瞬きをした。
言っている意味がよく解らないと、その顔が雄弁に語る。知らない事を恥じない、純白の表情。
「俺らね、ジプシーとか遊牧民なんかと同じで、定住しないんさ。一族だけで一定期間経ったら別の場所移っちゃうん」
一族の人数は多くはないけれど、一ヶ所に定住してしまえば必ずそこから足取りがバレてしまう。そこから次代のブックマンが中立ではなくなる可能性もある。
一族の誇りを賭けて、ブックマンはどこにも属さず常に中立を保ち、冷徹なまでに記載を最優先させなくてはいけない。その為の、措置だ。
その意味を既に悟り理解している子供は、そこにひと欠片の寂寞すら込めずにそう綴った。
「ブックマンになったら、一族との連絡の取り方を知れるらしいけど、俺は知らない。だから、今どこにみんなが行っているかも知らない」
特殊な方法なのか、何か法則があるのか、それすら解らないけれど、師は確かに一族の居る場所を把握している。そうでなければ自分を迎えに来たあの日、当たり前のように移動後の住処にやってこられる筈がない。
どこまでも不可解な老人は、その頃から年を取っていないかのようにいつも飄々と自分の傍に控えていた。
「え、ブックマンは教えてくれないんですか?」
突然、マナが素っ頓狂な事を問い掛けた。予想外というより、そんな事を聞く意味すら思いつかず、ジュニアは逆に目を瞬かせてマナを見遣った。
傾げた子供の首が、本当に不思議そうで、問い掛けたマナの方が戸惑っているのがジュニアにも解った。
「そりゃそうさ。もし聞いて、俺が帰りたがって逃げ出したら困るさ?」
「………でも、君は逃げないでしょう?何があってもきっと、ブックマンになると思いますよ」
だからそんな事をしなくても、会いたい時に会えればいい。
折角、生きているのだ。遠く離れていたとしても、会いたいその時に、連絡が取れるだけでも幼いその身には支えになるのではないか。
……………連絡を取れないなど、喪ったその後は永遠に続くのだから。
憂える瞬きを溶かしたマナの声に、ジュニアはニッと気丈な笑みを唇に乗せた。欠片すらマナが不安にならないように、痛みも傷も知らない、不遜なまでに強気な笑み。
「それは当たり前!でも、この先ずっとそうだとは限らないし、一時的なヒステリーだってないとは言えないっしょ?」
まだまだ自分は子供で、いつどんな感情に支配されるか解らない。思春期も控えているし、不安定と見なされるのは仕方のない事だ。
それを理解している子供の声は、ひどく冷静だ。その音色にこそ困惑したように眉毛を垂らすマナは、どこかあどけなくて、ジュニアは嬉しげに笑んだ。
「まあ、だからこそ、俺らは郷愁っていうのが薄いように育てられてんだけどさ」
きっと、マナにとってはこちらの方が痛みだろう。愛しい人と離れ離れになるその現実の中にいる彼だから、遠く隔てられた距離をこそ、きっと厭う。
………そうして、厭うからこそ、きっとマナはその腕を自分にも差し出してくれる。その腕の中、彼に繋がる言葉を紡いでくれたなら、最高だ。それは現実の中で、彼を辿る道筋になる。
強かな笑みの中、微か過ぎて自身でも気付かない程の、天然の計算。それが彼に痛みを植えると解っている筈なのに、その手が伸ばされる可能性に、選ぶ躊躇いは霧散した。
「??移動するから?」
キョトンとした眼差し。まだ、解っていない。足りていないピースを繋ぎ合わせるように、ジュニアは笑んだ。困ったような、子供の笑み。
「だけじゃなくて」
少し、言葉を探すように躊躇い、正確にマナに伝わるように、なんとか選んだ回答を口の中で反芻した。
きっと愛されて育ったマナは、その痛みを知らない。知らないから、もしかしたら、泣くだろうか。悲しむだろうか。…………その温かな月光色の瞳に浮かぶ涙は、きっと同じ程に温かく自分を浸してくれる気がする。
見せてもらえなかったその顔を、今度は自分の為に作ってくれるといい。そんな事を思いながら、ジュニアはさして感情も籠らない当たり前の事実を綴る記録者の声でそれを綴った。
「俺らさ、親っていうの誰か、知らないんさ。その地域地域、移動毎に家族が変わるから」
「???い、意味が解らないんですが?」
「そのまんま。どういう風に決めているのか知らないけど、移動中はみんなで雑魚寝で、仮の住処に着いたら、そこでそれぞれペアになった大人に、子供は連れて行かれるん。ペアも毎回違うし、俺も誰が本当に親子で夫婦か知らない」
困り果てたようなマナの顔。それが大きく見開いた瞳に取って代わられて、戸惑いに眉が垂れ下がる。
ひとつとして見逃さぬ隻眼は、その全てを記録して、笑んでいた。返される言葉を、表情を、いっそ楽しみにしているという程、心は弾む。
数瞬の間、必死で考えを纏めていたのか、マナは唇に幼い指先を当てて悩み顔だった。
比較的すぐに考えを纏めたらしいマナの顔は、真っ直ぐにジュニアを見ている。相変わらず、煌めきを消さない綺麗な瞳だ。
「それ…は、えっと、一族全てが家族っていう意味、ですか?」
「よく言えば、そうかな」
痛みは特に見当たらず、胸中で少し首を捻る。解らないから、傷にも気付かない……という程、彼は愚鈍には見えない。
まだ意味が到達していないのか。それとも、解っていたところで同情する程思われていないのか。………ブックマン後継者が、その程度で同情される事自体厭われると、そう考えている方が正確かもしれないけれど。
「だから、俺らは家族の意味はただ一緒にいる奴っていう以上、知らない。親が子に与える情って、友達のものと違うっていうのも、解らない。言葉は知ってるけどさ」
ちゃんと知識は与えられ、それに対して否定的にならない程度には、愛された。それは解っている。
解っているから、進めた。そうして、進んだ先は、泥沼で、世界の醜さに辟易とする。
最小単位の美しさは、きっとあの一族の輪の中だった。けれど今は、その美しさも使命によって成されたかりそめだと、解ってしまっている。きっとあの輪の中に舞い戻っても、昔に感じた美しさを読み取れないだろう。
どれもこれも、この隻眼に映す全ては、あまりにエゴで固まっていた。
「……………それは、でも、この先関わる誰かに教えてもらえますよ」
躊躇うように、マナが告げる。寂しそうな眼差しは、それでも涙を孕みはしなかった。
それが少し意外で、微かに顔が険しくなってしまった。やはり彼は、後継者に同情など与えないだろうか。思い、胃の奥に苦味が生じ、唇を歪める。
「マナは親に与えて貰ったから言えるんさ。知らない奴は知らないまんまなんさ」
告げた言葉は胃酸を吐き出すように冷たかった。
それを見つめるマナの瞳は優しくて、そのチグハグさに吐き気がしそうだった。
どうして、彼はそんな優しく笑んで、自分を見るのだろう。伸ばして欲しい腕が抱き締めてくれるわけでも、その指先が撫でてくれるわけでもない。
遠い未来、あるかも解らない可能性を、ただ祈る柔らかな福音。
ささくれ立ちそうな心を宥めるように顔を逸らし、噛み締めた唇は、きっと彼から見れば今のこの話題に対してのものにしか映らないだろう。
ただその腕のぬくもりを求めている、なんて。知る筈もない、まっさらな眼差し。
「僕、捨て子です。赤ん坊のとき、捨てられて」
困ったような苦笑とともに囁かれた、有り得ない言葉。どうって事はないように告げられた言葉を、ジュニアは一瞬掴み損ねた。
「………へ?」
間の抜けた音を零しながら、ジュニアはたった今綴られた情報に目を瞬かせる。
言葉の意味は、解る。解るけれど、マナにそれは繋がらなかった。
優しく笑んで、温かくて、傷に敏感で、自分達のようにいつ裏切るかも解らない、消える事が前提の存在を愛おしみ、大切にその心に住まわせる、そんな人。
………その人の始まりが喪失からだ、なんて。
あまりにも似つかわしくなくて、情報の先がマナに辿り着けない。
そんな戸惑いが伝わったのか、首を傾げたマナは困ったようなその笑みを深め、申し訳なさそうなその音色を優しく包んで響かせた。
「施設に引き取られて、その後、厄介払いみたいに養父に引き取られたんですが。………養父も亡くなったので、今は一人ですよ」
「そ、そうなん?えー?絶対マナ、両親に愛されてそうさ」
どれもこれも、あまりにマナには似つかわしくない。嘘の情報かと疑えないのは、それを綴るマナの仕草にも声の響きにも表情にも、どこにも疑惑を挟み込む余地がない程、純然としているからだ。
瞬かせた眼差しの先、幾度目蓋でその姿を遮断し記録し直そうとしても、変わらず綺麗なままのマナがいるだけで、欲しかった情報達と彼が同じカテゴリーに入り込まなかった。
「養父が、一杯愛してくれました。だからジュニア、きっと君も、この先誰かから愛されて、それを知りますよ」
それならマナがいい、なんて。言える筈もない思いに苦笑してしまう。
…………きっと、自分と同じ思いで、彼の世界の後継者はマナに手を伸ばしたのだろう。まだ誰もその腕に抱えていないマナは、拒む事も知らずに受け入れたのだろうか。
そうして、ずっとそれを抱き締めたまま、魂だけのこの世界ですら、愛おしみ抱き続け、他を入り込ませない程の情で包み込んでいるのか。
それがいいと、思うのは同じなのに。ただ早くに出会ったというそれだけの理由で、その腕に抱ける資格があるなんて。
……………最後には拒むなら、初めから真っ白なまま、ここに連れ込んでくれればいいのに。そうしたら、自分がその腕をとり、自分の世界に導いて、そうして彼とともに、生きるのに。
自分の守り石を与えて。そうして、一緒に。
そんな夢想にすらならない事を思い浮かべ、ジュニアは皮肉を思い、唇を歪めて笑んだ。子供らしくない、厭世的なその笑みに少年は寂しく笑む。
「それに、きっとジュニアは今だって愛されていますよ。言ったでしょう?ブックマンは、きっと君をとても大切に思っていますよ」
だからそんな悲しい笑みを浮かべないで、と。告げる事もないその言葉が溶かされた声音に、ジュニアは苦笑する。
どこまでもマナは、自分が何を考えこの言葉を作り彼に与えたか、解っていない。自身の価値など知らないのだ。
そうして、知らないまま、それでも与える事を拒みもしないでただ与え続ける。それは己に返されるものを求めない、悲しい無償の心だ。
「………だからマナはお人好しって言うんさ〜」
寂しく告げかけたその言葉を、寸でのところでからかう声音にすり替えられたジュニアは、己の演技力に満足げに笑んでマナを見上げる。
細められた眼差しは安堵を浮かべていて、彼の心が寂しさから舞い戻って来ている事を教え、少しだけジュニアの心が晴れた。
傷つけてでもぬくもりを貰おうと、そう考えていたけれど。それでもやはり、その笑みは優しくたおやかに咲きながら、そうして捧げられる腕の方が、ずっと心地いい。
「もう、生意気ですね、ジュニア!歳上の言う事は聞くものですよ?」
頬を膨らませて拗ねたような物言いで言いながら、それでもマナの瞳はまだジュニアを気遣っていて。
………それに喜ぶように眇めた瞳は笑みを象り、マナの鼻先を突っつくような指先とともに甘えるように願いを綴る。
「なら、マナも愛してな。ジジイだけじゃ心許ないさ」
マナの心がその切実さを感じ取らないようにあっけらかんとした、からかいと悪戯を混ぜ合わせたその声に、マナは首を傾げてジュニアの赤い髪を軽やかに撫でて笑んだ。
「僕でよければいくらでも。ちゃんと、君の事だって好きですよ?」
そうして花開け、と。きっと願っている優しい声は恵み深き慈雨のように柔らかく降り注ぐ。
…………それは枯渇した心を潤すだろう。知らぬまま、それでも乾ききったその砂に栄養と水をたらふく含ませるように、ただ注ぐだけの慈しみの音。
「…………やっぱりマナ、お人好し。でもって、質悪い」
自分の元に来てくれるわけでもないのに、それでもこの人は求めれば捧げてしまうのだ。それがどれ程強く掴み引き寄せようとしているかなど知らず、願う心だけ感じ取って、笑んで全てを捧げ尽くしてしまう、贄の資質にも似たその魂。
呟いた言葉に、ひどく顔を顰めてマナが恨めしげにジュニアを見遣った。
おかしな事も嘘も何一つ言っていないのに、何故かそれを否定されるかのような言葉を告げられて、不服というよりは、些細な棘を思い出したような膨れっ面で睨む眼差しは、どこか幼い。
「…………なんだか失礼な事言われている気がしますよ?」
そんな顔をして言うくらいなら与えなければいいのに。きっと今までだって、そうやって捧げたものを足蹴にされた事くらい、あるだろうに。
それでもマナは何も知らぬような真っ白なまま、きっと同じ事を幾度だって繰り返す。傷も痛みも何もかもを享受して、飲み込んで、一人背負って。
「誰にでもそういう事言うの、駄目って言ってんの!」
もっときちんと、それは捧げる相手を選ぶべき優しさだ。マナ自身を壊しかねない、そんな危うい慈悲は、見ている方も危なっかしい。
それに、何よりも。………勘違い、しそうだ。
その優しさが、特別故に与えられるという、甘美な誘惑が眼前で明滅してしまう。違うと解っている自分ですらこうでは、いつかマナは親しく信頼するものにこそ、裏切られてしまう。
「?なんか、以前違う事でも、彼に言われましたよ」
叱りつけるようなジュニアの声の響きに、首を傾げたマナは尖らせた唇のまま拗ねた声で言った。
その言葉が誰を示しているかはすぐに解り、ジュニアは微かにあげた眉で疑問を教えるようにマナを見上げた。
「違う事で?………何言ったん、マナ」
きっとまた、自分がたった今味わったような、そんな砂糖菓子のように甘く溶ける言葉を与えたに決っている。胡乱になりかけた眼差しは、否定するまでもなくやっかみだ。
どこまでも甘い彼は、きっと自分達が欲しがっても与えられないものを、何も知らずに与えて笑んでいる。
…………傷を、知らないわけでもない癖に、その傷すら見せないで。
それらを与えられて、手に入れる事を許されて、それでも手放した相手が、自分と同じ温かさや安らぎを感じたというだけでも業腹だ。
それでもその相手を思うマナには悪いが、どうしたって面白くないものしかジュニアには込み上げなかった。
「いえ、たいした事は。………えっと、確か、彼が裏歴史を記録するのは陰惨な事を覚える事だから、いつか自分もそういうものに慣れちゃうかなとか、そんな事を言っていたんです」
……………何を普通にそんな話をマナにしているのだろうか、と。腹の内ではその話をした後継者を蹴り倒したい気持ちで溢れた。
ブックマンの家業は絶対の秘密のうちにあるものだ。一般にはその名すら知られていない。それはAKUMAの存在以上の秘匿だ。にもかかわらず、その後を継ぐものがその内容を告げてどうするというのか。
しかも、こんな真っ直ぐにしか世界を見れない、汚濁の中の綺麗なものばかりを掬い取って、与えられた傷も穢れも雪いでしまう、命に。
思い出すようにジュニアから視線を外して洞窟の天井を見上げているマナは気付かないけれど、その傍らに座る幼い子供は、憤りからくる吐き気を飲み込むのに苦心していた。
マナの世界の後継者とは、どうあってもソリが合いそうにない。上手に笑って懐に入り込む、物心ついた時から繰り返した手腕もきっと発揮出来ない。顔を見た瞬間に殴り掛かってしまいそうだ。
………優しく奏でられるマナの声を聞くには、あまりに胸中が棘ついて、喉が痛い。
「ブックマンを継いで、独りになって、それでずっとそれを抱えて生きるから、心まで染まっても誰も気付かないだろうって」
その時の事を思い出したのか、マナの眼差しが寂寞に濡れた。月明かりが零れそうな煌めきは、それでも瞬きの中で吸い込まれ、落ちる事はない。
きっと彼は、知っている。独りの寂しさ、恐ろしさ。その孤独の中、壊れていくものが身体ではなく魂である事を。
自分達のように知識で与えられ理解したのではない、実感とともに体感したであろう、その恐怖。
だからこそ、こんなにも優しいのか。………自分自身を顧みないのか。
心だって、与えるばかりではいつかは摩滅し消え失せてしまうだろうに。マナはどこまでも貰う事よりも与える事ばかりだ。
「だから、言ったんです。それなら僕も一緒に見ますよって」
子守唄には出来ない苦味を耐えていたジュニアの耳に、不意に聞き捨てならない言葉が舞い込んだ。
「……………へ?」
顔を引き攣らせ、聞き間違いである事を確認したい気持ちで見遣ったマナの横顔は、相変わらず綺麗に整っていて、持ち上げられた顎から首のラインすら、優美だ。
薄暗い洞窟の中、仄かに光るように見える真っ白な肌。それに命を吹き込む銀灰色の瞳が、ひたと見つめるのはきっと彼の世界での、その時の情景だろう。
瞬きすらせずに捧げられた眼差しは、けれどどこは寂しげだ。
…………こちらを見てと、伸ばす指先すら躊躇う程の、誰かのための憂いの気配。
「一人だから怖いんでしょう?一緒にいつまでいられるのか解らないですけど、いてもいいなら、ずっと、彼が見たものを彼の中に見出して、それでも世界は愛しいよって、そう教えてあげるって言ったんですよ」
悲しまないでいいように、苦しまないでいいように。ただその笑顔が好きで、一緒にそれを共有出来るなら、と。身勝手にも願ってしまい、告げてしまった言葉。
言うべきではなかったのだろうと、思う。自分の立場を失念していた。呪いを受け予言を与えられた存在が、そんな幸せな夢想に浸る事など許されない筈なのに。
不器用で優しい彼のいたわりが心地良くて、まるで何も背負わぬ当たり前の子供のように、自分を考えてしまっていた。きっとあの瞬間、自分は本当に何も考えていなかったのだ。
……………彼の立場も、自分の存在も。どういうものか、忘れ去って、ただ願ってしまった傲慢さが、今も痛い。
独りが寂しかったのは、きっと自分だ。…………彼が笑んでいてくれれば世界が明るく色づくから、それが消えない事を祈ったエゴだ。
それを、きっと彼は看破していたのだろうけれど。
「…………すっご〜く微妙な顔で困って笑ってました。まあ、他人がブックマンにくっついていい筈もないし、余計なお世話だったんだろうって思うんですけどね」
「で、お人好しって?」
「いえ、多分彼は聞こえてないって思っているでしょうけど、無自覚は質が悪いって言ってましたよ………。だからちゃんと、言っちゃいけない事なんだって、我慢しました。それ以降は」
呆れたようなジュニアの声に、マナは消沈した表情を隠すように膝に顎を乗せて腕で覆ってしまう。
唯一見えていた瞳すら目蓋の裏に隠されて、その顔に浮かぶものが消えれば、ジュニアにすら感情の読み取れない精巧な人形がそこに座っていた。
静寂の中に眠る、待ち人をただ待つ人形。………打ち捨てられたならそれでもいいと、薄闇の中の痛みを食んで笑む、壊れかけの人形。
帰りたいと願いながら、帰った先の孤独を思い、少しでもそれが誰かの痛みとならないように笑む術を探す、寂しい人形。どうしてマナは、そうやってすぐに自分自身を責めて、他者を許そうとするのか、ジュニアには解らない。
…………マナの事を知っているなんて、言える程の情報は持っていない事が歯痒くて仕方がない。
こうして隣に座っていても、マナの眼差しが覆い隠されたなら何一つ判断材料がない事に、ジュニアは唖然とした思いでマナの肩を掴んで揺すった。
「違うさ、それ。いやもう本当に、無自覚って凄いさ」
打ち拉がれて枯れてしまいそうで、焦ったような声がつい洩れた。
少しでも早くこちらに引き戻さないと、マナが消えてしまいそうだ。AKUMAに消されなくても、そのまま世界に溶けて誰も記憶に留めない、そんな民話のように。
「なんですか、ジュニアまで」
尖った声が腕の間から洩れ、パチリと機械仕掛けのバネのように睫毛が上下した。
動き出した空気にホッと安堵しながら、ジュニアはマナの温度を確かめるように掴んだ肩はそのままに、その顔を覗き込む。
少しだけ傾げたマナの首が、ジュニアの顔を見つめるように向けられた。
「俺らに………記録する事に生涯を賭ける人間にさ、一緒に見るなんて、言ったら期待するさ」
「?」
「この先ずっと、添い遂げてくれる、なんて。マナの方が辛い思いするに決ってるん、俺にだって解るって事さ〜」
戯ける声で告げる子供は、それでもその目は笑っていない。………痛いような、苦しいような、もどかしいような、そんな不可解な瞳。
ジュニアの言葉にマナは大きく目をも開いて、驚いたように相手を見つめた。
その言葉は、自分が考えたものとは真逆の意味だ。拒む結果は同じでも、厭ってではなく、守りたくて手放されたなら。
心は、きっと悲鳴を上げる。……………今こうしてその思いに触れ自分が綻ぶのと同じ程に。………それ以上に、彼を切裂き痛めている。
未だ翡翠の透明さを開花させないその緑を見つめながら、知り得ないのだろう事を、少年は微かな笑みを浮かべて囁いた。
「でもね、ジュニア」
そっと、肩を掴む幼い指先を手で包む。凍えるように冷たい指先が、まるで未来の彼の悲鳴のようで切ない。
もしも未来で、青年にそれを伝えていれば、何か変わっただろうか。
………老人が憂える傷跡を、癒せただろうか。それとも、抉るだけだっただろうか。
解らない、けれど。それでも伝えるべきを伝えたいのだと、祈る思いで少年は青年へと辿る中途の魂に、願うようにその音色を捧げた。
「どれ程、大事だからと手放されてもね。自分が不幸を選ぶ為に手を降り払われたら、相手の人は幸せになんか、なれないんですよ」
だって、こんなにも苦しいままだ。………愚痴になってしまいそうな己の心を飲み込み、少年はひたむきなまでに自分を見上げる隻眼を見つめた。
まるで青年に見つめられているような錯覚を受けそうで、苦笑する。この子供は、決して自分を特別に思ってなどいないだろうに、同じ魂なのだと、そう思うだけで傾斜するなど、どれだけ自分は弱いのだろう。
もっと毅然と、この背を晒し生きる姿を示したいのに。
…………自分は一人でも平気だから、彼は自由に己の道を進んでいいのだと、そう安堵出来るくらい、真っ直ぐに立っていたいのに。
なかなか現実は上手く立ち回らず、自分の身一つ、守り切れなかった。
きっと今あの青年は打ち拉がれている事だろう。この身に負った傷は全て己のせいだと解っているけれど、彼は彼のせいなのだと、項垂れるのだ。
………いっそ、そう思われると思う事すら、自惚れであれば、まだよかったのに。
現実に戻った時、彼が悲しみに沈んでいたら、きっと自分は腕を伸ばさずにはいられないのだ。そうして、振り払われるだろうその腕に、傷以上の痛みを覚えるのだろう。
ただ傍に、いたいだけだったのに。朽ちるまでの時間、歩む道が重なっている、その間だけ。笑顔でただ一緒にいられれば、よかったのに。
自分の歩みも彼の歩みも、今はどこか狂ってしまい、それを正す事が出来る術すら、まだ見つからない。
きっと、自分が一人立つ事でも、軌道修正は不可能なのだ。どうしたならと考え浮かぶ解答は、どこまでも己の願いに即した戯言だけなのだけれど。
思い、夢想する。
笑顔で歩む道。決して同じではなく、ただ重なっただけの、その道。いずれは分れ道になるその道を、愛おしんで互いに寄り添う、その時を。
与えてくれるなら。与える事が出来たなら。
そうしたなら、青年の苦悩は消え、自分の痛みも消えただろうか。
…………今更それを思い悩んだところで、変えようもない過去の事なのだけれど。
「もしもこの先、君が誰かに同じ事を言われて、その人の幸せを願って自分を傷つける事を選ぶなら、考えて下さい」
もうどうしようもない過去を嘆く事を嫌い、少年はその眼差しに力を込める。きっとこの子供は、自分の瞳に浮かぶさざ波すら記録して、いつかはそれを解析し、理解する事だろう。
だからこそ、嘆きたくはない。けれど、伝えたい。選びとるものがこの先、彼を傷つけない為に。
その心を優しく包み支え、愛しい人に微笑めるまま、進めるように。
それが自分でなくてもいいから、と。見つめる切なさの先、混じる視線は不純物のない純正さだ。
在るが侭を記録する為に、彼らは己の内側を空っぽに出来る。それはどこまでも底知れない、生粋さ。
………全てを賭けて記録し、生きるその道を忘却する事なく受け入れ刻んでくれる、人達。
そうであるが故に、人と交わる事を避け、当たり前のようにそこにいながら、いつの間にか誰も知らぬ内に消えてしまう、人達。
そんな人達を自分の内側に住まわせている事を、誇りに思うのだと。そう言ったなら、また彼らは沈黙に戸惑いを滲ませて笑むだろうか。
彼らが彼らとしてそこに居る、それを喜ぶ事さえ、今はもう許されるか解らないけれど。
……………泣きたい思いで、想起する。愛おしい記憶達。手放せる筈のない、自分の辿った道。
それら全てが彼らの本職の対象物であっても、それが故に近づいたと、たとえ言われても。その奥底に沈み輝く宝石を愛でる事くらいは、許して欲しい。
その眼差しを眇める事もなく、悲しみに染まる少年の面を記録する幼い瞳を見つめ、そう思う事すら烏滸がましいかと、唇が悲しく歪んだ。
「その人が傷付いて自分が苦しいのと同じように、自分が不幸になる事で相手が傷付き悲しむ事を。………君達はね、自分が誰かの中に残る事に、無頓着過ぎるんです」
きっと、知りはしないのだ。あんなに沢山の事を知っていて、頭だっていい筈なのに。
それでも青年は知らないのだ。彼が傷付いたなら自分も傷付く事を。
AKUMAすら振り切って自分に腕を伸ばした時の、彼の必死な形相を思い出す。どうして解らないのか、それすら解らない程だ。
同じなのに。………守りたいと、生きて欲しいと、共に戦い前に進もうと、そう思うこの意志。
彼が傷付き恐れたように、自分にだって同じ恐怖がある事を、彼は気付かない。
知っていたなら、選ぶ道はきっと違ったのに。そう、思い。………そっと、肩に重ねられた指先を離し、ジュニアの頬を撫でたその寂しい指先を滑らせて、小さな彼の頭を引き寄せた。
心音を聞かせるように、胸に抱く。抵抗のない幼い身体は、同じ程に小さな身体に抱き締められたなら、とても体制的に辛いだろうに、文句も言わなかった。
答えるようにまろみある指先が背中に回る。ぎゅっと、上着を掴むようにその指先に力が籠められたのを感じた。
……もしかしたら、こうして抱き締められた事も、ないのだろうか。
仮初めの家族は愛してはくれても、それは親愛で。きっと、後継者として頭角を現し始めた子供に対しては、一定以上のぬくもりも与えないのかも、知れない。
もしもそうであるなら、それは寂しい。自分もずっと、飢えていた。抱き締めてくれる腕。おやすみのキス。名を呼ぶ優しい声。………全て、養父がくれた大切な宝物だ。
それを与えられるか解らないけれど、せめてこの一時、この子供の寂しさが溶かされるといい。夢の出来事と全て忘れてしまうとしても。
「輪の外にいて、傍観者でいて、そうしてずっと過ごしてきたから、自分の存在が誰かの幸せに繋がったり、傷や痛みになる事を知らなさ過ぎるんですよ」
だから幸せになって欲しいのに、と。
その声は悲しみに染まりながらも、清らかな祈りに包まれて、響いた。まるで自分にすら与えるように、マナは温かいぬくもりとともに小さくそう囁いた。
…………綺麗な音色。その祈りに包まれたら、きっと幸せなのだろう。
欲しいな、と。当たり前のように思って。
それが自分ではない後継者へ捧げられている事を、痛感する。
…………マナを選ばなかった後継者なんて忘れて、自分を選んでくれればいいのに。
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ブックマン一族の生活の場に関しては100%捏造です(キッパリ)
でも、ブックマンの特殊性を考えると、感受性や情もそれなりにきちんと育たないと、どうしたって記録がちゃんと出来ないから。
そうなると、最低限の愛情を注がれて、でも常に一定の距離は保っていて。
生まれた時から輪の外に、特定の枠組みに加わらない事で、単独で立ち続ける気概が育まれるのかしらと。
なので、逆を言ってしまえば、そこまで徹底しているからこそ、初めてその境界線を乗り越えた相手にはどう対処していいか解らず、オロオロおたおたしているんじゃないかなーとか。
と、まあ。……………今回のラビのフォローでした。いや、フォローになってないか、これ(オイ)
10.11.20