心音を聞いたのは、どれくらい昔だろうか。………否、穏やかな、と言った方が正しいだろうか。
 この年齢になるまでの間、幾度も自分の価値故に攫われかけた事はある。どう足掻いても力で大人には敵わないのが現状だ。抱え込まれ連れ去られる時、その醜い脈動を聞いた事はあった。
 それでも機転と知識を活かしてそれらに逃げ出し、当たり前のように報復も与えてきたけれど、これほど純然と与えようとするぬくもりは記憶にない。
 きっと、生まれたばかりの頃しか、知らない。そんな優しさだ。
 「あれ?マナ………なんか首につけてる?」
 甘く酔っていた腕の中、不意に頬に当たる異物感に首を捻る。
 見上げれば間近のマナの顔が、薄暗い中にはっきりと見て取れた。記録したメモリーの中の彼を思い出してもそうだけれど、こうして間近で見ても尚、マナの顔は綺麗だと思って驚いてしまう。
 人の顔の美醜になど興味はないけれど、マナの顔はいつまで見ていても飽きそうになかった。
 「え?いえ…特に身に覚えは……と言うか、むしろ今服以外って、身につけられるんですかね?」
 いまいち精神世界という定義が解らないと、マナは首を傾げた。服は着ているのだ。しかも、現実とは違い、この年齢の頃に着ていた、子供用の服を。きちんと左手には当時の手袋まで着用している。
 それでもその頃携えていたピエロを演じる時の道具は何も見当たらない。あれらは道具袋に入れていたのだから、当然だろうか。
 腕の中から目を瞬かせて見上げるジュニアも、その点はよく解らないのか、眉間に気難しい皺を刻んでいる。
 「んー、俺はペンダントあるけど。って言ってもこれ、特殊だからアクセサリーにならないかもだけど」
 トン、と自身の鎖骨より数cm下の部分を指先で叩いて教えるジュニアの頬を包み、撫でる振りをして幼い顔には似合わない眉間の皺をそっと和らげるように辿った。
 それに気持ち良さそうに満足げな笑みを浮かべ、ジュニアは添えられた手に頬をすり寄せる。
 まるで小動物のような仕草にマナは笑み、ジュニアの言葉に頷きながら、彼と同じ位置を自分の服の上から辿るように視線を落とす。
 「ペンダント……なら、もしかして僕もそれですかね」
 ゆとりのある大きめの服ではとてもそれがなんであるか、視覚的には捕らえられない。
 仕方なしに片手をジュニアから離し、ゴソゴソと自身の喉元を探ってみれば、指先に当たったのは覚えのある冷たい石の感触だった。
 「……うん、やっぱり」
 首元から引っ張り出して眺めてみれば、間違えようもない、別れを告げた青年が最後の贈り物とくれたペンダントだ。
 貰う謂れもないし、そんな事をされる間柄でもない。だから初めは拒んだペンダント。
 …………彼が望むのは、遮断だったから。
 これがあれば、途絶える事がないと解っているから、得るべきではないと首を振ったのに、まるで微かな糸を残すように押し付け、笑んだ寂しい仮面の青年を思い出す。
 小鳥をモチーフにしたらしいペンダントヘッドに、無造作に繋がっている赤い石。光に透かせば透き通るようだったのに、こうして薄暗い洞窟の中で見れば、それは濃く影を落としその先を見せない深紅に変わった。
 不思議な石だと思いながら、マナは首を傾げてそれをジュニアに見えやすいように持ち上げた。
 「うーん?でも、あれ?これは僕が現実で貰って、今の身体の年齢の時には無かったのに……おかしいですね??」
 薄暗い洞窟の中、その赤い石は煌めきも忘れて沈んだ色を落としていた。
 鳥に包まれた、楕円の赤い石。とりわけ可愛いわけでも無骨さがあるわけでもない、飾り気の薄い、誰にでも馴染みやすいそのペンダント。
 それを見つめ、記録と共に合致した情報に、ジュニアは目を見開いた。同時に、マナの腕の中から起き上がり、ペンダントを手にした手首を掴んだ。
 「まっ……て、マナ。…………それ、何?なんでマナが持ってんの?!」
 驚きの声は既に詰問の響きを奏でていた。疑うようなその音色は、むしろ忌まわしいとさえいえる程固い。
 ジュニアの突然の豹変にマナは目を瞬かせ、ペンダントとジュニアの顔を交互に見つめながら、戸惑うように視線を揺らした。
 「え?なんでって、頂き物ですが……え、ちょ、ジュニア?!」
 告げたと同時に、ジュニアの腕の力が増した。それは無理矢理引き寄せるような加重のかけ方で、ペンダントを見る為にしては乱暴な仕草だ。
 困惑に眉を垂らし、このペンダントが何を意味するかなど知らない少年は、目の前の子供の憤りの意味すら解らず、痛む手首と息を奪うように食い込むチェーンに顔を歪めた。
 「なんで?!だって、それ、守り石だろ!」
 「え………?ジュニア知っているんですか?って、あの、ちょ、苦しいんです、け、ど?」
 噛み締めた歯の合間、唸るように呟くジュニアの声に努めて明るく応えてみれば、新緑の眼差しが暗くマナを睨んだ。
 マナを通し、そのペンダントを与えた誰かを睨んでいる険しい眼差しは、子供には似つかわしくない激情に支配されていた。
 マナの手首を掴む腕を力任せに引き寄せた。もう一度彼が苦しいと言ったけれど、ジュニアは耳を貸さない。
 戸惑うようにマナは視線を揺らし、指先に持つその石を手のひらに包み込んだ。
 きっと、その行動に理由を求めても無意識だったに違いない。
 そう思い、その考えが正しいと知らせるように、ジュニアは空いた手でマナが持つペンダントのチェーンを奪い、その首に食い込む事さえ忘れて力任せに引っぱった。
 …………千切りとるつもりだった、そんな暴力的な指先に、少年は慌てて石を掴む右腕を手元に引き寄せ、同時にジュニアの手を空いていた左腕で包んで引き寄せた。
 首の後ろは擦れて少し痛い。けれど、そんな事を気にしていたら、この子供はきっとあっさりチェーンを切って、乱暴なその指先で手のひらを暴き、その手にこのペンダントを収めてしまう。
 「貸して!こんなん持ってたら駄目!捨ててくる!!」
 ジュニアは苛立ったような甲高い声で叫んだ。必死になって抵抗する、マナの小さな指先が守るペンダントが忌々しくて仕方が無かった。
 「はあ?!ちょ………!駄目です、ジュニア!!!」
 物騒な事を叫ぶジュニアに驚きながら、とにかく落ち着かせようと首を振りながら哀願するように彼を見るが、その眼差しは吊り上がったままで、常の柔和な垂れ目も台無しだ。
 何がそんなにもこの子供の激昂させているのか、少年には解らない。解らないけれど、この手を離したら最後、ペンダントが自分の元から消え失せるだろう事だけは、解った。
 「なんだか解りませんが、触らないで!」
 包むマナの手のひらの中、強固に握り締められた石を取り出そうと、ジュニアの指先が蠢く。チェーンは相変わらず首を擦り、マナの白い肌を赤く痛ましく染めていく。
 「駄目なんだよ、マナ!マナが持ってたら駄目………!」
 そんな事にも気付かず、ジュニアはただ駄目の一点張りだ。それ以外に伝える言葉がないかのように、ただ拒否し、奪おうとする。
 …………それはマナが持つべきものではない。持ってはいけないものだ。
 きっとそれを告げても、マナは意味はないと笑うだろうけれど。それでもそれは、マナが持つべきものではなく、与えるべきものでもない。
 「駄目でも何でも、これは僕が貰ったんです!」
 「マナのとこの後継者だろ?!だったら尚更、そんなん捨てるべきだっての!」
 彼の傍、離れる事なくよりそうならばまだしも、こんなものだけ押し付けるなど。………自分こそが、彼にこれを与えたかったのに。
 どこまでもどこまでも自分の邪魔をして、その影をマナから消さない、馬鹿な後継者。手放したなら、その存在すらマナの中から掻き消せばいいものを、それすら出来ずに刻んで束縛している。
 自分の知る多くの言葉をマナにぶつけて、その残酷さを教える事が出来ないわけではないけれど。それはともすればそのまま自身に返って来てしまう、言葉の棘だ。
 …………自分とて、彼にこれを与え、自分の所有の証を示したいのに。
 いっそこのまま砕けないか、なんて。この腕では不可能な事を考えながら、まだ出来るであろうチェーンを千切る方を選び、ジュニアはチェーンを掴む腕に再び力を込めた。
 石を包むマナの手のひらを傷つけないように注意して、掴んだチェーンの強度を計算する。
 それに包んだ指先で気付いたのだろう、マナは目を見開いて、慌てたように眼前にあるジュニアの親指に噛み付いた。
 ………一瞬の、痛み。それに驚くより早く、僅かに緩んだ指先に、マナの白い指が入り込んで掴んでいたチェーンを取り戻してしまう。そのまま慌てて身を退けさせ、距離を取ろうと背中が逸らされた。
 上手く力加減を知った仕草だった。この姿だった頃、きっと彼はやんちゃで向こう見ずだったに違いない。怪我をさせずに痛みだけは強く感じる、そんな絶妙な犬歯の使い方。
 この様子では、きっと取っ組み合いくらい、いくらでも経験していそうだ。思い、それならば見くびる事なくジュニアは本気でマナの腕を捻り上げようと、マナの左手首をとった。
 手袋に覆われた左手だ。多少力の加減を誤っても、傷跡は残らない。きちんとそれを計算してとった腕は、けれど想像と違う感触を手のひらに教える。
 奇形………だろうか。細いマナに不釣り合いな、歪な違和感。一瞬、それを暴いて晒したい衝動を感じたが、今はそれより先に優先しなくてはいけない事があった。
 「や……!駄目、離して下さい!」
 ジュニアの目の色が変わった事に気付いたのか、マナの眼差しが微かな恐怖を浮かべている。…………見覚えのある、無表情の瞳。無機質な、欠片程のぬくもりもない氷の眼差し。
 痛める事になんの躊躇いもない腕を少年は思い出し、その時の怯えに染まりかけた眼差しは、それでも微かに飲み込んだ呼気ひとつでそれを乗り越え、ジュニアを睨んだ。
 その挑む眼差しに彼はくつりとも笑わず、変わらぬ眼差しのままに掴んだ腕を持ち上げ、洞窟の背に押し付けた。………見下ろす眼差しは、幼い筈なのに、歳経た後の対峙したあの時と同じ、冷たさだった。
 左腕に走った痛みに、少年は微かに眉を寄せた。思った以上にこの肉体は痛みに耐性がない。………骨に響くような痛みを感じるけれど、きっとそれは筋や神経を捻り痛みを教えているだけだ。骨折をさせるような無意味な事を、この子供はしないだろう。
 ならば、と。少年は痛みなど知らぬように気丈に、人形じみた無表情の子供を睨み上げ、右手に守る石を空気に触れさせる事すらないように握り締め、叫んだ。
 「これは、あの人が最後だからって、渡してきたんです!いらないって言ったのに、捨ててもいいからって!」
 尚寄せる奪い取る腕をかいくぐり、マナはペンダントを掻き抱くように右腕でなんとか庇いながら、自身を抱き締めるように丸まった。捻られたままの左腕の痛みは悪化したが、なんとか石をジュニアの目から隠す事は出来た。
 そうされると同じ体格程しかないジュニアには、上手く手を伸ばす隙間すらない。勿論、ジュニアが今以上の痛みを与えるつもりがあるならば、まったく無意味な話だけれど。
 それでも少年は知っている。この子供は、むやみに自分を傷つけはしないだろう事を。
 そうして、事実ジュニアはマナに傷を負わせるつもりは無かった。ましてや石を奪う為に殴ったり蹴ったりなどの、そうした暴力は論外だ。
 ジュニアは別にマナを傷つけたいわけではない。マナはジュニアが初めて、心も、それに伴った姿さえも、全てが綺麗だと思った人だ。
 ………だからこそ、傷つける意味しか持たないその守り石の存在が、厭わしいだけだ。
 「なら、捨てるさ」
 捻る腕は痛いだろう。傷も痕も残らない、痛みだけを与える手法は、いくらでも知っている。それの活用方法だって、マナが想像する以上に知っている。
 それらを行使する事は気が引けるけれど、マナが傷付くよりはずっといい。
 早くその手の中の忌まわしい結晶を差し出すといいと、痛みが増すように指先を動かした。瞬間、喉が引き攣るような音が、マナの口から漏れた。
 「……っ、捨てられません…………!」
 それでも返されたのは、拒絶の言葉。
 …………ジュニアの仄暗い底冷えのする幼い声よりも尚、悲痛なまでにマナの声が響いた。悲鳴のようにさえ聞こえる程、切羽詰まった甲高い音。
 初めて聞いたその音色に、驚いたようにジュニアの身体が硬直した。
 …………マナは、ずっと穏やかだった。少しだけ怖い顔をしても、その根底には優しい彩りが滲んでいた。その彼が、まるで迷い子のように震える声で叫ぶなんて。
 傷つけたのが、自分なのか、それともこのペンダントの持ち主か。それすら解らず、ジュニアは困惑を浮かべてマナを見つめた。
 ただ、マナが傷付くのが解っていて、それを与えた後継者も、その石自身も、許せなかっただけなのに。
 傷付く原因を排除する事が、この優しい人を守り笑顔を咲かせる事だと、思ったのに。
 …………重ならない眼差しが、ひどく痛かった。
 「これしか、ないじゃないですか。思いを途切らせてって言われて、それでもあの人に繋がり続けるものなんて、もう何も無いんです。………だから、君が駄目って言っても、捨てません」
 蹲るような姿のまま、それでもその声は凛と響いた。あんな悲痛な叫びを吐き出した癖に、もうその声は子供を諭す大人の声を取り戻して来ている。
 自分の願いが、ひどく空回りしている事が解ってしまう、譲られる事のない意志。
 手のひらの中、脈打つ鼓動が、先程の穏やかな心音とまるで違って、悲しい。………ほんの少し前は、あんなにも満たされる程に心地良かった音色を、自分が壊した。
 優しいマナを傷つけたのが誰か、…………思い知る。守ろうと思った筈なのに、どうしたって蔓延る影が、それを許さない。
 邪魔ばかりする、マナの世界の後継者。
 「…………そんなん別れる時に渡す奴に、縋る意味、ないのに…………」
 力ない声が呟き、それと同じ程に弱った指先がマナの手首から離れた。彼の掴んでいた左腕は、手袋をしていても尚、熱く熱を持ち痛んでいた。それでも痺れていて動かす感覚が鈍いけれど、きっと傷はないだろう。
 ぺたりと間の抜けた音を響かせてしゃがみ込んだジュニアの気配に、マナは恐る恐る視線を向ける。
 その仕草すら演技であったなら、石が奪われてしまう。ぎゅっと油断なく石を握り締めたまま僅かに覗く肩越しの、前髪に隠されがちの風景の中の、項垂れた子供を見遣った。
 ……………………ひどくそれは、落ち込んでいるような、消沈しているような、姿。
 少年の態度にか、言葉にか、それともこの石を持つという、その譲らない願いに対してか。
 解らないけれど、この子供がひどく悲しみ傷付いた事は、解った。
 「……縋る気は、ありませんよ、ジュニア。祈りたいだけです。僕と出会った事が、彼にとって傷にならない事を」
 服の中に再びしまい込んだ赤い石。それを撫でるように指先で辿り、その指先を、マナはジュニアの赤い髪に差し込んだ。落ち込んだように項垂れるのは、未来の青年と同じ仕草だ。
 ………寂しがりの甘えたがり。そんな事を言えば、きっとこの子供はムキになって否定するか、戯けてわざと甘えた振りをするだろうけれど。
 きっとずっと、そんなモノを抱えて、それを見ない振りをしたまま、育ったのだ。
 彼は知識が豊富なだけではなく、感受性も豊かだったから。きっと………その生き方は、寂しかったのだろう。悲しかったのだろう。そう、思う。
 それでも譲れない、たったひとつの為に、彼はその生き方を選び進んできたのだ。
 ……………それはきっと、自分も同じで。同じだからこそ、理解し合う事も共有する事も、また、遠く離れ別の道をゆくだろう事も、解っていた。
 それが、彼が与えてくれた不器用な優しさの数々の中で学んだ自分と、無自覚のまま与えてくれた彼との、違いだ。
 「僕が、彼に与えてもらえたものと同じだけの幸せを、彼がこの先手に入れる事を」
 彼が自分にくれた多くのもののうち、最も尊いものを、自分は彼に教える事が出来なかったようだから。だからせめて、幸せを。自ら不幸を呼び寄せる事なく、彼がこの先を生きる事を祈りたい。
 …………それくらいしか、出来る事がないのなら。せめて、それだけはしたかった。
 その揺るぎない呟きに、ジュニアは俯いたまま、しなだれた背中を更に丸めるように頤を揺らす。もしかしたら、髪を梳くように撫でる幼い指先に、擦り寄ったのかもしれない。掴んだ左腕からその形に違和感を感じない筈がないのに、それに何も言わないのも、痛んだからだろうか。
 沈んだその姿から、その真意は汲み取れなかったけれど。ただ沈鬱と漂う寂寞だけ、確かに感じた。
 それを払拭する言葉を与える事も出来ず、ただ少年は子供の髪を撫で、与えられた痛みを気に止まぬように教える事しか出来なかった。
 「マナ…お人好しも、過ぎると辛いよ」
 暫くして、ようやく彼は小さくそう呟いた。噛み締めた唇から洩らしたような、掠れた音。
 それはひどく痛々しい音色で、困ったように少年は子供の頭に口吻けを落とす。……養父が与えてくれた優しさを、自分が彼に与えられるかは解らないけれど、悲しくて泣いていたその時、与えてくれたキスの温かさは今も鮮明に覚えている。
 そのぬくもりを分けられればと祈る口吻けに、驚いたように子供の肩が跳ねた。
 「あのね、ジュニア。僕はお人好しじゃないですよ?」
 やはり自分では役不足かと、その反応を寂しく見遣りながら、少年はそれでも幼い震えに染まるその身体を包むように彼の頭を抱え込む。…………額がぶつかって、少しだけ痛かった。
 この醜い左腕が、子供に厭われない事を祈るばかりのような、こんな自分を、それでも彼は随分と優しく彩ってくれている気がする。
 それは、その眼差しを彩る色が、音にしなくとも形にならなくとも、何とはなしに教えてくれる。
 「………傷つけてももぎ取りたいって、思わないわけじゃないんですから」
 どうもジュニアは自分を美化して見ている気がして、苦笑しながらマナが言う。
 その言葉に、そっと睫毛を揺らしてマナを見上げたジュニアは、唇を捩じ曲げるように引き結んだ険しい顔のまま、面白くなさそうに吐き捨てる音を紡いだ。
 「なら、掴めばよかったさ」
 与えるばかりで搾取されるばかりで、この綺麗な命はその価値も知らないまま、こんな場所で寂しそうだ。
 どれ程希有な存在か、知るものが慈しみ守り育てるべき花を、知っていた筈の腕が悲しみの肥料だけ与えて消えてしまうなんて。
 ………………ずるいと、叫ぶ心を必死の思いで飲み込んだ。
 こんなにも守ろうとしている自分の腕は空回りするのに、そんな真似すら放棄した腕は、今もマナを包み支えるというのだ。
 それならば、その腕を伸ばして掴み、離れる事を厭えば、それで良かったではないか。そうしてそれでも消える相手ならば、全て忘れて、そんな石、捨ててしまえばいい。
 自分の石をこそ、その首に添えて笑んでくれれば、いい。
 「そっちの方が辛いから、止めたんですよ。言ったでしょう、我慢するって」
 困ったような声は、きっとつっけんどんな自分の声に対してだ。決してマナは自身を遠ざけた後継者を悪くなど言わない。
 どうせここにはいないのだから、いくらでも悪しき様に罵ればいいのに。それすらせずに飲み込んで、全てを美しく昇華させ抱き締め、己一人で歩むなど………寂しいではないか。
 自分ではどうする事も出来ないその事実が、喉を裂くように苦しかった。
 「…………なんでマナが我慢して辛いの飲み込んで、そいつばっか一杯貰うの。ずるいっしょ?」
 こんな綺麗な命が悲しんでいて、それをどうする事も出来なくて。せめて傷から守ろうと思い伸ばした腕は、どうやらどうしようもない程見当違いで、悲痛な叫びしか生まなかった。
 …………そうして、痛感する。
 守る為の腕など、自分は今まで考えた事が無かった。己の命を最優先に生きるという事は、そういう事だ。何かを抱え守るという事は、最優先すべきものを変更させる。
 それは、この身が携える意味を変化させるだろうか。……だからこそ、その後継者は離れたのか。
 その通りだというのであれば、やはり馬鹿だと、ジュニアは噛み締める唇で見た事のない後継者と、そして己自身を罵った。
 「一杯貰ったのは僕だから。僕はね、君に話せないくらい一杯、君達の記録の対象になり得る要素があるんです」
 子供を包む左腕は、その奇形を隠す為のミット型の大きな手袋で覆われたままだ。質問魔のような子供は、それでもそのミットに対しては何も言わなかった。触れたのだから、解る筈だ。………考えてみれば、彼はずっと自分の腕をとる時、右腕を掴んでいた。
 きっと、彼の経験の中、こうしたものに覆い隠されたものが、当人にとって劣等感を刺激する場合がある事を知っているのだろう。
 それが優しさか深入りしない為の境界線か、それは解らない。解らなくても、少なくとも子供が少年に対して示したいたわり故に、少年にとってそれは、確かな優しさでありいたわりだった。
 「こんな子供の頃はまったく無かったんですけどね。でも僕が生きている世界ではもう……きっと、記録の為に僕を見なきゃいけない時が来るぐらい、ギリギリなんです」
 キッパリと言いきった声に、悲嘆は見えなかった。その細くか弱い外貌からは想像も出来ない程、その声は雄々しいくらい力強く澄んでいる。
 痛みを、知っているだろうに。悲しみも辛さも憤りも、知らない筈がないのに。
 それでもマナは、どこまでも澄み渡った印象しか与えてくれない。………それは、いつ消えても大丈夫と、笑んで空に還る月の輝きのようだ。
 「………マナを、記録すんの?」
 途方に暮れたようなジュニアの声に、マナは優しく笑んだ。間近過ぎる視界では焦点があわず、上手く互いの表情は解らなかったけれど、それでも伝わる気配とその呼気の柔らかさでジュニアには知れた。
 「仕方ないって思っていますけどね。でもジュニア、もしも記録者が記録対象に情を寄せたら、どうなると思いますか?」
 言われ、……………身が竦んだ。
 もしも自分がマナを記録しろと言われたら。そう考えて、息の詰まる思いに驚く。心臓が、先程のマナのようにひどく早く脈打った。
 これをなんというのか、ジュニアは知らない。ただ恐ろしい事だと、それだけは感覚の全てで察知した。
 「……………………、………さあ、知んない」
 それでもそれをそのまま伝える事が出来なくて、ジュニアは引き結んだ唇をなんとか笑みに変えて、コテンと首を傾げるとそう告げた。
 見上げた先のマナは、相変わらず笑んでいる。
 辛そうな人も苦しそうな人も、見続けてきたこの隻眼。笑った顔も、見てきた。…………でも、こんなにも静かに空気に溶けてしまいそうな笑みは、知らなかった。
 どの表情にも当て嵌らない癖に、少し後押しするだけでどれにだってなれる、そんな笑み。
 「君は優しいね、ジュニア」
 囁く声こそが優しいと、ジュニアは言い募りたかった。
 自分が優しい筈がないと、解っている。自分の願いばっかりで、マナの事を思い遣る事が出来ない。
 …………誰かを思い遣る事など、今までも、きっとこの先も、必要ないと無意識に捨てていた。
 そんな薄情な自分が、マナに優しいと言われる資格などないのに。
 「僕の存在は、きっと彼にとって辛いんですよ。それくらい思ってくれたからこそ、辛くて苦しくて、心を離さなきゃいけないなら、僕は喜ぶべきなんでしょうね」
 「マナ、泣きたいん?」
 沈みそうな月は、瞬く。湖面に浮かぶ事もない、柔らかな月光。もっと水を称え濡れてもいい筈なのに、煌煌と輝くだけで、慈しみの光をたたえる満月。
 腕の痛みも、突然与えられた暴力への痛みも、マナは口にしない。過ぎてしまった事を、責めない。
 悲しいのだと、嘆かない。もっと沢山、彼はそれらをぶつけていい筈なのに、同じ立場にいる自分にすら、それをぶつけたりしない。
 泣いて、と。願える程ジュニアはマナを知らず、マナはきっと、何も知らぬ相手にその心の機微を捧げる程、簡単にその想いを挿げ替えてはくれない。
 自分も、同じ後継者なのに。今傍にいるというそれだけでは、彼はその全てを身代わりにしてくれない。それはきっと、純正の、潔癖さだ。
 「………いいえ、大丈夫。君達だって泣けないのに、僕ばかり泣いて楽になったら卑怯でしょう」
 そんな風に、傷つけた自分達を思い遣って、悲しみを飲み込んで。
 もっと沢山の傷も、きっと彼は自分で乗り越える為に抱え、大丈夫と笑んで歩むのだ。優しく自分を包むように、不安に揺れる目の前の誰かを安堵させる為だけに、凛々しい程たおやかに歩む足。
 「そんな事ないよ。そいつだって、十分もう、卑怯な真似してるん。マナが、知らないだけで」
 寂しさに、つい縋るようにそんな事を言ってしまう。言えば語らねばならぬ可能性が高まるのに、その機密じみた事実を教えられる筈もない癖に、勝手に唇から零れた言葉。
 「……………?……この、ペンダント?」
 首を傾げ、そっと服の上からそれを包む幼い指先が少し、辿々しい。また奪おうとするかと、そんな不安に怯える指先を知らぬ振りをして、ジュニアは笑んで弾んだ声をあげた。
 「知りたいなら教えてあげる。その代わり、同じだけマナも話してもらうけど?」
 何事も平等に。フェアであれと言ったマナに倣い、戯けた仕草で言った言葉は、けれどあまりその場の雰囲気を払拭する効果は無かった。
 ………上手くいかなかったのは明らかな計算違いのせいだ。なんて初歩的ミスだろうと、自分の選んだ手法の幼さに頭痛がする。
 「ジュニア、言ってはいけない事なら、そんな風に駆け引きしないでいいんですよ」
 唐突なその声の明るさに、マナが違和感を感じぬ筈もなく、困ったように笑んだその唇が優しく諭すようにそう告げた。
 「マナなら知ってもいい筈だよ。そいつが言わない方がおかしいんさ」
 マナの言う事は正しくて、確かにそれを自分は軽々しく他者に伝えてはいけない。けれどそうであったとしても、このケースであれば、いい筈だ。
 そう思い、反抗するように弱々しく返してみれば、マナは笑みを深めてその指先で不貞腐れた頬を撫でてくれた。
 「それはきっと、教えたらいけない事、なんでしょう?」
 「………でも、渡す相手には言うべきだろ」
 何もかも受け入れてしまうその言葉に、腹が立った。マナが怒ってくれないからこそ余計に、ジュニアが苛立ちを感じる。
 マナはもっとずっと、その後継者に怒りをぶつけるべきだ。身勝手で、臆病で。その癖、手放しておきながら束縛だけはするなんて。
 何も教えず、告げる事もなく、棘を与えて繋ぎ止めた、それは無言の鎖だ。知るものにだけ牽制を与える、所有の証。
 ………同じ立場にあるものである程、マナは惹かれる存在だと解っているからこその、その手段。
 棘ついた声でその卑怯な相手を責めてみれば、想像通り、マナは困ったように笑んでただ首を振った。
 「離れると言った相手に、秘密を打ち明ける意味はありませんよ。構いません、これが彼にとって何かの秘め事であっても。どんな理由があろうと、僕は手放せませんから」
 嘘であっても本当であっても、これがどんな意味の元押し付けられたかさえ、何でも構わないのだ。
 ただこれだけが、彼の残したものだ。与えた最後のものだ。………もう、情すら紡げないけれど、祈りすら拒むとは言われていない。
 ぎゅっと、幼い指が服の上、守り石を抱き締めた。縋るなんて、出来る筈もないけれど、それでもこの石に祈りを捧げる事くらいは、許されたい。
 身勝手でも、それだけは譲らない。ジュニアがひどく悲しそうだけれど、それでも手放せない。最後の、これは我が侭だ。
 そっと落とされたマナの長い睫毛に、垣間見える彼の世界の後継者への祈りが、苦かった。欲しいと思ったのは、同じで。自分の方が、きっとマナを大事に出来るのに。
 「……………やっぱ、マナのとこの後継者、ずるい」
 ぎゅっと唇を引き結んで、押し寄せた泣きたい衝動を耐えた。そんなもの、もうずっと感じた事が無かったのに。マナの傍にいると、思い出してしまう。そんな、きっと当たり前の、感情というべき幼さ。
 それは嫌悪すべき弱さだけれど、同じ程に、愛おしいぬくもりだ。
 この存在が傍にいるなら、きっとこの先記録を続ける間にある数限りない傷も痛みも、全て乗り越え世界を平等に眺め続けていけるだろうに。
 …………この世界に来るまでの間に、汚れていた事すら気付かなかった、彼に教えられた偏ったフィルターを、いつだって鮮やかに煌めかせる事が出来るだろうに。
 マナは、自分の隣には今しかいないのだ。同じ世界では、未だ出会ってすらいない人。
 「マナに一杯愛されてる。いいなー、俺んとこにもマナみたいな人、いればいいんに」
 会いたい、と。祈りをこめて捧げた。
 教えて欲しいと強請っても、きっと彼は首を振る。…………おそらく、彼は知っている。自分が生きている世界と彼の生きる世界の順序を。あるいは、それを決定する為に大きく関わるであろう、歴史に寄与する事実を。
 だからこそ頑なに拒むのだろう祈りを、それでも懲りずにただ差し出した。
 …………それ以外、自分に使える手管もない事が、歯痒くて悔しいけれど。
 「いつか、君が思う事を忘れずにいれば、手に入りますよ」
 思った通りに返された、同じ解答。解っていたけれど、それでも寂しくて。
 「でも、マナはいないん」
 声が涙に濡れそうで、計算でもなくそんな風になる事に…………驚いた。
 この人はいない。目の前にいるのに、自分の世界のどこに、何年前か、先か、どちらで存在するかすら、まだ解らない。
 それが寂しいと、こんなにも感じる。今はもうどこにあるかも解らない自分の生まれ育った一族の集落以上に、いないのだと思ったなら痛む胸。
 困惑に揺れかけた眼差しを、そっと撫でたマナの右腕が優しく支えた。
 「そうですけど、でも、逆に言えば凄いじゃないですか」
 「?」
 「本当なら、僕達は同じ時代にすら生きていないかも知れない。のに、ここでこんな風に知り合って話をして、お互いの事好きだって思えるなんて。こんな素敵な奇跡はなかなか巡り会えませんよ?」
 そう、言って。マナは優しく微笑んだ。
 ………きっと、彼の好きは年長者が子供に向けるような、慈しみに満ちた親愛だろうけれど。
 それでもいいから、笑んで欲しいと、願う自分に驚いた。
 あんな悲しみに染まった声は聞きたくない。そんな痛みを与えたのに、項垂れた自分に許しを与えるように口吻け抱き寄せる、真っ白なマナ。
 「そうだね。マナに会えて、良かった」
 真似ていた彼の世界の後継者の口癖も、掻き消されるくらい、感情が揺れた。それだって、彼が教えてくれたものだ。嬉しかったり、悲しかったり、戸惑ったり、訳が解らなくなったり。どれもこれも、自分がずっと遠くから眺めてばかりいたものだった。
 それらを与えてくれた、初めての人。
 ……………泣きたくなるくらい心がぎゅっと軋んだけれど、それでもそう返せば、マナは大きな目を見開いてしまう。
 まるで否定される事を想起していたような仕草に、彼が『後継者』に拒まれる事をすでに覚悟している事を知る。
 自分なら、手放さない。痛いけれど、辛いけれど。……………自分の存在意義を一から構築し直さなければならないけれど。
 それでも、このぬくもりは手放さない。

 そう、湖水に濡れかけた眼差しを笑みで誤摩化して。


 重なる額に、感謝を込めて、口吻けた。







   



 ジュニアはまだまっさらなままで、ブックマンの事も師として以上の親愛は持っていないので、多分失って悲しいというよりは、知識を受け継げなくて悲しい、とか考えちゃう感じ。
 そんな心しかまだなくて、そこに突然マナが居座ってしまったから、試行錯誤だらけ。
 ……………なので、閑話のラビもそうでしたが、この子も傷がなければ痛くない。終わった痛みは痛みじゃない。…………痛みは身体だけにしか残らない。と考えちゃいます。自分が心を痛めないので。
 でも少しだけ、解ってきたのです。ちゃんと、育つから。
 痛みもまた、成長する為には必要な要素だから。ちゃんと吸収して、逃げるのではなく向き合って。
 優しく芽吹くといいです。あのラビがもっと成長出来る為にも!(オイ)

10.11.27