相変わらず静寂に満ちた室内に、老人は気配もなく入り込んだ。
   少年の状態は経過観察に変わりはないが、善くも悪くも変化はまるで無かった。以前、同じ症例を見た時は、突然腕に怪我を負ったり服が破けたりと驚きはしたが、そうした事すら少年にはない。
   上手くそれは立ち回れているという事か。考え、少年が寄生型である事が幸いする事を祈った。
   精神世界は、結局は物質は存在しない。その中で唯一シンクロしているのが、魂と肉体という切っても切り離せない存在同士だ。
   文化圏で生きる人間であれば、あるいは身に纏う服程度は無意識に作り上げるかもしれないが、それ以外のもの………イノセンスであろうと、それは異質な物体以外の何ものでもないのだから、入り込む事はおそらく不可能だろう。
   ………だからこそ、8年前のあの日、幼かった青年が舞い戻った事には驚いた。
   エクソシストですらなかったあの子供が、AKUMAに対抗する術などある筈がないのに、多少の衰弱は肉体的な問題であれ、無事に帰還したのだ。
   それはそのまま、その世界に存在するAKUMAからの解放だ。情けなどないAKUMAが獲物を見逃す筈もない。精々、いたぶって遊ぶ程度の嗜虐しか示さないだろう。
   ならば何故、子供は舞い戻れたか。そこにこそ、おそらく今回のキーが存在する筈だ。
   情報の少なさには辟易とするが、その少ない中から結びつくモノを見出し、解答への足跡を辿るのもまた、己の生業の一部だ。それが活用出来るのであれば、最大限に活用しなくていけない。
   …………それが昏睡状態の少年への情である事だけは己の内で否定し、老人は変わらぬ体勢で少年を見つめる弟子を視界に入れた。
   そうして……少しだけ驚いた。隈取りの奥の眼差しが見開かれたのは、わざとではなく純粋な驚きだ。
   青年の眼差しに、光が戻っている。先程老人がクロウリーと話していた頃はまだ、沈みきった思考から這い上がれずにもがき、己の内の歪みに怯えて少年の服に触れる事すら、恐れていたというのに。
   よく見てみれば、その指先が少年の指先をとっている。…………青年の指先が赤く見えるのは、また火傷を負っているからだろうか。それともその前兆か。
   考え、軽い溜め息とともに老人は歩を進め、弟子の傍にまで歩み寄った。
   「ラビ、一度寝てこい」
   「いんねぇさ。まだ思いつかねぇし」
   反応はすぐに返って来た。声にも震えはなく、こちらを窺う惑う眼差しもない。ただ一心に少年を見る視線は今までと同じだが、その質だけが変わった。
   ………好転、しているのか。知らぬ間の変化に内心で笑みを浮かべ、老人は青年の頭を軽やかに殴った。
   「一定期間起きていたら、睡眠は必要だ。貴様のお粗末な脳がよりお粗末にならんように努めんか」
   得る情報量も常人の比ではない自分達だ。眠るその間すら、音だけは記録されていくけれど、それでも視覚情報がない分、負担は少ない。そうでなければ眠りによる記憶分別すら追いつかない。
   それ程に、眠りの中で再構築し分類される記録達は、膨大だ。一度怠けたなら、その後にどれだけ脳に負担をかけるかなど、寝汚い青年ならばよく解っている筈だ。
   「………………でも、なんか引っかかりかけてんさ」
   「尚の事さっさと寝ろ。情報の抽き出しが出来んなど、話にならん」
   ぼやくように告げた青年の声を即座に切り捨て、老人は少年の腕をとった。触診の振りをして、青年から引き離すのが第一目的のその腕は、それでも優しいものなのだろう。
   そんな事を眺めながら考え、そう考えられる自分に苦笑する。
   …………どれ程多くのものを、与えられたのだろう。こんな難儀なものばかりを背負ってしまった、ちっぽけな少年に。
   自分こそが与えられる筈の立場なのに、欲しがって得る事ばかりで、結局ずっと、自分はそのエゴにだけ支えられて彼の傍に居たのだろうか。
   笑っていて欲しいのだと、傷付いて欲しくないのだと、祈る醜さも自覚すべきだ。
   ………切り裂く厳しさの中にとて、こうしていたわり慈しむ情を添える事は出来るのだから。
   眠る少年は相変わらず精微な人形のままだ。呼気が見て取れる分不安はないけれど、おそらく仮死状態に程近い。老人が触れる指先に感じる体温は、自分が感じる半分もない事だろう。
   思い、青年は己の指先を見遣った。赤く色づいたそれは、まだ火傷にはなっていないらしい。何故、自分にだけ、こうして反応するのか。それは……あるいは、少年に起因するのではなく、自分にこそ、因があるのか。
   視点を変え、もう一度模索する。検索ワードを羅列し、脳裏に打ち出される情報を識別しては寄り合わせ、統合すべきと排除すべきを定め、蓄積された情報から全体像を構築する。
   何か、肝心な一点を抜かしているその構築式は、どこか朧で現実と合致しない。
   もう一度練り直し再構築を。思い、思索の淵に舞い降りようとした時、再び脳裏に痛みを感じた。
   「…………何をしておる」
   「痛いさっ!ちょっと考え事さ!?」
   遠慮のない拳はしっかり痛覚のツボを選んでいて、子供の力であっても強く痛むのに、この師は思い切り殴るのだ。思わず涙目になった眼差しで睨み上げた先には、当然のように飄々とした老人の顔があった。
   「寝ろとわしは言った。そんな単語も忘れる程耄碌したか」
   溜め息を吐きながら呆れた嘆き顔だ。
   自分もわざとそうした真似をする事はあるけれど、この老人程嫌味ではないと思う。もっとも、互いに気心知れてしまったからこその遠慮のなさなのだから、文句も言えない事だけれど。
   「ジジイに言われたくないさ?!」
   ムッと顔を顰めて、唇を尖らせながら青年は言い返した。
   年齢的に言っても、先の耄碌すべきは老人だ。彼より先に使いものにならなくなったら、彼の二十年近い時間の努力が無に帰してしまう。そんな真似、させる気はないのだ。
   彼が与えてくれたものは厳しく過酷で、辛さばかりが目立つけれど。それでも青年は知っている。この老人が携える、自分への情。
   自分が彼を亡くせば涙するのと同じように、彼もまた、失えば涙するだろう。後継者が途絶える悲しみではなく、この命が消える事への、涙を。
   解っている。知っている。幼い頃はこの世の澱みに染まって、この師すら、そんな情の先に佇ませはしなかったけれど。重ねた月日が、ちゃんとそれを教えた。
   …………一瞬、明滅した、赤。鮮やかではなく、暗くもなく。血の色でも火の色でもない。それでも流れるように薄暗闇の中、流れた短い赤。
   否、白……………?
   覚えのない記憶に首を傾げ、青年はその視線を老人から眼下の少年に向けた。白と言われて想起してしまう、この真っ白な色の少年。
   「それと、小僧に触れるな。こんな間抜けな理由で守り石が作用するなぞ、恥だ」
   知らず触れてしまっていた指先を、老人が払いのけるように追い払う。そうして柔らかとも言える所作で、再び少年の手のひらを招き寄せ、脈を測っていた。
   それを視界に入れながらも、青年は見てはいなかった、
   師の言葉が、脳裏を貫くように走り抜ける。……守り石。久しぶりに感じるその言葉に、自身の胸元を無意識に辿って、それが今どこにあるかを思い出す。
   「……………………………………あ、れ?」
   渡したのは、数日前。全てを手放す事なんて出来なくて、最後の最後、押し付けたペンダント。
   想起し、少年の性格を組み込み、構築式を成立させる。解は………ビンゴ、だろうか。
   「守り石………守り石さ、そうか、そっちだ!」
   呟き、脳裏で成り立った原因と結果の因果の法。段々と強く確信を込めて叫んだ声に、老人が片目を眇め怪訝そうに青年を見遣る。
   当然だ。守り石と言われて、今青年が考えている問題に直結するような情報にヒットする筈がない。
   ………してはいけないと、言うべき方が正しいだろうか。
   言えばきっと、この老人は険しさを見せるだろう。自分の愚かさと、浅ましさ。そして…………眠る少年への、憐憫で。
   それでも言わざるを得ない。可能性の高さを無視して秘匿する意味などない。これは、少年の存在にも関わるのだから。
   「ジジイ、アレンの身体調べて!」
   叫ぶ声に力を込めた。怯えたり震えたりなどしないように、自分の意志を乗せて。
   自分がそれを出来ればいいけれど、今は無理だ。触れれば高温を感じる。それを感じるのは自分だけだけれど、もしもそれが守り石に関与するものであるなら、きっとどこかで少年にリンクしてしまう。
   それが好転を齎すかどうかすら、解らない。悪化を招いたりしたら、自分を罵る事も出来ない。
   胸中の焦りを必死に押し隠し告げた青年の言葉に、先程同様に怪訝な顔のまま老人は答えた。
   「何を言い出す」
   相手の言葉の意味を推し量る、重厚な音色。
   たった一言の中に、老人が大体青年の隠す情報を察した事が見て取れて、言い淀みそうになる己の唇を、青年は叱咤しながら操った。
   失えないと、解っていて。少年の為に何かを捧げたいと、今更ながらに痛感して。それでも尚隠すものなど、無意味だ。
   恐れも怯えも消えないけれど、きっとこの先だって、向き合う恐怖に居竦むけれど。
   せめて逃げずにいる事くらい、出来なくては、この先を進めない。…………眠り続ける少年を目覚めさせる方策すら、掴めない。
   「守り石、持っている筈さ。それさ、きっと!」
   それこそが自分だけが感じる高熱の原因だと、ようやく思い至った青年の叫びに、老人は目を見開いた。
   …………解った事にではなく、その事実に。
   青年の言動で察してはいても、その意味の重さを知っている老人にとって、あってはならない現実だ。
   嘆息を落とす振りも出来ない。厳しく光る眼差しが青年を射抜くが、それは予測の範疇だったのだろう、青年は喉を引き攣らせるように息を飲みはしたが、大人しくそれを受け入れている。
   「………小僧に、渡したのか」
   呟く声が平淡だ。記録物への無機質な音以上の、感情も命もない音。
   その理由くらい解っている青年は、疼く胸を抑える事もせず、握り締めた指先だけで耐え、微かに飲んだ呼気で喉を潤すと、ゆるゆると唇を開いた。
   「………………………………………、渡したさ」
   紡いだ音が掠れなかったのは奇跡だ。そう思い、そんな事を考えて現実逃避をする暇もない筈の自身に苦笑しそうだった。
   老人の言葉の重さは、知っている。与えられた守り石の意味も、解っている。
   …………少年に出会って、惹かれて、それからずっと、その石の持つ意味の重さに思い悩んだ。
   与えたくて、けれど与える事など到底出来ず、その資格を互いに有していない。その事実こそが、重く青年を打ちのめしてもいたけれど。
   「それがどういう意味か、解っているのか」
   だからこそ与えただろう事も解っているけれど、戒める声は降り注ぐ。
   何ものにも関与せず、遠く離れ、そうして記録し、刻み、繋げ、受け継がせる。そうした宿命のもと生まれ、己の意志でそれを掴み歩んだのは青年自身だ。
   それならば選んだ愚かさを、自覚とともに見据え再び選択を成さなければならない。
   「解ってて、押し付けたんさ。それしか、アレンと繋がってられないって、思ったから」
   思い、痛感する。………きっと、始まりから既に、誤っていたのだろう。
   選択肢を、全て捨てていた。選ぶという行為も、していなかった。
   並べられた事実の中、自身の恐れるものだけを見つめ、怯え、輝くものから目を背け、楽観する事を避け、震える指先を与える事を厭って、逃げた。
   何もかもが、きっと、エゴで。……………腹立たしいくらい身勝手で。溜め息も出ない程幼稚で意固地な盲目さだ。
   自覚したそれらに顔を顰めてみれば、少年の手首から指先を離した老人が、深く息を吐き出した。
   ちらりと見遣ったその気配の中、険しさが薄らぐ。少年の身に、青年が触れていた事での変化はないらしい。それに安堵し、青年の眼差しも少しだけ和らいだ。
   「馬鹿だ馬鹿だとは思っておったが……そこまで馬鹿とはな………」
   「………エゴだったって、解ってるさ。でも、アレンが持っていたって、作用はないさ」
   そんな青年を窘める老人の声に、顔を顰めて全面降伏するように己の非を認めた。
   それでも、決して少年を傷つける意図は無かった。どれもこれも、傷つけたくてした事ではない。ただ、間違っただけだ。情けないけれど、あの少年を守る術だと、思い込み実行した己の心もまた、嘘ではないと認めるしかない。
   …………守り石は、自身で携えるか、伴侶となる異性に与えるものだ。
   生まれた時に両親と己の血を凝り固め、琥珀のように化石化させた血の石。血族が絶えぬように、治癒の困難な血液の病に冒されればそれが溶けて廻り、正常な状態に巻き戻す。
   あるいは、子を成す時に『ブックマン』一族の血を薄めぬように、対となる片割れに与え、徐々に溶け消えたのちに子を生めば、その赤子に流れる血は全てにおいて『ブックマン』一族の遺伝子が優性遺伝として現れるように作用する。
   そうする事で近親婚による胎児の奇形のリスクを避け、尚かつ一族の能力を薄めぬよう、守ってきた。
   ………言うなれば、人体改造のきっかけを与える、石だ。
   青年は当然男なのだから、その血から成り立つ守り石は、青年自身以外の男の遺伝子には反応しない。渡された少年がたとえ身につけても、それは鮮やかな赤い石以外の意味を持ち得ない。
   それでもそれは、一族の証だ。…………他のものがその身に触れる事を拒む、石だ。
   離れる事を選び手放したなら、決して与えてはいけない、束縛の証だ。
   解っていて、それでも青年は少年に与えた。捨てるなら彼の意志で捨ててくれればいいと、押し付けた。少年がそれに縋る事を知っていて、別れとともに与えた、最後の繋がり。
   自身の質の悪さなど解っている青年は、老人の責める響きも眼差しも粛々と受け入れた。当然だ。軽率だとは思わないけれど、遠ざかる事を選んだ癖に、少年を己の歩みに巻き込むような真似をした。
   それでも、欲しかった。たった一つ、欲しかった。あの銀灰色の瞳が、他の誰も映して欲しくなかった。自分以外の誰にも、その指先を捧げて欲しくなかった。
   枯渇するように、願っていた。…………どうしてかなんか、知らない。何故彼でなくてはいけないのか、解らない。
   ただ、その心を失う事が、耐えられない。自分以外に明け渡さないで、なんて。願える筈もない癖に。
   ……………我が侭に貪欲に望み、身勝手に実行した、無言の鎖。
   それがあれば、耐えられる。繋がる全てが許されなくても、携えてきたその重みを重ねて、少年が慈しむその指先で撫でてくれるなら、きっと。
   優しい少年は、あの石を捨てもせず、抱き締め祈り続けるだろう。演技もしきれずに、彼を愛しいと零し続けて、それでも離れる自分の事を。
   そう、考えて。自身の悪辣さに嫌気が射す。何もかもまるで、計算づくのように、この少年を独占する為に画策したような、この現状。
   切羽詰まって必死に悩んで、彼を守る為に選んだ筈の全てが、結局は自身にとって都合のいいように転がしているように思えて吐き気がした。
   この先、この膠着状態の全てが廻り、現在に辿り着いたなら、自分もまた、それらを購うべきだろう。………全てを懺悔して、許しを請うべきか。それとも全てを秘匿し、今度こそ消えてしまうべきか。
   彼を守る一番の方法は一体何かを、初めからまた考え直さなくてはいけない。
   それにはまず、この眠り続ける少年を目覚めさせなくては。…………こんなエゴに凝り固まったままの状態で、全てが終わるなんて、あってはいけない。
   彼は、幸せにならなくてはいけないのだ。
   優しくて、自身の事以上に誰かの為に生きてしまう人だから。幸せにならないといけない。……ずっとずっと、思って来たのだ。彼は、幸せに…………
   夢想しかけ、己の無意識に疑念を寄せる。
   …………そんなにも、まるで刷り込まれたかのうように祈る程、何に自分が押い込まれたのか。そのきっかけだけが、何故かぽっかり空いていた。
   一度は失った人だ。それ故に、再び舞い戻って、それが悪化したのか。解らないけれど、その点もまた要考察の項目に入力し、青年はひたと眼前の師を見遣った。
   「多分、AKUMAの攻撃が魂に関与するなら、今の仮死状態に陥らせる為に、血液から入り込んでいる筈さ」
   血液は、守り石のキーワードだ。そこから辿り、道筋を作り上げていこうと青年は試みる。
   「ふむ……それに守り石が共鳴した。……違うな、守り石は同性に関与しない」
   「となれば、イノセンス?」
   応えた老人の声は、既にしっかりと現状を把握し、青年と同じく予見を成す。辿る道はきっと、青年よりも早く、その先を読み取ってしまっているだろう淀みなさだ。
   「小僧のイノセンスが守り石の特殊性を取り込もうとしたか、逆に異物として排除しようとしたか」
   少年の心臓にはイノセンスが組み込まれている。いうなれば、少年は左腕だけでなく心臓すらもAKUMAに対抗するべく備えられた存在だ。
   だからだろうか、彼は被弾する率が高いが、それをエネルギーに変えるタイプでもないのに、浄化能力に衰えがない。廻る血液すら、イノセンスを含有している可能性は、否定出来ない。
   呟きには的確な返答。やはり師にはどこまでいっても頭が上がらない。いつかは彼すら乗り越え上に進む筈なのに、そんな自分を考える事も出来ないのだから苦笑するしかない。
   「異物としたなら、同じ存在の俺も、拒絶されるさ」
   それが、少年には熱を与えず、青年だけに触れさせない高熱の、理由だろうか。
   考え、情報と現状を合致させるには、それなりに蓋然性の高い仮説であろうと、青年は判断して頷いた。
   それを見つめ、老人は微かに少年を見下ろし、その首元を見つめ、小さく言葉を落とす。
   「しかし、守り石………小僧は何も身に付けてなどおらんかったが」
   少年の着替えも治療も、全て老人が行なったのだ。
   エクソシストはみな出払っていたし、元帥達は今、少年には単独で関わる事を許されていない。あの中央庁が、ノアに狙われた貴重な戦力を、いつノアになるか解らない相手に、近づく事を許す筈もない。
   クロウリーが戻って来たのは朝方で、残念ながらこの部屋に押し込み経過観察を開始した頃だ。もう1時間帰還が早ければ楽だっただろうにと、不安に泣きそうな顔をした彼に戯けた記憶は新しい。
   その際、怪我の措置の為にインナーは全て脱がせたが、ペンダントはあったが、あの赤い石は無かった。
   考え、可能性に嘆息しそうな自身を押し隠し、老人は常と変わらぬ顔のまま身につけていない事を示唆するだけに留めた。
   「じゃあ荷物?ホルスターに入れてたんさ?」
   「可能性はなくはないが、どうもおかしいな」
   呟きながら、ひとつひとつ、欠片程の情報を零す。今すぐそれに気付いては厄介払いが出来ない。この弟子は早く睡眠をとり、身体を休ませ、胃の中に栄養も貯えさせなくてはいけない。
   そんな生物として当然の営みも忘れた青年の一途さ、きっと祝されるべきなのだろうけれど、それを与えられるのが生きた人間であるのなら、凶器とならぬ事を祈る他ない。
   思い、それすら微笑みひとつで受け止める少年が想起されて、溜め息が落ちそうだった。
   「?なにがさ」
   「まあいい。どちらにせよ、お前は小僧に触れんのだ。そちらを探すのはわしがする」
   「……触ろうと思えば…」
   呻くように告げかけて、それは途切れた。
   「これ以上刺激を増やしてどうする。お前は睡眠をとった後、今回の任務地にいたファインダーと連絡を取れ」
   「へっ?なんでさ?」
   唐突な老人の言葉に、青年は目を瞬かせて素っ頓狂な声をあげた。
   漸くほんの少し、見えたものがある。それを解明する事ではなく、まったく無関係なものへ舞い戻る理由が解らない。
   「………本職だ、忘れたか」
   「って事は、やっぱあの石の由来の記述、書き直しさ?」
   あからさまに馬鹿にした声に、青年は唇を尖らせる。本職を忘れる筈はないけれど、危急の事態ではないのなら、後回しにしてもいい筈だ。
   実際、老人とてこの件はファインダーの調査を利用しようと放置していた筈だ。それを突然回してくるなんてと、不満に顔を顰めた青年を老人は軽やかにあしらった。
   「それはあのファインダーの収穫によるな。まあ優秀な奴のようだ。期待出来るだろう」
   暗にいま目の前の青年よりも、と。その響きに滲ませた嫌味に青年の表情が更に曇ったが、この程度の嫌味は言われて当然の真似をしたのだ。
   文句も言えず、拗ねた子供のようにそっぽを向いてしまう。
   「解ったな。それが終わらぬ前にここに来る事は禁止だ」
   「え?!だって、ファインダーが掴んだかも解らないんに?!」
   思いもよらない条件を付加されて、青年が目を剥いた。叫ぶような声に含まれる非難の響きはどうしようもなかった。
   「当然だ。これは制裁も込みだ。守り石を軽々しく扱った代償としては生易しいがな」
   そう言われてしまえば返す言葉もない。実際、この行為に対しての制裁だというのであれば、生易しいどころか、制裁としての意味すらない。
   きっと、触れる事は危険だ。守り石を持つ少年と自分の間にだけある作用。軽んじてはいけない事かも知れない。解らない、けれど。何もかもがまだ、闇の中だ。
   「…………………………解ったさ……でも、アレンに変化があったら、絶対に知らせるさ!」
   噛み締めた唇で唸るように呼気を飲み込んで告げた眼差しが、それでも恨み言に染まってしまうのは仕方がない。
   へたり込んで惑い続けて、漸く廻って来た気がした、自分の中の彼への祈り。空回りして迷い続けて、迷走しかしなかったそれが、結びついて来たのに。
   傍にいる事すら禁止だなんて、歯痒く思って当然だ。
   子供じみたその物思いを、それでも口に出す事だけはなんとか堪えた眼差しに、老人は微かに目元を綻ばせた後、すぐにいつもの冷淡な眼差しに変えた。
   「考えておいてやろう」
   溜め息を吐きながら告げる声の素っ気なさに苛立たしそうに睨みつけながら、拗ねた大きな子供が立ち上がった。
   そっと、一瞬だけ愛おしそうに少年の頬を撫でて、すぐに握り締めた指先で老人を指差して、喚くように念を押した。
   「絶対だかんな、ジジイ!」
   そうして呆れたような老人の眼差しを振り切って、走り去る足音に負けぬ声で叫びながら、青年は室内から消えた。
   その気配が完全に消え、他の気配もない事を確認してから、老人は少年に向き直った。
   漸く静かになったと老人が見下ろした先、眠る少年は変わらず静かに佇んでいる。その首元を覆う服を剥ぎ取る為に、ボタンを外した。同時に見えた、チェーンの煌めき。
   「………やはりな」
   初めそれを見た時、ただのネックレスかと思っていた。けれど違う。記録した通り、そのチェーンの先に、小さくペンダントヘッドを繋ぐ金具がある。
   鳥を象り石を繋ぐその金具は、自分達一族の守り石に使う金具だ。……………金具だけが、そこには存在している。
   石はない。そして、あの特殊な石は、決してこの金具から外れる事はない。たったひとつの例外を除いては。
   「溶けたか、小僧の中に」
   決して同性の中に溶ける筈のない、守り石。けれどそれは消え、その石を構成した血を持つ青年と共鳴するように、触れる事で反応する。
   おかしいと思ったのだ。青年の推論を導いたのは老人だが、決定的な穴がそこにはある。
   …………時間が、合致しないのだ。
   決して有り得ない仮説ではない。寄生型のイノセンス、しかも少年の命を救った事のあるこのイノセンスが、AKUMAの攻撃と同様に守り石を拒む可能性がないわけではない。
   けれど、もしもイノセンスによる拒否反応であるならば、監査官がイノセンスによって少年に触れる事を拒まれた時から、青年への拒絶も始まらなくてはいけない。
   けれど実際にそれを感じ始めたのは、列車から降りる時………精々AKUMAの攻撃から8時間の経過をしたのちだ。それではあまりに反応が鈍過ぎる。
   ならばこれは、別の意味がある筈だ。そしてそれは……あるいは、8年前の弟子の状態に関わるのかも知れない。
   8年前、生きて戻れる筈の無かった、緩やかな精神の死を迎える筈の子供が、無傷で戻って来た。AKUMAから解放されるにはAKUMAを破壊しなくてはいけない。が、精神世界に物質は入り込めない。  ならば、それを持ち込める存在は、と。
   …………考え、翻るのは真っ白なイノセンスを纏って戦う、この少年の姿。
   仮説だ。精神世界がどのように成り立つのか、AKUMAの能力がどう影響を及ぼすのか、まだ解りはしない。そもそも少年が攻撃を受け被弾したレベル2は、8年前のAKUMAとは別種だ。
   未だ繋がりがない。ただ、点と点はその関係性を主張するように、重々しくそこに横たわっている。
   老人は深く息を吐き、相変わらず厄介事ばかりを繰り広げる弟子を、この事態が全て終わったらどう鍛え直そうか、と。
   暫くは守り石の示す事実に気付かないだろう未熟者の未来を思った。
   情報は与えてやった。後は、離れた場所で冷静に思いめぐらせ繋ぎ合わせればいい。果たして何時間かかるか見物だ、と。
   全てを抱えたまま今だ眠る少年を見下ろし、老人は小さく吐息を落とした。
 ……………その少年の首元の傷もまた、何を意味しているのか。
   何もなくとも知らぬ間に傷付くこの現象。
溶けた守り石。過去の事件。イノセンスのない世界。そこに居るAKUMA。生還した子供。失っていたその期間の記憶。
 きっと、繋がる筈だ。考え、それらへの答え以上に、この眠る眼差しが再び目覚める事が何よりも、と。
 考えかけ、老人は嘆息の中、その感傷を掻き消した。
 守り石のイメージとしてはiPS細胞かな、と。
   これは皮膚細胞とかの既に分化して特定の器官以外になれない『体細胞』を初期化させて、受精卵の中の細胞のように、どんな器官にでもなれる多様性を持つ『幹細胞』の事……と言えばいいのかしら?まだ本をちゃんと読めていない(むしろ理解する脳みそがない)ので上手く説明出来ないですが………!
   ES細胞でもいいかな〜と思ったのですが、こちらは完璧に受精卵の幹細胞なので、そんなモノ持っていたらその人存在しないしね☆(研究で使うものは不妊治療で余ったもので、破棄する予定のものを使うそうです)
   ブックマンは次代を育てて受け渡すまでは死ぬ事が許されないと思うので。
   でも生きている限りは怪我は避ける事が出来ても(例え腕を無くそうと目を潰そうと喉が潰れようと、伝える術はありそうですし)、病気に陥った際に完治させる術は少ないので。
   遺伝病はどうしようもないけど(汗)成長していく中での感染症と、外傷性の神経の遮断(脊椎損傷とか?)に対しては有効な石……みたいなイメージ。
   まあ実際のiPS細胞はまだそこまで実用化されていないし、器官や神経も完璧に作り上げる事は出来ないそうですが。
   SFじみた、不老不死の為の器官の置換とかはどうでもいけど、脊椎損傷の方の脊椎内にある中枢神経の軸索とかが繋がってネットワークを再形成する事で、麻痺が治って自立歩行が可能になるかも、という話には希望を持ちたいですね。
   ……………って、なんか説明が医療系にまとまった………!(汗)
10.11.28