口吻けた額に、驚いたマナの眼差し。それにジュニアはただ笑いかけた。
マナが与えてくれて心地良かったものを、返しただけだ。きっとマナも同じ思いで、自分にくれたもの。
「あんがと、マナ」
小さくそう告げて、幼い身体で必死に、その細い肩を抱き締めた。
守り石を奪う事は出来ないけれど。自分の守り石で彼を彩る事も、出来ないけれど。
それでも、彼が好きといってくれて、笑ってくれて、心砕き慈しんでくれて、嬉しかった。それだけは忘れない。絶対に、忘れない。
「絶対、マナの事、守るな。AKUMAなんかに、マナはあげないさ♪」
明るく戯けて、彼の世界の後継者の口真似を口ずさみ、ジュニアは寂しさを飲み込み笑った。
その眼差しに映るマナは、やはり綺麗に輝いて見えて、不思議だ。薄暗い洞窟の中、乏しい光源で、そんな風に見える筈もないのに。
それでもやはり、月明かりのように淡くマナは輝いて、少しだけ寄せた眉を困ったような笑みで染め上げ、小さく飲み込んだ呼気の後、鮮やかに優しく微笑んだ。
「お礼を言うのは、僕の方ですよ。君はずっと、守ろうとしてくれたじゃないですか」
出会ったその瞬間から、ずっと。そうマナは微笑み、縋るように抱き締める幼いジュニアの背中をあやすように撫でて、肩に顔を埋める。
………きっと、自分の態度のどれも、ジュニアを傷つけた事だろう。どうしてかなど解らないけれど、この子供もまた、青年と同じく不器用な優しさを捧げてくれたから。
その優しさを痛みに変えさせない為にも、この世界から彼を無事に還さなければいけない。
おそらく、キーは自分自身だ。老人の言っていた8年前の事件は、きっと今のこの状況だろう。ならば、必ずこの子供は無事な姿のまま、還る筈だ。
それを実行出来るのは、今この世界には、きっと自分しかいない。エクソシストで寄生型。そんな厄介さこそが、この世界では未来を切り開く鍵になる筈だ。
考えないといけない。彼を守る為に。無事に過去に戻す為に。
思い、その為に必要な環境がある事に、気付いた。…………自分がエクソシストである事を知られてはいけない。そして、イノセンスを発動出来るようになった頃の自分を、知られてもいけない。
AKUMAとの戦闘があると仮定して、それはジュニアのいない場所でなくてはいけないのだ。
………今更気付いた、随分と厄介な限定条件に、頭痛を感じた。
きっと彼は、逃げるその時この腕を離しはしないだろう。その中で、自分が一人になる事は不可能だ。
何か、考えなくては。二人離れても彼が納得するような、そんな理由。お互いに逃げ延びる為の、その理由を。
「………ねえジュニア、暗号を決めませんか?」
考え、思いついたそれを口にしてみる。
難しい設定はいらない。もっとずっと簡単で単純な理由がいい。ヘタに凝ったものにすれば、きっとボロが出る。
「?暗号?何の?」
首を傾げたジュニアを見上げ、少年は困ったような顔のまま、なんとか今思いついた理由をジュニアに言い聞かせた。
「僕は君ほど長く走れないみたいですから、最悪、二手に分かれる事も想定しないといけません。その時の目印です」
…………実際、きっとそうなる時はある。
ジュニアは身体能力に優れている上、この年齢の子供としては驚異的に持久力があるようだ。一緒に走った時、一度もそのスピードは衰えなかった。
そんな彼にずっと付いて走り続けられる筈がない。そしてきっと、この子供はその危険を目の前にして、逃げてくれないのだ。
目の前にAKUMAがいて、それでも守るつもりで立ちはだかる。その為の策にこそ、彼はその知識を活用するだろう。
それでも敵う筈がない。子供で、エクソシストでもなく、イノセンスもない。どれ程優れた知者でも武勇を誇る達人でも、それは不可能だ。
だからこそ、その状態になる前に、手を打たなくてはいけない。思いついたその方法は、真っ先に定めておかなければならない事でもある事に気付き、少しだけ落ち込んでしまう。
………本当に、こうした時の思索の方法が、自分はヘタクソだ。守ろうと気ばかりが急いて、その実、まったく上手くそれを行なえない。空回りばかりで情けない話だ。
「どこが正しく進んだ道かって事?」
きょとんとしたジュニアの眼差しが、楽しそうに細まった。
まるで楽しいゲームを目の前にしたような眼差しに、マナは苦笑する。どこまでもこの子供は、楽観的だ。それがたとえポーズであったとしても、そうあれるのは、きっと彼の心がそれに添うもので形成されているからこそだろう。
多くの知識を楽しみながら吸収して、それらを活用するだけの柔軟さを持ち合わせている。その自信が、彼を困難を前にしてもゆとりを持たせる。…………ずっと憧れた、彼の魂の輝きだ。
「そうです。僕はまだ全然この洞窟の道を覚えていませんし、それを目印にして、合流しましょう。足の遅い僕が囮になれば、君は逃げられる筈です」
考えながら、なんとかジュニアが無事に逃げおおせる方法を模索する。
どこか、時間軸が狂う場所に出られればいい。そこがこの時間軸よりも数年未来であるだけで、少年には戦う術が出来上がる。
そうなれば、きっとあのAKUMAの正体も解る筈だ。未だ左目に呪いを受けていない幸せなままのこの身体は、あの悲しい姿を映し出してもくれない。
…………悲しみを終わらせ天へと還す、その道すら、与えられない。
だから、せめて、ジュニアだけは。あの老人の元に還さなくてはいけない。この身に変えても、AKUMAから逃れさせ、この世界から現実へと。
考え、険しくなっていた眉間の皺を、からかうようにジュニアが指先で弾いた。
驚きと痛みに目を丸くしたマナの顔を覗き込み、ジュニアは少しだけ叱るような声で言った。
「駄目さ、マナ。追うなら俺の方っしょ?」
考えは悪くないけれど、それでは完璧ではない。そうジュニアは指を振って講義する大人のような口調で告げた。
首を傾げ、その意味を乞うように見遣ってみれば、楽しげな眼差しが嬉しそうに笑んだ。……彼は、頼られる事が好きだ。向ける眼差しを、いつも嬉しそうに抱き締める。
「俺は地形は把握しているし、AKUMAから逃げるのも平気。俺が引きつけて離して、上手い事撒いたら、また初めに戻ってマナが逃げた場所まで探しにいくさ」
その方が確実に二人ともが助かる。ニッと、強かな笑みで言うその策は、確かに戦力的な意味合いを考えたなら正しいかもしれない。
それでも、それに頷くわけにもいかず、マナは戸惑うように視線を揺らして首を振った。
「………それだと、君ばかりに負担が行きます」
それではなんの意味もないのだと、揺れる眼差しが教えてくれる。それだけで、充分だ。マナを守る為にかかる労力と、充分に見合う見返りだ。
自分を慈しむ事を惜しまない、眼差し。たおやかに撫でてくれる指先。心の全てを貰えないけれど、マナはそれ以外の何だって、ジュニアに与える事を惜しまないでくれる。
…………生きて欲しいと、祈ってくれる。
だから、何があってもマナを守ろう。そうして、マナの元に帰るのだ。この笑顔がまた自分を映し、綺麗に咲くように。
それをくれるなら、あの気持ち悪いAKUMAとの鬼ごっこだって、いくらでもやる。必ず逃げ切って、またマナを迎えに行くのだ。絶対に、心配するような時間をかけないで。
「それくらい全然平気。それに、マナが囮になったら、捕まるじゃんか。その代わりマナも早く覚えてくれれば、交代っこに出来るさ?」
守らせて。その為の理由なら、いくらでも考えるから。マナに守られるのではなくて、自分に頼って欲しいのだ。
マナはどこか、自身を軽んずる。きっと、自分が身代わりになる為に、こんな事を言い出したのだ。
二人逃げて、AKUMAに追いつかれて。そうして、どちらもが犠牲になるくらいなら、マナはその身を呈してきっと自分を守ろうとする。
二人生き残る事が出来ない状況なら、たとえ自身の方が生き残る可能性の高い状況でも、マナは自分を守る為に手を伸ばしてくれるだろう。
そんな危険を犯させるつもりなどないのだ。先手を打てるところでは打って、彼が危険な真似をしないでいいように、守れるように、自分に出来る事を。
己の身を守る以外に使う事も無かった頭脳だけれど、マナを守る為に使えるなら、どれだけ嬉しいだろう。
「…………………なんか、丸め込まれている気がしますよ?」
拗ねたような声がそう呟いて、困ったようにジュニアを見上げた。
初めて名乗り合ったあの時を思い出す。大人以上の知識を身につけ、それらを活用出来るこの子供の、周囲の人間を操ろうとしてしまう、手管。
………己の優位を知っているからこそのその発露は、決して貶める気のない無邪気なものだけれど。
その眼差しの意味を読み取って、ジュニアは苦笑する。………マナは、本当にささいな事に気付いてしまう人だ。物凄く鈍感かと思えば、誰もが見過ごすような事を見つめ、掬い取ってしまう。
それはとても優しく包むものだけれど、きっと、それが故に彼は傷付く事も多いだろう。人は、どこにだって醜さを持ち、エゴで物事を決定する生き物だから。
「うん♪丸め込まれて?で、悪いな〜って思うなら、もっとマナの事教えて。何でもいいさ、マナの声、聞きたい」
小賢しい子供である自覚くらい、ある。それをマナに知られている事だって、解っている。
でもマナの事を知りたいのも、本当だ。何もかもが混ざり合ってしまう。いつだって、明快にただひとつの事しか無かった自分の中、今は複雑に入り組んで自分でも戸惑う程だ。
初めてマナを見つけたあの時と、今の自分では違う。………絶対に違うのだ、と。祈りをこめてマナに、戯けた声と裏腹の真っ直ぐな眼差しを捧げた。
見遣った眼差しの先、不思議そうに惚けたマナの瞳が還される。それが彼が受け止めている証に思えて、笑うジュニアのその瞳は柔らかく煌めいて、抱き締めてと祈るように揺れた。
やわらかなやわらかな、いとけない笑み。それを見つめ、マナはふうわりと微笑み、窘めるようにジュニアの額を突ついた。
「こら、調子に乗るのはいけませんよ?まったく、君達はそういうところ、本当に子供のままですね」
あなたが大切なのだ、と。捧げる思いをきちんと拾ってくれたマナは苦笑して、小さく小さく、話し始める。
…………ついさっき少しだけ綴った情報を、なぞるように形作って明確に。それでも地理も時代も口にしない。
なかなかマナは優秀な人だ。意識した途端、ボロを出す事が無くなる。
やはりもっと内側に入り込んで、心を明け渡している時に誘導しなくては、彼に繋がる情報にはなり得ないらしい。それもまた仕方がない、と。温かな声に目を細めた。
マナの肩に頭を乗せて、疲れた振りをして目蓋を落とす。
眠りなど訪れないこの世界で、それでもマナの声は心地良く響く子守唄のようだ。
優しく包む、不思議な声音。
……………もっと沢山、その音が響けばいい。
喜びに満ちて笑みに象られ、そうして祝福とともに喜色を飾って。
自分の傍で、花開け。
そのたおやかな笑みが、ずっとずっと咲き続ければいい。
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…………いや、解っていたのですがね。どんどんジュニア×マナになっていくな(遠い目)どのみちラビアレだからいいのだけど(苦笑)
ジュニアには、今のラビが出来ない事を沢山して欲しいのです。
守るっていう事がどういう事か。ちゃんと考えて、選んでもらう為に。
………………ラビ、ま〜だ色々うだうだしそうですからね、現実世界で。
本職の方でちょっと頑張って頭冷やしてくれるといいです!(笑)
10.11.28