走り続ける二つの足音。
次第に静かになっていくその音は、ゆっくりと歩くものに変わり、弾んだ呼気を整えるように呼吸する音が混じり始めた。
「なんだ、か、早くなって、ませんか?」
途切れ途切れのマナの声に、周囲への警戒を怠らぬまま、ジュニアは常の呑気な声で答えた。
「んー、そうさね。時間間隔短いかな。4時間から3時間、みたいに」
ざっと脳裏で時間を計算してみる。初め、自分がここで目覚めた時は、感覚的には5時間を切る程度で、あのAKUMAは現れた。
一定の距離さえ稼げば消える、不可解なAKUMA。自分がこの世界に陥った原因を考えるなら、AKUMAは銃弾を持っている筈なのに、それは一度も飛散した事が無かった。
そして、何よりも奇妙な事には、あのAKUMAは走らないのだ。追いかける癖に、いつも悠々と歩いている。
それでも、この世界に人は増えない。必ず、あのAKUMAに捕まり、食われている筈だ。
その理由を考え、ジュニアは眉を顰めた。
「もしかして、段々、早くなるんですか、ね?」
聡いマナは、何も言わなくてもすぐにそこに辿り着いてしまう。隠しようも無い事なのだから、それもまた仕方がないのかもしれない。
大分整い始めたマナの呼吸に、ジュニアは改めて周囲の気配を感知する。鋭敏な感覚の中、マナ以外の気配は触れない。
それならばそろそろ休憩する場所を定めて休ませようと、ジュニアは辿るべき洞窟内の道を想起する。
「解んねぇけど、有り得るかな。………でもさ、もっと気になる事、あるさ」
濁すでも隠すでもなくそう答え、ジュニアは顰めた顔をちらりとマナに向けた。
仮定は、仮定に過ぎず、それを証明するには、検証が必要だ。そうして初めて、その仮定は事実として認定される。
けれど、この世界での仮定は、1つとして検証する事が許されない。
だからこそ、見え隠れする事実を何一つ逃す事なく拾い、情報から事実により近い理論を構築しなくてはいけない。
それが、この優しい人を守り生かす、唯一の手段な筈だ。
「なんですか?」
不思議そうなマナの声が、少しだけ固い。きっと自分の瞳が険しいのだ。
そう思いながらも、弾き出された結論に、どうしたって眼差しは険しくなる。あまり、楽観視出来ないのが現状だ。
「…………距離が、近くなっているん」
呟いた声は、重い。子供のあどけない音色がそんなにも固く響くのかと驚く程、ジュニアの声はマナの耳に凍って届いた。
意味を理解しようとして、愕然とする。それは、とても危険な兆候だ。
「え………?」
聞き間違いである事を祈るように、掠れた声が零れる。それに苦笑しながら、ジュニアは細いマナの右手を掴んだ指先に力を込めて、安心させるように笑った。
この結論は危険しか見えない事だ。解っている。けれど、そうだとすれば、ジュニアにはマナを守りきる事が出来ない。絶対的に、不可能だ。
どうすれば彼を、イノセンスを持つエクソシストが現れるまで……あるいは、このAKUMAが破壊されるまで、守る事が出来るのだろうか。
難しい問題だ。時間制限のある中で、いつ現れるか解らない奇跡を望むように、可能性が低い祈りだ。
それでも今この時を不安に染める事を厭い、ジュニアは少しだけ戯けた目に変えて、低くなりがちな、気持ちに引き摺られる声を修正する。
「今までは姿を確認出来るように広い場所にいたから、結構AKUMAも遠くで見つけられたさ。でも、さっきは随分近かった」
気付いた?と明るく言う声と眼差しに、マナは少し戸惑うように視線を揺らす。
………マナはすぐに気付いてしまう。本当の笑顔と、嘘の笑顔。もっとも、今この時に浮かべる笑顔など、嘘くさくて当然なのだから、彼が戸惑うのは当然なのだけれど。
「時間も距離も短くなってる?」
揺れる眼差しと呟きに、ジュニアは頷いた。……マナの不安がこの世界の事実ではなく、自分の態度に対してである事が解って、困ったように笑ったまま。
「あるいは、それがここの特徴なのかも?時間経過とともに、間隔が短くなる」
考えてみれば、だからこそのAKUMAの態度なのかもしれない。いずれは必ず捕まる獲物だ。それを慌てて追いかける意味などない。ゆっくりと、少しずつ疲れさせ恐怖を与え、絶望に陥った中、喰らうのか。
………だからこそ、自分が見てきた人間は、誰も彼も怯え恐れ余裕をなくして縮こまっていたのか。
解ったところでなんの対策も出来ないが、厄介な世界である事はやはり確かだ。
ジュニアの言葉に目を丸めたマナは、今度こそ叫ぶように声をあげた。
「なら、最終的には捕まるじゃないですか!」
とんでもない話だと言わんばかりのマナの声に、思わず苦笑が零れてしまう。どうも二人一緒にいると呑気で、駆ける時間さえなければ、ただの探検のような気分にもなる。
けれどここは、特殊で不可解な、AKUMAの作り上げた世界だ。肉体の制限のない、魂だけの世界。
それはどこまでも作り手に都合よく出来上がっている箱庭に過ぎない筈だ。
「だってここ、AKUMAにとったらエサ場だろ?いや、冷蔵庫かな?食いたい時に開けて食う場所?」
きょとんとした可愛らしい顔で茶化して答えてみれば、マナは顔を引き攣らせたあと、真剣な眼差しでジュニアを睨んだ。
どうしたのだろうと見遣ってみれば、手袋に覆われたマナの左手が、頬に触れる。
…………それが、少しだけ震えているような気がするのは、自惚れだろうか。
「怖い喩えですよ、それ?!食べられちゃ、駄目ですからね?!」
睨む眼差しは、微かに揺れている。睨んでいる癖に、その身に纏う気配の柔らかさに、目眩がしそうだ。
想像、したのだろうか。一人ここに残される、その現実を。
まだ確定していないから告げはしないけれど、もしもこの仮定がこの先も正しく続くなら、AKUMAがより早く間近に迫るのは、自分だ。マナよりも二日、早くこの世界にいるのだから。
言わなくても勘づいてしまったのだろうか。優しい彼は、優しいからこそ、ひどく周囲にかかる危険に敏感だ。
そうして、同じ程に、自分自身に対して、無頓着なのだけれど。
「…………マナ、こういう時は普通、食べられたくないって言うもんさ」
ジュニアの心配ばかりで、自分自身の事を忘れてしまう、優しいマナ。自分への傷を厭わないのは嫌だけれど、彼の優しさは、それを知らないジュニアにはひどく心地良く響いて溶ける。
無償、なんて。見た事がないから。…………マナのそれは、見返りを期待もしていない程当然のように差し出されるから、それだけは少し、寂しいけれど。
それでも、そっと頬に触れる手に右手を添えて、嬉しそうにジュニアは告げた。
守ろうと、思えば思った分、マナもまた、自分を守る意志を差し出すのだ。こんな風に、同じ情を捧げ合うのは初めてで、不思議に心地いい。
「僕は、平気です。でも、ジュニアは後継者でしょう?ちゃんと自分の身を真っ先に守って下さいね?」
それでも彼は、自分の全てはその身のみで処理しようとしてしまう。
信用をしないのでは、なく。言うなれば、彼の事情に巻き込まない為、なのだろうけれど。
問うたところで答えてはくれないだろう。マナは自身の身にある、自分達記録者が記載しなくてはいけない事実を、ひとつとして自分には零さない。
そうする事で判明するであろう何かを、彼は自身に許さない。
互いの生きる時代を、あるいは、彼という存在に繋がる何かを、おそらくは孕んだ情報。
それは多分、彼がずっと隠している奇形の左腕に集約されているのだろうけれど。
頬に触れるぬくもりは、温かいのだ。それを暴く事は、きっと容易い。マナは、自分自身の事に無頓着だから、力で訴えれば、簡単に隙を突く事が出来るだろう。
それでも、しない。………出来ない。怖かった。その左腕を捻り上げた時の、あの悲鳴じみた声が。気配が。泣き濡れた雰囲気が。
彼が許してくれないのなら、何一つきっと、自分は彼の秘密を暴けない。
……………心というものに住まわせる事は、なんて制約が多く面倒臭く、そうして、愛しくて仕方のない思いを溢れさせるのだろう。
知る事で奪えるなら、いくらでも手段など選ばずに手にするのに。
それでは無意味なのだと、教えるでもなく与える彼は、どれ程尊いのか、ジュニアには解らない。
だから、守りたいと思ったのだ。初めは頼ってくれる事が気持ちよくて楽しくて。………いつの間にか、マナという存在が傍らにいる事が嬉しくて愛しくて。
変化の意味など解らないけれど、この腕で守ってみたい。その笑顔がまた俯き隠される事がないように、ずっと。
「ん〜どうしようかな♪」
からかうように歌う声で答えてみれば、案の定マナは眉を怒らせたように吊り上げる。叱りつけるような、その眼差しが楽しい。
まるで当たり前の子供のようにこの身を心配してくれる心が、嬉しい。
だから、亡くしたくない、なんて。当たり前過ぎる帰着だ。その為にはどうするべきか、考えるのも当然の事だ。
考えるのはいつだって自分の仕事だ。まさかそれが、誰か一人を存在させる為に行使されるなんて思いもしなかったけれど、それでもいいと思う。
この世界は、薄暗く寂しく凍えていて、マナの持つ灯火がなければ、果ててしまう。
「ジュニアっ!」
咎める声さえ、慈しみの音。生きてと、願ってくれる優しい音。
…………ただそこに、一緒にという願いが欠如している事だけが、寂しかった。
「マナが、ちゃんと自分の事守るなら、それでいいさ。でも俺の事守ろうとすんなら、俺もマナの事守るよん♪」
クスクスと楽しげに告げてみれば、怒るような顔が、驚くようなそれに取って代わられた。
大きな瞳が一杯まで見開かれていて、それだけで彼がそんな事を考えもしなかった事が解ってしまう。
マナは優しくて温かい人だ。………でも、同じくらい、悲しくて寂しい事を教える。
彼が教えてくれた言葉を考えるなら、彼はきっと、この先自分達記録者との距離をきちんと計って接するだろう。彼は、傷つける事を厭う人だから。
…………自分の存在が他者を痛めるなら、消し去ってしまえる人だ。そうする事で残された人が辛いのだと、思えない程己の価値を知らず、信じられない孤独な人。
愛された筈なのに、失ってばかりで。きっと、どうしようもないその全てを、己の責と背負ってしまったのだ。
それだけは、聡い彼の、間違った選択だ。
だから知って、と。自分が願うのはおかしいだろうか。
教えられたから、与えられたから、同じように返そうと思うのは…………傲慢か。解らないけれど、ジュニアはその腕をマナに差し出した。
頬に触れるマナの左手を包むように、自身の右手を重ねた。その奇形を象るのではなく、包みたいのだと、願うように。
「………ジュニア、あなたは自分の立場を解っているんですか」
重なった手のひらに微かに眉を顰め、ジュニアの言葉の意味を探るようにマナの声が響いた。
厭うのではなく、警戒している。彼の世界の後継者は、何かしたのだろうか。己の身を守らず彼を守るという言葉に、彼は随分と苛立たしげな気配を醸した。
何か伝わりきっていない。捧げたい思いと、受け取られた思いの差に、少しだけ寂しくジュニアが笑んだ。
垂れ下がった左目が、なお寂しく垂れて、眉もそれに寄り添ってしまう。
「え〜?だってマナが言ったさ。フェアじゃないって。だから、同じに、平等に。守るなら、守るよ。でも、自分の事大切にするなら、俺もするさ」
伝わって、と。願った声は随分子供じみていた。自身の年齢を考えれば当然だけれど、出来る事ならもっとずっと大人らしく、雄々しく響いて欲しいのに。
じっと見つめる銀灰に映る自分の顔が、情けなくて笑えてしまう。
それでも譲らない言葉と手のひらに、マナは一度ゆっくりと目蓋を落とした。
手袋の中、左手が蠢く。多分、力が籠められた。引き攣るようなその動きに、目だけを己の死角となっている右半身に向けた。
マナは何か言おうとしたように見えた。でも、その唇は何かを象る前に引き結ばれてしまう。
伝わらなかったのだろうか。何か、不快にさせる事を言っただろうか。………それとも、こんな情けない子供に頼る謂れはないと、怒っただろうか。
解らなくて、不安になる。こんな事、今まで無かったのに。
いつだって、相手の思考は簡単に読み取れて、それを操作する事だって、もう慣れた手管だったのに。
マナ相手では、どれもこれも上手くいかない。ただ、彼に自分自身を大事にして欲しい、それだけなのに。
「…………………………」
無言のまま、ゆっくりと現れた満月。自分を見上げる、マナの瞳。
…………透き通るまま、全てを見透かされている気がした。
それを真っ向から受け止めて、情けない事を承知の顔で、首を傾げた。伝わって、と。願いながら、そっと囁きかける。
「ね?これは俺のが正しいっしょ?」
マナが願うものと同じ筈だ、と。震える事だけは押さえ込んで声で告げてみれば、深く深くマナは息を吐き出した。
………やはり、駄目なのだろうか。子供の声では、伝わらないのか。
思い、押し潰されそうな胸が、ひどく痛んで鼓動が早まった。
「ジュニア、なんか……………ずるい、です」
ぽつりと、マナが呟いた。
唐突なその音色は、けれど決して嫌悪に染まってはいなかった。むしろそれは、どこか柔らかく甘く、いとけない響き。
少しだけ拗ねたような、そんな素直な音色に驚いて、ジュニアは素っ頓狂な声を出してしまった。
「へぁ?なんでさぁ」
瞬いた瞳の先、少しだけ唇を尖らせたマナが、そっぽを向くようにして小さく答えた。
もしかしたら、それは…………照れて、いるのだろうか。
「なんか……本当に僕より年上みたいで、ずるいですよ。僕の方がずっと大人なのに」
頬が膨らんで見える。その幼い仕草が、自分と同じ程の年齢の姿故ではなく、彼自身の中から零れるものならば、きっと彼はそんなに自分と年齢が違わない。
きっと、どんなに年長であっても18歳を超える事はないだろう。もしかしたら数歳の差かもしれない。
ワクワクと、考え始める。マナの本当の姿。現実の世界で生きている、マナを。
どの時代か、自分を軸に過去か未来か。あるいは、同一の世界か。時間軸がずれたこの世界は、過去と未来がごちゃ混ぜだ。もしも可能性を広げてもいいというのならば、彼の生きている時間は、自分の生きている時間とはずれていて、重ね合わせてみれば実は同い年、なんて。
…………あまりに都合の良過ぎる夢想だろうか。
思い、むくれたように照れた己を隠しているマナの頬を、突っつくように辿った。
「そうだけどさー。でも、マナが教えてくれたんだよ。だから、マナのが先生」
こんな風に誰かを慮る、なんて。今までの自分は知らなかった。
教わらなかった事は何も記録していない。まるで機械じみた感性だったと思い知る。
…………ずっと、辛くて。叫び声もあげられないでいたから。それらを受け流す為に凍てつかせた部分が、確かにあるのだ。
それをマナは、まるで抱き締めてあたためる親鳥のように、孵化を促し包んでくれる。
キョトンとした瞳が瞬いて、ジュニアはそれに苦笑した。子供に頬を辿られても鬱陶しい顔もせず、好きにさせて。好き勝手な事を言われても偉そうな態度をとられても、怒りもしないのだ。
きっとマナは知らない。マナの持つ、資質。………人の心を溶かし穏やかさを思い出させる、傷の中の煌めきに目を向けられる、感性。
それがどれほど尊いものか、まるで気付かないマナは、首を傾げてジュニアを見上げ、頬を撫でる幼い指先を手にとって苦笑した。
「そうなんですか?なんか頼りない先生ですね、僕」
この小さな手のひらすら守れるか解らない、そんな弱々しい存在だ。そうぼやくように呟く声は、少しだけ寂しそうだ。
「いいんさ。マナはマナだから。それだけで、十分頼りさ」
ただマナとしてそこに居る、それだけでこんなにも自分は変わったのだから。それ以上を望むなんて、罰当たりだ。
それ以外望まないから、マナが傍にいればいい。
…………この世界が終わっても、なおその先でマナが続けば、それがいい。この傍らにいてくれれば、何よりも最良だけれど。
「??よく解らないですけど?」
「解んなくてもいいの。……っと、マナ、あっち、見える?」
クスクスと含み笑うように茶目っ気を乗せた隻眼が笑んだ。その眼差しが、何かを見つけて好奇心に煌めくのを、マナは眺めながらジュニアの告げた指先の方向を見遣った。
のんびりと歩みながらのやりとりだったけれど、途中途中止まったり歩いたりと、マナの呼吸にあわせていた。そうして漸く目的物が見つかったかのように、ジュニアの声も弾み、笑みも無邪気に輝いた。
何かと思った視界の先には、ここと同じ洞窟の道の先、明らかに地面が無くなっている。崖か……裂け目か。解らないけれど、対岸にも同じような洞窟の出入り口が見て取れた。
「なんか、裂けてますね、洞窟が」
この洞窟がどれだけ大きいのか謎だが、どうやら同じ程の広さがあちらにもあるらしい。
自然の地形ではない事を考えるならば、もしかしたらこちらとあちらは同じ作りで鏡写しとか、そんな存在なのだろうか。
………………こちら側だけでもすでに地図を作れない少年にとって、更なる広さは痛手だったけれど。
けれどそんな事には頓着しないジュニアは、楽しげに弾んだ声のまま、マナの手をとるとぎゅっと握り締めた。
まるでどこかに誘うようなその手の動きに、マナはきょとんとその手を見つめる。
「あの辺り、調度時間軸狂ってんさ。俺、一回あの辺歩いたけど、でっかくなった!」
ぴょこんと背伸びをするようにしてそれを表すジュニアを微笑ましそうに見つめたあと、マナはその視線を少しだけ険しくして洞窟の先を見つめる。
薄暗い、洞窟の先。ぽっかりとした闇色の亀裂。………それが、果たして吉と出るか凶と出るか、少年には判断がつかなかった。
「へぇ……じゃあ、未来の時間軸なんですね」
小さく呟き、考える。それはどれくらいの未来なのか。どうやって姿が変わるのか。変わる事で、この左腕のイノセンスは、自分に応えてくれるのか。左目は………AKUMAの魂を見つめる事が出来るのか。
全てが解らない、けれど。そこに行けばきっと、少しだけ答えが解る筈だった。
「ちょっと行ってみる?楽しいよ。あの辺り一体、河原みたいに地続きになってるし、広いん。休憩もしやすいさ」
一心に洞窟の先を見つめるマナの様子に、興味を持った事を知ったジュニアがワクワクと問い掛けた。
頷いてくれれば、マナの情報がまた一つ手に入る。未来の姿。………もしかしたら、マナにとっては過去かもしれないけれど、それを記録出来る。
自分よりも年上である事以外、何も解らないのだ。外貌とて、骨組みからの想像は出来るけれど、それは完璧ではない。
彼の年齢により近い、姿を。それを知れるだけで、随分彼を探し出す為の条件が変わる。
誘う声に頷くだろうか。それとも、自分の意図に気づいて首を振るだろうか。ドキドキと高鳴る胸の鼓動は、随分と陳腐でおかしかった。
「…………いえ、僕は、遠慮します」
小さく、マナが首を振る。けれどその眼差しは少しだけ険しく洞窟の先を見つめたままだ。
決して自分の魂胆を見抜いて告げた言葉ではないらしく、繋いだ手は解かれず、むしろぎゅっと握り締められた。
それに勇気づけられるように、落胆しそうな自分を叱咤し、出来るだけなんて事はなさそうに、ジュニアはもう一度誘いを掛けてみる。
「なんで?別にマナ、俺より年上だし、ちょっと大きくなっても平気っしょ?」
見た事のない未来が怖いとか、そんな理由はない筈だ。彼にとってみれば、今の幼い姿の方が余程違和感があるだろう。
むしろより現実世界に近い時間軸に近づくなら、彼にとって精神的に負担が少ない筈だ。それなのに、何故首を振るのか、ジュニアには解らなかった。
「………………あの、笑わない、ですか?」
「?うん」
微かに……マナの声が震えた気がして、ジュニアは眉を顰めそうになる。
けれどそれがマナの言葉を途切れさせる気がして、いつもと変わらない呑気な笑顔を浮かべて、マナの右手を握る手に、そっと自分の右手も重ね、言葉を後押しするよう包んだ。
「僕、この姿から何年かしたら……凄く、醜くなるんです。今も、そうですけど。でも、出来れば……見られたくありません」
「マナ、綺麗さ?」
驚き、目を瞬かせて告げる。
マナは心も、それに染まった姿も、全部綺麗だ。少なくともそれをジュニアは知っている。だからこそ、マナを自分の傍に引き寄せたいと、そう願うのだから当然だ。
けれどマナはその言葉に困ったように笑むだけで、寂しげだ。決して心には届いていない、そんな打ち沈む物憂げな気配。
…………マナの言葉が、ジュニアを躱す為のものではなく、彼自身にとっての事実なのだと、思い知らせる寂しい音色。
「ありがとう。でもね、本当に、醜いんですよ。握手も嫌がられたくらいですから」
「えー?!それはそいつが失礼さ!マナが醜い筈ないじゃん!」
今度こそ驚きに声をあげて否定した。マナに手を差し伸べられて拒否をするなんて、ジュニアには信じられない事だ。
差し出されたなら、ジュニアは喜んで握り締めるだろう。抱き寄せていいというなら、この短い腕で精一杯、腕の中に守って抱き締める。
それがどんな存在かと問われれば、きっと、この守り石を捧げるべき相手の事なのだろうけれど。
「………でも、本当なんです。だから、あの、そちらには行きたくないんです。ごめんなさい」
躊躇いながら、それでも必死になって、マナは首を振って項垂れる。きっと、本当に嫌なのだ。その姿を見られる事が。
隠して、生きているのだろうか。こんなにも綺麗な瞳を、誰も覗かずにいるのだろうか。そんな世界、鮮やかさの欠片もないに決っているのに。
なんて勿体無い世界だろうと、嘆かずにはいられない程だ。
「んん〜??うー、まあいいけど。でもさ、マナ、本当にマナ、綺麗さ?嘘じゃないし、お世辞じゃないん」
そんな風に自分の前で項垂れて欲しくなくて、ジュニアはマナの手を強く握り締める。
醜い筈がないのだ、マナが。こんなにも触れていて心地いい心が、ぬくもりが、醜いなら、世界など疾うに滅んでもおかしくない澱みの底の泥だろう。
「?男の僕に綺麗は、不思議ですよ?」
必死の声にマナは首を傾げ、小さく笑んで顔を上げた。
まだ遠慮がちな、小さな笑み。…………もっと鮮やかに、心から笑ってくれればいいのに。
そんな風に、安心させる為に笑うのではなく、喜びに満ちてくれればいいのに。
「うん。そう思う。けど、それが一番ぴったりなん」
それでもマナは綺麗なのだと、心から思う。その唇の綴る音色すら、美しく澄んで響くのだ。
けれど、それはどう言い募ろうとマナが苦しいだけなら、もう触れるべきではないのだろう。寂しい笑みが湖水に沈む前に、ジュニアは切り替えるように笑みを深め、マナの手を引き寄せると、一歩前に進んだ。
「じゃあほら、あっち行こう。もう少し開けてるさ。そこで休んでよ」
「はい。ありがとう、ジュニア」
優しい子供は、自分達にとって条件のいい休憩場所は諦めて、そっと手を引き先を促してくれる。
醜いのだといったのに。それでも、まるでそれを気にしないように、ジュニアは不思議そうに否定する。まるで本当に自分の存在が美しいような錯覚さえ受ける程、純粋な音色で。
そんな自惚れを小さく吐き出した吐息で霧散させながら、少しだけ寂しい笑みを浮かべてマナはジュニアの後を追う。
未来の時間軸。その場所だけは、忘れないようにしっかりと目に焼き付けた。
そこに行けばきっと、戦える。イノセンスも発動するだろう。何年先だろうか。もっと聞けばよかったかも知れない。
けれど、突っ込んで聞いてしまえば、年上の自分がそこに行き、その姿で推し量る方がいいと言われるに決っている。
この子供は知りたがりの好奇心の塊だ。きっと、教えてもらえる事があれば、欠かさずそれを欲しがるだろう。
与えられない、けれど。守ろう、必ず。あの場所にAKUMAを誘導出来れば、ジュニアを危険に近づかせる事なく、全てが終わってくれる筈だ。
もしもジュニアのいう通り、時間経過とともにAKUMAの出現の時間と距離が縮まるなら、急がないといけない。
自分よりも二日早くにこの世界に来ているジュニアの傍に、AKUMAが近づいている事になるのだから。
優しく右手を引いてくれる、幼い手のひら。
知りたがりの質問魔の癖に、決して左腕の事を尋ねない、優しさ。
必死になって守ろうと、自分を丸め込んででも守ろうと、その手法を模索してくれる眼差し。
例え幼くても、やはり彼は彼のままで。
…………………ぬくもりが、悲しいくらい、温かかった。
前 次
少しずつ、時間は削られていきます。
この仮初めの世界でなくても、必ず。
それは絶対的な事実で、確定された理で、どうしようもない現実なのですが。
それでも。足掻いて、突き進んで、掴めるものもある筈だと、思うのです。
過酷な条件の中でも諦めないで進む先を見据える強さが、きっとアレンの魅力なのでしょうけれど。
その傍らに人がいる事も許してくれるなら。………自分自身に許せるようになるならなおいいと思いますよ。
彼自身の為にも、周囲の人達にとっても、きっと。
10.12.2