……………誰かが、泣いていた。
   静かなさざ波のように、微かな音色を零し、泣いていた。
   寂しいと泣く声。悲しいと泣く心。知っている、幼い寂寞に少年の胸が痛む。
   泣かないでと、小さく告げてみれば、隻眼の子供が顔を歪めて更に泣いた。どうして泣いているのか、解らない。解らないけれど、彼が泣いている事は悲しかった。
   目を瞬かせて、ぼんやりと彼の名を呼んだ。彼に教えられた、彼を呼ぶ為の、仮名称を。
   「ジュニ、ア……?」
   どうして泣くのと、問うように名を呼べば、胸元の熱が消えた。
   それが痛みの遠因だったのか、あるいはなくなった事こそが因だったのか。微かな肌寒さが少年の肩を震わせた。
   その震えに驚いたのか、離れた体温が再び近づき、気遣うように顔を覗き込む。
   「マナ、目、覚めた?右手、簡単に止血したけど、どう?」
   少しだけ躊躇いがちに、ジュニアが掠れた声で問いかけた。それだけで、解る。………泣いていたのは、この子供だ。
   何が悲しかったのだろう。ひどく打ち沈み、聞く者の心までも同じ色に染めそうな、嘆きの旋律。幼い純正の音色が、耳から離れなかった。
   その頭を撫でようと伸ばしかけた右手が、突然痛みに引き攣った。驚き、少年が見つめた先には、上手に腕の怪我を覆いながらも、動きを邪魔しない赤く染まったマフラーがあった。
   そこで漸く、ジュニアの言葉を認識した。彼が問い掛けたものは、これだ。もう既に真っ白だった筈の彼のマフラーの面影はないけれど、右腕はそれによって支えられていた。
   ひどい傷……だった筈だ。AKUMAの拳は、まるで釣り針のように節々が尖っていた。殴られるだけで死に至りゆくのが容易に想像が出来る、拳だった。
   幼い子供の魂を糧に生まれたAKUMAは、まるでそれと同じように無邪気に血を滴らせる遊びに熱中していた。………考え、なかなか際どいところにいたのかも知れない自分に、溜め息が出そうだった。
   もっと上手に彼を守る筈だったのに、上手くいかない。予想よりも幼かった肉体は、AKUMAを救う事すら出来なかった。
   見下ろしたマフラーに包まれた右手は、ひどく細く小さい。随分と幼い頃になっているらしい。それに卑屈に沈みそうな思考を、微かに飲み込んだ呼気で押し止めた。
   この身体では戦えない。それどころか、今まで以上に足手纏いだ。その事実に、少年の顔が顰められかけ………ギリギリのところで、それを飲み込み、小さな笑みに変えた。
   「これ、ジュニアが?」
   首を傾げて問いかければ、子供は頷いた。今までのように得意気に話さないのは、きっとその声が掠れた泣き声だからだろう。
   彼は幼いながらに、なかなか矜持が高かった。
   解っているからこそ、その点は何も言わず、少年は己の右腕の様子を見つめた。指先は、動く。神経に傷は至っていないようだ。その代わり、動かすだけで脳髄にまで響く痛みが襲う。
   おそらく、歩くだけでもかなり体力を消耗するだろう事が予想出来た。
   それを噛み締め、少年は如何にそれを押さえ込み先に進めるか、計算した。ジュニアに気付かれずに、どこまで可能だろうか。それはひどく難しく、不可能に程近い計算式だったけれど。
   考え、この子供の優しさこそが、隠し通せない理由である事を祝すように、少年は今も無言で自分の様子を観察している子供を見遣った。
   「………凄いですね、ジュニア。マフラーで?」
   感嘆の溜め息を落とし、しげしげと少年は己の右腕を見つめた。ジュニアはずっと、白いマフラーを首に巻いていた。それを、使ってくれたのだろう。
   彼の首元を彩っていた白は、今はその色を垣間見せるだけの、赤い汚い布切れのように見えて、少しだけそれが悲しい。………自分が触れたものは、全てがこうして穢れ朽ちていく気がして。
   耳の奥、泣き声が谺する。寂しいと泣く声、悲しいと叫ぶ心。それを噛み締め、何も言わずに自分を見つめる子供に、少年は遣る瀬無くただ、微笑んだ。
   それを見つめ、ジュニアは顔を顰める。………マナがマフラーを血で駄目にした事を申し訳なく思っている事を、垂れた眉が教えるけれど、そんな事、気にしなくていいのに。
   彼が今気にすべきは、もっと別の事だ。
   「……こんくらいどって事ないっしょ。それより、どういう事さ」
   「?」
   響く幼く低い声音に、マナは不思議そうに目を瞬かせた。
   伝わらない事がもどかしい。この状況の中、怒りが発露する理由など、そう多くはない筈なのに。
   それでもマナは気づかない。戦い傷つく事に疑念の余地を抱かない。まるで、その為の命であるかのように。
   「なんでマナが戦うの!」
   そんな物思いを否定したくて、ジュニアは叫ぶようにその声をぶつけた。
   武器はないといったのに。AKUMA相手ではイノセンス以外では何の効力もないのだ。
   それでも戦うと言うなら、それはただの犬死にだ。何も得る事もなく、守る事もない。ただ無駄に命を落とすだけの、無意味な死。
   そんなものに彩られる気だったのかと、詰る声で叫べば、マナは目を瞬かせた。
   それを、ジュニアは顔を顰めて眺めた。………何故今、そんな表情を彼がするのか、どうしても繋がらなかった。どうしてだと問うにも、解らなくて言葉が紡げない。
   「……………すみません。なんかまだ、修行したての頃だったみたいで」
   見つめるジュニアの視線の先、苦笑して、マナが呟いた。バツが悪そうな声は、屈託がない。
   嘘でも躱しているのでもなく、事実として告げている音。それはどこまでもただ、そうであるという以上の意味のない、音色だった。
   「へ?」
   意味が解らず、間抜けな音を零せば、マナは悔しそうに天井を睨んだ。幼い顔に似合わない、戦士の眼差しで。
   噛み締められた、唇。握り締められた拳。………傷が開くと、ジュニアはそっとその右手に籠められた力を逸らさせるように撫でた。
   それすら痛かったのか、反射反応のようにマナの右手は跳ね、そうして困ったようにジュニアを見遣るマナの眉が、申し訳なさそうに垂れた。
   「もうあと数年先なら、ちゃんと戦えて……」
   「違うし!俺が言いたいんは、一人で傷つかないでって事だし?!」
   どこまでも噛み合ないままの言葉に、ぷつりとジュニアの中で何かがキレた。
   マナは、解らないのだ。知らないのだ。こんなにも人を慈しむ癖に、自分自身の価値を最低限にしか換算出来ない。
   きっと、彼の中、この世の中でもっとも価値なき存在として、己がいる。そんな、卑屈な過小評価。
   こうして怒鳴る自分の事さえ、きっと解らない。
   どうしてと、傾げられたマナの首の細さに目が眩む。その首が項垂れ動かなくなると思うだけで、こんなにも怖いのに。
   ……………それを守れる最後の砦である筈のマナ自身が、守る意識を放棄してしまう。
   その罪深さを、マナは知らないのだ。それが故に悲しむ自分を、気づきもしないのだ。
   こんなにも、傷つける事を厭う癖に。もっとも人が悲しみ傷付く行為を、マナは目隠ししたまま知らずに敢行している。
   「え………?」
   戸惑う声と、惑う眼差し。言葉が繋がらない。互いの糸を辿り、紡げない。
   「こんな怪我して、嘘吐くなっての。自分の方に誘導、したっしょ?」
   気付いて、と。願うように差し出す縦糸。マナの綴る横糸が添えられなければ、この言葉の錦は仕上がらない。
   奏でて。………マナの心で、紡いで。願うように、ジュニアはマナを睨んだ。
   「………はい。ごめんなさい」
   小さな返事に項垂れた首。それは、迷惑を掛けたという以上の意識のない、申し訳なさに染まった仕草。
   歯痒くて、ジュニアはマナの手を握り締める。手袋に覆われたままの、無傷の左手。……痛ましい右手は、ただそっと重ねるだけにしようとした筈なのに、つい力が籠ってしまった。
   「マナが痛い思いすんの、嫌なん」
   握り締めた指先。マナは、答えない。俯いたままの赤い髪の先、見えるのは微かに戸惑う眉の歪み。幾度か開閉したらしい唇は、けれど気配だけで音を紡ぎはしなかった。
   届いて。……届いて、と。精一杯の祈りを乗せて、ジュニアは言葉を探す。何を言えば、マナに届くのか。そんな事すら、解らない自分に笑いが込み上げそうだ。
   彼に、初めて会った時に、言った癖に。知識は沢山持っていると、自負していたのに。
   …………たったひとつ、傷付く事を厭わないマナの心に願う言葉が、解らなかった。
   「俺も………痛くなるん。なんか変だよな、俺」
   微かにマナの眉が寄る。きっと、握った右手が痛いのだ。そんなささやかな事ですら、痛くて声が震えそうだ。
   横たわったままのマナを見た時の衝撃など、もう思い出したくもない。いっそ消去したい程、それは恐ろしかった。
   マナを失うなんて、あってはいけないと思う。そう思う事がおかしくとも、己に嘘など吐きようもない。目隠ししても、消える筈がないのだ。
   だから気付いて。マナの目を覆う、見えないベール。取り払う資格があるかなど知らないけれど、捧げさせて。
   …………悲しいと、苦しいと、痛いと、告げる事が許されるのかすら、解らないけれど。
   項垂れそうな心持ちを、必死に奮い立たせて告げる言葉は、稚拙だ。理論の構築など欠片もない、ただの、感情論だ。
   それでも、その厭うべき幼さを晒しても、何かを告げたかった。言いたかった。知って、欲しかった。
   それはきっと、ただの我が侭だ。彼に望んでばかりいずに与えようと思ったばかりなのに、それでもどうしたって自分は、マナに何かを求めてしまう。幼さなど言い訳にも出来ない、強欲さ。
   「って、マナ?!な、なんで泣くんさ!」
   肩を萎めてしまいそうな物思いから、なんとかマナへの祈りを願おうとした唇は、見遣った光景に呆気にとられて紡ぐ筈だった言葉を忘れる。
   真っ白な幼い頬を彩る、綺麗な水滴。不思議そうに見つめる銀灰色の眼差しが、揺れる事もなく捧げられていた。
   それは悲しみに染まってはおらず、さりとて、喜色に塗れているわけでもなかった。
   ただ零れる涙に、呆気にとられたようにマナは頬を辿り、塗れた感触に目を瞬かせた。その拍子に、また水滴が頬を流れた。
   「あ…れ?す、すみません。なんか、………驚いて」
   「何が?怒ったん、嫌だった?」
   自分がこんな風に彼の事を思うのは、いけない事なのだろうか。解らない。こんな感情、マナ以外に感じた事がない。教えられた事も、ない。知らないモノは分類が出来ない。
   ………どうしたならこれをラベルづけしてカテゴリーへ分けられるのか、それすら解らなかった。
   唯一それを問える人に告げる言葉は、自分自身が痛くて震えてしまう。自分こそが泣き出しそうなその音色に、ぎゅっと唇を噛み締めた。
   「……俺が痛いの、やっぱ駄目?」
   問う声は、情けない程幼かった。震えなかったのは、せめてもの見栄だ。
   こんな傷だらけのマナに、まだ多くのものを求める自分が、情けない。与える術が解らない自分の不明さが、情けない。
   拒まれる怯えに、握り締めていた指先が逃げるように離れていく。振り払われる事を恐れるような、そんな仕草。
   ………打ち拉がれるように項垂れる幼い子供の声に、少年は自身の頬を濡らす涙に驚いた顔を、微笑むものに変え、そっと、子供の赤い髪を撫でた。………微かに冷たく思うのは、彼が悲しんでいると思うせいだろうか。
   触れる事を拒む理由などないと、教えるように撫でた指先は、微かに跳ねた彼の身体の怯えを教えてくれた。
   「そうですね。……悲しいと、思いますよ」
   掠れそうな声をなんとか紡ぎ出した少年は、捧げる言葉を悩む。
   与えたいものは、沢山あった。この幼い子供が、この先の未来を歩む時に開花させて欲しい、祈り。
   けれどそれらの全ては、あまりに自分が与えるにはエゴに凝り固まりそうで怖かった。………このまっさらなままの子供を、自分の望みに彩らせそうで、告げる言葉は自然、弱々しくなる。
   「ジュニアが痛いように、僕も君が傷つくのは痛いから」
   それでも、彼の勘違いだけは正さなくては、と。告げたなら苦い思いを、少年は唇に乗せた。
   彼が痛めば、自分も痛い。悲しければ、悲しい。当たり前だ。心を差し出すように、思っていた。人は共感する生き物だ。誰かを思う事は、誰かの思いと溶ける事だ。
   痛みも悲しみも、分かち合えるなら乗り越えられる。そうでなければ進む足を鈍らせ蹲る事になる。人は、そんな不器用で弱々しい、生き物なのだ。
   だから、彼の痛みを知りたかった。代われるなど思ってはいないけれど、共に分かち合い乗り越えて、別れるその時には喜びと祝福で笑んで互いの背を支えられればと、思っていた。
   それは、今はもう、遠い過去のような、そんな儚い祈りだったけれど。
   この子供に、同じ思いを捧げる事が正しいか、解らない。解らないけれど、彼が思う痛みが間違いではなく、厭われるものでもないのだと、それだけは教えたかった。
   誰かを思う事を忌避する事なく、愛しまれて、愛する事を恐れずに、生きて欲しかった。
   告げた言葉に、ジュニアは目を瞬かせた。大きな隻眼は少しだけ水の膜に揺れている。それを柔らかく細めた眼差しで見つめ、頬を撫でるように辿る。
   その右手を隻眼が追った。白いマフラーを赤く染めた右腕は痛々しい。けれど、随分とその指先は、思った以上にずっと、滑らかに動いていた。
   「同じ…なん?俺が、変じゃなくて?」
   確認したマナの動作範囲にホッと息を吐きながら、惑う声でジュニアは問い掛ける。
   解らない事は聞かなければ解答が得られない。得た後ならば、そこからその先を構築出来る。それでも、この分野の情報は欠片程も自分の中、構築されてはおらず、全てをマナに頼らなければ成り立たない。
   それはひどくもどかしく歯痒いけれど、まるでマナで満たされゆくような、不可解な充足感に眉を顰めた。
   …………自分こそが、マナを満たしたい筈なのに。まだ幼い自分はどこまでもマナへと寄りかかってしまう。それが、悔しいと思う。そう思うのはきっと、マナを守る力がない事と、同義だからだ。
   「大切な人が傷つけば痛いものですよ。だから、ごめんなさい、ジュニア」
   優しく微笑む人。同じ程に幼い身体に容姿の癖に、彼が年上であると如実に知らしめる。その仕草、表情、与えてくれる情。
   それらを守りたいと思いながら、守る術もなく守られているのは、自分だ。
   謝るべきだというならば、きっとそれは自分自身なのに。何故かマナは泣きそうな瞳で、謝罪を口にした。
   戸惑い、頬を包むまま動かなくなったマナの右手をそっと包む。これ以上傷つけないように、握り締める事なく柔らかく重ねるだけの幼い指先。
   ………その温かさは、きっとどちらもが感じる、同じ優しさ。
   「僕はどうも鈍くて、前にも仲間に叩かれて気づいたんですよね」
   噛み締めるように、マナは呟いた。悔恨………だろうか。否、それはあるいは、憧憬に程近いかも知れない。
   そうした思いを捧げる事の出来る、その仲間への、憧れのような敬意。
   「勝手に傷つく真似をして、ごめんなさい。怖かったですよね」
   項垂れ、悔やむように絞り出された声が紡ぐ言葉に、ジュニアは目を瞬かせる。
   彼の言葉は、いつも難解だ。当たり前の音で作り上げられている筈なのに、その根底に潜むものは、ジュニアの知らないものでばかり構築されている。
   マナの言葉を、辿る。一音一音、その抑揚すら正確に再現して、脳裏で谺した。リフレインの先、取り零すようにジュニアがその単語を落とす。
   「怖、い?」
   呟きが肌に触れ耳を打った時、漸くそれがしっくりと馴染んだ。
   腹が立ったのも、悲しかったのも、痛かったのも、それだ。襲いくる恐怖だ。感覚的なそのイメージを、ジュニアは確定した。
   マナが傷付く事が怖いから、足が縺れ、息が上がり、普段の半分も頭が回らなかった。守りたいのに守れない恐怖に、気が狂う程恐れた。それだ、きっと。マナと関わる中、自分を自分として確立出来なくさせる要因。
   それは、あるいは厭うべきものかも知れない。プラスへと導く事なく、自分は全てをマイナスに招き寄せ、横たわるマナにただ泣いて縋っただけだった。
   それを、厳然と受け止める。事実を記銘し、忘れぬ教訓として、刻んだ。
   「………うん、怖かった。マナがいないの、嫌なん」
   守りたいと思った。与えたいと思った。その人が血に塗れ横たわった時、恐れによって動けなくなるなど、もう二度とないように、覚悟を定めるように口にする。
   それは、告げる必要のない、誓いだ。祈りだ。
   解っていて、それでもジュニアは口にした。自分の世界にはいないこの人を、少しでも繋ぎ止め、彼を守る為に出来る事を模索する為に。
   「ジュニア?」
   「手、離すの怖かったん。ずっと繋いでいられるくらい守れないんが、嫌だった」
   戸惑うマナの声。躊躇いがちな疑問の音色に、それでもジュニアは答えずに、独白じみた言葉を続けた。
   「嫌なの、変だけど。俺、ブックマンなのに。マナが一緒がいいよ」
   呟きは、祈りだ。ただこの人と繋がりたかった。欠片程の絆でもいい。自分の世界に彼がいなくても、それを糧に進める、彼と繋がれる何かを。
   何にも属さず心を置かず、ただ独り輪から外れ歴史を綴る、その後継者なのに。
   それでも、この人と一緒がよかった。この不可解な心の揺れも恐怖も痛みも、全部構わない。マナがくれるものなら、マナが抱えているものなら、美しく世界を彩る錦と成して自分が記録する全てを鮮やかにする筈だ。
   手のひらの下、頬の上、マナの右手が躊躇うように揺れる。離れるべきか、振り払うべきか、悩むような仕草だ。
   「ジュニア………」
   名を囁く声は、寂しさに染まっている。それが悲しくて、ジュニアは殊更明るい笑顔を浮かべると、自分からマナの手を離した。
   「ごめんな、変な事言って」
   マナの言葉が綴られるより早く、ジュニアは少し早口でそういった。
   まだ早かった。きっと、我が侭な子供の身勝手さに、マナは戸惑っただろう。呆れただろう。……あるいは、これ以上近づいてはいけないと、自分達ブックマンの性情を鑑みて、離れてしまうだろうか。
   それは耐えられない。何一つ糧とすべきものもないのに、知ってしまったこの甘やかなあたたかさを失えるわけがない。
   離れてしまうくらいなら、戯けて躱してしまった方がいい。そうすれば、優しいマナは躊躇いながらでも幼い自分の傍にいてくれる。
   「え?」
   瞬く銀灰の瞳。………映る自分の姿を見ないように、少しだけ俯いて視線を外し、ジュニアは歌うように綺麗な抑揚で言葉を綴った。
   「マナが倒れてるの見て、うん、怖かったから。俺………変みたい。忘れて?」
   頭を掻いて、自分の失敗を笑うように戯けて。そうして、何もなかったと終わらせて欲しい。
   そうすれば、変わらない。………矛盾だ。変わりたいと、マナとの繋がりを得たいと必死になったり、それらが瓦解するくらいなら何も変化させずに今を維持したいと思ったり、ひとつとして一貫性がない。
   それでもその時その時、選ぶ全ては本気だ。ただ……どうしようもない程、その存在が消える事が許せない。
   ……………この世界の中だけでも、傍らにいて欲しい。戻った現実世界でも、手に入れたいけれど。
   欲は破滅を呼ぶ。そうした姿を、いくらでも見てきた。想起する事でさえ吐き気を催す、そんな醜悪さ。
   綺麗なマナは、そんなものを嫌うだろう。厭われるくらいなら………隠し通す。
   もっと、別の方法を、こんな乱れた思考で導かれる解答ではない、きちんとした構築式の結果を、ちゃんと差し出した方がいい。
   そう、思ったのに。マナは首を傾げるようにして自分の右手を見つめた後、笑んだ。
   「嫌です」
   キッパリと、短い否定の言葉。
   微笑みは優しくたおやかな癖に、その中に滲む音の強固なまでの頑固さに、ジュニアは目を瞬かせた。
   「……………へ?マナ?」
   「僕なら、忘れて欲しくないですから。大切な人がいなくなる事がどれだけ悲しいか、僕は知っていますよ」
   ぎゅっと、握り締められた右手。マナの世界、マナは痛みを味わった。………離れる事しか与えず、身勝手な独占欲だけ残して、消えた後継者。
   ………マナは、知っているのか。この痛みも、恐れも、それが故に付き纏う身勝手な思考も。
   解らない、けれど。マナの唇にたたえられる微笑みの透き通る寂しさが、胸に痛かった。きっと、それは同じ痛みなのだろうと、思う。
   目を見開いて、マナを見つめた。これは、夢だろうか。否、この世界自体が夢物語なのだろうか。疾うに自分はAKUMAに殺されて、都合のいい夢を綴っているのではないだろうか。
   マナが笑う。優しく、銀灰色の満月が細められて、柔和に自分を映す。
   「だから、忘れません。君が、怖がってくれたこと。僕が僕を生かすために、忘れません」
   静かな音色が言い切る誓い。………自分の誓いに比べて、なんて堂々とした芯の通った音だろう。
   その魂が覚悟を決めて捧げられる音色の、なんと美しく響く事だろう。
   …………こんな浅ましい自分の祈りすら、彼は浄化し抱き締めてくれる。ウロウロと惑い歩むばかりの幼い歩みを、辛抱強く見つめて、その真意を咀嚼し、与えるべきか否かを、きっとずっと彼は考えて…………与えて、くれた言葉。
   自分の存在が彼を生かす為の布石になれる、そんな幻惑的な赦しの音。
   「マナ………」
   声が、震えた。これは………喜び、だろうか。
   打ち震える心が何に帰属するものか、解らない。ただ、全身で叫びたいくらい、心が溢れた。
   「身勝手でごめんなさい。でも、忘れたくないんです、ジュニア」
   躊躇うような小さな気配。それでも、きちんと彼は音を綴ってくれる。そうして……その責はまるで自身にのみ還るのだというように、いつだって己の願いに変換して、与えてくれる。
   ……………それを、分かち合えれば、いいのに。
   「うん……忘れんで」
   泣きそうな思いで、ジュニアは腕を伸ばした。普段よりも短い腕と指。丸いばかりで機能性のない、幼い手のひら。
   それを、精一杯の思いでマナに伸ばし、同じ程に小さく、自分以上に細い肩を抱き締めた。
   「俺、マナが大事だよ。マナの世界の後継者に負けないくらい、大好き」
   言葉の無意味さを、実感する。この溢れる祈りを音にするなんて、不可能だ。幾億の人の名を覚えその人生を綴る事になろうと、決して人を支配出来ないのだと思い知る。
   …………記録は、ただの記録だ。心までもを表すものではなく、そうして人は……心によって存在し、行動する生き物だ。
   それならばきっと、今まで記録した全てすら、ただの文字の羅列に過ぎなかった。その中にある人の記憶、感情、意志。何も汲み取らなかった、浅はかな自分。
   これで博識など、師に鼻で笑われるのも当然だ。
   思い、抱き締める腕に力を込める。………あの老人も、自分を失えば涙するのだろうか。
   マナが言っていたように、与えられる全ての源を見つめれば、変わるだろうか。あの汚濁に塗れた世界の中、花開くものを映せるだろうか。この、盲目のように暗い隻眼で。
   こんな奇跡のような出会いがなければ、ずっと変わらなかった筈の自分だ。きっと、この先だって間違え澱んでしまう。
   「だから、忘れないで。俺、探すよ」
   マナがマナを生かす為に自分の言葉を刻むように。………自分は、世界を愛でる為に彼を刻みたい。
   この優しい人が愛した全てを、自分が慈しみで包めるなんて、思わないけれど。それでも、変わりゆく未来の中、ひとつでも鮮やかに歴史を記録し後の世界に伝えたい。
   こんなにも美しかったのだと、見詰める心ひとつで愛おしめるのだと、綴る歴史を紐解く全てが心奮わせ争いを止められる、そんな世界を記録したい。
   …………優しい人が、涙する事なく生きられる、ように。
   「マナの事、未来でも過去でも。絶対見つける」
   きっとずっと彼は泣いている。蹲って泣く幼いその心を、彼のひたむきな強さが覆い隠して、誰も救えない。
   それでも自分は知っている。その脆さも、危うさも。この腕で守れるかなんて、解らないけれど。自分の傍ら、存在してくれれば同じものを見つめて世界を廻れる。
   きっと鮮やかに、彼は世界を愛してその地に芽吹く花を植えるだろう。それを記録し、他へと返し、また植えられる希望の種を思えば、心弾む世界が描かれる。
   ……………マナがいれば、きっと、どんな事とて怖くなどない。
   「そしたら、まだマナが一人だったら」
   震える細い肩。自分の言葉は届いているだろうか。………悲しみを与えたいのではなく、喜びを分かち合いたいのだと、伝わるだろうか。
   この先の未来、出会えるかすら解らない自分達。それでも、掴んでみせるから。
   「一緒に、生きようよ」
   そうしたらきっと、マナの笑顔を咲かせられるから、と。
いとけない祈りの声を、紡いだ。
 その祈りに、満月からまた、雫が落ちた。
   戦慄きそうな唇を、少年は微笑みに変えて。
ただ静かに、返せない返事に悲しく笑んで、子供の背中を抱き締めた。
 ……………紡げない祈りは、同じなのに。
    
  
 ようやくジュニアは、一方だけの押し付ける情では、縁を紡げない事を自覚しました。ラビはしてないけどね(待て)
   というか、現実のラビが告白する前に、ジュニアがしていますしね。流石ジュニア。今後どんどん口説いていきそうで怖い(笑)
   そういえば。この間ふと思ったのですが、私の書くキャラはなかなか好きとか言葉にしませんが。アレ誕小説の現代パロのラビが、もしかして初めてアレンに好きって言ったんじゃ…………?(除くジュニア)
   あれだけ態度あからさまでも言葉にしないんだから、そりゃアレンも鈍くなっていく筈ですね!自業自得だよ、ラビ!!
取り合えず、今回で佳境は越えた…かな。上手くいけばあと4話くらいでアレンが現実に戻れる……筈?多分??明言は避けます。既に初期の予定の倍くらい書いていますからね…………!
10.12.17