あんな笑顔で口吻けられたのでは、抵抗も叱る声も吐き出せない。
 計算などしていないだろう天然で、タイミングよく奪われた頬の熱を、少年は持て余し気味に右手で覆った。
 ……………が、いつまでもそれを気にしている風に思われても、それはそれで微妙過ぎる。今はそうした事にかまける以上に、気に掛けなくてはいけない事が山のようにあるのだ。
 そう己を叱咤激励し、少年はなんとかポーカーフェイスを取り戻し、そっと話題をすり替えるように、ジュニアに問い掛けた。
 「そういえば…僕、どれくらい気を失っていたんですか?」
 「ん?………ああ、まあそんな長くはないけど、マナが平気なら、さっきまでいた洞窟に戻った方が良さそうさ」
 「?ここは駄目ですか?」
 「ん〜、なんかこの割れ目付近、時間軸がグチャグチャなんさ。ほらあっち、俺あそこの辺から下りて来たけど、今までで最高の高さまで身長があったから、結構未来な感じ?」
 そして逆に今いるこの底の部分は、今までで最低の年齢まで下がった。少年がいた対岸は、その間。どこもかしこも一定ではなく、距離もいまいち把握出来ない。
 これでは逃げる為の目算が難しい。一定の走る速度と距離を元に計算をする事が出来ないのだから、当然だ。常に変動する数値では、逃げ切る事がいつかは出来なくなってしまう。
 「バラバラ……ですか」
 「そ。だから、上のあの洞窟の中のが、逃げ切るのは計算しやすいかなって感じ」
 だから戻りたいのだという、その声の中の遠慮に、マナは苦笑してしまう。
 ジュニアの指差す先、横穴のような道がある。きっとそこから上へと行けるのだ。けれどきっと、そこもまた、この付近同様に時間軸が狂っているだろうと、ジュニアは仄めかした。
 …………通らなくてはいけないのだ。未来の時間軸の中を、彼とともに。それを好まない事を彼は知っていて、だからこその承諾の言葉を求めている。
 そんなこと、気にせずに押し進めてしまえばいいのに。
 命がかかっているのだ。ささやかな拒否など無視するのが当たり前だ。それに不満や抵抗を示す方がおかしい。
 それでも、出来る限り厭う言葉も意識も感じたくはないというその気遣いが、どこまでも彼らし過ぎて困ってしまう。
 我が侭を言えば、確かに通りたくない。けれど、それを敢行する事など出来ない。
 「なら、行くしかない……ですよね」
 「うん。………やっぱり嫌?」
 不安そうなジュニアの眼差しにマナは微笑みかけ、首を振った。
 「いえ……あの、でも、出来れば………後ろは振り返らないで下さい。洞窟に辿り着くまで。お願いできますか?」
 「うん?いいさ、それくらい。………なんか、東の国の神話みたいな事言うの、マナ」
 頷いたマナにジュニアはホッとしたように笑い、ぎゅっとその左手を握り締めた。固くて奇妙な凸凹を教えるけれど、マナの手だ。そんなもの何も気にならない。
 「東の国、の?」
 不思議そうな音色でマナが問い掛ける。彼はそんなに沢山の質問をする事はなかったのに、珍しい。………もしかしたら、不安で沈黙を嫌っているのかも知れない。
 そう思いながら、ジュニアは一生懸命明るい声を繕って、前を歩き始めながらその説明をし始めた。
 「そ♪そこの神話でさ、その国を作った神様の奥さんが死んじゃって、でも神様はそれが許せなくて追いかけて、連れ戻しちゃおうとするんだ」
 「え、無茶な事しますね」
 まるでAKUMAを作り出すような真似をする。古今東西問う事なく、死者は生き返らない。生き返るならばそれは、別物だ。
 ………………起こった悲劇を覆す事は不可能なのだ。そこから再びまた別のものを構築していく以外、道はない。過去にあったモノを同じように挿げ替える事は、許されない。
 悲しくとも、それが現実であり、生きる上で誰もが味わいそして誰の身にもいつかは訪れる、絶対的な法則だ。
 きっとこの神話は、悲しい話だ。そう思いながら、彼の師である老人が自分に語って聞かせた事のない話の多くは、きっとこうした悲しみや理不尽を思わせるものなのだろうと、気付く。
 それらを聞く事を厭いはしないけれど、どうしても染まる哀愁の念に、老人が語る話の全てが優しく労り深いものに変わったのを、今更ながらに理解する。
 きっとあの老人は、この子供以上にそうした話を知っているだろうに、その中から少年の祈りに沿うものを選び、語ってくれていた。
 そんな老人への感謝を青年に言えば、むくれたような顔でそんな優しい人じゃないと言っていたけれど、いつだってその目は嬉しそうに輝いていた。己の師が認められ賞賛される事を、喜んでいた。
 じっと、ジュニアの背中を見つめる。握り締められた左手が、少しずつ感覚を取り戻していく。同じように、彼の背中も段々と大きく広くなる。
 ……………懐かしい、優しく不器用な、青年の背中。
 「本当な。俺も聞いた時は笑っちゃったけど。で、その死の国で奥さん見つけて、連れて帰ろうとしたらさ、奥さんに言われんの。外に出るまで決して後ろを振り返らないで。私の姿を見ないでって」
 明るい声が低くなっていく。深みを増した、青年の声。涙が出そうなくらい、優しく響く声が、懐かしい。
 握り締められた左手があたたかかった。語る抑揚は少しだけ青年と違うけれど、とてもよく似ている。この先ジュニアが8年を過ごせば、きっと彼と同じ抑揚に変わり、語る声もまた、その魂が滲むようにたおやかに広がり包むものになるのだろう。
 「……………まんま僕ですね、本当に」
 泣き出す事を堪えるように、少年が苦笑した声で答えた。本当は、声も出すべきではないと解っている。これもまた、情報の一部だ。
 …………それでも声を出さなければ、代わりに涙が溢れそうだった。
 「あはは、そう思う?でもこれ、アンハッピーエンドさ。だからマナとは違うよ」
 「そう、なんですか?」
 思った通り幸せなラストはないらしい。それでもそれが自分とは違うというジュニアの言葉がよく解らず、不思議そうに問い返した。………声が、微かに震えた気がして、内心焦ってしまう。
 「その神様さ、結局振り返っちゃったんさ。そしたらさ、奥さんもう腐ってきちゃってて醜くなってて、神様怖くなって逃げちゃうの」
 「はぁ?!何女性にそんな失礼な真似しているんですか、その神様!」
 「でさ、怒った奥さんが死者の兵隊引き連れてその神様追い掛けんだけど、神様無事に逃げ切って、死の国に繋がる洞窟を大岩で蓋して、もうどっちの世界からも行き来出来ないようにしちゃいましたって話なん」
 ひどいだろうと、ジュニアが苦笑する。その声の響きが、酷く青年に似ていた。
 聞きながら、少しだけ切なくなる。確かにそれは、自分によく似ている。死ではなく分たれて、そうしてまるで追いかけるかのように出会えた、この過去の青年。
 もしも彼が振り返り、今の自分を見たらどうだろう。
 …………色素が消えた老人じみた白い髪。左頬に走る醜い呪いの痕。動くようになったこの左腕はそれでも変わらず赤く爛れたようにイノセンスに冒され、見るものの顔を顰めさせる。
 きっと、彼も逃げ出すだろう。その方がいいと、自分も思う。幼い頃の自分を愛しんでくれた子供も、いつかはきっと、この手を離すから。
 唯一お話と違うのは、きっと自分は追いかけない。それだけだ。
 逃れてくれるなら、それでいい。自分になど捕われず、禁を犯さず、己の歩むべきを歩み、誇りながら進んでくれれば、それでいい。
 闇の中であろうと、常夜の世界であろうと、自分もまた、自分の歩みを怠らず進むから。
 「…………なんですか、その話。身勝手な男の話じゃないですか」
 小さくそう呟いてみる。自分らしい解答だろうと思いながら、それでも責める事なく告げられたか、少しだけ自信がない。ただ無感情に響いてくれれば、それでよかった。
 呟きに、明る声が思いの外真剣に返された。
 「そうさ〜。だからマナは平気」
 力を込めて、ジュニアがもう一度繰り返した。
 何がだろうと、少年は首を傾げる。振り返る事のない青年の背中は、それでも一心に背後の気配に気を配っていて、自分を気に掛けてくれている事が解る。
 「僕、ですか?」
 「だって、マナの事迎えに行くのは俺だもん。俺はマナが腐ってきてても気にしないし♪」
 掠れるようなマナの声に、ジュニアははっきりと、決して霞む事なく届くように綴った。
 マナの心にまで、それが届けばいい。寂しい声が響かないように、包めればいい。愛しいと、伝えられればいい。
 …………子供の戯れ言ではなく、本当にこの心ごと捧げているのだと、気付いてくれるといい。
 祈るように綴った声に、マナが苦笑するような気配がした。
 「………いえ、そこは流石に気にして下さい」
 「マナ、つれない〜。それくらい、マナなら何でもいいって事なん!それに、俺はマナとの約束は守るし?」
 振り返らない、と。まず一番初めに交わしたその約束さえ守れば、そんな悲劇は起きなかった筈だ。それならば、そこを完遂すればいい。
 マナが嫌がるなら振り返らない。握り締めた手のひらの中、マナの手のひらの大きさも変化していくけれど。
 その姿を記録し、現実世界で探す為の情報として蓄積したいとも、思うけれど。
 そんな我が侭のせいで彼を傷つけ厭われるなんて、なんの意味も成さないと解っている。
 死んだものをわざわざ追いかけるなんて馬鹿な話だと、この神話を聞いた時に笑ったけれど。それでもその切実さを、今なら理解出来る。
 傍らにその存在がなくては息も出来ない、そんな命が確かに存在すると知ったから。
 ………もっとも、そうでありながらその手を自ら離し、繋がる絆を途切れさせた愚かな神の真似など、する気はないけれど。
 「だから、マナ。怖がらんでいいんさ」
 握り締めた手が、震えている。左腕はきっと、もうちゃんと彼の神経と繋がり動かせる筈だ。だから、これはきっと、彼の怯えだ。
 振り返られたら見られてしまうという、恐怖。きっと死の国から還る筈だった神の片割れも、恐れていたに違いない。
 こんな風に不安に染まる事なく、大丈夫と信じ切れる程の存在になれれば、いいのに。
 どれ程遠く離れても、過酷な状況になっても、互いの意志の元、決して裏切らずに繋がり合えると、揺らぐ事なく確信出来る、そんな存在に。
 ………なって、みせよう。彼を探し、その傍らに鎮座して。
 ぎゅっと、マナの手のひらを握り締める。背中に、小さく呼気を繰り返す音がする。歩く事が辛いのではなく、恐怖と戦っているが故の、精神的な過呼吸の波だ。
 大丈夫と、平気なのだと、幾度でも言おう。
 その呼気が優しく緩やかに当たり前に刻まれるまで、幾度でも……………

 漸く、あの崖の姿が見え始めてきた。
 ホッと息を吐きながら、ジュニアは道を考える。この先に数カ所横道がある筈だ。その中、どこが一番早くに洞窟に繋がるか。
 脳裏の地図を再構築し、道なりに2つ目を入り込もうと決める。そこならば折れ曲がりながら進む先、一番あの崖から遠く、洞窟内の広場に近い筈だ。
 そうして、少しでもマナを休ませないといけない。怪我をしただけでもかなり体力を消耗している筈だ。弱音など吐いてはくれないけれど、上がり始めた息の具合でそれは勘づいていた。
 「マナ、次の横道、右側のヤツ、入るさ。まだもうちょい歩くけど、平気?」
 「はい、だいじょう、ぶ、です」
 「ん。もうちょいだから、頑張って?そしたらちょっと休むさ」
 「平気、です、よ?」
 むくれたような反論の声に、ジュニアが笑う。声は崖の下に比べて幾分低くなっていて、今ジュニアが見る景色の高さと同様に、彼も年を重ねている事がよく解る。
 それを記録する。手のひらの大きさ、指の長さ、声の抑揚、高低、響き。全部、与えられた全てを記録する。
 マナを構築する全てを、余す事なく、全部。そうして、帰った現実世界で、必ず探し出すのだ。こんな不安だらけの探索の為に繋ぐ手ではなく、互いに寄り添い生きる為に、手を添え合えるように。
 美しい未来を思い描いた。このまま道を進んであの崖の岸に出てもいいけれど、やはり時間軸は一定していないならば、こちらが無難だろう。
 なかなか選択肢が多いようで少なく、マナを逃がしきる事を最優先で考えても、この怪我の状態を考えると厳しい計算問題だった。
 それでも解を出し切ってみせる。条件と状況、付加要素、組み込んだ構築式から導く解の、有用性。幾通りも浮かべては消去し、より率の高いものを選ぶ。
 そんな事を考えながら、ジュニアは横道の中、足を踏み込んだ。あともう少し、そうしたらマナを休ませてあげられる。
 ……………その瞬間、感じた。怖気のような、肌を不快感が這い上る、気配。
 「マ、ナ………!」
 「こちらを見ないで、走って!!!」
 悲鳴を上げかけた引き攣る声より早く、マナが叫んだ。それ以上に、振り払われた手に目を見開いてしまう。
 走る為だと解っていても、また彼がいなくなりそうで怖くて、目を瞑ったまま、振り返った。気配だけでもマナの腕を探れる。それを掴んで、走る。その方がきっと、マナも早く走れる筈だ。
 いた筈の場所、宙を腕が切った。…………マナが消えてしまう。トンと、耳に響いた地面を蹴る音。近づくのではなく、遠ざかった気配。
 「………マナ…………………っ!」
 叫び、遠ざかる気配を繋ぎ止めるように再び伸ばした腕に、布が触れる。それを掴み、引き寄せた。
 ………が、するりとそれは抵抗をなくし、重みもないまま腕の中に引き寄せられる。呆気にとられ、目を開けてしまった。
 約束、したのに。写し取った視野の先、赤く染まった白いマフラーが舞っていた。
 揺れる赤と白。その先に、見た事もない奇怪な鎧のような、AKUMAの姿。
 そうして翻る、黒いコートのような服。フードを被っていて、その姿は背格好が解る程度だ。マフラーの合間に見える、真っ白な腕。傷が赤く彩ったそれは、きっとマナの右手だ。
 その傷も癒える筈がなく、酷く痛む筈なのに、それでもAKUMAに立ち向かってしまうマナ。
 引き寄せて駆けなくては。もっと遠く、今のこの身体なら二人、走る事が出来る筈だ。
 思い身を乗り出すように体重移動をした瞬間、何かが忍び寄るように近づく音がした。と思うと、その何かに胸元を押された、らしい。視認し切れなかったけれど、感触からしてそうだった筈だ。
 驚いた視界で微かに捕らえたのは、白い包帯。………布、だろうか。
 倒れ込んでしまった、その数秒の間に、マナが履いている黒いブーツだけが、視界に残る。が、それも同時に地面を蹴って、消えてしまった。
 マナ、マナ、マナ、どうして。どうして手を離すのか。解らない。違う、離したのは、自分のせいだ。
 振り返った。目を開けた。写してはいけないものを写し取っただろうか。彼が醜いと言った全てを、自分の視界には映さずに済んだ筈だけれど。
 赤く染まったマフラーが地面に落ちて、倒れるマナのように蹲っている。赤かった白い肌、血がまた出始めた筈だ。あんな風に無茶に動かしていい筈がない。
 「……マナっ!!!!」
 叫んだ声に響く声がない。急いで立ち上がり、マナが消えた、今まで歩いていた道に足を向ける。
 彼がいないのに、自分一人逃げる意味がどこにあるというのか。
 ………彼を失えないと言っているのに、どうしてこうなるのか。
 違う、解っていた筈だ。自分の方が長くここにいる。その分、AKUMAは必ず自分の傍に来る。
 マナが自分に巻き込まれる事くらい、予測出来た筈だ。解っていて、それでも離れたくなくて気付かない振りをしていた。否、気付いていた。その癖、忘れた振りをしていた。
 ……………何よりも一番、自分が醜く身勝手だ。
 危険であろうと駆けるマナの足の方が余程、美しかろうに。己の身に変えても、ただ一つ守るもののを守る為、躊躇う事もなく戦える人だ。
 己の背負う全てに人を巻き込まず、慈しむ努力をする人だ。
 どこまでも自分は、彼に寄り添えない。この幼い腕は我が侭で利己的で、エゴでしか動けない。
 与えたいのに、守りたいのに、それなのに。

 横道の入口、腕を掛けて這い出た。
 見つめた先に写されたのは、風に翻る真っ白なコート。
 その影になり見え隠れする、同じ色の剣の柄。

 それを握り締める手袋に覆われたマナの手のひら。

 振り返った、マナの右頬。
 それは多分………笑む筈だった。

 それ、なのに。

 耳障りな声で笑うAKUMAの腕に抱かれ、見えなくなってしまう。

 

 

 

 

 ……………そうして、爆音が、響いた。

 








   


 漸く精神世界での話が終わる………!
 あとちょっとだけアレンサイドを書いて、この世界は終了。
 なので現実世界でつじつま合わせが始まります。あともう少し、お付き合いくださいませ。

11.1.1