ステップを踏むように、地面を蹴った。その足を追うように地面が抉れる。一撃、二撃………三撃目を左に躱し、少年は洞窟の壁を蹴るようにして跳躍する。
覚えている、このAKUMA。攻撃は意外に単調だった。そして何より特徴的だった、楽しげな遊ぶ子供のような仕草。
戦った。正確には、あの老人が。それなのに何故自分がここにいるのか。解らないけれど、出来る事からまずはやらなくてはいけない。
AKUMAよりも高くなった視界の先、見上げる無機質な眼差し。振りかざした退魔の剣を待つように、それは笑った。
………嬉しそうに、寂しそうに、幼い子供が待ちわびた親の帰還に泣き出すように。
抵抗もなく、AKUMAは少年の剣撃を、その身に受けた。
驚きに目を瞬かせる。もう少し、激しい戦闘を予想していた。それなのに、まるでこのAKUMAは自らその身を捧げるように無抵抗だ。
「君、は……………」
戸惑い囁く声に、AKUMAが笑う。否、魂が、笑ったのか。
ごめんなさい、と、ありがとう。どちらが響いたか、少年にも解らない。解らないけれど、その音色が肌に沁みた。
それはきっと、エクソシストであるが故でも、この呪いの左目故でもない。………この身に植えられたデータ故に、聞き取る事の出来た最期の声。
戦慄きそうな唇が、泣きたい気持ちを溢れさせる。結局、この身にある全てを手放す事は出来ないのだ。どれ程重荷でも、それらを抱えるが故に、自分はこうして自分の道を歩む確固たる覚悟を屹立出来る。
首を振り、溢れかけた涙を振り払う。背後で気配がする。…………やはりジュニアがやってきてしまったらしい。
もう大丈夫と、きっと還れるだろう現実世界を思い、振り返ろうとした。離れなくては危険だ。AKUMAは最後は爆発してしまう。巻き込まれない為、一緒に離れようと、声を掛けるつもりだった。その目を瞑ってと、願ったあとに。
………瞬間、AKUMAが嗤った。魂の醸したあの笑みではない、ダークマターによって作り上げられた、生粋の破壊兵器の笑み。
油断した。思い、舌打ちをしそうになる。たとえ魂がAKUMAの支配下から逃れられたとしても、それはきっと一瞬の事だ。
そうでなければ、今までこの精神世界で魂を貪られた犠牲者達がいる事の理由が成り立たない。
たとえ魂の世界であろうと、原料であり燃料であるしかない魂では、作り上げられたAKUMAに匹敵する事はないようだ。考えれば想像も出来ただろうに、守れたという安堵に気が緩んだ。
もう致命傷は与えられたAKUMAだ。あとは…………その身を塵に還すように、爆発するだけだ。
離れなくては。思ったと同時に、AKUMAの腕が伸びた。
ニタリと嗤うAKUMAが眼前に見えた。もがこうと力を込めた身体は、びくりともしない。唯一動くのはその腕に抱かれていない足と、自分の意志で動かせる神の道化だけだ。
…………逃げ切れない。ならばせめて、彼からは遠ざけなくてはいけない。
地面を蹴るのと同時にクラウンベルトでAKUMAを押し出した。あと少し、数歩後ろに行けば、あの崖がある広場だ。
洞窟内ではなく、せめてそこで。彼を巻き込む事なく終わらせる、それだけが今の自分に出来る全てだ。
彼の叫ぶ声が、聞こえた気がした。あるいは錯覚かも知れない。
何か伝えたかった。彼が悪いわけではなく、これは自分のエゴだ。手を離さないでと言われ、それに頷いたのに、戦う事を選んだのは、自分なのだから。
未来で会えるのだと。自分は死んではいないと、彼と………出会い、君を愛しく思うのだと。
この薄暗い洞窟の中、彼が与えてくれた数多くの言葉と同じように、与えたかった。
けれどそれはどうも、叶いそうもない。苦笑して、少年はなんとか洞窟からは出られた事に安堵の息を落とす。自分を包んだままのAKUMAの腕が痙攣するように震え、緩やかな光が溢れ出す。
もうすぐにでも爆発するだろうに、必死に魂がそれを阻んでいる。泣き出しそうな眼差しだけが、視認出来た。それに微笑み、少年はその腕を差し出す。
目の前の、哀れなAKUMAを抱き締める。きっとずっと、こうして貰いたかったのだろう。遊び相手が欲しくて、愛してくれる人が欲しくて。寂しくて悲しくて孤独で、自分の城を作り上げたのも、そんないとけない願いの具現だ。
それなら、最後ぐらい、一緒でもいい。
あの子供を巻き込まずにいられるなら、この身に背負う傷など、この魂が悲しむ程恐ろしい事ではないから。
退魔の剣が、少年の腕に爪として還ってくると、AKUMAは耐え切れなかったかのように、爆発した。
全てが暗転した意識は、その後の物語を知りはしなかったけれど………………
叫び声のような呼気が吐き出された。それは音にも出来ない程に引き攣れた悲嘆の響きだ。
驚き、間近に座っていた老人は子供の顔を覗き込む。冷や汗……否、脂汗か。熱もない癖に大粒の汗を額に浮かび上がらせた子供の喉が、血を吐くように何かを呼んだ。
「ジュニア、どうした」
掛ける声は無意味と知りながらも、老人はその肩を揺さぶり声を掛けた。おそらくはこれまで同様、無反応のままにまた呼気を戻し静かに眠る事だろう。
そう思った老人の腕の肩を揺さぶる腕を、幼い手のひらが掴んだ。
隈取りの奥、目を見開いて子供を見下ろせば、涙に濡れた顔のまま、目を開けていた。まだ覚醒しきれていないのか、呆然としたまま言葉も発さなかった。
室内は薄暗く、唯一の光源は背後の暖炉だけだが、その微かな闇の中でも自分達ならば難なく全てを見渡せる。眼光鋭く老人は子供を見遣った。
………少しやつれた、幼い頬。隻眼がキョロキョロと辺りを見回し、同時に絶望を映すように窓の外の空と同じ闇色を滲ませた。
「目が覚めたか。気分はどうだ」
「……………いない…」
「?ジュニア?」
「いない…いないんさ、どこ、ここ。なんでいないん…………?」
呟き、つるつると子供の頬を涙が滑り落ちる。赤子の頃ならばいざしらず、物心ついてからこの子供がこんなにも無防備に泣く事は今まで無かった。
有能であるが故に、結果をすぐに悟れる子供は、どちらかというと冷めていたし、世界を小馬鹿にもしている節があった。
それがこんなにもいとけに幼子のように泣くなど、有り得ない。
うわ言じみた言葉といい、おかしい。老人は焦りそうな内心を押さえ込み、そっと吐いた息一つで冷徹な記録の眼差しを取り戻しながら、子供を見遣った。
「誰が、いない」
慎重に、小さく問い掛ける。刺激とならぬように、けれど誘導出来るように、声のトーン、抑揚、肌に触れるその感触すら選び、虚空を見詰めただ涙を流す放心した子供に差し出した。
それに、揺れるように首が傾げられる。緩慢な動作のまま、小さな指先が喉元を探る。
赤く塗れたマフラーの中を潜り込み、選び出すようにして掴み寄せた、硬質な感触。それを、大切に撫でた、幼い指先。
「いない……いない?誰…………?でも、いない。いないん………っ」
無意識に探った守り石。幼い指先の中、まるで子供の声に共鳴するように、それは存在を知らしめるため、鈍く赤く光った。まるで、その身に取り込まれようとするかのような、瞬きだ。
それを視野に入れ、老人は顔を顰めるようにして目を細める。…………守り石の輝きが、今までとは違う。守り石は当人と両親の血を混ぜた、この世に唯一の色を持つ。同じにしか見えぬその色も、自分達一族の目からすれば、確かに違う輝きがある。
どういう事かと記録した途端、それは子供の涙に濡れ、その表面が溶けるようにそれを取り込み…………色を変えた。
「…………………!」
有り得ない、現象だ。守り石は溶けて消える性質を持ちはしても、他者を取り込む事はない。たとえ持ち主の一部であれ、取り込むなど有り得ない。
凝視した幼い指の中、守り石は静かに鎮座するだけだ。………その輝きが、従来の子供の持つものと同じに舞い戻っている事に気付き、老人は頭を悩ませる。
これは、異例なのか。AKUMAの特殊能力に触れたが故の、一時的な変化か。
解らない。要観察事項にそれを組み込み、老人は起き上がった子供の額に手を乗せる。
見上げる眼差しに生気がない。澱むように泣く瞳が、何かを枯渇するように求めている事は解るが、それが何かは解らない。おそらく、当人すらそれが解らないのだ。
子供の身体に熱はなく、見た限り怪我もない。突然赤く染まったマフラーには驚いたが、他の部分同様、危惧する程の傷は無かった。これならば、多少栄養が足りない程度で、十分活動可能領域にいる。
「ジュニア、何を見た。眠っている間の記録を話せ」
無機質な声が問う。情報は正確に語り継がなくてはいけない。それは過不足なく綴るブックマンとしての職務を全うする為に必要な能力だ。
繰り返し覚えさせるその仕草を今この時も発揮しろと、己の内部を整理させ冷静を思い出させる為に告げた老人に、子供は首を傾げた。
「…………キロ、ク?」
微かに、その眼差しに生気が戻る。辿々しい音色に力が籠り始めた。
それを確認し、老人は子供を見下ろす。顔色に変化はない、眼差しは揺れ、未だ老人と虚空のどちらもを捕らえるようにたゆたっている。
「そうだ。AKUMAに捕らえられている間、何があった」
もう一押しと、老人は淡々と問う声を繰り返した。耳慣れた音色だ。今現在この子供を現実に戻すならば、自分の声が一番馴染んでいる事を知っている。
与えてきた音色を辿りながら、老人は子供の様子を観察した。
「………………………ない」
呟きは、微かだった。呆然とした声とともに、子供は瞬きをする。
睫毛が上下するごとに、その眼差しがしっかりと力を持ち、周囲を認識し始めた。
「む?」
「覚えて、ない。あれ…………なんで、だ?おかしいさ、だって、なんかあった筈なんに」
先を催促する老人の音に、子供は頭を抱えながら悩み込む。何かあった、それがついさっきまで自分の中を支配し、知覚する全てを鈍らせていた。
それは、解る。解るのに、それがなんであったか、それだけが抜け落ちている。
ガシガシと乱暴に髪を掻き混ぜる幼い指の間から、守り石が揺れるように落ちた。まるで取り零した夢の中の記憶のように、するすると音もなく髪を辿り、元いた首元へ落ち着いた。
赤いマフラーの下、赤く鈍く守り石が揺れる。
「どこまでは覚えている」
その様の全てを記録しながら、老人が問う声に、子供はバツの悪い顔をしながら見上げ、言いごもりそうな声をなんとか押し出す。
「………逃げようとして、撃たれたとこ?」
つまり、初めからたった今まで、全てだ。意識失ったとしても、自分達ブックマン一族は音を拾い記録出来る。それすら、ないのだ。まったくの無。ここまで記録として存在しない時間があるなど、物心ついてから最高かも知れない。
何か探れないかと、子供は頭を振ってみるが、そんな事で記録は溢れる筈もない。
「そこから今までの全ての記録がない、と」
嘆息するように息を吐き出し、老人が呟く。
それに項垂れるように首を落とし、子供は小さく答えた。
「……………………うん、悪い、ジジイ。記録取り損ねたさ」
どんな状況であれ、記録を取る事こそが絶対だ。それにも関わらず、貴重であった筈の状況の記録を、欠片程も残さないなど、老人の後継者として恥ずべき事だ。
噛み締めた唇が見えない角度を計算して俯く子供の仕草を見詰め、老人はその額を軽く指先で弾き、いつもの飄々とした口調に戻すと、問答を終わりにした。
「元より期待はしておらん。それよりも動けるならその小汚い格好をなんとかせい」
「小汚いって………ヒデェさ!ついさっきまで寝てたんだから仕方ないし!」
弾かれた額を覆いながら、子供は少しだけ滲んだ涙を噛み締めるようにして老人を睨んだ。情けないし、腑甲斐無い。悔しいし、恥ずかしい。どれにも当て嵌り、どれでも足りない、感情だ。
ただの子供のように扱われる事が、一番慣れない。この老人の片腕として有用に使われてこそ、自分には価値があるのに、まるで何も知らない子供のような扱いを受けると、戸惑うばかりだ。
…………それが、心地いいのだと、一瞬でも思った自分が、不可解でならないくらい、慣れないのに。
微かに胸中で首を傾げながら、子供はそっぽを向いて老人にそれが悟られる事を避けた。拗ねた仕草でも、このよく解らない胸中を察されるよりは、マシだ。
それすら推察されているのだろう、呆れたように片目を眇めた老人は、軽く息を吐き出すのと一緒に、その息と同じ程に軽い声を落とす。
「それと、以前も言った筈だが、ログ地の言葉を話すな。常に標準語であれと教えた筈だ」
この子供は妙なところで幼さが強調される。子供の好むような韻の踏まれる抑揚を、妙に楽しんで唄を歌うように慣れ親しみ、時折それを落としては拳骨を喰らっていた。
ようやくそれを諳んじる事が無くなったと思えば、また舞い戻っている。それとも、記憶が混乱でもしているのか。
詳細は探らなくてはいけないかも知れない。そう考え、老人は目を瞬かせる子供を見遣った。
「へ?…………あ、れ………?なんで、また出るようになってんさ?」
「知るか。治せ」
どうやら無自覚の範疇らしい。これは昏睡状態の後遺症か、純粋に癖が戻っただけか。もう暫くは様子を見る必要があるのかもしれない。
思い、あっさりと切って捨てた言葉に、子供は顔を顰めた。
「…………………ヤダ。これじゃなきゃ、駄目なん。………ん?なんで、駄目なんだろ、ジジイ」
呟いた声は、先程起きたばかりの時のような、うわ言じみた響きがある。が、それは一瞬で、すぐに自身でその反響した音に顔を顰め、不可解そうに首を傾げている。
………無意識に、けれど意識が疼いているようだ。顰めた顔が、先程泣き出したように歪んでいる事を、きっと子供は気付いていない。
敢えてそれを突つく事もない。今は情緒不安定な事は確かだ。刺激せず、静観し、身体の方も癒したのち、探るべきだ。
「知らんわ!くだらん事を言っとらんで、治せ。それと服ももう血塗れだ。焼却処分しておけ」
何も気付かなかったように当たり前に言葉を繋げ、瞬き一つにすら思慮を滲ませず、老人は子供に指示を出し、その指先で暖炉を指差した。
室内は暖かい。燃える火は柔らかく光を灯していて、照明を落とした室内でも不自由なく全てを見渡せる程度の光源になっている。
それでもちらりと見遣った先の暖炉は眩しく、子供は一瞬目を瞑って瞬きの中で目を慣らした。その最中、触ったマフラーは、微かに湿っている気がして、驚いて首から外して観察する。
「ウゲ、ヒデェさ、このマフラー?!てかマフラーか、これ本当に??」
真っ赤に染まったマフラーは、もう既にもとの白い部分の方が少ない。ちょっとしたホラーの小道具になったそれを首から外すと、老人が視線だけでもう一度傍らの暖炉を教えた。
痕跡を残さずにいる、その為に捨てる全ては焼却処分だ。解っている。今までもその鉄則は守って来た。
こんな血塗れのマフラー使えるわけがない。解っているから、差し出した、暖炉の柵の前。
薄暗い室内の中、そこだけが光る、あたたかな場所。柔らかな火の揺らめきは、ホッとする程心地いい。それを見詰め、何故か胸が締め付けられる。
それが物理的な痛みかどうか、解らない。解らないけれど、微かに指先が震えた。その手に握り締めたマフラーが、揺れる。
赤いマフラー。白かった筈なのに、知らない間に真っ赤だ。微かな異臭は、それが汚れではなく確かに何かの血である事を子供に教える。………むしろ、老人に指摘されるまでその異臭に気付かなかった事の方が、異常だ。
考えながら、暖炉に焼(く)べる為、差し出したマフラーが揺れた。手を離さなくては危ないと解っているのに、震える指先は凍り付き、解こうとしても動かない。
火が、燃え移る。白かった筈の真っ赤なマフラーが燃え始める、その瞬間。
まるで何かがフラッシュバックするような衝撃に驚き、無意識に腕の中に抱き寄せていた。
「アッチィ………………?」
呆然と、そんな言葉を呟く。熱かったのは当然だ。火の中に手を入れて燃え始めた部分を覆ったのだから。きっと、火傷もした。
訳が解らない。昔のログ地の言葉だって、もう忘れていて、出てくる事だって無かった。
こんなマフラーだって、もう使えないのだからいらない。血に染まって気味が悪いだけなのに。
それでもこれが燃えて灰に変わると思ったなら、身体が震える。何かが確かにこの身を貫くように駆け抜けた。その衝撃だけは、解る。解るのに、解らない。何が自分の中、これほどまでに深く穿たれたのか。
「……………ジュニア?」
訝しそうな老人の声が背中に聞こえる。観察するその眼差しが背中を見つめていた。
それから隠すように、マフラーを抱き締めた。グルグルとする、脳の中。情報もない癖に、グチャグチャになる。
許容量オーバーになるにはささやか過ぎる情報源だというのに、吐き気がしそうなくらい目が回った。
心の中、ぽっかりと穴があいた、この空虚感。何かがないのだ。誰かがいないのだ。そう……いない、いないのだ。
………………この世界に自分一人舞い戻ったなら、もう彼はいない。いない。
訳も解らず思い至ったそのイコール関係に、目の前が真っ暗になった。闇の中でさえも夜目が効く筈の隻眼が、何も映さなかった。
「あ………あ、ああ…………っっっっっ!!!!!!」
引き攣るような悲鳴が幼い喉を裂いた。
身体が震える。何も解らない癖に、失った事だけ解る。自分の愚かさ故に、手放してしまった命がある。それを踏みにじり押し退け、自分がこうして生きている事だけ、解る。
嬉しかった、楽しかった、喜びに満ちていた。それを感覚だけで、理解する。こんなにも心が存在を主張するのだ。それらが紡ぐ先には、尊ぶべき美しい魂があった筈だ。
………………それなのに、そんな存在を自分は踏みにじり生きる事を選んだのか。
考え、吐き出しそうな何かを押さえ込むように、小さな手のひらで口を押さえた。そこから洩れたのは、嘆きに染まった慟哭の呼気。
溢れそうな涙を必死に飲み込んだ。こんなもの、老人に見せるわけにはいかない。どこまでも貪欲に、自分は生きる事にしがみついた、それを教えた人に、見せつけられない。選んだのは自分だ。怨嗟を師に向けるなど、愚かな事だと解っている。
それでも真っ赤なマフラーが喉を締め付ける。自分の身体がどこも痛まないのであれば、これはきっとその誰かの血だ。自分を生かす為に、踏みにじった人の欠片。
これを燃やすのか。薄汚いからと、罪の証から目を逸らすように、灰にするのか。
…………出来る筈がない。
「ジュニア、後遺症でも出たか」
気配もなく背後に老人が立っている。もう一度額にかさついた老人の手のひらが乗せられる。そうして、空いた手が火傷を負った指先を手繰り寄せた。
傷を、心配しているのか。呆然と、いたわりをもって触れるかさついた肌を見詰めた。何を切り捨てても生き残れと、冷徹なまでに言い切るこの腕が、それでもまるで守るように回される、この不可解さ。
この罪深い身体を癒そうとするのか。……………誰かが言った、心の辿る糸を見つめれば、それはきっと優しくあたたかいものに辿り着く。
顔を顰めた老人は、そっと子供の首元に手を滑らせると、一点を強く押さえ込んだ。一瞬痙攣するように硬直した子供の身体は、次の瞬間に弛緩し、崩れるようにして意識を失っってしまう。
「………これは、どう考えるべきか」
高熱だった。先程までは平熱より低い程だったというのに。
あるいは、仮死状態からの帰還故に、無理が祟り身体が悲鳴を上げているのか。しかし、どうもこれはそうした肉体的要因以上に、精神的なものが鎮座して見える。
思い出す、子供の掠れた悲鳴。飲み込むように小さく、けれど隠し切れずに呼気とともに落ちた叫び。
無用なものは全て捨てていく旅暮らしに不満など言わない子供が、使い物にならないマフラーを火傷を負う事も忘れて火から守った。
……………忘れたと言った、その記憶が戻ったのか。やはりAKUMAに捕らえられていた間、何かが起きたのか。
解らない、けれど。今はまだ、眠る時間だ。
この熱が下がり、無事に復活したなら、今一度記録を辿ろう。
…………それまでの暫しの間、せめて悪夢を見る事なく安らかに眠れるといい。赤く染まったマフラーを見詰め、それを握り締める幼い指先を解こうと伸ばしかけ………老人は小さく詰めた息を落とし、奪う事を諦めた。
もしも起きた時、これが灰と変わっていたなら。きっと、先程は押さえ込み飲み込もうとした感情が、爆発するだろう。それは避けなくてはいけない。
面倒事を背負い込んだ子供の、幼い額に浮かぶ汗に貼り付いた前髪をそっと掻き上げ、老人は再び子供を寝床に戻す。
今夜もまた、浅い睡眠を少し取る日が続くようだと、小さく溜め息を吐きながら。
それでも魘される子供の汗を拭き、老人は浅い眠りの最中さえ、その惑う指先をそっと包み慰めていた。
必要であったとか、それが結果的にプラスになったとか。
それを決めるのは当人で、痛みを与えた人間はそんな事を、たとえそう思ったとしても、口にしていいとは思わないですよ。
幼い時についた傷は、永遠に残るものですから。それがどれ程その後の成長にプラスに働いたとしても、寄り添うようにずっと、痛み続けるのです。
その痛みは解るから、出来る事ならお話の中でも子供が傷付くのは避けたいのですが。
………………あのラビになってしまうという過去の話故に、書かざるを得ず。
でもジュニアサイドは救いのないまま終わってしまうので、書くのはきついんですよね……。ラビはあんなんでも希望あるのでまだいいのですが(涙)
若干凹んでほとんどを書き終えておきながらも仕上げられなかったですよー。
もっとジュニアを甘やかして楽しくて嬉しい事で満たしてあげたかったなーとか。結構後悔しつつ、これで過去編は終わりです。
あとは残すところ現実…ラビ達のいる方の、現実世界のお話だけですね。もう暫し、謎解きとラビの変わり身(笑)をご覧下されば幸いです。
………初めの方は若干コメディータッチになるのでなお今のテンションだと書き進めづらい(汗)
11.1.8