目を開けると、天井が見えた。それに驚いて目を瞬かせてしまう。
 先程までは薄暗い洞窟の中だった。最後に見たのはAKUMAの腕の中、悲しそうに自分を見詰めた魂だったけれど。
 明らかに今までいた場所とは違う。かといって、あの洞窟に捕われる以前にいた郊外ともまた、違う。けれど見覚えのある天井だった。
 混乱している意識の中、ここはどこかと首を廻らせてみれば、驚いたように目を見開いている老人と目が合った。その目が、優しく揺らめいたのを見詰め、少年は悟る。
 ……………戻って来たのだ、現実世界に。
 あの爆発の中、よく生きていたと、我ながら驚いてしまうけれど、取り合えず、無事なようだ。
 考えてみれば、クロウリーの城でも間近でAKUMAの爆発があったにもかかわらず、この団服は打撲程度で済んだ。それから更に改良を重ねられた団服だ。防御力も数段上回っているらしく、痛みはさしてなかった。
 身体中の中、唯一痛みを強く訴えるのは右腕だ。それだけは治らないのは当然だろう。いくら寄生型で治癒能力が抜きん出ていようと、子供の姿で受けた傷にまでそれが適応するとは思えない。
 もっとも、肉体はずっとこのままだった筈なのだから、魂が受けた傷が肉体にどう作用するのか、それこそが少年には解らなかったけれど。
 「ブック、マン、………ここは………?」
 小さく呟いてみる。喉が渇いているのか、掠れた声だった。一度口を閉ざし、唾液を飲み込んで喉を潤したあと、もう一度問い掛けようと、少年が口を開きかけた。
 瞬間、視界に映っていた老人が遠ざかった。それは彼が離れたのではなく、隣から伸びた腕によって強制的に横に寄せられたからだ。
 驚き、目を瞬かせる。その瞬きの中、青年の声が響いた。
 「アレン、無事さ?!てか痛いとことか、気持ち悪いとか、ないん?!」
 ………声の大きさを考慮出来ていない、身勝手なくらい大きな声だった。
 けれどそれ以上に、その声の響きに驚いて、目を瞬かせた。先程からそんな仕草ばかりで、声が上手く作れない。
 青年の声が、優しく響く。以前と変わらない、いたわりと不器用な優しさを滲ませて、どうやれば笑顔が咲かせられるのかと、惑いながら模索する少しだけ躊躇いを含む音。
 心配性の癖に戯ける事でそれを隠して、からかう仕草の中でしかそれを教えられない、不器用な人の声。
 …………懐かしくて、泣きそうだ。そんな感傷、見せるわけにはいかないけれど。
 少年はもう一度強く目蓋を瞑り、ゆっくりと目を開ける。彼の言葉に答えようと、口を開いた。
 「ラ………」
 「起きたんですか、ウォーカー?!」
 …………今度はドアが壊れる勢いで開かれ、その外から監査官が駆け込んできた。それを追うように響いたのは、多分、椅子の倒れる音。
 何故廊下からそんな音が響くのか、少年には解らない。解らないが、多分、タイミングから言って、それにこの監査官が関わっているのは明白だ。
 先程から普段とあまりに違う事が起こり過ぎて、パニックになりそうだ。微かな頭痛を覚えながら、少年は曖昧に笑った唇をどうする事も出来ずに凍り付いてしまう。
 青年はここ数日の気まずさを忘れたかのように今まで通りだし、普段から冷静を絵に描いたような監査官が慌てたような顔で部屋に駆け込むなど、有り得ない。そもそも、彼が声を荒げるのなど、少年が何か彼の監視や仕事を滞らせるような真似をした時くらいだ。
 青年と監査官は仲良く並んでベッドに眠る少年を見下ろしている。ひどく奇妙な光景で、逆にまだ自分は目覚めていないのではないか、などと現実逃避をしそうだった。………彼らの顔は、ひどく険しかった。
 正直…………怖いと言って差し支えのない状況だ。
 笑って躱そうかと思った顔が引き攣るのを自覚しながら、少年は自身に掛かっていたシーツを握り締めて、寝転がったままのベッドの上、逃げるように少しだけ彼らから離れた。が、それも小さなシングルベッドの上の話だ。逃げられる筈もない。
 その上そんな態度は互いに隣に立つ相手のせいだとでも思っているのか、彼らから立ち上る苛立ちがお互いに向けられ始めた。
 ……………これだけは、ここ数日顕著だった反応で、ますます少年は戸惑い、慌てて二人の間を取り持つように起き上がろうとした。
 「え、ちょ、なんですか、一体?!」
 「……………取り合えず、落ち着け。詰め寄るな。二人とも、一歩下がらんか」
 慌てて起き上がったせいで目眩を起こしたのか、気持ち悪そうに顔を顰めた少年を見るに見かね、青年を横に押しやり返した老人がそっと少年のベッドの端に座り、彼らとの距離を作らせた。
 それに少しだけ冷静さを取り戻した監査官は、老人のいう通り一歩後ろに下がり、青年は突き飛ばされたせいでぶつけたあちらこちらの不平を老人に言った。が、見事なくらい聞き流されてしまっている。
 老人はまるで何事も無かったかのようにベッドの上、起き上がったまま困惑を顔に浮かべる少年の顔を覗き込む。
 戸惑いの色濃い眼差しは状況把握が出来ないからだろう。顔が青ざめているのは……おそらくは今の一連の騒動についてこれなかったせいと、急に起きたせいで起立性低血圧による貧血を起こしたと見て、老人は少年の呼気が平常通りに戻るまで、少しだけ時間を置いた。
 長い事寝たきりだったのだ。起き上がるならばもっと注意してゆっくりとするべきだというのに、未だ10代の二人はこんな時に踏むべき手順を知りながら、忘れてしまう。
 それを老人の態度で悟ったのだろう、不満げに唇を引き締めながらも、青年もそれ以上は何も言わずに少年が回復するのを待った。
 暫くして、少年がゆっくりと顔を上げる。まだ顔が青いが、その目に宿るものはしっかりとしていて、意識がぶれていない事が読み取れた。
 「具合はどうだ、アレン」
 ゆっくりと、反応する時間を与えるように老人が問い掛ける。
 それに困惑するように眉を顰め、少年は頷いた。具合も何も、怪我をしたくらいで、特に問題もない。それすら、本来ならば精神世界の話で、この肉体は無関係だ。
 痛みも、ただの感覚の継続で、怪我などしていない筈ではないのか。………けれど、確かに右腕に巻かれた包帯が存在する以上、そこに患部があるのは明白だ。よく、状況も事態も飲み込めなかった。
 「えっと?はい……平気、です。なんとなくお腹が空いたような気がしますけど、あと右腕が動かしづらいくらいで、他は全然平気です」
 状態的に、そう今までいたあの洞窟の中と違いはない。ただ、精神的に状況についていけないという意味では、ジュニア一人がいたあの洞窟の中の方が余程明快だった。
 …………そう考えると、やはりあの子供は優秀なのだろう。少なくとも、今現在相手の戸惑いをすくいきれない青年達に比べて、だけれど。
 思い、嘆息しそうに眉を垂らしてみれば、傍らの老人が改まったように声の質を変えた。
 「そうか、では話を聞く前に、先にこちらの話でも平気そうだな」
 その声の質に、知らず少年の背筋が伸びた。
 これは…………老人が青年を叱る時の、声だ。何故それが突然自分に向けられるのか、解らない。解らないが、それに触発されるように、後ろに控えていた青年達の気配も老人と同じように染まった。
 「???あの、三人とも、なんか顔が怖いんですが、気のせい……」
 何故いきなりそうなるのかが解らない。
 顔を引き攣らせて話題を逸らそうかと思ったが、遅かったらしい。ベッドの上、逃げ場所もないまま、老人がその口火を切ってしまった。
 「何故あの時、AKUMAを自分の方に誘導しおった。戦力的に無茶な割り振りと、解っておっただろう?」
 …………気のせいではないらしい、淡々とした老人の声の中の、微かな怒気。怒っている。それを隠そうとしているからこそなお、その怒りがしっかり根付いている事が少年には解った。
 注意を受けるだろうとは思っていた。自分でもあれは無茶な真似だと思っていたのだ。
 ただ、それでも勝機はあった。……………滅茶苦茶な戦い方をした青年と、戦闘の最中に近づいた監査官さえいなければ、そう状況は酷い事にはならなかった筈だ。
 あとは………あのAKUMAの、存在だろうか。悪条件が重なったが故の、現状だ。それはきっと老人も解っている。だからこそこうして帰還したから今、老人は怒気を孕む事が出来たのだろうけれど。
 そうでなければ、きっと彼は自身を責めていた事だろう。責めた事すら無意味だと蓋をしながら、それでも痛んだ筈だ。
 …………彼は、音にする数々の冷徹さ以上に、他者を思う心をきちんと有した優しい人だ。
 小さく胸中で息を吐き、心配をかけ心痛を強いた老人の苦言くらいは聞くべきかと、少年はベッドの上、肩を落としてその言葉に項垂れた。
 「おぬしはまず自分の身を守れてから、人の手助けをせい。今回は運がよかったに過ぎん」
 いつもいつも必ず真っ先に傷付こうとする。そうする事で、他の人間が傷付かないのであれば、きっといつだってその身を差し出すのだ。
 どこまでも自己犠牲が根付いてしまっている。………否、それは自己犠牲でもないのだろう。天秤にかけ、より価値あるものを掴もうとしてしまうのだ、この少年は。
 そうして、少年の中、己よりも価値のないものなどないと、断じている。悪癖という事すら出来ない、それは彼の根底に蔓延る寂しい闇色の悲しみだ。
 それを払拭する事は老人の立場として出来はしない、けれど。いい加減それを自覚してもいいだけの愛しみを人々に注がれている筈だ。それでも頑な少年は、なかなかそれを解し受け入れない。
 「まったくです。いくらなんでもあの戦い方は度を超していますよ」
 老人の言葉を乗っ取るように、監査官の声が続いた。歯痒そうな、その声。
 自身を疑い疎外する中央庁の人間すら、その懐に受け入れ、守ってしまう。己を糾弾し疎外する人間すら、守る事を厭わない。
 …………そんな痛み、抱えて楽しい筈がない。辛くない筈が、ないのに。
 それでもこの少年は守るのだ。幾度少年の傷を抉る言葉を吐いたか解らない自分を。
 戦う術がない存在を見殺しになど出来ないと、当たり前のようにその身を盾に差し出した。その真っ白なイノセンスの翻る様を、思い出す。
 まるで、翼のように。…………守り愛しむ事しか知らぬ至純の生き物の、ように。
 ……………欠片程の敵意も憎しみ持ち合わせず、戦う事を敢行する、生粋の生き物。
 こんな矛盾に満ちた、戦う以外の術を知らぬ生き物を、見た事などない。
 噛み締めた唇も、爪が皮膚を破る程に握り締められた拳も、有り得る筈がないのに存在するのは、この目の前の少年こそ、存在する筈のない御国の命だからだ。………そう思ってしまう事すら、歯痒いけれど。
 続ける言葉がどうしても感情的になると解り、監査官は押し黙る。睨む眼差しだけが、雄弁に少年の傷を痛んだ事を教えた。
 「怪我すんなって言ってんのに、全然いう事聞かないさ!」
 途端、爆発したように悲鳴じみた、青年の声。普段の低い音が、微かに甲高さを内包して、子供のようだ。
 それは幼い響きで、純粋な悲しみと怒りを滲ませていた。……………まるで、洞窟の世界で叩き付けられた、あの子供の嘆きのように。
 三人の声を眺めながら、圧倒されるように目を丸めて反論出来ずにいると、次々に言葉が降り掛かってきた。
 まるで待っていたかのように老人に引き続き、口々に他の二人も言い出した。それは前述だけに留まらず、そこまで話す姿を初めて見ると思う程、饒舌に。
 色々と……それはもう、いつの間にかあの戦闘以外の面でまで注意を始める面々に、暫くは仕方なしに聞いていた少年だったが、そろそろ我慢の限界だ。
 こちらだって、言いたい事がある。
 彼らが怒るのと同じように、自分にもしっかり怒鳴りつけたい事が、あるのだ。
 ガミガミと未だ続く説教やら小言やらを頭上に響かせたまま、少年の中でブチリと、何かがキレる音がした。
 いい加減、長過ぎる。そもそも、結果として倒れたのは自分だが、その結果を招いたのは自分ではない筈だ。それを他所に自分1人がまるで全ての原因のように言われるのは、おかしい。
 自分だって恐れた、痛んだ、怖かった。彼らがそれを感じた程に、自分とて、感じたのだ。思い、我慢する事の無意味さを感じ取って、少年の肚の中が沸々と煮え始める。
 ……………一瞬で、少年を包む気配が変わる。明らかに室内の温度が下がった気がした。
 それに三人はずっと開いていた口から零れる音を、飲み込むようにして閉ざした。
 この気配がどれだけ暗雲に包まれるように重く垂れ込めているか、解らない程鈍い人間は、幸か不幸かこの場にはいなかった。
 沈黙が支配した最中、ベッドに座る満身創痍な筈の少年が、背後に鬼を従えるような微笑みを浮かべ、三人を舐めるように見詰めた後、すっと息を吸い込んだ。
 「………あのですねぇ、それを言うなら、まずリンク!あなたはエクソシストじゃないんですから、AKUMAとの交戦中は即退避するのが義務でしょう?!確かにあの女の子を助けてくれた事は感謝します。でも、無茶をしたのは僕じゃなくてリンクですからね?!」
 もしもあの場所で、監査官がいなかったのなら、すぐにでもレベル2一体程度、破壊出来た。その程度には戦いにも慣れたのだ。
 それが出来なかったのは破壊後の爆発に巻き込まれて命を失う事もあると、知っているからだ。彼らエクソシストでない人間は、団服を着ていない。爆風1つでも大火傷を負い、死に至る事がある。
 医術になど詳しくはないけれど、団服に依存して守る事を怠るなと、人とはそういうものだと、怪我をして帰る度に婦長に小言を言われたのだから、知っている。あの愁いを帯びた毅然とした女性の、優しく凛とした声は、いつだって自分達戦うものを支えてくれた。
 その言葉に従うならば、命の危険を顧みずに行動していたのは、どちらかといえば監査官の方だ。
 指摘された事実に衝撃を受けたのか、監査官が身じろいだ。それを確認し、沈黙する監査官を尻目に、少年はギロリと今度は同じベッドに座る老人にその鋭い眼差しを向けた。
 「それからブックマン!あなたが責任感があるのは知っています。けど、戦闘の真っ最中に他の人間にかまけていたら、自分が傷付く可能性の高さだって知っているでしょう?!僕は寄生型だからウイルスを浄化出来るけど、あなた達はかすり傷一つでも致命傷になり得るんです!AKUMAとの交戦がどれだけ不利な条件の戦いか、僕が言わなくても知っているのなら、僕を守る為にイノセンスを手放すなんて止めて下さい!!」
 自分達に向かったAKUMAに気付き、老人がイノセンスの針を投げた事に気付かない筈がない。
 彼は以前の本部襲撃の際ですら、空中移動が出来るよう、少年に集合させた針の円盤に乗せた。それすら、本当はあってはいけない事だ。
 イノセンスはあくまでも適合者の意志により反応するものだ。例え同じエクソシストでも、他人のイノセンスは扱えない。だからこそ、元帥であるクロスですら、適合者の屍体を操る事で、イノセンスを複数所有する事に成功しているのだ。
 それでもあの時、少年の意志に添うように針の円盤は動いた。………その全ては、老人が少年の状況すら把握して適宜操作してくれたからだ。
 そんな真似さえしていなければ、老人がAKUMAの特殊能力に当てられるなど、無かっただろうに。
 解っている癖に、彼はそれを知らぬ振りをして、差し出すのだ。事が起こればそれは己の甘さ故と、ただ一人背負うように何も言わないで。
 泣き出しそうな思いで責めた言葉は、子供のように幼かった。それでも、それはきちんと老人に届いたのだろう。隈取りの奥、その眼差しが微かに痛ましげに揺れ、そっと瞬いたのが見えた。
 それを飲み込み、少年は今度はベッドの横、立ち尽くすように凍り付いている青年を睨み上げた。
 何を言われるか自覚があるのだろう、青年は少年の眼差しを見遣っただけで顔を引き攣らせている。
 ………………当然だと言わんばかりに、少年は自分の後ろに転がったままの枕を左手で掴むと、思い切り青年に向かって投げつけた。
 「最後にラビ!!っていうか、この馬鹿っ!!!!!何考えているんですか、戦闘中にAKUMAに背中向けるなんて、死ぬ気ですか?!むしろあなたにだけは本当に叱られる覚えないです!!!!あなたが一番危なかったんですよ?!ブックマン後継者が、師を置いて先に逝くなんて、許されると思っていないですよね?!」
 感情論にしかならない悲鳴じみた叫びを、枕の攻撃を甘んじて受けた青年は、耳に突き刺さる思いで聞き入れる。
 …………言われて当然の言葉だ。過去に幾度か、自分が少年に言った言葉だ。守る為に盾になるなと、言った。仲間を頼れとも、言った。
 言っておきながら、結局は自分こそがそれを守れずに反故したのだ。少年の怒りは当然で、非難もまた、当然の事だった。
 それなのに、この少年はやはり甘くて。…………憤りのままに切り捨てればいい自分の事さえ、泣き出しそうなその怒りの眼差し一つで、受け入れている事を教えてしまうのだ。
 噛み締められた唇。呻きそうになる呼気を、必死に整えているのだろう、微かな肩の震え。
 そうして、誰もが沈黙を守り少年の言葉を待つその小さな静寂が、掠れた泣き声に近い吐息の声で、破られた。
 「心配してくれた事は感謝して、います。でも、自分自身を守ろうとしていないあなた達が、僕の事、責めますかっ」
 どれだけあの時、怖かったと思っているのだろう。
 戦いに、身を置くのだ。いつだって明日も命が続くという保証がない中、自分達は生きている。教団内にすら攻め込まれたのだ。もう一時だって、安息の確約のない世界で、自分達は戦っている。
 ………手を取り合い共に戦う相手が、一人でも失われる痛みを、誰とて痛感している筈なのに。
 「僕を責めるなら、あなた達だって自分自身を顧みて、自分の身を守る為に行動して下さい!!」
 ほとんど、それは悲鳴だった。子供が取り留めもなく嘆くのとは違う、知っているからこその恐怖に染まった、悲痛な叫び。
 「そうしてくれるなら、僕だって、自分の事を守って戦います。でも、あなた達がそうしないなら、あなた達を守る為に、同じ事を幾度だって繰り返しますよ」
 睨む眼差しは湖水に塗れている。迫力など皆無なのに、確かにそれは、その場にいた三人に押し迫る。
 それは………清艶なる、脅迫だ。
 愛しむものの為、己を守り慈しめと、誰からもに言われるだろう少年こそが紡いだ、始まりの祈り。
 「…………小僧、それは脅しにもなっとらんぞ」
 「なっていますよ、ブックマン?」
 微かな溜め息とともに呟いた老人に、少年はその唇を笑みに変えさせる。睨む眼差しは、微かに歪み泣き出しそうだった。
 「あなた達は自分で思うよりよっぽど、人に甘いんですから。それくらい、僕だって見抜けます。舐めないで下さいね?」
 微笑む仕草は、賭博師のそれだ。その癖、涙に濡れたその眼差しだけは、いとけない子供のように生粋の銀灰色。
 ………質の悪い少年だと、老人は苦笑をのぼらせる。
 こんな、老獪なこの身すら浸せるような音を紡ぎながら、無自覚だ。自分よりも免疫のない青年達など抵抗し得る術もない、言祝(ことほ)ぎの祈り。
 「……………ウォーカー、言っておきますが、私は職務全うの一環として、です。勘違いされないように」
 「何でも構いませんよ、リンク」
 微かに息を飲んだ監査官の、それでも冷たい言葉に素っ気なく少年は返す。
 言葉の表面など、おそらくは無意味だ。それを彩る思いだけを見出せる、感受性。それこそが、人もAKUMAも愛おしむ、この少年の恐ろしさ。
 「てか、さり気なく俺、ひどい言われようじゃね?」
 軽く息を吐き、老人はむくれた子供のような弟子を見遣った。
 ひどいと言えるような事、欠片もない。もしも自分が同じ立場になったなら、その数百倍は罵るし、折檻も加えるだろう。
 「あの程度で済んだのをよかったと喜んで下さい」
 「……………凹む言葉さねぇ……」
 同じように考えていたのか、少年の声は少々険を孕んでいる。睨んだようなその眼差しはベッドの上、そのまま壁へと注がれていた。
 珍しく、怒鳴っても怒りが収まらないらしい。こんな仕草は、何かと反発し合う黒髪のエクソシストに対してくらいだ。
 少しは間近に置いてもらえているのか。少年の中、傷つけた自分の言葉も態度も、距離を測る為の道具として使用されていないのか。
 …………あるいは、混乱の中だからこそ、変わらぬままに差し出されるのか。
 まだ、それは見極められなかった。見極めてから行動を起こそうとしてしまう受け身の体勢こそが、全ての因であったのだと、いい加減自分自身でも嫌になる程自覚しているというのに、なかなかそれは無くならない。
 「で、小僧。おぬしはどうなっていたか、解っているのか」
 不意に、今までの話は流すように、老人が本来であれば初めに聞くべき事を問い掛けた。
 それに少しだけ呼吸を整えるような間を空け、小さく吸い込んだ息を吐き出すように、静かに少年が答える。
 「……………はい。でも、それはまた、別の形で報告します。ちょっと混乱気味なので、ちゃんと伝えられませんから」
 「ふーん?でもアレン、随分冷静そうだけど?」
 ゆっくりと言葉を探るように言う少年の意図を探ろうと、青年が声を掛けてみれば、ちらりと呆れたような眼差しを、少年は老人に向け、老人は青年に向けた。
 それを眺め、青年も監査官も、今の言葉の意図を悟る。
 「…………むしろ、あなたのその態度に対して混乱もしていますし、現状何がどうなってここにいて、どれくらい時間が経っているのかも解っていないので頭の中グルグルです」
 どうやら、いらない詮索だったらしい。唇を尖らせて失言を誤摩化してみるが、聞き流しては貰えなかった。
 「…………………本当にさっきから痛いところばっか突くさ、アレン………」
 がっくりと、青年は肩を落とす。
 そこからなかなか踏み出せない自分を呆れているというのに、追い討ちをかけるような言葉だ。もっとも、それくらい言われても仕方のない真似をしたのだから、文句も言えないけれど。
 そんな青年を視界の端で見遣りながら、少年は溜め息を吐き、呟いた。
 「自業自得と思って下さい。あれだけの無茶されたら、僕だって怒ります」
 そんな事を言う少年を見下ろしてみれば、ガシガシと少し乱暴に自身の髪を掻き上げるようにしながら呟くけれど、ずっとその視線は青年の方には向かない。
 先程の、勢いのままの言葉の時は、向けられた筈なのに。それに気付いて、青年は全身から血の気が引く音を静かに聞いた気がした。
 ……………忘れていた、という事もおかしい話だ。ここ数日、自分達はずっとこんなだった。自分がそう仕向け、少年がそれを受理した、そのままに。
 けれど彼は言っていた筈だ。自分が声を掛けない限りは声を掛けない、と。つまり、自分が普通に接すれば、同じものを返してくれるという事ではないのか。
 それは、けれどあまりに自分にとって都合のいい思い込みだろうと、胸中で息を落とす。
 向けた視線の先、縮こまるように少年が膝を抱えた。それは他の二人にも解ったのだろう、彼らの視線は自分に集中している。非難を孕まぬように感情を押さえ込んだ、無機質な二対の眼差し。
 …………自分の巻いた種だ。自分でどうにかしなくてはいけない。解っているけれど、きっかけが掴めない。
 手放せないと、思い知った。思い知ってなお、この腕を伸ばしていいか、惑うのだ。
 あんな身勝手な願いを押し付けて離れて、やはりそれが嫌だとごねてその腕を掴み引き寄せる、なんて。許されると思える程能天気な筈がない。
 視線の先、少年は困ったように顔を逸らし、俯きかけて………自身の首に、そっと手を触れさせた。
 痛むのか、微かに彼の眉が寄る。それを見詰め、青年は抱きかかえたままの枕を戻す振りをして、少年のすぐ横に歩を進めた。
 微かな緊張が、少年を包む。次いで、…………これは、何だろうか。微かに開かれた少年の唇から、小さく小さく息が漏れる。
 それは、どこか諦観を思わせる、小さな溜め息だった。
 「………………そうでした。ラビ、手を、出して下さい」
 ぎゅっと握り締められた左手。やはりまだ右手は痛むのだろう、先程からあまり動かしていなかった。
 惑うように白い髪が揺れ、こちらを見上げるかと思えば…………そっと、伏せるようにして俯いてしまう。まるで打ち沈み項垂れるような、仕草。
 「なんさ、まだ何か怒ってるん?」
 それを戯けて変化出来ないか、なんて。きっと浅はかな行為だっただろう。けれどそれくらいしか、顔も向けてもらえない自分に出来る事は無かった。
 それでも返されない言葉に、焦れたように彼の座るベッドの上、片腕を乗せた。ギシリと、揺れたベッドの上の少年。
 目に見えて、彼の肩が揺れ、僅かに身じろぎ離れたのが解る。
 …………それに傷付く事こそ、身勝手だ。そう思い、噛み締めかけた唇を笑みに変えた。
 「いいですから、手、貸して下さい」
 声は小さかった。先程とは雲泥の差だ。けれど、この静けさこそ、少年をいつも包むものだ。
 物思い惑いたゆたい、それでも進む足を歪めず恐れず留まる事のない、静謐に包まれた真っ白な魂。
 蠢くようにベッドの上、揺れた細く白い手のひらが、恐れるようにして青年の指先に触れる。
 たったそれだけなのに、まるで感電したようにその指先が跳ねて逃げ惑うようにまた、ベッドの上で揺れる。
 それを見下ろし、噛み締めかけた寂寞を小さな笑みに溶かして、そっと青年は少年の目の前に逆の手を差し出した。
 何を思いそれを望むのか、知らない。知らないけれど、少なくとも自分は、少年の願いに殉じるべきだろう。それが、たとえば自分が彼に告げたような身勝手なものであっても、拒む理由がない。
 差し出した指先を、少年はじっと見詰め、小さな吐息を落とす。躊躇うような、その間。けれど、思い切るように固く閉ざした目蓋で、少年の左手は自身の首元を再び這った。
 何かを探るようにして、片腕では上手くいかず、右手も持ち上げる。痛むのか、噛み締めるように引き結んだ唇が、俯いた少年から見える唯一の表情だった。
 そうして差し出された、左の手のひら。何かを握り締めているらしい事は、解った。
 けれど、繋がらない。もしも彼が自分に何か首に下げるものを差し出すとすれば、それは守り石だ。それ以外に今、自分に渡すようなものはないだろう。
 それでも、師は言っていた。少年は守り石を身につけていなかったと。わざわざ師が少年に身につけさせる筈もないのだから、彼がそれを首に下げている筈がない。
 訝しみ、青年は首を傾げる。
 「…………アレン?それ………」
 問い掛けようと、彼の手が自分の手を包むよりも前に、拒むように引いた指先を、少年は素早く握り締めた。
 そうして手のひらに当たる、硬質な石の気配。象らなくても解る、馴染んだ鳥のモチーフ。
 守り石だ。自分が身勝手に彼に押し付け、彼を彩らせた、自分の所有の印。それに気付き、息を飲む。
 彼が、それを身につけていた。無いといっていた筈の、ペンダント。
 けれど少年にその違和はない。彼の気配の静寂がそれを教える。つまり彼は、ずっと身に付けていたのだ。だからこそ、目覚めた今その首に守り石があっても、彼は不思議に思わない。
 おかしい。これは、矛盾だ。けれどどこからがおかしいのか、それが解らない。青年は微かに眉を寄せ、睨むように手のひらを見詰める。
 青年の手に覆い被さる、細く赤い、少年の手のひら。握り締める為ではなく、離れる為にある、その手のぬくもりを、知らず掴んでしまう。
 それを、彼は拒まなかった。拒まなかったけれど、その顔を向けてもくれなかった。俯いたままの少年の真っ白な髪だけが、掠れて響くように音を紡ぐ。
 「これ、僕が持っていてはいけないもの……なんでしょう。思い出話にあげていいものじゃない筈です」
 告げるにもどう言えばいいか迷い、少年は素っ気ない程義務的にそんな事を綴った。
 意味を知っているとは言えない。それは、伝えられない。けれど、何も言わず、突然たった今、押し付けられるものでもない。
 どう言えば躱せるだろう。いっそ黙秘がいいか。彼を厭っていると嘘が言えたら、どれだけ楽だろう。ぎゅっと瞑った目蓋には、寂しそうな隻眼の子供の笑顔が映る。
 …………嘘を言って、傷つけて、何になるというのか。保身の為に傷つけるくらいなら、黙秘を貫き厭われる方が、マシだ。
 小さく息を吸い肚に力を貯めて、少年は突然の自分の行動に不快を示す青年の言葉を覚悟する。
 「え?てか、アレン、つけてた?だってジジイ、無かったって言っていたさ?」
 が、響いたのは、間が抜けた呆気にとられた青年の声。
 言っている意味も、少年には解らない。肩透かしを食らったように目を瞬かせ、少年は顔を上げると、すぐに見える老人の顔を見詰めた。
 ………その隈取りの奥の鋭い眼差しが、驚いているように自分を見て固まっていた。
 「なんの、話、ですか、それは?」
 「小僧、それは…………」
 呟く老人の声が固かった。戸惑い、老人に差し出すように持ち上げた少年の指先から垂れた鎖の先、確かに鳥のモチーフに包まれた赤い石が鎮座している。
 無かった筈だ。先程までは確かに、鳥のモチーフだけが存在していた。それなのに、たったいま突然、それは当たり前のように現れた。
 「ブックマンまで、どうかしたんですか?」
 様子のおかしな師弟に首を傾げながら、少年は無理矢理掴んだ青年の手の上に、今度こそ守り石を乗せた。
 解らない事を掘り起こしてはいけない。自分はこの守り石の意味を何も知らない。知っていてはいけない。
 ただの気紛れで返すのだ。そう思われなくてはいけない。動揺を隠し、少年は不思議そうな顔をして老人を見るに留め、小さく息を吐いた。
 …………これは返さなくてはいけない、最後の証だ。手放せないと、嘆くように掴んでいたものだけれど、あの幼い子供が多くの思いを教えてくれたから、手放しても平気だ。
 もう、それで充分だ。形あるものに縋らなくてはいけない程、飢えてはいない。この胸の中、果てるその日まで鮮やかに、与えてくれたものは花開き咲き続けるだろう。
 このペンダントを、持っていてはいけないものだと、解っている。あの子供の慌てようから考えて、これは彼らの一族に繋がるものだろうから。
 それを与えてくれた青年の意図は、解らない。それでも、彼が少なくともその心を自分に残した証では、ある筈だ。
 思い、青年に返した、最後の繋がり。彼が自分に留まる事なく己の道を歩む為には不要な、彼を留め繋ぎ止める最後の鎖。
 これで、終わりだ。
 …………何がどうして彼がこんな風に、今まで通りに声を掛けてくるのか解らない、けれど。きっとそれもこの傷が癒えるまでの、短い期間の話だろう。
 もう一度遠く離れる心を覚悟して待つよりは、大丈夫と、彼を見送り、進む道を己で決めていい事を教えたい。
 あの子供にはあげられなかった、自分が確かに存在し弛まず進めるという、その意志を。
 自分にも青年にも、示したかった。…………それがきっと、彼の為に出来る自分の最後の仕事だ。
 そうして乗せられた青年の上の守り石。赤いその石が、泣くように煌めいた様を、青年が見詰めた。………泣き出しそうな、歪んだ眼差しで。
 握り締めようとしたその指先が戦慄く。ぎこちないまま何か言おうとした青年の唇が開こうとした、その瞬間。

 石が、消えた。
 否、水銀のように溶けて、まるで聖痕のように青年の手の上、滴り………消えた。

 息を飲む音がする。何が起きたか、誰も解らない。

 目を瞬かせ、少年が青年を見上げる。
 青年は凍り付いたように虚空を見詰め、瞳の揺らめきを消した。

 

 …………しんと静まり返った室内の中、老人だけが溶け消えた石の色の違いを、記録していた。

 

 








   


 まあアレンからしてみれば、ついさっきまで自分のこと無視していた筈の相手が、突然当たり前みたいに声かけてきて心配してきて、『何事ですか?!』みたいな。
 自分のこと色々思ってくれたのはあくまでジュニアで、『ラビ』じゃないし。
 それなのに訳解らない状況。………そしてそれを説明するような人は誰もいない(キッパリ)
 ともあれ、とりあえず、あの戦いの中で、私自身が怒鳴りつけたかった三人の行動はきっちりしっかり怒鳴れたのでよしとします。
 本当に、AKUMA相手の戦いは不利極まりない無謀な戦いだと思いますよ。寄生型であっても、ですが。アレンもちゃんと、自分を守って戦えるといいなぁ。

11.1.12