「マ……ナ?」
 「………………………え?」
 目を見開いた少年の視線の先、涙をたたえた青年が立ち尽くしている。
 少年が驚きに瞬きをする程の間、老人が訝し気に目を細めたのが解った。
 「…何を言っ………」
 老人が青年に何か牽制の言葉をかけようとするのを、少年が右手を上げる事で制した。ほんの小さなその動きすら、老人は読み取ってくれる。そんな、当たり前のような信頼で。
 そしてそれを確かに受け止めた老人は、そっと口を閉ざし、退くように一歩後ろに下がった。眼差しから、あたたかみが消え、そこには硝子のように玲瓏な記録の瞳が煌めいた。
 その眼差しの先、少年が手を差し出した。静かに、青年に。
 「マナ……生きて、る?」
 呟く声が戦慄いていた。それに困ったように少年は笑う。
 ………最後の時、自分は彼に手を差し出せなかった。大丈夫だと、ちゃんと生きて会えるのだと、言えなかった。
 伝えるべきではないと解っていたけれど、せめて慰めになればと、思っていたのに。
 何一つ伝えられず、切り離すように、消えてしまった。
 あの爆風の中、彼はどれ程の絶望を味わったのだろう。守ろうと、そう決めた自分を、互いに守り合おうと言った相手を、その手に掴む事もなく生き残る事を強制的に決められ、手を離された子供。
 それが傷にならないなんて、思わない。彼の為だったなんて、言わない。
 どれほどそう祈った行為であっても、青年が自分に押し付けた傷と同じように、自分があの子供に押し付けた、これは傷だ。
 「うん。生きているよ、ジュニア。………一人にして、ごめん」
 伸ばした腕は、彼に届けていいのか解らず、立ち尽くしてしまう。
 傷つけた。悲しませた。苦しませた。………8年もの月日を、彼はそれに怯え、ずっと生きてきた。
 それは…………自分への怨嗟に、変わらなかっただろうか。
 伸ばす腕は、厭うべきものに変化してはいないだろうか。
 ………………思い、彼の頭を撫でるつもりの右手が、凍り付いてしまう。
 「生きてる…………マナ、本当に、マナ?」
 「そうですよ。ね?言ったでしょう?数年後には醜くなっているって」
 呆然とした青年の言葉に、少年は苦笑して告げる。赤かった髪は色素が抜けて真っ白に。左目は裂かれたように傷跡が走り、その先には呪いのペンタクルがある。左腕はより赤く、人の肌からは遠ざかり、破壊する意思だけを添えている。
 …………本当に、醜くて情けなくなる。あんなにも優しく差し出してくれた幼い指先が恐れやしないか、なんて。そんな事を考える自分の浅ましさが、大嫌いだ。
 切なく笑んだ少年に、青年は首を振る。俯くように落とされた頤は、それでも精一杯の否定を教えるように勢いよく振られ、その度に宙を舞う雫がキラキラと輝いた。
 驚き、拒絶の前に引っ込めようとした右手が、凍り付くように中空で止まってしまった。
 「…………………っ」
 そうして、息を飲むように呼吸をしていた青年が、その勢いのままに、落ちてきた。
 …………落ちてきたというのもおかしいかもしれないけれど、未だベッドに座っていた少年にはそうとしか思えなかった。
 がっしりと、それこそ縋るという言葉すら足りないように、青年の腕が少年を抱き締めた。
 ぬくもりを確かめるように。そこに居る事を確かめるように。幻想ではない事を確かめるように。確かにその人が自分の知る人だと、確かめるように。
 痛みすら忘れる程、強く。ただ互いを知る為に押し付けられる、乱暴な腕。
 「マナ、マナ……!会えた。生きてた」
 叫ぶような声音は、けれど実際には掠れた涙声だった。
 洞窟の中で僅かに反響していたのとは違う、真っ直ぐに耳に注がれ響く、低くなった子供の声。
 その腕の中、もがくにももがけないまま、少年はなんとか彼を宥めようとその背中を慰めるように優しく叩く。が、より一層強まった腕の力に、呼吸さえままならない気がした。
 「ジュ、ジュニ、ア、あの、ちょっと、苦しい………!」
 まるで子供の力のつもりでいるのか、腕の圧迫は尋常じゃなかった。かといって、抵抗すればなお強くなる腕の力に、少年はどうする事も出来ずされるがままだ。
 「マナ、まだ醜いとか言うし。綺麗って、言った。信じてくれないの?」
 むくれたような幼い抑揚。肩に押し付けられた唇が綴る、いとけないままの呟き。洞窟の中の続きのような、それとは違うような、不可解な感覚。
 それに少しだけ混乱したように、少年は戸惑いを声に滲ませた。
 「へ?いえ、あの、今その話じゃ、なくてですね?」
 どうにもこの子供は直情型だ。知りたければ知りたいと言い、解って欲しければ解ってという。それは計算も含まれている事はあるけれど、結局は彼の生来の人格に由来する。
 …………人懐っこい、というよりは、おそらく、懐に入れた人間へ甘えるのが好きなのだ。
 「マナ、やっぱり真っ白。心と一緒だね。うん、こっちも、綺麗。俺は好きさぁ」
 「えっと、あの???」
 「マナの世界の後継者が嫌って言っても、俺はずっと好き。ねえ、マナ、俺と生きようよ。守るよ、今度こそ。だから、マナだけ戦わないでいいん」
 ふと、その声に違和感を覚えて、少年が首を傾げる。それに気付いたのか、あるいは逃げ出されると思ったのか、青年の腕の力が強まった。
 「ジュニア?」
 小さく問い掛けるように名を呼んでみる。
 青年は首筋に懐く子犬のように鼻先を押し付けて、甘えるような仕草で答えるだけだった。
 そのいつも以上に垂れ下がる眦だけが、なんとか少年の視界の端、ぼやけながら映った。
 「…………やっと、ここでも言えた。ずっとずっと、言いたかったん。マナに。マナだけに。ねえ、マナ」
 「は、はい」
 ぼやくような、言い聞かせるような、どこか夢心地のような、そんな声音。
 それとは裏腹の逃がさないと雄弁に語る指先の強さ。
 ………ちぐはぐだ。その癖、そのどちらもが彼にとって確かな意志の結晶だ。
 戸惑いから困惑を経て、少年はそれを理解する。小さく吐き出しかけた溜め息の変わりに、そっと安心させるように青年の背中に手を添え、慰めるように撫でた。
 それが心地良かったのか、クスクスと首元で笑う声が微かに響く。思い出す、ついさっきまでいた洞窟の中。あの子供も、AKUMAが追いかけてこない時間の間、こんな風に懐いては嬉しそうにしていた。
 「いなくならないで。一緒にいて?」
 一瞬、その呼気の質が変わった気がした。多分、その言葉を吐き出す為の、覚悟故に。
 それを天井を睨み上げながら少年は聞く。優しい指先で青年の背中をあやしながら、それでも答えるべき言葉を模索するように、躊躇った。
 「…………………、僕は…」
 「いいん、なんでも。マナ、一杯色々あるっしょ?それも、全部、欲しい」
 そのまま綴る筈だった少年の言葉を遮るように、青年の声が被さり響く。まるで答えを聞きたくないかのような、慌て方だ。
 縋る指先が微かに震えている。きっと、怖がっている。拒まれる事、逃げられる事、消えてしまう事。…………青年の背中の上、少年の手のひらが動く事を止め、握り締められた。
 それでも、彼は告げたのだろう。臆病者のその心のまま、天秤にかけた恐怖とともに。
 その尊さを思うべきか、解らない。……………解らないのに、答えないでいいと響きながらもその声は、いつだって解答が欲しいと、我が侭に願うのだ。
 「マナがいるなら、怖くないの。違うや。マナがいないと、怖いんさ。マナがいなくなるのが一番、怖い」
 震えるよりも鮮やかに、その声は泣いていた。
 掠れもしない、いつもと変わらず綴る音色の中の、悲嘆。
 それは少年が彼の中、落とした傷痕から奏でられる音だ。他の誰も癒せなかった、悲しい傷痕が綴る旋律だ。
 与えられる約束は何だろうか。嘘とならず、彼の中芽吹かせる事の出来る、約束。
 与え損ねてしまった過去の日の言葉。刻み付け押し付けてしまった、傷。
 どうしたなら、心豊かに彼は祈りのまま、歩めるのか。天井を見上げたまま、少年は頬をくすぐる赤い髪を思う。
 「だから、生きて。お願い。消えないで、マナ」
 小さな、少年にだけ聞こえる程の微かな声。その震えに、そっと睫毛を落とした。
 告げるべきか告げぬべきか、願うべきか願わぬべきか。こんな短い問答の中で正しい答えなど、見つかるわけもない。
 解っていて、押し迫る言葉達。我が侭なままの、願いの形。それに、苦笑した。
 「………………………消えませんよ、僕は」
 深く長い、溜め息のような吐息を落とした少年は、仕方がなさそうに青年の背中を叩き、あやすように撫でた。
 柔らかな音色に、青年は少年の顔を盗み見るように少しだけ首を傾げ、白い頬を見つめた。
 「………本当?」
 約束を、と。願うように確認するその声に、今度こそ解りやすい溜め息を落として、少年は青年の赤い髪を窘めるように引っ張った。
 「あなたみたいに危なっかしい嘘つきを、放っておけません」
 それ、は。…………ジュニアへ向けたものとは違う、代名詞。それを意識的に口にした少年は、呆れたような顔をして青年の肩越しに見えた老人に苦笑した。
 その眼差しに答える老人のそれも、少年のものと同じく呆れを含んで嘆息を吐いている。
 それを背中越しに感じたのか、青年の背中が少しだけ緊張した。
 「………マ、ナ?」
 恐る恐る、小さく名を呼ぶ青年の声。幼い抑揚の中、微かな疑念が含まれている。
 その顔は見えないけれど、おそらくは引き攣る顔を隠そうと笑んでいるのだろう。再び首筋に埋もれた唇が、息を飲むのが解った。
 「君の真似までして、何をやっているんでしょうね、この人は」
 「………………………………」
 「途中から、もう、あなただったでしょう?」
 念を押すように無言で押し黙る青年に問い掛ければ、吹き出すように少し強い息が首に漏れた。
 そのくすぐったさに少しだけ顔を顰め、赤い髪を睨んでみれば、笑うのを必死に堪えているような泣き出しそうな、変梃な顔をした青年がいた。
 「やっぱアレン、凄いさ。俺だって混乱してんのに、飲み込むの早い」
 呟きは、確かに幼い抑揚を孕んでいる。わざとではなく、混じり合うようにその二つが混在していた。
 ……………頭の中に、過去の日の洞窟の中の記憶が溢れ返っている。
 それがこの数日の、未だ整理しきれていない記憶と混ざり、グチャグチャだ。
 失った事を思い知ったのは過去なのに、この腕の中の人を、たった今もまだ、失ったままのような、このチグハグな感覚。
 喉が焼けそうな、恐怖の押し迫る圧迫。
 それら全てが、ただこうして縋った体温のあたたかさで溶ける、心地よさ。
 全ては過ぎし日の記録で、彼とともに話した言葉も、彼に対して抱いた思いも、彼によって育まれた感情も、心も。全ては過去の遺物で忘れ去り埋もれた筈のものなのに。
 鼻先を押し付けた首筋から香る、彼の香り。血の匂いじゃない事に、安堵する。
 …………まだ脳内の記録が、幼かったあの日と今と、混じり合って上手く分断出来ないのは、確かだ。
 「あなたが間抜けなだけですよ」
 キッパリと言い返す少年の言葉は容赦がない。それでも優しく背中を包んでくれているのは、この身体がほんの微か、震えているからだ。
 そのいたわりに、青年は泣き出しそうな思いで目を細めて笑った。
 「ハハッ、容赦ないのも流石。………あーでも、悪い」
 「?」
 「そろそろ、限界っぽいさ。ちょ…っと、落ち、るわ…………」
 そう呟く程小さくなっていく声で告げると、青年の頭が少年の肩に押し付けられた。そして、のしかかっていた抱き締める腕が、そのまま重力に従って更に加重を掛けてくる。
 当然、それは抱き締められていた少年へと向かう重みで、ベッドに起き上がっただけの少年には、それを支えるだけの備えは無かった。
 「………え?ちょっ、重いんですが?!」
 青年に抱き竦められたまま、満足に抵抗も出来ずに、少年も巻き込まれてベッドに横たわってしまう。その上に、遠慮のない意識を失った青年の身体がのしかかっていた。
 どうにかどかそうともがく少年の腕は空を切るばかりで、有効な手段には至らない。はあと、わざとらしい嘆息が聞こえ、少年がそちらに泣き出しそうな眼差しを向けた。
 「監査官殿、あれを捨ててもらえまいか」
 「不本意ですが、お言葉に従いましょう」
 見遣った先、老人はあっさりと己の弟子を指差して、隣に控えていた監査官にそう告げ、普段であればそんな頼みは仕事ではないと切って捨てる監査官は、当然のようにそう答えてベッドに足を向けた。
 ……………いつもと変わらない冷徹なプロフェッショナルの眼差しが、しっかりと眠る青年をターゲットとして捕らえている。これでは眠る青年を本当にベッドから落とすどころか、窓から捨てかねない。
 「え?いやいや、リンク、捨てないでいいですから!?こっち、ベッドに横にしてあげて下さいね?!」
 慌てて起き上がれないその体勢のまま、少年は必死に言い募った。
 理由は解らないけれど、突然意識を失ったのだ。もしも仮にただの寝不足であったとしても、そのまま捨てておくわけにはいかない。
 そんな少年の気遣いが解るのか、老人は軽い溜め息を落とし、窘める声で呟いた。
 「小僧、そいつに甘い顔をするとつけあがるぞ」
 現にたった今も、と。その声が言外に語る響きに少年は苦笑する。
 「ブックマンは厳しい顔、見せ過ぎですよ?」
 「私はどちらにも加わる気はないので捨てていいですか?」
 「…………寝ている人がベッドに入って、起きている人間がベッドからどくのが当たり前だと思います、リンク」
 どちらも引きそうにない声で告げてくる言葉に、痛みそうな頭を抱えて、少年が言った。
 二人とも、自分がこの青年に振り回されてどれだけ傷付いたか、知っているのだ。知っていて、その上でのこの青年の一人劇だ。腹も立つし、苛立ちもしたのだろう。
 優しい二人は、優しさを真っ直ぐには差し出さない。いつだって何かに隠して、まったく違う方向からだけ、与えてくれるのだ。
 それに感謝しながらも、少年はなんとか青年を追い出さずにベッドに眠らせる事に成功し、その傍らに腰をおろした。
 そこまでの一連の騒動は、おそらくは起きてからまだ数十分だろうに、随分疲れた気がして身体が重かった。
 …………多分その大部分の原因は、呑気に寝てしまった青年なのだろうけれど。
 「すみません、やっぱりなんか、余計に混乱したかも………お腹も空いてきたし」
 ちゃんと説明も何も、まずは自分自身の混乱からなんとかしなくてはいけない。
 きっと、この混乱を上手くまとめ誘導してくれる人がいると、解っている。けれど、その人と二人話す機会は、現状有り得ない事だ。
 どこまで語っていいのか、許されるのか。………自分で、考え見極めなくてはいけない。
 彼らの存在が希有で、そうして利用される事がある事も、それが故に命を狙われる事があるという事も、知っている。
 その秘密を知り得たなら、彼らを脅すための材料として扱われる事とて、知っているのだ。
 それらのどれもを避けなくてはいけない。自分が関わったあの子供が、『ラビ』へと変わる子供と悟られてはいけないのだ。
 ……………そんな事を考えるための脳を有しているとも、また、そんな難しい事を考えられるだけのエネルギーが現在蓄積されているとも思えず、少年は思わず溜め息を落としてしまう。
 「丸一日近く点滴だけだったからな。胃が飢えてはおるだろう」
 「…………その程度であれば問題はない筈ですが、まあ君の食べる量を鑑みれば無理ですね」
 そんな少年に、二人は顔を見合わせながら話している。
 自分がどんな状態だったかは知らないけれど、言われた言葉に少しだけショックを受けた。……まさか何も食べずに、それだけの時間を眠り続けていたとは思わなかった。
 あの洞窟の中では一切お腹は減らなかった。だからこそ失念していたが、この身体は何も食べていないのだから、お腹が空いて当たり前なのだ。
 「うー、言われたら余計にそんな気がしてきました」
 目眩がするわけでもないのに身体から力が抜けるような気がする。ぐったりとした声で呟いてみれば、呆れたような吐息を吐いて監査官が答えた。
 「ですが、まずは胃に優しいものからですよ、ウォーカー。それと、検査が先です。そちらの指示を出して来ますから、それまでは何も食べずにいて下さい」
 何も言わなければそれこそ普段通りの量を種類も豊富に胃への負担など考えずに注文するだろう少年に窘めを含んで告げ、尚かつこのまま食堂に駆け込む事を押さえ込んだ。
 いくらいま彼が元気にこれだけ話せているからといって、楽観していい理由にはならない。
 エクソシストはただでさえ希有だ。戦闘が終わった後は、傷一つさえ入念にチェックし、今後に影響がないか、そのデーターを引き渡すのは職務に加えられている。
 それを示唆した監査官に、少年はギョッとして目を丸める。自覚したならお腹が減る一方だというのに、突然のお預けは残酷だ。
 「はい?!嘘でしょう?!食べてからでいいじゃないですか!!」
 「君はAKUMAの攻撃を受けて以降、点滴とブックマンの針しか受け付けなかったんです。精密検査は義務でしょう」
 悲痛な叫びにキッパリと冷静な声が被さってしまう。それに恨めしげな眼差しを少年は向け、萎れるように肩を落として監査官を見上げる。
 今のこの声質からいって、どんなに駄々を捏ねても彼は聞き入れてはくれない。大抵お菓子を作って欲しいと願うくらいなら許してくれるようになったけれど、職務の一環に関しては今もまだ彼は厳しくて頑固だ。
 「………………どれくらい、かかるんですか」
 拗ねたような声になるのだけは仕方がないと己を慰め、尖った唇で言ってみれば、仕方なさそうな小さな笑みが監査官の唇に彩られる。
 きっと、それは無意識だ。心配していた事を教えてしまうような仕草、彼が落とす筈がない。
 ………解っているけれど、それでも嬉しくて、つい少年は拗ねた唇を監査官と同じ小さな笑みに染めてしまった。
 「報告と準備とを合わせて、開始まで1時間はかからないでしょうが、その後は数時間は覚悟して下さい」
 「検査終わったあとすぐに食べていいんですよね?!それまで駄目とか言ったら検査も拒否しますからね!!」
 「食べるものはこちらで指定しますが、いいですよ。それまでは大人しくここで待っていて下さい。いいですね」
 言い含めるような、静かな声。その響きに、少年は驚いたように一瞬息を詰める。が、それは本当にささやかな程の一瞬だ。
 おそらく、それを確認しようとしていなかったなら、監査官にも解らない程に。
 「……………、解りました」
 小さな間を開けて、その言葉の意味を飲み込むように少年は微笑み、頷いた。
 理解したらしいその仕草に監査官は微かな溜め息を落とし、常の玲瓏な眼差しを携えてその歩先をドアへと向けた。
 「では、私は報告がありますから、これで失礼させて頂きます」
 「あの!リンク、あの…………ありがとう、ございます」
 わざわざ自分からこの部屋を出る口実を作ってくれて。老人と話す時間をくれて。
 …………先程の青年のおかしな行動を、彼が気にしない筈がないのに。それが今回の騒動に関わる事も、推察しているだろうに。
 それでも、少年が後で報告させて欲しいと言った初めの言葉を考慮して、場を設けてくれた。他のどんな監視も横槍も、強制的な報告義務を持つ者の存在さえ、なくして。
 …………本当なら、監査官はここに残り、真っ先にその報告を聞かなくてはいけない筈なのに。
 黙秘する事を黙認するように、許してくれた。
 それに捧げた感謝を、監査官は微かに振り返った眼差しの先、眉を顰めるように微かに動かすだけで、飲み込んだ。

 己の行動が許されるか否か、解る筈もない。それでも、正しいと思うを履行した。それだけの事だ。

 ………決して、この少年を労ったわけでも、この感謝にぬくもるものがあるわけでもない。そう、言い聞かせて。

 

 何も解らない振りをして、監査官はドアをくぐり、出て行った。

 








   


 ジュニアはジュニアとして救済をしたいのですが。
 …………とりあえず今は。
 ジュニアであったラビが、その痛みの意味を、それに添えられた傷の意味を、与えて貰えた多くの喜びと慈しみを、思い出し刻む事で、寂しくて怯えていたあの子供が泣き止むといいと思います。
 伸ばした腕を抱きとめる人がいると、言葉だけでなく心までちゃんと、伝わればいいなー。

 そしてラビのずる賢さもなんとかしたいなぁ………(遠い目)
 ちゃっかり利用出来るからって利用してそのまま演技するなよ、ラビ。いや、あれ無意識だけどね。あのままいきなり正気に返るのもどうよっていう、純粋なしたたかさですけどね。
 頭の回転が早いとそういうところが厄介だと心底思う。
 ラビの記憶が戻った経緯についてはまたラビが目を覚ました後にでも。もう暫し後になります、すみません。

11.1.21