監査官の気配が完全に消えると、老人は改めて少年に向き合った。歩みより、先程のように少年が座るベッドの隣に腰掛ける。
「さて、では気を利かせるてくれた監査官の意図通り、願おうか」
昏睡状態の間に起こった事、記憶に残る限りの記述を願う声に、少年は少しだけ躊躇いがちにベッドの上の青年に視線を向けた。
「えっと、ラビ……大丈夫なんですか?医療班とかは……」
何があったかは解らないけれど、本当に唐突に眠ってしまった。石が消えてしまった事も驚いたけれど、青年の記憶が突然開花した事も、その後に突然眠ってしまった事もあり、どれに驚き、どれを優先して処理すべき事か、解らなくなってしまう。
そんな困惑を滲ませた少年の声に、老人は軽い溜め息を一つ落として答えた。
「気にするな。そやつは1日半の記録に加え、8年前の約3日分の記録も溜め込んだからな。合わせれば五日分近い記録を処理もせずに抱えておった事になる。………情報処理が追いつかずに強制的に落ちただけだ」
「……………寝不足だったんですか、もしかして?」
約五日。自分がもしもそれだけの時間を起きていろと言われたら、無理だろう。人間は一定の睡眠をとらなければ生命維持が出来ないのだ。
彼ら一族がどれくらいの耐性があるのかは解らないけれど、眠るという行為は、彼らにとってとても貴重で、そして重要な時間な筈だ。
もっとも、眠っているその間すら脳は活動をしているのだから、彼らにしてみれば本当の休息や、本職からの解放は有り得ないのかもしれないけれど。
以前寝不足でフラフラしている青年に聞いた記憶のメカニズムを思い出しながら、少年はつい眉を顰めてしまう。
その表情の意味を知っている老人は、未だそれを知り得ない愚かな弟子を見遣った。
「寝ろと言ったにもかかわらず、戻ってきおったからな。この未熟者は本質を未だ見極められん」
眠る青年を微かに睨み据えるように見つめて、老人は軽い溜め息とともにそう呟いた。
それは微かな憂いを含んでいて、少年は目を瞬かせて老人を見つめる。自分に言うには少々、その声の響きは不可解だった。
「………暫くは眠らせろ。数時間もすれば自然と目覚める。その間にまずはおぬしの話だ」
少年の眼差しに、老人は瞬き一つで全てを消し去り、少年に向き合う。ベッドの上、眠る青年を背に、老人は囁く程静かにその口を開いた。
それに、神妙に少年は頷いた。これは、そのために与えてもらえた時間だ。無駄にするわけにはいかない。これは、時間制限付きなのだから。
「はい。…………でもその前に、教えてもらえませんか」
小さく息を飲み、少年はどうしても確認しておきたかった事を、そっと願うように問い掛ける。
おそらくはそれを予期していたのだろう。意外がるわけでも話を先にと不快を示すわけでもなく、呑気に老人は天井を見上げながら、あっけらかんとした声で答えた。
「ふむ、何から知りたい」
その声の響きは、既に問われる内容を知っている、声だった。
それに困ったように苦笑して、俯いた少年はぎゅっと握り締めた自身の手のひらを見つめながら、小さく、老人に聞き取れるギリギリの音色で呟いた。
「…………8年前。ジュニアがAKUMAの特殊能力に当てられた、その事を」
以前、老人から聞いた。青年が突然離れる事を宣言した、その時に。
それがあったから、彼は喪う事を恐れると言っていた。心さえ鎧、誰も踏み込ませなくなったと。
……………あの、時。爆発までの僅かな時間、選べる道は少なくて、おそらくはきっと、彼にとって一番最悪な選択を、自分はしただろう。
それはエゴだと解っている。もしも自分が同じ事をされたなら、嘆くだろう。この腕の無力さに、世界を呪うかもしれない。
自分に関わる事で誰かを殺すなら、誰とも関わらず独り歩みAKUMAと共に生きて死のうと、そう決めたように、他者との絆を隔絶させるかも、しれない。
「…………………なるほど、やはりそれと関わっていたか」
少年の顔に浮かぶ憂愁の意味を読み取り、老人はその心のざわめきを少年自身が沈静化出来るよう、微かな間をあけてゆったりと答えた。
小さく、少年が息を飲む。そっと伏せられた眼差しが微かに震え、眉間に皺が刻まれる。
そうして、緩やかに震える睫毛が開花し、隠された銀灰が強かな煌めきを乗せてその顔を覗かせた。
…………しなやかになった、と老人は思う。打ち拉がれ感情に激化され易い危うさが、少年の中、揺らぐ事のない芯に寄り添い溶け合い始めている。
「ジュニアは…還れた、んですよね………?それが、ラビ、になったんですよね?」
問うというよりは確認する音。それは既に以前聞いた筈の事実だ。聞きたい事は、別にあるのだろう。
それでもそれを問い、聞く事が許される範囲か、少年には解らないのだろう。………どこか彼は、自分達の本職の特殊性故に背負う枷に、必要以上に過敏に反応する節がある。
「還って来た。一度、衰弱からか精神的打撃からか、寝覚めてすぐに高熱を出しおって、そちらのせいで生死を彷徨いおったが。熱が下がった後はピンピンしとる。そこに転がっとるバカ自身だ」
告げる事に問題はないと教えるように、過去の日の愚かな弟子の醜態を呆れた声で答えてみれば、微かに俯いたままだった少年の頤が持ち上がり、じっと老人を見つめた。
ひた向きな煌めきに染まった眼差しだ。何かを慮り心砕く少年の、殻を砕きその内面、本質部分を抽出したかのような、純乎とした眼差し。
「ジュニア………泣いていませんでした、か?僕、きっとあの子を傷つけた、から」
震える声を、それでも意識して弛まぬ音に変えようと少年が努力している事が解る。
掠れそうな程ささやかな音色だ。唇は、音を紡ぐ度に小さく震え、それを厭って呼気とともに噤まれては、また音を紡ぐ。
向き合う事から逃げたくないのだと、その音色は言葉以外の部分で聞く者に教えた。
……………傷つけた事。傷付いた事。そして、それらが起因して起こった事。起こりうる事。
それら全てから目を逸らし無かった事にするのではなく、見据えて受け入れ、己が成したい事を模索し、進むために出来る最善を尽くす。
それを知るからこその音色に、老人は嘆息しそうだった。
眠る青年こそがそれを身につけるべきであろうに、この少年はいつも一歩先を進み、未熟な弟子はその度に惑い揺らめき不安がる。
「…………………おぬしが気にする必要は見受けられんな」
軽い溜め息の中、老人が伝えられない部分を隠して告げてみれば、少年は苦笑した。
「やっぱり、傷つけましたね。ブックマン、僕が悪い事、です。ジュニアは一方的に僕に傷を押し付けられた、それだけですから、庇わないで下さい」
そっと伏せた白い睫毛が微かに蒼い影を頬に落としている。それを眺め、老人は胸中で嘆息した。
…………どこまでも己の行為にこそ因を見出し粛々とその購いを捧げる少年だ。今回のケースに当て嵌めるならば、片方が背負うべきものは何もない。
喪う事は恐ろしいだろう。それはどれほど歳経たとて、恐怖に変わりはない。
それでも、その恐怖の中には、必ず愛しさが隠れ住んでいる。恐ろしいのは、それだけ心寄せた存在だからだ。心通わせたからこそ、だ。その痛みの意味をどう解釈し受け入れるか。問題は、ただその一点に帰着する。
………傷には必ず意味が見出せるものだ。その傷の意味をプラスにするかマイナスにするか、それはその人本人の意識の問題だ。どちらがよりよいという事もない。どちらを選ぼうと得るものもあり、失うものもあるものだ。
そうして、青年はマイナスを選び、少年はプラスを選んだ。ただそれだけの事だろう。
「なんであれ、傷を負う程の弱さを持つこいつが悪い。なんの後継者かを忘れるなよ、小僧」
冷たい響きの声が告げるその言葉に、少年は寂しく笑う。その言葉こそが、理由なのだから。
「………あなたの後継者だからこそ、ですよ。ジュニアは…………ずっと、寂しかったと思うんです。それも解らないままで。僕は……彼が、好きだから。身勝手にそれを与えちゃって」
感受性に富んだ子供は、利発であるが故にそれが不要のものだと悟ってしまった。本当ならば尊ばれ開花を望まれるその花を、種を持つ彼自身が地中深く芽吹く事の出来ない奥底まで沈め、沈下させてしまった。
………けれどそれは、多量の水を注がれ土を押し流し、暖かな陽射しに包まれて、芽吹く事を覚えてしまった。
あの、優しさを、不器用に注ぐ事を祈るその指先を、知っていたから。同じようにその思いを差し出したのは、自分の身勝手さだ。
…………………その癖、与えたその腕を、自分は手放した。
思い出し、唇を噛み締める資格もないと、少年は泣き笑うように唇を歪めて堪えて、滑稽な笑みのまま、老人にそっと懺悔するようにそれを口にした。
「その癖……僕は、最後の最後、離さないでと言われた手を降り払って、AKUMAと戦っちゃったんです」
本来ならば、その手を掴み逃げるべきだった。きっと、そうしたならあの子供は涙に濡れる事もなく、笑顔を咲かせそれを育み、人々に交わる喜びの中、育っただろう。
それを遮断したのは、自分が振りほどき消えた、あの爆発の衝撃だろう事くらい、解る。
「やはりいたか、AKUMAが」
けれど老人は、その声の中の断罪を思う色を黙殺し、ただ記録者の静けさで言葉の続きを促した。
それに小さく息を吐き出し、少年は唇を微かに引き結ぶ。解っている、この老人が責める事はない。責めるのであれば、自身でそれを断じ償う事を選べというだろう。
彼は、傍観者だ。そうして、どこまでも中立で、決して誰かを責めたり疎んじたりはしない。感情がないのではなく、抑止し、全てを平等に見つめる事を知っている、人。
優しいからと甘えてはいけない。決着を付けるのは自分自身だ。老人にそれを求めるのはお門違いだろう。
少年はゆっくりと息を吸い込み、ざわめく胸中を無理矢理押さえ込むと、小さくその声に答えた。
「いました。あなたと戦っていた、あのレベル3です」
「…………なるほど、8年の間に進化したか」
納得したような、何かを考えているような、そんな声で老人が答える。それを見つめ、少年は頷く。
「そうみたいです。何故ブックマンではなく僕がって言う、それだけは解らないですけど………」
「………おぬしは、最後の爆発の際、クラウンクラウンでわしを庇ったな」
不意に、老人は何かを探るような眼差しで問い掛けた。
どうしたのだろうと少年は目を瞬かせ、頷く。あの時、確かにAKUMAを突き刺したその勢いのまま、クラウンベルトで老人を巻き込みながら退魔の剣を回収した。
「?はい、だっていくら団服を着ていても、流石にあの距離は心配ですし、イノセンスなら、いい盾になりますから」
少年のイノセンスは傷付けば怪我として認知するけれど、大抵の攻撃では無傷だ。同等以上のレベルでない限り、そうイノセンスは傷付く事はない。そんな頑強さがあるからこその、判断だ。
それを知っている筈の老人の言葉に、何を導くつもりなのかと、少年はひた向きな眼差しでその言葉を待った。
「おぬしは、寄生型だ。イノセンスに何らかの不具合が起きれば、そのまま自身に還るな」
けれど差し出されたのは、全ては答えず、己で考えろというようにそれで終わってしまった老人の言葉。
戸惑いに眉を寄せ、少年は必死に考える。頭を使う事はそんなに得意ではないのだ。それでも彼らは事ある毎にこんな風に、思考する事を仕掛けてくる。
考える。老人の言葉、自分自身の情報、イノセンスの特異性、AKUMAの特殊能力。巡り反発しながら、合致するモノ同士を隣り合わせに繋げ、それが発展する要素を一つずつ当て嵌め、理論を構築する。
「…………………………、つまり、あの爆発の中、最後の攻撃が加わっていた、という事ですか?」
「精神世界がどれ程の間残されるのか、解析は不可能だろう。が、作り上げたのであれば、そこに魂の一部を残す可能性もある」
AKUMAではなくノアだが、その長子が精神だけを仮初めの世界に引き込んだ話は既に記録している。
その際、現実世界にもその長子は意識を有して存在し、同時に青年が引きずり込まれた精神世界にもまた、存在していた。意識の分断、あるいは分裂、か。それが可能な一例だ。
そして一番の例となるとすれば、AKUMAという存在そのものだろう。この破壊兵器を作り上げる源のダークマターは、千年伯爵の魂の一部だ。切り離し存在を維持出来る魂の、欠片。その確かな証拠だ。
…………ならば、可能かもしれない。現実世界とはまた違う精神世界の中、取り残された魂という、仮説。
老人の言葉に必死に追いつこうと考えた少年は、眉間に皺を寄せながらもなんとかその考えまで辿り着き、じっと老人を見遣った。
「だから僕が現実のAKUMAを破壊してもあの世界は存在していて、逆にあの世界の中のAKUMAを破壊する事で、過去も現在も無関係に解放された、という事ですか」
この解答であっているのかと、問うように尋ねる。一つずつを噛み締めるように自身の中、確立させた解を思い、少年はその不可解さに溜め息が出そうだった。
「断言は出来ん。が、仮定としては蓋然性が高い」
きっぱりと、老人が答えた。それを見つめ、この人はやはり教え導く人なのだろうと、少年は思う。
どれ程それが正しかったとしても、そんな風に断言出来る人は稀だ。
仮説、仮定、推測、推論。数限りなくあるあやふやなままの論述を、それでも根拠となる情報と事実を照らし合わせ構築する。そうして、より良き道を誰より早く見据え、他の世代の誰もが進みゆく一歩が誤らぬかどうか、見つめる事の出来る人だ。
敬意を乗せた眼差しで惚けたように老人を見つめていれば、それに照れたのか、老人は少しだけ視線をずらして壁を見つめ、そっと吐息程の静かさで言葉を進める。
「おぬしが心臓の痛みを告げたのとも、時間的に合う。室長にはそのように報告する以外なさそうだな」
「………コムイさん、落ち込んでいませんでしたか?」
「大人の事まで、子供が気に掛ける必要は無い」
溜め息のようにそんな事を言う老人は、きっと優しい。けれど、子供とて責任はあるし、背負うべきものもあるのだ。
「……………でも、元気だってちゃんと、顔見せには行かせて下さいね。一人で行くのは駄目です」
せめてそれくらいは許して欲しいと、乞うように言う声は少しだけ拗ねている。守られるこの感覚は嫌いではないけれど、年端もいかない幼子のような庇護が必要な程脆弱ではないのだ。
戦う事を知っている。そのための術も解っている。そんな生き物なのだから、せめて変わりなく健やかであると周囲に知らしめる事くらい、課して欲しい。
それくらいしか、自分が彼らサポートする側に与えられる安心がないのが、腑甲斐無いけれど。
「仕方の無い。…………で、AKUMAの方は、どうした。おぬしならばすぐに片がつくかと思ったが、手間取ったようだな」
軽い溜め息で同行を許可した老人は、本題に話を戻した。
それに微かに険しくした顔で頷き、思い出しながら、少年は辿るように拙い言葉を繋げていく。
「……はい、身体…と言うべきか解りませんが、何故か僕までずっとジュニアと同い年くらいだったんです。だからイノセンスが使えなくて」
悔しさの滲んだ少年の声に、ちらりと老人が鋭い眼差しをむける。
「また、無茶をしたな」
疑問ではなく、確信に満ちた声に、一瞬少年は息を詰まらせた。
つい先程その事を叱られたばかりだ。また怒られるだろうかと、つい視線が泳いでしまう。
「…………うっ。でも、流石に無茶出来る程の状態でもないです。イノセンスが無きゃ、僕も戦いようが無いですし」
思わず言い訳じみた事を言い募ってしまう。その眼差しが向けた先、佇む老人の瞳は柔らかかった。
隈取りの奥に潜められているその眼差しのいたわりと、ほんの少し揺らめく………悔恨。
彼らの性に巻き込んだと、あるいは思っているのだろうか。彼らを巻き込んだのは、自分だというのに。
そんな事はないのだと、そう伝えるように少年は慌てて口を開き、少年は無事であったその理由を教えるように続きを告げた、
「でも、あの、所々、年齢が変わるポイントがあって、運良く今の僕くらいになれた時に、戦いました。AKUMAも同じ時間軸の状態になるのか、その時のAKUMAはレベル3の姿だったんです。だから解ったんですけどね」
端折り過ぎてよく解らないかも知れない。そう思いながら、それでも老人が気遣う必要がないと教えたくて、少年は一気に話した。
そうして、思い出す。あの、AKUMAに内包された小さな男の子の魂を。
「子供、でした。魂は。…………あの子はきっと、あの空間でだけは、AKUMAを少しだけ押さえて、自由があったんだと、思います」
遊ぼうと、あるいは近づいて来た事もあったかもしれない。純粋に、仲間になりたくて追いかけた事があったかもしれない。
それでもそれは許されなかった。悲しいけれど、きっと最後には必ずAKUMAがその相手を貪った事だろう。
あるいは、だからこその、子供姿での安定した時間軸、なのか。
…………自分と同じ程の子供と、あの魂は遊びたかったのかも、しれない。
全ては、憶測でしかないけれど、それでも思うその痛ましさに、少年は項垂れてしまう。
「魂だけが入り込める空間、その特殊性故、か」
呟き、老人もどこか遠くを物思うように壁を見つめている。ただ労るようなその気配だけが、優しく肩を包むようで泣きたくなる。
それを堪えるように息を飲み、少年は頷き、答えた。
「もっとも、それでもダークマターの方が勝るみたいですから、どうしても最後の最後、AKUMAに抗えないようです。…………彼も、泣いていました。僕を最後の爆発に巻き込む時に」
「小僧、またAKUMAを救う為に爆発に突っ込んだか」
爆発に巻き込む、その言葉に老人の顔が顰められたのが解った。隈取りの奥の瞳が玲瓏に光った気がして、少年は思わず背筋を正してしまう。
隠すつもりでいたのに、口が滑ってしまった。聞かなかった事にも、聞き間違いとも、誤摩化せない。こんな時、全てを見たまま聞いたまま記録出来る彼らは厄介だ。
「…………えっと、あの、いえ、逆で、なんといいますか………」
痛む右腕の事も忘れ、両手をワタワタと動かしながら、なんとか言い訳は出来ないかと少年は言葉を探す。
どれ程必死に頭を動かしても、最後の最後、結局射抜くような老人の眼差しの前、降参するように本当の事を言わざるを得なくなるのだけれど、それでも出来れば怒る事が解っている事は言わずに済ませたい。
今回も、やはり足掻いても無駄なようで、無言の圧力に逃げ切れなかった少年は肩を落として項垂れながら、言い淀むように途切れがちにそれを説明した。
「…………ジュニアが、追いかけて来ちゃったから、えっと、爆発に巻き込めないな、と思って、AKUMAに抱き込まれたまま、振り払えないし、ジュニアから離れられればいいやって………えーっと…」
しどろもどろにどう言えば怒られないかと悩む少年の頭を、嗄れた細い拳が軽やかに叩いた。
それは憤りの拳というよりは、窘めの拳だ。優しさの滲んだ痛みに、微かに浮かんだ涙を噛み締めながら少年は老人を恨めしそうに見上げた。
「……痛いです、ブックマン」
甘んじてその腕を受け入れはしたけれど、痛くない筈がない。きちんと加減はしてくれたのだから、青年が味わうような痛みはないけれど、それでもそれはしっかりと痛んだのだ。
……………慈しめ、と。己自身を軽んずるな、と。いつだってその細く骨張った老人の手のひらは伝えるから。それに反する真似をする自分にとって、その拳の意味はとても、痛い。
「自業自得だ、馬鹿者。幾度その身を犠牲にするなと、周囲に言われた。おぬしもいい加減学習せんか」
きっと彼こそがそれを言い募り窘め諭したいのだろう。それでも彼はそれを言わない。先程のように感情的になる事の方が、稀なのだ。
それでも、その声の響きはいつだってあたたかい。冷たくさえずっても、その根底に眠る意思は、慈しむ事を知る老齢者の優しさに満ちている。
「解ってますよ、ちゃんと。………ジュニアが、泣きましたから」
噛み締めるように、少年が囁く。
「泣いて、くれたんです。僕が勝手に一人で戦って怪我して、右手、こんな風に傷つけたら。一人で戦わないでって、あんな小さな子供が」
そっと右手を持ち上げてその包帯の巻かれた腕を見つめながら、泣きそうな眼差しで少年は言う。
思い出す。あの優しく幼い声を。瞳を。小さく丸みを帯びた手のひらを。
「僕はいつもそういうのすぐに忘れて、一人で突っ走っちゃうのに、ジュニアはあんなに小さいのに、ちゃんと知っていて、僕に教えてくれたんですよ、ブックマン」
「………………あれはそれ程聡明でもなかったがな」
「あなたを見て育った子ですから。ああでも、確かに初めは、少し違ったかなぁ。ちょっとだけ、出会った頃のラビみたいな目、した子でした」
聡明であるが故に計算で全てを算出出来ると思い込んだ、少しだけ傲慢さを持っていた幼い子供の煌めく眼差しに苦笑する。
きっと彼は、知らない事などなかっただろう。理というものに添った全てなら、彼は確かに知り得ていたかも知れない。
ただ一つ、知らなかった。心というものの、不明確で曖昧な、思い通りになる事のない、厄介な代物の存在を。
そうして、それがあるからこそ、人は人として存在し全ての事象が起きて、流転し変遷し帰着するのだ。
全ての始まりはそこからだ。………それが無くして、世の中に歴史は存在し得ず、人の世の営みもまた、有り得ない。
「帰還してからだ、あれがまともに記録の意味を知ったのも、人の情を知ったのもな」
溜め息のような愚痴じみた物言いで老人が呟く。きっと、幼い青年を見守るその最中、打ち沈み開花を望まれなかったその感性を、痛ましく思いながら、厳しく導いたのだろう。与えられるのではなく、己自身で気付き掴めと、指し示しながら。
「知っていたと思いますよ、ジュニアは。少しだけ、目隠ししていただけで、ちゃんと初めから知っていた子だった筈です。………だからブックマンは、ジュニアを後継者に選んだんでしょう?」
「この馬鹿をあまり買い被るなよ、小僧。図に乗ってはしゃぐだけだ」
「それは勿論。承知しています」
軽口に乗るように笑んで答え、少年は頷いた。そうして、愛おしそうに老人を、ついで背後で眠る青年を見遣り、何かを決意するように、もう一度小さく頷いた。
「でもブックマン、ジュニアはちゃんと僕を守ってくれましたよ。身体だけじゃなく、心も。だから………僕はちゃんと、ラビとさよなら出来ます」
きっぱりと、少年が告げた。それを老人は微かに眇めた眼差しで記録する。
それを見つめ、少年は少しだけ俯く。声が枯れないか、顔が歪まないか、解らない。
けれど、それらは本当に些細な事なのだ。この身の中、与えられたものを思えば、それ以上を望むなんて大それている。
「本当はね、さっきの石…あれも、何かは知らないけど、あなた達にとって大切なものなんだってこと、解っているんです。ジュニア凄く、慌てていたから。だから返そうって」
もう何も無い首元を、赤く爛れたような左手で服ごと握り締めて、少年は微笑んでいた。
綴る声に、悲嘆はない。怨嗟も、当然のようになかった。ただどこまでも静かに響く、捧げるだけの音色。
「ジュニアは与えた事自体、駄目だって言ってましたし。僕は…でも、返したくなくて。だって、これ無くなったらもう、ラビとの繋がり、何もないでしょう?」
あの子供は、怒っていた、悲しむように憤っていた。多分、それは自分を守ろうと思っての、仕草だ。
それでもあの時の自分は、繋がりを無くせなくて。寄り添う確かなものが欲しくて。あの子供を傷つける事を承知で、全てを拒んだ。
…………それなのに、くれたのだ。
あの優しい幼い子供は、泣きそうな顔で、それでもいくつも沢山のいたわりと慈しみと、掛け替えのないただ一つの情を、捧げ与えてくれた。
受け入れないと解っていて、それでもあげたいのだと、祈るように注いでくれた。
それを思い出す。それだけで、こんなにも心の中、満ち溢れる情に、涙が溢れそうで、少年は不器用に笑んだ。
「………でもね、ブックマン」
声が、柔らかかった。
………それは知っているものの、声だ。
愛される事、愛す事。おそらくはこの少年がもっとも傷付きそれでも手放せず抱えた情と同種の、それでも違うカテゴリーとなるモノ。
この先もう二度と得る事も与える事もないと、彼自身が真っ先に諦めて手放し、全てを平等に慈しむ事を選んだ筈のモノ。
それを、手にし慈しむ、音色だ。それなのに、どうしてさえずるその声はどこまでも寂寞に染まるのだろうと、老人は訝し気に少年を見つめた。
「そんな風に目に見えるものに縋らなくてもね、一杯、ジュニアがくれました。ラビじゃないけど、いつかはラビになる彼が、くれたんです。それでもう、充分」
そう囁いて、少年は笑った。満ち足りたようなその微笑み。それに、老人は微かに目を細めた。
…………微笑む仕草を、ずっと記録してきた。この少年はよく笑う。そうして、それらの多くは、どこか物寂しく切なさを内包している。
それは………諦観とともに受け入れる事に長けた、幼子の笑みだ。
望む事無く、与えられたもののみを糧として生きる、悲しい子供の微笑み。
「あなた達の枷になんて、ならないですから。だから、そんな風に悲しまないで下さい」
その微笑みに微かに滲んだ憐れみを、おそらくは感じ取ったのだろう。少年は困ったように眉を寄せ、小さな笑みで老人を見上げた。
それに微かに息を飲みかけた老人は、緩く吐き出した吐息で呆れと窘めを装い、そっと伏せた眼差しで言葉を落とした。
「……わしが悲しむ理由が無い」
冷たく響くその枯れた声に、少年が笑う。仕方なさそうなその笑みの質は、まるで悪戯をした子供の言い訳を聞く親のようだ。
「嘘は駄目ですよ、ブックマン。僕だってこんな事、本当なら言いたくないんですから」
「…………………」
「いったでしょう?あなたは優しいって。………あなたが思う以上に、みんなにバレていると思いますよ?」
窘めるようなその声に、老人は溜め息を落とした。
今までバレた事などないのだ。飄々と躱し、必要以上の関わりもなく、この年齢まで上手くバランスを保って歩んできた。
それが崩れたのは、この少年の存在故だ。
全て、を。愛おしむかのように優しさと慈しみで見つめる事を諦めなかったその眼差しだけが、映し出される冷たさの更に奥底、蓋をし隠しさったその微かなぬくもりに気付き、寄り添った。
「…………精々バレるとして、おぬしを見た人間がそこから読み取るだけだ。まったく、アレイスターまで言っておったぞ」
それが、少年に笑みを咲かせる。そうして、咲いたその笑みに周囲が気付く。気付いたなら、そのか細い糸を辿り、深い思慮に辿り着いてしまう。
たとえそこまではいかなくとも、この少年の笑みの質は読み取れるのだから、結局は気付かれる。とんだ悪循環だと、嘆息したいくらいだ。
「ははっ、ね?言った通りでしょう?だから、心配しないで下さい、ブックマン」
少年は楽しげに破顔した。自身の愛しい人が愛しいと思われるその事が、嬉しい。その思いならば、枯れる事なく少年の中、溢れて満ちてくれる。
それで、充分。この先の未来、きっとそれこそが、糧になる。
「ちゃんと…………ラビは、あなたと一緒に歩み続けますよ」
ふうわりと少年は笑う。まるでそれが至上の姿のように、この師弟が二人歩み進む背中を愛おしむように、笑うのだ。
「言っておくが、小僧」
老人は顰めそうになった顔を押さえ込み、淡々と、記録を綴るようにその声を吐き出す。
「そのバカは、始めからそれ以外では生きられん、専門バカだ」
「知ってます」
キッパリと、少年はそれに即答した。
青年が老人の後を継ぐ以外の生き方を選ぶ気がない事も、…………選べない程心酔している事も、知っている。
そうして、その生き方を自分はとても尊いと、思うのだ。
大義名分でも使命でもなく。己の意志で選び、それを成す為の努力を忘れず、驕らず、先に進む事を選び弛まない、鮮やかな道程。
真っ直ぐに老人を見つめる少年の眼差しに宿る、その純然とした輝き。
それを見つめ、老人はその唇を開いた。厳かに響く、掠れた抑揚を押さえた声音。
「………それでも、その生き方を獲得出来た因は、8年前の事件がきっかけだ」
告げれば、微かに少年の肩が揺れる。本当に微かなそれは、あるいは当人は気付いていないかも知れない。
そんなささやかさの先、その眼差しは揺れる事もなく老人に注がれたままだった。
それに胸中で嘆息し、老人は言い含めるような音色で、そっと少年に教えるかのようにその言葉を口に含んだ。
「何を選び、どう生きるか。それは結局、当人以外に決定は出来ん」
まるでそれは、この先歩む道が変わる事とて有り得るのだと、言うかのように。けれどそれを、憂える事もなく、老人は言った。
その意味を掴みかね、少年は困ったように眉を寄せて老人を見つめる。………隈取りの奥、静かに佇む瞳はあまりに静謐で、何も読み取らせてはくれなかったけれど。
「………ブックマン?」
戸惑いに揺れる声で問うように名を呼べば、老人は微かに笑んだ。それに知らず緊張した少年の肩から力が抜ける。
微かに呼気を軽くした少年を観察しながら、老人は言葉を続けた。
「もう少し、おぬしは我が侭も言えるようになる事だ。そのバカは我が侭以外に持ち合わせとらんぞ」
「よく…解らないですが……、えっと、ちゃんと話し合えって言う事、ですか?」
「おぬしにその気があるならば、だがな。そろそろ愛想を尽かしてもいいと思うがのう」
軽い調子で戯ける声は、それがあり得ないと解っていて言う言葉だ。
それに目を細めて微笑み、少年は少しだけ切なくなる。…………それが出来たら、どれ程いいだろう。彼も彼の弟子も、自分など歯牙にもかけなければ、それがきっと一番よかっただろうに。
優しい人達は、優しいからこそ、こんな自分の為に心砕いてその腕を差し伸べてくれるのだ。それに返せるものもないのに、ほとんど無償の、それは慈しみだ。
「ふふ、出来るといいですね、それ。………僕の方が、先にあなたに愛想尽かされそうです」
「先にバカの方を切り捨てるわい」
素っ気ない程あっさりと老人は言いながら、それでも眠る青年を見つめる眼差しの奥、柔らかく綻ぶものがある事を少年は知っている。
それを見つめ、少年は微笑んだ。柔らかく、静かに。
「ブックマンは本当に、子供に甘いですねぇ。…………解りました。ラビはジュニアを思い出してしまったようですし、ちゃんと……話はします」
このまま全てを昨日までと同じに戻すのは、確かにいい事ではないだろう。
昨日までの青年と、たった今の青年では、意味が違う。そして、彼の中、自分の意味もまた、変わっただろう。
果たして自分がジュニアに告げた言葉を、彼がどう受け止めるのか。それは解らない、けれど。
「でも、僕はあなた達の邪魔だけは、しません。だから気に掛けないで下さいね、ブックマン」
それでもたった一つ、これだけは変わらない。過去も現在も未来においてさえ、変える事はない。
彼らは彼らの歩みがあるのだ。そしてそれは、この世界の中、秩序正しく紡がれなくてはいけない紬糸だ。
決して、それを途絶えさせるような真似は、しない。その歩みを僅かだって自分の為に滞らせたくなどない。
そう告げる少年の瞳は揺らめきも知らない湖面のように静かだった。
それに、老人は嘆息じみたと息を落とし、窘めるようにそっと呟く。
「そう思うならば、もっと我が侭に貪欲に生きてみろ。そうすれば初めから誰も気になど掛けん」
「十分、我が侭なんですけどね。これ以上なんて、罰が当たりそうです」
そう、言って。少年は小さく寂しく笑った。
記録したその微笑みに、老人は隈取りの奥、揺れそうな眼差しを微かな呼気とともに押さえ込み、沈める。
これは記録するべきだったか、否か。消去するに値はしないけれど、記録に残す事はおそらく、人としての情に揺らめく因となりかねない、類いだ。
それは遠い日に与えられた幸せだけで全てを昇華するような、微かな微笑み。
この先の幸の全てを諦め、その腕の中、大切に抱き締められたものだけで生きるものの微笑み。
………花開けば、鮮やかに咲くであろうに。
今もまだ、この少年は蕾を震わせ雪の中、春を待っている。
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取り合えず、大分謎解き終わり。
一番厄介なのはまあ………アレンがどこまでも離れる意識が強い事ですがね。
そして本当は次で終わる予定だったのに、ラビのせいで最低でももう1話は増える事になりました。
おのれラビ……………!ジュニアも随分ハチャメチャに動き回ったけど、こちらもこちらで扱いに困るお子様達め。
まあ手がかかる子程可愛いものです、そう納得して、もう暫し頑張りますよー。
11.1.29