人の気配に目を開けた。先程までグチャグチャだった脳内は、綺麗に整理が終わり、意識もしっかりしている。それでも起きなかったのは、待っているからだ。否、考えているのか。………おそらくは、両方だ。
薄暗い室内の中、闇に慣れた隻眼がドアを見遣れば、ゆっくりを開かれ、細い光が室内に入り込む。
その光によって出来た新しい濃い影の先、佇むのは小柄な細いシルエット。
…………見間違えようもない、師の切り抜きに、青年は再び目蓋を落とそうとした。
が、それは叶わなかった。当然のように室内灯が灯され,突如として光に満ち溢れた世界に、目が眩みそうだ。
「………………………………」
不満げに唇を引き結んで、横たわったまま近づく師を睨み上げるが、まるでそんな事に頓着した様子はない。
むしろ呆れたような嘆息をその唇から落とし、冷たい眼差しで見下ろされてしまう。
「目が覚めたなら起きろ。記録を話せ」
「…………なんでジジイなんさぁ、アレンまだ検査?」
仕方なしに起き上がり、わざとらしい大きな欠伸を一つ落とすと、青年は首を傾げて問い掛ける。
それに解りきった事をと、また冷めた眼差しが向けられる。………当然だろう。自分達は眠っていても、その間に音だけは記録出来る。
先程の二人の会話は、全て記録した。整理の終わった脳内に、一言一句違わずにきちんと分類ししまい込まれている。
解っていて、この師はあの会話をしたのだ。全てを自分に聞かせるために。あの少年の思いと、それが故に定めた決意を教えるために。
そうして……そこから自分の道を選べと、言うのだろうか。あんな声を、尊い祈りを聞いたあとでは、己の卑小さに垂れる頭もないというのに。
それでも、決断は自分がすべきだろう。これは自分が巻いた種だ。解っている。だから考えろ、と。その為の情報を全て差し出してくれた事は、感謝すべきだろう。
そんな青年の軽い溜め息に、いつもと変わらぬ呆れた光を眼差しに乗せ、老人はベッドまで歩み寄った。
「当たり前だ。終わればそのまま食堂行きだろう。戻ってくるまでに充分時間はある」
しれっと答えたその声に、青年は頭を掻きながら溜め息を落とした。当然のようにスムーズに語られる言葉は、どれもこれもが相手の思うがままであるようで、自分の未熟さを見せつけられている気分だ。
もっとも、それはもう、いつだってその通りの結果しか自分は招いていないのだけれど。
「ちぇー。どうせそれも計算してだろ、性悪ジジイめ」
8年前には記録していなかった記憶が、山のように横たわっている。それを理解しているから、師の言葉を拒否は出来ない。解っているけれど、今はそれよりも優先したい事もある。
そもそも、話の大部分は少年が話した筋で終わる。そこに補完すべきは、状況と客観情報と詳細だ。それでも自分では少年のようにAKUMAの魂は見えないし、実際戦った少年程の詳細は知り得ない。
その戦う姿すら、垣間見る事を許されなかったのだ。それを省みるならば、情報源としては少年以下だろう。
そう思い、辟易と落とした溜め息をギロリと睨まれる。それに戯けて肩を竦めれば、窘めの声が降った。
「貴様程性悪になった覚えは無いわい。さっさと吐かんか」
「……………身に沁みる言葉さね。てか、ほとんどアレンが話したじゃん」
流石師だ。今自分が一番凹む言葉をきちんと選んでくる。がっくりと首を落として消沈を示してみせても、相手は歯牙にもかけずに顎を逸らされるに終わったけれど。
実際、当然だろう。自分の質の悪さは自覚していたが、一層それが悪化している気がする。
どこまで自分は貪欲なのかと問いたい気分だ。…………過去の日の自分が、今の自分を厭う気持ちに、同調してしまうのもおかしな話だけれど。
「守り石の事だ」
そんな物思いに陥りかけた青年の耳に、不意に鋭い呼気と共に玲瓏な音が入り込んだ。
その意味を理解してしまえる青年は、息を飲みかけ、それを押し隠してヘラリと笑って老人を見遣った。
まだ、情報は何もない。師がそれを知る筈もない。どこからそれを推察して導いたかは解らないが、現物は既にないのだ。上手くいけば誤摩化せるかもしれない。
そう思い、青年は顎に手をやり、真面目な顔で視線を落とす。
「………………………………なんの事さ?」
悩んで考え、そうして思い当たらなかったという顔をして、微かに顰めた眉で問い掛ける。それを、老人は睨む眼差しに底冷えのする光を添えて突き刺した。
「とぼけるな。わしが見ていないと思っているのか」
「……………………」
声が冷たい。それは感情からくる声ではなく、記載者としての冷徹さ。この声の前では、後継者という自分の肩書きとて、あってないようなものだ。
今の自分は、おそらく師にとっては記録物のひつとつに過ぎない。
こくりと喉が鳴った。それに失敗したと舌打ちをしたい。きっと師はそれに気付いただろう。プレッシャーが増す事を覚悟した時、師はその皺の寄った唇を開いた。
「8年前、お前が初めに目を覚ました時」
「?そっち?」
突然言われたその言葉に、思いもよらないところから攻め入られ、青年は目を瞬かせた。
8年前、高熱で魘されたあとはすっかり元気になった。あれが精神的ショックからか、それともダークマターに長く関わり過ぎたせいか、それは解らない。が、おそらく、その両方だ。
そうして無事に目を覚ましたその時に、自分の手を包み傍らで微かに意識を落とすだけの浅さで眠っていたのは、この老人だった。
それに、あふれた涙を覚えている。愛されているのだと、実感した。後継者として、コマとして、この世になくては困る記載者の一つとして、必要とされるのではなく。
マナが教えてくれた事を、無意識に自分は探っていたのだろうと、今なら思う。
マナの注いでくれた全てが、自分は心地良く嬉しかった。それに満ち溢れているというその声に従って見つめた先、この師の根底に流れる慈しみを見た。
この世界を愛おしむ、その意志。戦争と争いと、同種同士のいがみ合いに満ちた、汚泥の底のこの世界を、この師が鮮やかに記載し記録を続ける源にある、愛おしみ。
自分は知らなかった。知り得なかった。そうして、手放す事こそが正しいと押し隠し殺し続けたものこそを、彼が育て花開かせようと導いている事を知った。
記録すべき事、その意味を、舞い戻り涙に溢れたあの日から、自分は知ったのだ。
あの日に、守り石の存在がおかしい事はなかった。きちんと首に掛けられ、赤く鈍く光っていた事を覚えている。
それを老人が言及しようとする意味が解らない。眉を顰めて不可解さを示してみれば、隈取りがすぅっと細まった。
「意識混濁の最中、お前が手にした守り石は、それまでとは違う色だった」
しかし、老人が告げた言葉は、青年が思いもしなかった事実だった。
「……………へ?」
思わず間の抜けた返事を返してしまう。きっと、顔も同じくらい間抜けだっただろう。その眼差しの先、揺らがない老人の目が佇んでいた。
意識混濁……おそらくはあの世界から弾き出され戻って来た、直後の事だろう。その時の事は自分も朧にしか解らない。意識の全てが揺らめいていた。
精神的ショックというにはあまりに深く、薬に慣らされたこの身体の中、まるで直に麻酔でも打たれたようなあやふやさだった。
その最中、守り石の色が違ったという。それは、まるで先程この身に還った守り石のような、現象。
思い……………仮説は、成り立ってしまった。いっそ気付かなければよかったと、眼球の奥底で揺れた意志に悔やんだ。
「今現在、お前が身につけていた守り石と同じ、色だ。そして先程貴様に溶けた石は、一瞬だが過去の石と同じ色をした。意味が解るか?」
やはり見逃しなどせずに記録していたらしい。自分は色までは見なかった。けれど、この身に還った記録故に、大まかな予測は成り立っている。そしてそれは、出来る事ならば黙秘の中に沈めてしまいたい、事柄だ。
「……………………………………………………………」
次代の記録者として、それを諳んじるのは決しておかしな事ではない。むしろ推奨されるべき事だろう。呼吸を意識的に平素と変わらぬように調整しながら、青年は冷や汗が滲みそうな心理を押さえ込み、それによって乾く喉を塞いだ。
師の言う、それ、は。………おそらくは自分が隠しておきたいと思った事に、由来する事だ。
告げれば巻き込むだろう。自分だけではなく、この師を、そして何よりもその歩みを狂わせかねないのは、あの真っ白な光に包まれた少年だ。
悔やむわけにはいかないけれど、彼の為を思い成したとは言い難い現在の自分の愚かな一手が、指し示す先の暗澹たる結果を、出来る事ならば何も起きない未来にすり替えて、忘却させてしまいたい。
思い、青年は微かに眼差しを眇めた。表情に変化など落とさなかった筈だ。ほんの僅か、眼差しだけが揺れた、動揺の証。
もしも相手が師以外の人間であれば、きっと躱せた。何も知らない振りをして受け流せた。
けれど…………相手が悪過ぎる。目の前の相手は呆れたような溜め息を小さく落とし、片目を眇め、悪戯を隠す子供を睨むような眼差しで青年を見遣った。
「成る程、何かをやらかした自覚があるわけだな。言え」
あっさり看破した師の言葉に、青年は決まり悪げに天井を仰ぎ見た。
自分一人に負わされるものなら、覚悟など幼いあの日に疾うにしている。けれど、自分以外の心寄せた人に掛かる負担を、重荷を、容認し見ないふりが出来る程の頑強さも揺るがなさも、未だ自分は身につけられない。
あるいは、それを知っているからこその、師の誘導か。一人抱えればなおの事、噤む唇の苦味に暗澹たる暗闇を飲みかねないと、思われているのか。…………明快な否定も出来ないのだから、笑い飛ばせる筈もないのだけれど。
そうして、軽い溜め息のように肺から息を吐き出し、逃げようもないと覚悟を決めて、青年は老人を見遣った。
強かとは未だ言えない、苦渋を微かに滲ませた翡翠。透明のその色彩に、老人の猛禽類に似た鋭さが映った。
「つーっても、俺も推測だけさ?」
一応の確認を告げてみれば、相手は当然のように頷いた。
「情報も寄越せ。判断はこちらでする」
8年前の記述だ。何も知り得なかった幼い弟子に、あの少年以上の詳細など求める気はない。ましてやエクソシストとしての手腕など欠片もない頃だ。求める事の方がおかしい。
元より承知と告げる音に、解っていた事とはいえ、青年は唇を歪めてしまう。拗ねたようなその仕草に、老人は怪訝そうに片目をあげた。
「うー、いや、俺…ってか、ジュニアさ、今の俺の事、大っ嫌いだったんさ」
まずは順を追ってと思えば、なおの事情けなさの方が際立つ話に、先程躊躇ったものとは違う逡巡が生まれてしまう。
「アレンを気に入っていれば当然だろう。よかったな、昔の方がマシな人間だった事が証明されたぞ」
言い淀む青年の声に、即座に老人が返す。何をそんな事で迷うのかと、呆れた声に青年も肩を落とした。…………解っているけれど、それを再三確認して他者からまで冷静に指摘されては、立つ瀬がない。
「それよくないさ?!むしろ悪化してっし!」
喚くように己の醜態と過去の日の感情の板挟みに牙を剥いて返す青年を、小指で耳を掻きながら片手間に聞き流し、老人は素っ気ない声で問い掛けた。
「で?」
………………問う言葉さえ、省略されてしまった。
心底呆れたというより、今更過ぎて突っ込む気にもならないらしいその態度に、青年は恨めしげに師を睨む。が、言い返す言葉などある筈もなく、呻きたい声をなんとか飲み込んで、口を開いた。
「………丸無視かよ。ったく、そんなんなのに、アレンが守り石持っているの見つけてさ。でもアレン、寄越せって脅したのにくれなくて」
思い出しながら、落ち込みそうだ。あの年齢で、初めて得た大切だと思った相手を、自分はあっさり傷つける事を選んで奪う気だった。
心、を。………どこまでも軽んじていただろう。
目に見える傷でなければ、それは痛まず痕も残らないと、考えていた。自分がそれらの傷全てを放棄して蓋をし、傷付く事を拒んでいたから。
きっと、あれは痛かっただろう。思い出したなら、自分ですら胃の腑が焼けそうだ。
腕の痛みなどでは、なくて。自分が、底冷えする眼差しで傷つける事を選んだその行為自体が、きっと彼には痛かった。悲しかった。辛かった。それを、今更ながらに痛感する。
………あの時響いた、悲鳴のような拒否に痛むこの胸すら、幼い自分は正確には理解していなかったのだ。
もっと優しく、いくらでもあの少年を包み癒す事も出来ただろうに、全てにおいて自分は我が侭で、彼から与えられる事ばかり願って望んで、強請っていた事に溜め息が出る。
もっとも、それは今もなくなっていないのだから、溜め息を落とす事自体、許されないだろうけれど。
「………………お前は何歳でも愚かだな」
返す言葉もないという調子の平淡な枯れた音に、青年は同意以外の意見もない。
「言わんで。自覚してっから」
同じように溜め息を吐いて、青年は乱暴に自身の髪を掻き上げた。
あの洞窟の中、幼い自分は随分と乱暴な真似しか出来なかったと思う。それが悪いなんて欠片程も思わなかった。
ただ、彼の悲鳴のような声に驚いた事だけ、鮮明に蘇る。あんな声を出させたのも、幼い自分かと言えば、おそらくは……否だ。
そんな自惚れが許されるか解らないし、それが今現在も有効かも、解らない。
あの傷も痛みも、全てが自分の身勝手さで、…………言い換えてしまえば、所有欲と独占欲の現れだ。
解っているからこそ、後ろめたさと怯えばかりが自分の中には強くて、あの少年の笑顔を上手に咲かせる術は、きっと幼い頃の方がまだ、長けていた。
そう思い、小さく息を吐く。歪みそうな口元を隠すように、組んだ足に乗せた片腕に顎を乗せる振りをして、口元を隠した。
それさえバレているのだろう、師の眼差しには微かな呆れが含まれた。
「………だから、奪うのは諦めたんだけど、アレン、また無茶して一人で怪我してさ」
思い出し、口腔内が苦味に満ちる。
守られる事しか出来なかった。気付きもしない愚かさに身体が震えた。
何でも出来るのだと、きっと驕っていただろう幼い自分。それは自信でも何でもない、客観的観点からの、自負だった。
だからずっと師の庇護の元に生きているのは肩身が狭かった。もっと出来る事があると示したかった。そんな最中の、弱々しい子供の出現で、守る愉悦に酔っていた事も、認めざるを得ない。
それなのに。…………守られていた。きっと、彼が過去と未来を合致させた時からずっと、守られ続けていた。
この身だけでなく。心さえ。………未来という雄大な道程さえ、守ってくれていた、あの小柄な子供の柔らかく高い声。
それが消えてしまうと思った時の、絶望。恐怖。
………初めて知った、喪うという意味。字面だけではない、実感の伴う言葉の前での、圧倒的な無力感。
「あの右手の怪我、AKUMAから逃げる時に、勝手に囮になって誘導して交戦した結果なんさ。本気でマナが死ぬんじゃって、肝が冷えたさぁ………」
落ちた溜め息は、細くか弱い。崖の下、横たわり答えないマナを前に泣いたのがつい先程のようだ。……………もっとも、実際彼に縋って泣いたのはほんの数時間前の話だけれど。
優しかった、相変わらず。身勝手な自分の背中を労るように包み、撫でてくれた指先。
それなのに、彼はやはり去っていくのだろうか。自分の腕などもう、いらないだろうか。
彼の決意はそう簡単に翻る類いではなくて。自分の歩む道は、ぶれようもなくて。どれもこれもが虚しいくらい、確固として屹立してしまっている。
どうしたらそれらを紡げるのだろう。過去の日に知った、彼に教えられた、永遠を辿る為の紬糸の織り方が、まだ見えない。
「マナ………アレンはそう名乗ったのか?」
不意に思索に陥りかけた青年の耳に、枯れた声が問い掛ける。
それに目を瞬かせ、視線だけを老人に向ける頃、その意味にようやく辿り着いた。
「うん?ああ、そう。そういやアレン言ってなかったか。俺はジュニアで、アレンはマナ。アレンってば結構頭の回転早くてさ。自分が未来からきている事バレないように、氏素性は元より、時代が解りそうな情報一切言わねぇの」
幼い自分には本当にお手上げだった。近しい時代に生きている事は解っても、それだけでは探しようもない。
彼の出自は捨て子というから判明させようもないし、どこに生きていたかは想像と推測からしか断ぜなかった。それでもおそらくはと推測したそれは、半ば正解で、半ば誤りだったけれど。
あの洞窟の中、強請る自分に告げる事のない情報を、それでも時折零した柔らかな笑みと声は、いつだってマナの世界の後継者に彩られていて、つまらなかった。どれだけ彼らが一緒にいたか見せつけられるようで、拗ねては彼に甘えて懐いたけれど。
…………その全てが、結局は自分への悋気であった事に、喜ぶべきか否かは、解らない。
「お前よりも有能な弟子になりそうだな」
自嘲気味な青年の笑みに気付いたのか、それを見ぬ振りをしながらさり気なく、茶化すように老人が溜め息を落とす。
「この世界にアレン巻き込んでも辛い思いさせるだけさね」
溜め息のように呟く老人の目には見えないいたわりに、唇が歪んでしまう。…………くつりと喉奥で笑う仕草は、偽悪的だっただろうか。
元よりこの老人がそんな真似、する訳もない。彼もまたあの少年を気に入り目に掛けている事は、違えようもなく、確かだ。
まさか師にまで悋気を向ける気はないけれど、それでも妙に仲のいい二人は、眺めているだけでも優しく紡がれる雰囲気があって、面白くなく感じるのも否定はしない。
我ながら心が狭いし占有欲の塊だと、呆れて肺の中の息を全て吐き出すような長い溜め息を落とした。
「で、アレンが怪我した時にさ、考えたわけだ、ちっこい俺」
思い、脳内に映し出される、見下ろした幼く細い、明らかに栄養の足りていない肢体。華奢過ぎて壊しそうなそれを見つめて、たった一人、幼い隻眼一つ、泣いた。
自分の腕の力なさ。存在の意味。どうしてこれほど思っているのに、伝わらないのだろう。
…………抱き締めて腕の中の閉じ込めて、なんて。そんな事を望む意味が解らないと思っていたけれど、それこそがきっとあの時自分が望んだ事だ。
一緒に歩んで欲しかったのに、一人傷付き戦う事を選んだマナが悲しかった。それしか選ばせられなかった事が、悔しかった。
必死に考えて、考えて。選んだ、置換。自分を守る石が、自分の守りたい人を守ってくれればいい。それが、たとえ自分が嫌う彼の世界の後継者のおかげと、マナが思ってもいい。自分の事など忘れてしまっても、それでもマナさえ生きていれば、いつか出会えるから。
…………自己完結で終わってしまう祈りではなく、互いに捧げ合い織り上げる祈りになればいい。まるで清らかではない心の癖に、マナを模倣するように捧げた、初めての祈り。
思い出すその意志に、すっと青年の隻眼が細まる。映るのは薄汚れた床だけだったけれど、自分自身の視野には、鮮やかに象られる、過去の日の記録。
薄暗い洞窟の中でさえ仄かに光っていたのは、そんな存在だと、自分が思ったからだ。精神だけのあの世界の中、思いは随分と色々な事を引き摺るらしい。
「守り石は損傷部位を癒し、神経の不随を予防する。場合によっては病気も治癒が可能さ。同性同士ではなんの作用も無い。でも、あの世界の中、マナは守り石を持ってた。俺と同じように携えていたなら、あるいは守り石が作用するかもしれない」
あの世界の中、物質はなかった筈だ。服は人間の文化の中で既に当然にあるものだ。意識が無意識のまま服を着た自身という像を作り上げてもおかしくはない。
が、守り石は別だ。自分のようにこの身に流れる血によって作り上げられているのであれば、それは我が身と常に交差し影響しあっている物質であるが故に、組み込まれるだろう。
けれど少年は違う。ただ押し付けられたものだ。その身にはなんの影響もない物質が、それでもその世界の中、存在した。
…………それならば、少年と守り石は共鳴したのだと、仮定した。
そしてその仮定が正しいのであれば、彼を守る意志に染まった自分の守り石が、その意志に添って彼を守る為に作用するのではないか、と。
軽々しく扱っていい筈のないそれを、差し出した。その重さも、意味も理解した上で、差し出したのだ。
決してその場限りの激情ではないのだと、教えるように淡々と響いた青年の声に、老人は軽く息を吐き出し、呟く。
「………………成る程、それで…」
珍しい、重々しい掠れた老人の声に、青年は視線を逸らしながら自嘲げに頷く。
「うん、取っ替えた。未来の俺の守り石は、ちっこい俺にはただの独占欲の現れで、マナを守るものだなんて、思えなかったし。…………実際、その通り過ぎて笑えないさ」
的確に、幼い自分は今の自分の感情を読み取っていた。同じになるまいと誓いながら、その実それが自分自身なのだから、もう笑う気にもならない。
ただ一つ、あの少年に惹かれ、愛おしく思い、その思いを手に入れる事を望んだ。それだけが重なり合った部分だった。
そうして捧げた、おそらくは最初で最後の、至純の祈り。
そんな事までは告げていないのに、読み取ったのだろう老人の眼差しが、隈取りの奥、微かな憂いを孕んだ。それに苦笑する。どちらの事を憂えたのかすら、今の自分では判断も出来ない事が滑稽だ。
「本当にな。それで守り石が逆転したのか」
「そう、多分、その辺り………マナの守り石に俺が気付いて触った頃から、俺がアレンに触れると熱を感じるようになった筈さ」
あの洞窟の中、眠る事もなかった。正確に刻んだ記録を辿るなら、時間は合致する。
同じ遺伝子を孕んだ石。相互作用を主とするその石の特性上、重複する情報は異例だ。
今回のケースを加味するのであれば、おそらくあるべきでないものが拒絶を受けるらしい。あの世界の中、時間軸は幼い自分に適合していた。その最中に未来の情報が加わり、それにより適合者の情報が混乱する事を避けたのだろう。
それを持ち込んだものは、その身に溶かし媒体となり、それ以上の関与を忌避する為の防波堤になった。
そう理解するのが相応の反応だ。現に、目を覚まし守り石が再び形を取り戻した現在、少年に触れても青年に高熱は感じられなかった。
思い、ふと思い出した事実に、片眉を上げて青年は老人を見遣った。………じとりとしたその眼差しに、老人の瞳が少しだけ細まる。
「てかジジイ、あんたも言ってない事、あるさ?………守り石、アレンの中、溶けたんだろ?」
「ようやく気付いたか」
咎める青年の声に、逆に呆れた声で老人が返す。
もしも正常に思考が機能していたなら、もっと早くに気付いただろう事だ。それがずっと後回しにされていたのは、処理すべき情報の優先順位を誤ったが故だ。
………幾度でも、どんな状況であっても、教え導く事が出来る題材があるならば、それを組み込むのはもう癖のようなものだ。
自分の年齢を考えたなら、いつまでこの未熟で幼い弟子を導けるか、解ったものではない。スパルタだろうが何だろうが、少しでも多くの技術と知識を与えなくては、この先この青年が生きて次代を導けない。
……………そんな未熟者を育てているのだから、いい加減自分も酔狂だ。それでもこの青年以外を弟子とし後継者に選べないのだから、困ったものだけれど。
「あんな微妙なヒントだけ残すなっつーの。8年前の記録なかったら気づくのもっと後だったさ」
むくれた声で返す声は、微かな悔恨が滲んでいる。…………未熟者は未熟者なりに、きちんと、師の示す道の障害物を乗り越える意味を知っているのだ。
今回の騒動に関していうならば、どう足掻いても自分が師にあらゆる面で迷惑をかけ、導き支え、許された事もまた、知っている。
………微かな溜め息で青年の抱える己への微かな悔恨を受け流し、老人は窘める嗄れた音を紡いだ。
「記録の整理も終えん頭で考えても無駄という教訓が出来ただろう。これからは怠るな」
いつもと同じ無色の声でそう告げて、今回弟子によって背負わされた全てを、まるで知らぬように受け流してしまう。
………いつまで経ってもこの老人に未熟者扱いされるのは、きっとこんな風に加護の元、育てられたせいだ。
この先たとえ彼の記録全てを受け継ぎ次代までの間、彼以上の情報を蓄積して進みゆくとしても、きっと永遠にこの老人を追い越す事など出来はしないだろう。
それは、有能無能の話ですらなく、老人の深遠なる精神故に、自分はいつまでもその足元に跪き教えを請うのだ。幼かった自分を後継者として見出し、今という未来を与えてくれた、その細く皺だらけの腕に感謝しながら。
その謝意が眼差しに見えたのか、そっと老人の眼差しが落とされ、隈取りと同じ色に染まった目蓋が瞳を覆ってしまう。
「しかし、そうか……同時に存在する筈の無い物体が存在したからこその、反発……いや、違うな」
呟く声は、平淡だった。それに青年は苦笑しそうな唇を引き締める。
……………どこまでも彼も自分も、記録者だ。決して情に流されてはいけない。
そして、それをいつだって教えるようにこの師は体現してくれる。多くの情を注ぎ育ててくれながらも、その一線をいつだって示し、無言のうちに在るべき術を伝えてくれた。
それに倣う青年の仕草に、老人の眼差しが微かに綻んだ事も、未だ青年は気付けないけれど。
「ああ、反発じゃなく、融合。あるいは合致後の分離、かな」
微かに口元を指先で覆い、紡ぐ音を吟味するように青年は噛み締める。どう告げるのが一番正しいか。選び、咀嚼する、流転するような言葉の渦の中の、もっとも記載するに相応しい音の抽出。
未だ老人程上手くそれを紡げない青年は、少しだけ眼差しを揺らしながら口の中、言葉を転がして指し示す。
「混ざった、という事か」
こくり、と青年が頷く。強かな眼差しの煌めきが老人を見つめた。
……………あっている、おそらくこれが一番現実の解釈として正しい筈だ。
世界の中、摩訶不思議なものは数多く、第五元素に位置づけられるエーテルというべき魂の存在が確認されている中でも、過去と未来を行き来するその繋がりを紐解く事はそう容易くはない。
時空は巻き戻らない。それは絶対的事実だからだ。
それでも、奇怪の中、巻き戻りの街が存在した事を思えば、自分達一族の秘法とイノセンス、成り立ちは違っていてもその希有さは同じなのだから、有り得ない事はない。
「多分、一度溶けた事でアレンの中、守り石との繋がりが残ってた。俺っつー媒体を通じて現実の中、有り得ない分だけ、変換した」
色が変わったと、老人は言った。それはおそらく月日を重ね、守り石との間、強固となった繋がりに由来する色の変化。
それが幼かった日にあったというならば、精神世界から持ち帰った守り石はあの世界の中すり替えた未来の自分の守り石。
けれどそれは少なくとも自分が高熱からの生還後、自分が見た時には既に従来の守り石だった。
ならば、その間だ。そして、それが故に、混乱し混沌と化していた記憶が、欠片も残される事なく、消えていた。
その癖、消えなかったものも在る。それらの共通項を見出したなら、浮かぶ仮定。
それを思い、噛み締めた唇の奥、重苦しい呼気を飲み下した。そうして………それらに染まらぬよう全ての感覚を削いだ無機質な音のまま、厳かに青年は呟いた。
「…………アレンの方の守り石、あっちには多分………アレンがくれたもんが蓄積されてたんさ」
「アレンが?何を?」
不可解そうな老人の声に、浮かびかけた苦笑は痙攣のように頬を微かに震わせただけで、失敗に終わった。
「…………………………心、と、情と、…………あと、恐怖、なんかねぇ」
溜め息のように呟き、ベッドの上、自分と同じように転がっていた、今はもう何も鎮座する事のない鳥のモチーフだけになったペンダントトップを指先で弾く。
空っぽになっていた機械的な自分の中に、情を植え、心を思い出させ、誰かを愛す意志を与えてくれたのは、あの少年だ。
そうして…………それら全てを拒絶の中、殻に閉じ込め、あらゆる情から鎧うように怯えさせた恐怖もまた、同じ人が与えた傷だ。
全ては少年がくれた。プラスであり、マイナスでもあるもの。
自分が自分の道を極め進む為には欠かすわけにはいかない、そして自身で制御し支配されぬよう手中に収めなくてはいけない、全て。
…………それをあの短い時間の間、自分によって傷を負い痛んでいた筈の少年が、注ぎ伝えてくれた。
もしその時間がなかったなら、きっと自分は今の自分になどならず、師の苦労は尚の事色濃くなっていただろうに。
何も知らぬまま、世界を愛で慈しむ事を忘れなかった少年は、押し付けられた全てすら気に留めずに、与える事を選ぶ事に、躊躇わなかった。
……………………その尊さに、息が詰まりそうだ。
「その代わり、俺が記録した全ては、無くなってた」
そしてそれは還ってきた。少年から手渡された守り石。なんの障害も抱えていない現状の自分に、それは溶けて必要なモノを与えた。
本来ならば、それは身体に作用すべきものだ。
血は身体を廻り生の根源を成すもの。精神に作用するものではなく、肉体に関与すべきものだ。が、同時に………一つ、成り立つその現象。
思い、どこまでも深い己のエゴと脆弱さとに、胃の奥が澱んで腐り落ちそうだった。
…………それでも、告げなくては。
自分は記録者であり、自分が見聞きした全てを分類し必要とあらば開示するのは、義務だ。そこにプライベートなどという愚かな意義は論点にもならない些事だ。
そうした道を、自分は理解した上で選んだ。苦く染まる口内を吐き捨てる事も出来ないけれど、呼気を無理矢理飲み下すようにして喉を鳴らせ、乾ききった唇を震わせた。
「アレンが持っていた守り石の中に、俺の記録、全部蓄積されてたんさ。確か、記憶は脳だけではなくて……」
「心臓にも、その器官があるな。未だメカニズムは知られておらんが。心臓移植によるメモリーの伝達は報告がある」
澱みかけた言葉を受け継ぐように、老人が繋げる。正確な、音色だ。何も介在せずに事実のみを鮮やかに紡ぐ、熟練者の音。
それに耳を染めながら、青年は小さく息を落とし、痛みかけた肺の奥底から体内に残る酸素の全てを追い出すように、震えぬ声を紡ぐ為、意識を集中させた。
「そう、守り石は血の結晶。心臓は血を循環させるポンプ。多分、そこさ」
多くを告げなくとも、老人ならばそこから読み取るだろう。こんな場所でまで甘えていると思いながらも、自身の腑甲斐無さを晒すにはまだあまりに自分は幼かった。
それを承知か、見ぬ振りか、解らないけれど、老人は壁を見据えたまま微動たりともせずにその言葉を咀嚼し、分析結果を淀みなく紡いだ。
「心臓を廻り過去と未来とが分離する際に、ごっそりジュニアを壊しかねない記録だけを盗んでいったという事か」
少年に溶けたならば、少年の為にこそ働くべきものだ。同じ行為をするのであれば、少年がこれ以上青年に関わるが故に痛む事を回避すべく、青年に関わる全てを忘却させるべきであろう。
…………けれど、守り石は守るべき対象を正しく知っていた。
己が溶けた器ではなく、己を成した遺伝子の為。
この先もそれが永続すべく、己に成せる全てをその為にだけ、注いだ。生物は本来生存本能によって成り立つのだから、それは確かに正しいかもしれない。
が、それは全て己自身の為にのみ発揮されている。伴侶となるべき相手に渡すものでもあるにもかかわらず、それと同じ以上の想いを寄せた相手に捧げながら、己の為にしか作用しない守り石の身勝手さは、そのまま最近の自分の行為にそっくりだ。
「…………我ながらえげつないさ」
深い溜め息でそう呟く。
最早守り石の事を言うべきか、そんな模倣をさせてしまう程にエゴに満ちた自分自身に言うべきか、解らない言葉だ。
それに呆れた溜め息を落としながら、老人は消沈した肩を顧みもしないまま冷たく言った。
「反省しろ、あらゆる意味でな」
「もうしまくったさ!てか、アレンの発言の方に俺は凹みそうだし」
…………子供のように、いっそ喚いてしまいたいくらいだ。
自分達が眠っているその間さえ記録出来るなど知らないあの少年は、老人へ示す素直さのまま、自分との繋がりを断ち切り見送る覚悟を教えた。
それを望んだのは、確かに自分だ。支えるべき時に、仮面の笑みでこの腕を手放した。それはきっと、手酷い裏切りだっただろう。
それを厭って離れるのではなく、それすら許し受け入れ、それでも紡いでくれたのは…………どこまでも澄み切った祈りだ。
自分の為の祈りなど忘れ果てた、願う事を知らない少年の、優しくも悲しい慈しみ。
そんなもの、欲しくないのに。彼には幸せになって欲しいと、あんなにも思ったのに。洞窟の中、過去の幸せだけで満ち足りてしまう少年の寂しさを思い知った筈なのに。
…………同じ顔を、きっと、させた。愚かな自分は幾度だって間違えて彼を傷つけるのだ。
「お前にそんな資格があると思っとるのか」
「思ってなくてもどうしようもないのが心ってもんさー」
戯けたように返す声は、掠れかけた呼気と同じか細さだった。失敗したと舌打ちしたいけれど、どのみち師には全て看破される。見栄の問題でしかないのなら、同じ事だ。
そう嘆息して、青年はふと眉を顰め、老人を見遣った。
「でも、一個だけ、解んねぇんさ、守り石のこと」
「………何がだ?」
「どうして、アレンに溶けたんか。通常、守り石が異性以外に入り込む事はないさ」
ぼんやりとしたその音に、老人は肩を竦めるようにして軽く息を吐き出した。
まだまだ発展途上のこの青年は、どうも心に占めるものによって先を辿る歩みの速度が変わり易い。
それは感情的になるとか冷淡だとか、人情じみた範疇の話ではなく、解ってしまっているが故に回避しようと蓋をする、己自身への防衛本能だ。
多感であるが故に揺れ易いその心を守り、傍観者を徹する為に育んだ意識は、おそらくはこの先もあの少年に対して紡がれ続けてしまう悪癖だ。
いつになったらそれに気付くか。………あるいは気付かぬまま、あの少年一人が苦笑のうちに受け入れてしまうか。
…………どちらであれ、まだまだ手のかかるヒヨッ子である事実に変わりはなかったけれど。
「そんな事か」
あっさりと呟いた老人の声に、弾かれたように青年が顔を向ける。
「へ?解るん?!」
見開かれた垂れ目の隻眼が揺れている事すら、おそらくは無意識だ。知っているが、蓋をする、それを教えられる事を恐れながら……求めている。
矛盾に満ちた、素直な眼差しだ。あと少し、この事態を上手く乗り越える事が出来たなら、あるいはそれは強かにしなやかさを増すだろうか。
思い、導くように青年も解っている筈の事を、告げた。
「アレンは精神世界で、どうやって現れた」
「?いや、普通に目の前にいきなり寝こけていたさ。AKUMAに追われてるところだったから、叩き起こして一緒に逃げたけど?」
首を傾げて答える眼差しはきょとんと瞬いた。ほんの微か、その眉間に皺が寄り、霧散する。
それを見つめながら、老人は吐息程の音で呟いた。
「やはりな。それを目論んで、イノセンスが取り込んだのだろう」
「??…………………、あ、そうか、だからか!」
端的な説明はまるでそれだけで十分解ると告げるようで、青年は怪訝な顔をしてしまう。
けれどそれらの情報を積み上げ羅列し、構築し直してみたなら導かれる、無駄の省かれた解答の在処(ありか)。
一瞬詰めた息を吐き出すように声をあげた青年は、顔を顰めるように笑いながら、天井を見上げた。あの洞窟とは違い明かりの灯された天井は、小さな傷すら克明に記録者の目に映った。
「おかしいと思ったんさ。俺が逃げてた洞窟内、時間軸が安定してっから、変な事が起きるのは大抵崖の方なのにさ、アレンは俺の目の前にいきなり現れた」
それは幼かった自分も奇妙に感じた事だ。仮説として打ち立てた中、マナはそこから除外される出現を示した。…………だからこそ興味を持った事も確かだ。一番初め、手を伸ばし走らせたのは親切心以上の、好奇心の充足の為の行為だ。
本当にえげつない。守り石を作り上げたこの身こそが、そうしたエゴに満ちているのだから、どうしようもないと、溜め息も出なかった。
「あの世界の中でアレンを生かすために、心臓の方のイノセンスが守り石を分解したんか。侮れねぇさ、イノセンス」
それでも感謝すべきはイノセンスの持つ傲慢なまでの執着心か。自分が少年に示すように、イノセンスもまた、少年を手放さず生かす為にあらゆるものを利用する。
それが今回は、たまたま都合よくあった危険地帯に存在する幼い自分と現在の自分を結ぶライン………守り石、か。
本来であれば決して有り得ない現象は、イノセンスの奇怪の一種。自身が選んだ適合者を守り生かす為の、傲岸な愛だ。
それを理解している師弟は、ほんの微か、沈黙を落とした。
言葉とするべきか否か、青年には判断が出来ない。もしもそれを音と変え認識したなら、同時に示さなくてはいけない覚悟がある
それが許されるか否か、ではなく。…………それが自分以外の人間をどれ程傷つけ巻き込みその背に荷を背負わせるか、解るが故の逡巡。
それを理解している筈の老人は、その玲瓏な眼差しを隈取りの奥底、静かに彷徨わせるように室内を一巡させてから、そっと青年を見遣った。
「あの世界ではプラスになったが、今後はどう転ぶかは解らんな」
唐突な、言葉。主語はおろか、接続詞すらないその言葉に、喉が枯渇するように干上がった。
潤わす為の唾液すらなく、呼気を啜るように吸い込んで、青年は掠れかけた声を小さく唇から零した。
「…………何が、さ?」
呟きは小さ過ぎて、おそらくは老人にも聞き取れなかった。それでも唇の微かな痙攣じみた動きだけで理解したのだろう。老人は僅かに顎を引き睨むように鋭い眼差しで青年を見据えた。
…………………怯え逃げる事を許さない、先達者の眼差しで。
「わしらブックマンの遺伝子が、一時的とはいえ、アレンの中に溶けた」
「………………………」
「それがあやつの遺伝子にどんな影響を及ぼしゆくのか、不明だ。何も起こらないかもしれないし、起こるかもしれん」
異例だ。そしてこれは、言い訳にもなる事柄だ。その意味を理解し、選べ、と。
………………この老人は言うのだ。未だ惑い揺らめき覚束無い、拙いばかりの弟子を思い、その道を指し示す。
決して優しくなどはなく、冷淡に切り捨てる音を紡ぐ事も厭わない癖に、それでもこの人がいつだって自分を慈しんでいる事くらい、知っている。
そしてそれが故の言葉なのだと、も。
…………それならば自分もまた、示さなくてはいけない。老人が与えてくれたのは、ある種信頼の部類にある、情報だ。
「…………なあ、ジジイ」
呟く声がまだ、掠れている。その滑稽さに苦笑して、青年は喉を鳴らした。………今度は僅かながら唾液を飲み下せ、微かな潤いに音が柔らかく響く。
「俺さ、アンタの跡継ぎ以外にはならない。てか、なれない。ブックマン以外になる気はないんさ」
それはもう幼い日に師の腕をとり全てを捨てた時から、決められていたこと。否、自ら決めた事だ。
その点は今も何一つ変わる事はなく、この先それが覆る事もまた、ない。
………誓いでも宣誓でもない、それは息をする事と同じ程に、当然の事実。
「知っておる」
呆れた仕草で軽やかにそう答えながら、それでも老人の眼差しは記録者のそれとして冷たく光っている。
それを見つめ、青年は笑んだ。
仮面の笑みでも、怯え故に戯けるのでもなく。どこかそれは豊かさを知るものの、柔らかさだ。
「でもさ、もう一個譲れない。多分、ブックマンになるためにも、譲っちゃいけないんさ」
「………………………」
「悪い、俺、とんだ掟破りのブックマンに、なるさ」
自分は未熟だ。きっとそれは永遠に変わらないだろう。
この心は傷を負い易く、それを避ける為に鎧えば世界は陰り記録は色褪せる。
片方を選べば片方が崩壊してしまう、そんなアンバランスを抱えて自分は後継者となってしまった。
それでも、その全てを超越して、自分を屹立させ記録を彩らせ、生きる事の意味と世界の在り方の本質を見誤らずに教えてくれる人を、知ってしまった。
自分が人として命を全うする為にも、記録者として闇を見つめ汚泥の中で呼気を啜る為にも、それは手放す事の出来ない、命綱だ。
「アレンは、手放さない。アレンが逃げても、諦めらんない。アレンがいなきゃ、世界を愛おしむなんてアンタみたいな真似、俺には出来ねぇもん」
疾うに世界に愛想を尽かせていて、無機質に全てを眺める事に慣れてしまった。無味乾燥した世界を記録したとて、この職の意味はない。そんなモノが必要ならば、人はブックマンなど必要ではないのだ。
ただ事実を知る為だけならば、文字でいい。ゴーレム達のような記録装置に蓄積すればいい。それだけだ。
人が人として人に伝える為に、自分達は在る。………世界を彩る意味を知らぬブックマンに、存在意義はないのだ。
それを成す為には、自分は一人ではいられない。守りたい人がいて、その人の体温を知って初めて、世界の美しさを思い出せる。自分は、そんな、大切なピースの欠けた生き物だ。
…………そしうて見つけた最後のピースはあまりに美しくて、共に歩む事を恐れてしまったけれど。
「選択権は、お前ではなくアレンにあるがな」
小さく告げる声は憐れみが滲んでいた。それが少年にか、自分にか、解らない。
解らないけれど、青年は苦笑した。どちらであれ、確かに厄介な話だ。………選ぶ方も選ばれる方も、きっと傷を負うだろう。
たった今だけでなく、生きるこの先の間、幾度でも選んだ道の険しさは、互いに傷と重責を背負わせる。
…………それ、でも。
「解ってるさ。でも…駄目って言われても諦めらんないんさ。何回喪ったと思うさぁ」
過去の日の絶望。己への嫌悪と罪悪感。それでも生きなくてはいけない使命と責任。…………歪なまま、それでも知ってしまった心と情と恐怖。
それが故に手放そうとして………結果、手放す事など出来ないのだと突きつけられた。愚かと解っている。身勝手など、初めから理解していた。
それでも、たった一つそれを告げた時とは違う確固たるものが、今はある。
「もうこの先二度と、亡くしたくない」
ひた向きな瞳が、強かな輝きを取り戻した。…………それは未だ揺らめき危ういままだけれど、ただ一つ揺るぎなく自覚した事があるが故に、柔らかさを灯している。
硬質な貴石じみた色ではない、育み命を知るものの、ぬくもりに満ちた新緑。芽吹いたばかりであるが故に未だ脆いそれは、それでも育てば大樹となる、芽だ。
「…………精々愛想を尽かされん事だな」
それを見つめ、老人は隈取りの奥、そっとその眼差しに宿る温度を隠すように半ば目蓋を落とした。
花開けば大輪になる、それは少年だけでなくこの青年もだ。だからこそ選び育み導いた、次代を担う後継者。
それでもそれは、美しい器であるが故に、脆く傷付き易く染まり易い。その傍ら、寄り添うように支え合う同種の芽がなければ実を結ばない、そんな不完全さ。
………きっと、この弟子はその傍らに存在するものがなければ、この先の道の暗さに染まってしまう。
それを回避し、より伸びやかに平等に中立を保ちながら、鮮やかな世界を紡ぐその為に必要なのだと、そう言ったならきっと、それもまた己自身の為にしか他者を利用出来ない冷たさと、思うだろうか。
共に行き育み合うという事は、それとはまた違うのだと、気付いただろうか。
それはまだ、解らない。…………解らないけれど、青年が選んだ解答と、この先の未来が、答えを示し道を作るだろう。
出来る事なら祝福に満ち花の彩る、愛おしき世界を歩めばいいと、蓋をした心の奥底で老人は小さく呟く。
「焚き付けといてよく言うさ」
老人の祈りが聞こえたわけでもないだろうに、青年は随分と穏やかに笑んで囁いた。…………少年はよく言う、この老人が優しいと。その意味を、知らないわけではない。
ただ、自分達は互いにそれを見る事は許されず、示す事も許されず、そっと見出したそれを口に含み大切に次代に注ぐ糧に変えるしかない。
…………それさえ、あの少年が教えてくれた慈しみだけれど。
「ならば、足掻いてみろ。未熟者のままでは永遠にブックマンは継げんぞ」
「解ってる。格好悪いけど、足掻くさ」
自分の事ばかり、だけど。あの少年は相手の事ばかり考えて、全部諦めて、笑ってしまう子だから。
同じなのだと、諦めて欲しくないのだと、この臆病な腕を伸ばしてみよう。
どこから言えばいいのか、何をすればいいのか、あまりにも多過ぎて苦笑出来ない。それでも全部、彼を手放さずその傍らにいるためなら、やってみせる。
乱暴に掻き上げた髪が揺れ、視界の先、赤が乱舞する。あの洞窟の中、鮮やかに輝いていたマナの白い頬と赤い髪。
笑ってくれる事がただ嬉しくて、馬鹿みたいに伸ばし続けた腕を、抱き締め受け入れてくれた優しい人。
この世界はあまりに過酷で無慈悲で、彼からその微笑みすら奪いそうな程、澱んでいるけれど。
守りたい、のだ。物理的に不可能でも、その心が折れず先を見据え、未来を祝すままに咲き誇る事を。
ボスリと、先程まで蹲っていたベッドの上、青年は再び身体を落とす。ベッドの端に座っていた老人の身体が一緒に揺れた。
そこに、いた筈の少年。寂しそうな声で、けれどきっと笑っていたのだろう。
声だけでは解らない。眠っている間の記録だけでは、彼の真意なんて掴めない。
…………早く会いたい。会って、確かに彼がそこにいて生きて、笑っていると知りたい。
「………………」
小さく、老人が息を吐いた。それはきっと、呆れと窘めだ。
この人の事を大切に思い情を寄せた事だって、あのマナと過ごした時間があったからこそだ。
きっとそれすら解っている師は、何を言うでもなくその細い、枯れ枝のような指先で横たわった赤い髪を一度だけ撫で、離れた。
そっと立ち去るその気配。もしかしたらもうすぐ少年がやって来る時間なのかも知れない。
それまでの間に一人考える時間をくれたのだろう。少年の言う通り、この師は子供に甘く、その優しさは決して誰にも知られぬように紡がれる。
…………落とした目蓋の奥で、小さく囁く程に感謝の言葉を唇に乗せ、閉ざされたドアの音を記録した。
何が出来るだろう。
…………どうしたらいいだろう。
離れる事こそが最良と思っている少年に。
伝えるため、教えるため、分かち合うために。
この腑甲斐無い腕で、与えられるだろうか。
自分があの少年に与えられた程の、喜びと慈しみを。
汚濁塗れのこの世界すら愛おしめると思った、心を。
過去に得たものだけで全てを賄ってしまう少年に。
………どうしたなら、響くだろうか………………
ラビ編の謎解き終わりー。
…………色々詰め込み過ぎたせいで自分でも頭が痛く(汗)
あとはアレンとラビの話と、ブックマン本職の方のエピソードで終わる予定です。
まだ1文字も書いていないので長さが読めないのが怖いところですが(苦笑)
11.2.9