眠る体勢で、また物を考えていた。もっとも、物を、ではなく、たった一人を、だけれど。
以前からずっと、出会ってからずっと、自分は彼に対して不器用だ。殻に覆われた笑みでは彼に笑顔を咲かせられないと、解った時の衝撃を、今も忘れられない。
そんな事に衝撃を受けてしまう自分に、戸惑った。
誰が笑おうと、泣こうと、それを記録し刻み、客観的事実との結合にこそ勤しむ自分が、躊躇いの笑みを鮮やかに咲き誇るものにしたいと、必死に腕を伸ばした事が、今思えばひどく滑稽だ。
もっとも、本当に、極普通の自分と同じ年齢の子供のように、抱き締めてみたい、とか。そんな欲求だけは目隠しして、気付かない振りをしていたけれど。
………ヘタクソな自分の優しさを、それでも彼が愛しそうに眺める眼差しが好きだった。
多分、心砕いても間違えて、きっと傷つけた事だってあっただろうに。それでも優しく笑む仕草は、目を奪って仕方がなかった。
あまりにも彼が当然のようにそれらを差し出して、自分は受け取り甘えていて。………ふと気付けば自分の中、彼が溢れていて。驚くより先に、怯えた。
こんなに大切な人を作ったら、きっと自分は壊れてしまう。その人が抱え背負う全てが、彼を傷つけ壊す度、狂っていくような自分の焦燥が、怖かった。
何かに奪われる前にと、この腕が壊す気がして。………あるいは、奪う気が、して。
決して優しい感情で包むだけで満足できない自分に、愕然としたものだ。もっとも、そんな事に気付いたのが、あの方舟の中の対峙なのだから、笑う事も出来ない。
………ノアに操られたわけではなく、心を殺され正気をなくし、それでも真っ先に手を下そうとした先が、あの真っ白な少年だ。
正確に、自分は知っていた。………あるいはアレは、自分ではなく守り石の傲慢か。
自分を壊し殺す、そんな存在。あの場にいた人物の中、もっとも危険性が高い筈のノアを無視して、真っ先に選んだのは、確かにこの身を盾にしても守ろうとしかねない、危険人物だ。
これ以上関わってしまえば、きっと、この本能がまた牙を剥く。あの時は押さえ込み克服出来た。泣き濡れる少年の叫びに、舞い戻れた。
それがまた可能かどうかなんて、断言出来る筈がない。壊れてしまう、自分が。………そうして、きっと、壊してしまう。たった一人、愛しい人を。
どれだけ破滅的な程に、利己的なのかと問われれば、返す言葉もない。
それでも、たった一つ言い訳が許されるなら、告げたい。
…………この心が、魂が、意志など無視して選び、この身も心も壊す程に傾斜した人だと、そう定めてしまう程に、愛おしんだのだ。
彼が生きて幸せになってくれるなら、それ以外何も望まず、自分は心を殺し生きていけると思える程度には、彼を捕らえる事を躊躇いその自由を願ったのだ。
もっとも、そのどれもが言い訳というべきかも解らない、傲岸さだけれど。
思い、青年はベッドの上、また溜め息を落とす。切なく揺れるその吐息に、微かなゴーレムの鳴き声が混ざった。
「しっ………!駄目だよ、ティム、静かに。………そう、うん、肩にいて」
ゆっくりと、音をさせないように開かれたドアの先、潜められた少年の声が微かに響いた。足音を殺し、気配さえ出来る限り殺して、少年が近づく。
………その微かに聞こえた声の、なんとあたたかい事だろうと、思う事は愚かか、傲慢か。考える自分こそが、滑稽だ。
ベッドの傍、そっと覗き込む影。頬にそれを感じた。………今目を開けたならきっと、彼の顔がすぐ傍にあるのだろう。
「ん、まだ、寝てる……かな。うん、置いてこうか」
小さく肩に乗るゴーレムに囁きかけ、少年の気配が遠のく。瞬間、我慢し切れなくて、手を伸ばしてしまう。
このままでは、帰ってしまう。仕方がないとか、眠っていたとか、きっと彼は当たり前の言い訳を胸に、遠く離れてしまう。
直感で、そう思った。そして困った事に、自分の勘はよく当たってしまうのだ。
掴んだ手首は驚くように跳ねるかと思えば、凍り付くように固まった。………懐かしい、反射だ。考えてみれば、不器用な自分の腕は、こんな風に彼を驚かせ怯えさせ、緊張させる名人だった。
「…………………えっ…」
声さえ揺れていて、掠れている。それに苦笑が浮かぶ。少年の反応は当たり前の反応だ。客観的に判断するならば、自分のここ数日の行動と、眠る前の行為を繋げる事が出来ないのが当然だと解っている。
解っているけれど、同時に叫びたい程解ってと、言いたい。
たった一人、この少年だけは、知っているのだ。あの世界の中、二人紡いだいとけない言葉の数々は、決して偽りなどなかったのだから。
「起きてる、さ?なんで、起こさないん?」
掴んでいた手首を、引き寄せようか悩みながら、そんな事は許されないだろうと諦め、その癖、手放す事を恐れて解けない。
中途半端な力の籠った腕を、それでも少年は困惑の眼差しで見つめながら、振り払いはしなかった。
「あ、いえ、あの………だって、寝てなかったなら、ちゃんと寝ないと」
躊躇いながらも、ちゃんと答えてくれる。相変わらずお人好しだ。………それとも、これもまた、彼の答えなくてはいけないという切迫観念に基づいた行為だろうか。
「もう充分さ。俺ら、基本数時間寝れば平気だもん」
戯けるように笑んで、青年は気力を根こそぎ指先に籠めて、少年の手首を解放する。……あたたかいその体温が、ひどく脈打つ鼓動を早めて緊張している事が、指先から伝わっていたから。
「はあ……あ、じゃあ、これ。ジェリーさん特製のサンドイッチと、ポットの方はコンソメスープです」
だからいつも自分より遅くに寝て、早くに起きていたのかと、寝起きが悪い癖に寝ている姿を見せない不思議な青年の習慣に目を瞬かせる。
キョトンとした少年の眼差しは、まるでなんの頓着もないようで、青年はそれに倣うようににっこりと笑ってみせた。………もしかしたら彼は、その鼓動がひどく跳ねていた事も、よく解っていないのかも知れない。
「お♪腹減ってたんさ。サンキュ〜♪」
差し出されたバスケットとポットに顔を輝かせ、青年は喜んで少年からそれらを受け取った。ベッドの上で行儀が悪い事は承知で、無造作にそれらを広げた。
正直、確かに空腹ではあった。何せ少年が昏睡に陥ってから…否、一緒に任務に向かう時から、ほとんど何も口にしていない。が、少年を前にして食欲があるとはあまり言えない。
それでも今は少しでも間を持たせる術が欲しかった。そうして覗いたバスケットの中身は、思いの外多めに作られているサンドイッチで埋められている。もしかしてと持ち上げて確かめた、明らかに一人分ではないポットの重み。
…………きっと、これは自分用ではなく、この少年用だろう。そんな事を思いながら、青年はサンドイッチを一つ、手にとった。
ベッドの傍ら、それを眺めていた少年は視線を彷徨わせ、肩に乗るゴーレムに縋るように頬を寄せている。居心地が悪い……というよりは、どうしたらいいか解らなくて困っている風貌だ。
それは、けれど青年も同じだ。何を取っ掛かりにすればいいか、よく解らない。つい掴んだ腕は、ただ傍にいて欲しいという欲求だ。
勿論、彼に伝えたい言葉は山のようにあるけれど、それらを上手く伝えられるか、解らない。伝え方を間違えれば、きっと彼は自己内省に基づき、己自身の責として全てを背負い立ち去ってしまうに決っている。
彼に、この心の意味を、どう伝えるべきか。何を伝え、何を隠し、彼はそれを知らぬまま、どうしたなら救い支えられるだろう。知ったなら、背負わせてしまうものがある。それは、避けなくてはいけない事だ。
気の遠くなる程の情報を蓄積した脳は、それでもそんな迷いに明快な解答など弾き出してはくれなかった。解っている。感情に即したこの心が、そんな利発な働きに従事する程余裕がある筈がない。
「あの、それじゃあ…………」
開く口を躊躇っていると、手にしたサンドイッチを食べきった頃、もういいだろうと踏ん切りをつけたのか、少年が小さく暇を告げようとする。
「待って。………一緒に、食べるさ?アレンだって足りてないっしょ?」
それに慌てて顔を上げる。きっと、かなり情けない顔をしていたのだろう。少年の顔が驚いている。
そのおかげか、彼は動かず、クスリと小さく苦笑して首を傾げた。さらりと流れる白い髪の合間、金のゴーレムが見え隠れした。まるで夜がそのままそこにいるような、満月とそれに寄り添う白い雲のように。
「僕、ちゃんと食堂で食べましたよ」
「一人で食べるの味気ないの。そこ、座ってて?」
青年の座るベッドの端、腕を伸ばせば届く距離。そこに、座って。…………離れず、逃げず、そこにいて。滲み出る哀憐の色に、少年は眉を垂らし青年を見下ろした。
まだ、心の整理なんて、出来てはいない。突然眠ってしまった青年が心配で、顔を見たらすぐに帰るつもりだった。もしも起きていたら、尋ねにきた言い訳にと持ってきたサンドイッチ達は、立ち去る為の理由にはなってくれない。
「…………ラビ?あの………」
戸惑う声に、青年はまた笑う。少しの寂しさの中、自嘲を籠めて。
「一緒に居るの、嫌?」
傾げた首が寂しそうだ。あの洞窟の中の子供を思い出してしまう、幼い仕草。
それを見つめ、少年は唇を噛み締める。そんな姿を見られたくなくて、深く俯き、絞り出すように小さくか細い音を、落とした。
「…………………………、その聞き方は、卑怯です」
痛ましい音に青年は頷く。間違えたか、失敗したか。どちらにせよ、あまりにも上等とは言い難い誘い方だ。
肩を竦めるのもままならない。身体中、緊張で軋みそうだった。それでも、干上がりそうな喉をなんとか宥め、常と変わらない音を紡ぎながら、青年は笑った。
「だな。悪い。でも、嫌じゃないなら、いて。話、したい」
その笑みが、ピエロのように滑稽な泣き笑いだなんて、気付かずに。一緒にいてと、言葉ではなくその眼差しの揺らめきで願うのだ、この青年は。
緩く静かに息を吐き出し、少年は肩に乗るゴーレムを軽く突つき、そっと頬を寄せる。
何かそれで伝えたのか、青年には何も聞こえなかったが、少年の肩から飛び立ったゴーレムは、迷いなくドアへ向かい、微かに開いたそのドアから外に出ると、まるでそれをきちんと閉めるための行為だというように、廊下からドアを押し、きちんと閉めてしまった。
「…………………………」
仄かに明るい室内は、照明を落としてはいても消してはいないおかげだろう。これくらいの暗さなら、表情は読みづらいが、行動は見える。
それが好都合かどうかは解らない、けれど。少なくとも全てが晒される状態よりは、ほんの少し、落ち着いて青年に向き合える気がした。
ゆっくりと深呼吸をしながら、そっと少年がベッドに腰掛ける。それを眺めながら、もそもそと、二つ目のサンドイッチを青年はなんとか食べ終えた。空腹の筈の胃は、それでもそれ以上を欲しがらないくらい、一杯一杯だった。
「…………ジェリーのサンドイッチ、いつもより豪華さ。アレンが食うって思ってんじゃね、これ」
ぺろりと指先を舐めながら、何を言おうかと惑いながら、どうでもいい話しをつい、続けてしまう。
それが解るのか、それとも核心を避けたいのか、少年は何もその事には触れてはこず、小さく笑って自身が持ってきたバスケットを見遣った。
「どうでしょう。部屋で食べれるのをってお願いしただけなので」
「完璧思ってるさ。………だってほら、ソースでアレンって名前入り。どんだけ特別扱いさ」
同じようにのぞいたバスケットの中、添えられていた苺のムースが、サンドイッチの合間から覗けた。そこの表面、おそらくは同じく苺のソースで、赤く少年の名が描かれている。
ハートマークまでつけられてるのだから、さぞこれを作った料理長は楽しかったのだろう。この少年が、珍しく我が侭をいって頼んでくれた、という事が。
教団の中、彼を悪く言うものがいないなんて、言えない。事実、自分の耳にだって入っている。それでも、彼を知り彼と関わる人達は、誰もが彼を庇い愛おしんでいる事だって、知っている。
彼は……それらの人達を渦中に巻き込みたくないと、きっと離れていく事を選択するのだろうけれど。
「僕が凄く食べるからですよ。特別とか、そんな事する人じゃないです、みんな」
思った通り、そっと否定を滲ませて、自分との深い繋がりを拒んでしまう、寂しい人。
自分の為に傷付く人を見たくないと、思うのは間違いだとは言えないけれど。………それを覚悟の上で伸ばす腕すら、首を振って拒まないで欲しいと、願うのは理不尽な事だろうか。
「…………アレンはさ、自分の価値って、考えん?」
ぽつり、呟く声は我ながら子供のように力がない。これでは駄目だと、肚に力を込めた。
たった二切れのサンドイッチではあったけれど、少年を思い作られたその思いが、まるで声を支えようとするように、そっと身体に力を籠めさせた。
「?意味がよく解らないです」
青年の言葉に、少年は目を瞬かせた。無自覚の仕草なのだから、その解答は当然かもしれない。そう思いつつも、青年は言葉を重ねてしまう。きっと、彼にとっては痛い、その言葉を。
「自分が、誰かに思われているとか、大切にされているとか、思わない?」
「………………………………」
「答えたくない?それは、知ってるからさ?」
じっと見つめた先、少年は唇を噛み締めているのか、俯いてしまう。
声……は、大丈夫、責めてはいなかった筈だ。ただ、願うような懇願は滲んでしまっただろうけれど。
それでも俯いたままの少年は、小さく頭を振った。拒む……というよりは、戸惑う、だろうか。
「………お願いですから、そうやって追い詰めるの、止めて下さい」
本当にギリギリ、聞こえるか聞こえないかの声で、少年が呟く。それはいっそ、痛ましい姿だった。
…………また、間違えたか。追い詰めるつもりなどなかったけれど、ただ、彼に彼を愛しむ腕の存在を知って欲しいと思っただけだけれど。
それでも、今の自分がそれを告げるのは、彼にとって……痛い、事だろうか。解らない自分の拙さに溜め息が出そうだった。
寂しくて見遣った視線の先、少年は俯いた首を更に落とした。ほっそりとした首筋の中、頸骨が背骨へと繋がる様が、よく見えた。
「息の仕方、忘れそうなんですよ…………っ」
きっと、唇は戦慄いているのだろう。響いた声は、いっそ泣いているようだった。
それに首を振る。が、首を振っただけで伝わる筈がない。相手は俯き、こちらを見ていないのだ。告げる言葉を間違えるからと恐れては始まらない。そもそも、言葉を恐れるブックマンの後継者など、笑い種にもなれない。
噛み締めかけた唇を、気力だけで制してそっと開いてみる。喉の震え、口腔内の乾き、声帯の萎縮。
全て確認して、音を調整する。………きちんと、彼が怯えずに聞き取れる音を紡げるように、優しく響くように。
「悪い、違うんさ。うーん………やっぱ、上手くいかない」
苦笑する声で告げてみれば、ぴくりと少年の肩が揺れる。躊躇いがちに、前髪が持ち上げられかけ、けれど途中でそれは止まってしまう。
まるで、それ以上自分の姿を映せば、全てが変わってしまうような、そんな躊躇いの仕草。
……多分、それは間違っていない、けれど。決して変化が悪しき方に転がる事とは限らない。そう祈って、小さく少年に声を掛けた。
「ごめん、アレン。………何から謝れば、いいんか…解んねぇんだけど。怯えないで」
少年の動かない白い髪を撫でようと、青年は腕を伸ばす。………微かに震える自身の指先が、視野に入って苦笑いしてしまう。こんなささやかな事すら、怖がる自分が滑稽だ。
滑稽だけれど、それでも恐れているのはきっと、彼が拒まないというその結果を、望んでいるせいだろう。そう考えるなら、そこまで楽観視する心を失わない意志こそが、滑稽か。
思い、撫でた髪は微かに冷たい。もっと室内を暖めておけばよかった。せめて、寒さを彼が感じなければいい。今はまだ、抱き締めるには少し、心が遠過ぎる。
「……………?」
その証拠のように、戸惑いながら髪を撫でる腕を見つめ、自分を見返す少年は……ひどく困ったような、見当違いの謝罪に困惑するような、そんな顔をしている。
………それに、今度は青年が泣きたそうに笑った。
「そこでその顔も困るさ。謝る意味も、解らない?」
掛けた声は、寂しく室内に響く。それを少年は眺めながら、躊躇いつつ、頷いた。何故そんな顔を青年がするのか、それすら少年には解らなかった。
「はい………別に、ラビが謝る事は何も…………」
「嘘さぁ?」
この期に及んで、それでも全てを己で賄おうとするように青年を責めない少年に、軽く息を吐いた。責めるのは、自分の立場ではないだろう。むしろ責められるべき筈だ。それなのに、まるで少年はそんなこと、考えない。
それが………なんだかひどく残酷な気がして、寂しくて、青年は首を傾げながら少年を見つめた。
解って欲しいと、思う事は、きっとおかしい事ではないのだ。それなのに、少年は、知ろうとする以前に、自身を断じて踏み込ませない。
知る事を、怯えるような、寂しい癖、だ。
「??なんで、っ…………」
まだ解らないその唇に、そっと近づくように顔を寄せる。触れる事はないけれど、吐息が混じるくらい、視線が溶けるくらい、眼前に。
それに、少年の肩が跳ねた。唐突な距離に怯える以上の、過敏な反応。
…………つい、それを見つめた瞳が、傷付いた色を乗せてしまった。出来る事なら、それに少年が気付かなければいい。
気付けば、彼はそれすら己を責める材料にして、受け入れる努力をしかねない。そんな理由でその腕に許されるのは、避けたかった。
「ほら。近づいただけで、そんな顔。それなのに、俺が悪い事1つもない?そんなん誰も信じないさぁ」
だから、見えないようにそっと落とした睫毛で、間違いを教える教師のような静かな口調のまま、小さく囁きかける。ゆっくりと身体を離し体温が離れた事で彼の緊張が緩まった事に、痛む心臓も今更だろう。
「傷、つけたっしょ?俺も、ジュニアも」
「いいえ」
自嘲げに呟く声には、即返された否定。キッパリと響いた声は力強く、耳に心地良かった。
けれど、あまりにそれは、己に無頓着な音だ。出来る事ならもっと、自身を守り慈しむ為にも、そんな音を紡いで欲しい。
思い、青年は睫毛を揺らす。微かな視界の中、真っ直ぐに見つめる銀灰が、美しく浮かび上がった。
………相変わらず、綺麗に輝いている。洞窟の中と同じ、凛然とした輝き。これはもう、魂だけだとかそんなこと、無関係の、少年自身が持ち得て煌めくものだ。この物質世界ですら、それはこの目に鮮やかに輝きを教えた。
「いいえ、あなたのせいではないと、思います」
ゆっくりと、噛み締めるように少年が呟く。
それがどんな感情から由来するか、青年には解らない。少年の廉潔さは、時に思慮など遥か及ばぬ箇所で羽ばたき、知らぬ内に全てを終えて包み込むのだ。
それは確かに心地良くあたたかい、けれど。それはきっと、痛みも寒さも傷も、一人背負ってくれたからこその、あまやかなぬくもりだと、今なら解る。
そっと、見つめた彼の瞳。それが一瞬揺れた。揺れて、そうして、耐えるように睫毛を落とし、静かに頤を地へ向けてしまう。
俯き、見えるのは彼の前髪だけだ。その唇さえ、前髪に隠されよく見えなかった。
「……………僕の、身勝手さです。あなたがそれを気にする必要は、ないんです」
微かに震えた声。覚えている、この仕草、この響き。思い、そっと、少年の髪を撫でた。
「……………………………、アレン、顔、あげて」
真っ白な髪を一房指に摘み、戯れるように引っ張ってみる。あの洞窟の中、ジュニアが願ったような、その仕草。
その意味を解って欲しくて、痛くないように、幾度も髪を引き、そっと……気付かれないように、口吻けた。きっと、間近になった気配に、彼は予想くらい、しただろうけれど。
「顔、見せて。ちゃんと…………俺になら、いいんしょ?見せて……」
だって、そう言った。そして言った事は、履行してくれる。そう告げるように強請る青年の声に、少年は唇を噛み締めて絞り出した音を捧げた。
「…………………ラビ、は、ずるい………っ」
けれどそれは、泣いている音ではない。必死で何かを押さえ込む、虚勢じみた音色。きっと彼も、気付いている。あの洞窟の中、ジュニアが願った事、それに問うた言葉。答えた、言葉。
気付いて、繋げて、紡いで。……ジュニアが願ったのは、そんなに不可解な事ではなく、きっと人なら誰だって、特別に思った相手に願う事だ。
「うん、知ってる。でも、だって、アレン………一つも俺にぶつけてくんねぇし」
静かに髪を引っ張る指を解き、そっと撫でるようにして頭を辿り、耳を通り越し、頬を包んだ。
抵抗は、ない。ないけれど、自分から動こうとはしなかった。……あるいは、それがせめてもの抵抗だろうか。
恭しく極上の宝石を掲げるように、静かに少年の顔を持ち上げる。覗き込んだ瞳は、やはり雨に濡れて湖面を水滴に満ちさせていた。
そんな物、全部舐めとってなくしてしまいたい、けれど。ずっと笑んでいられるように、自分に出来る事、捧げたい……けれど。
まだきっと、彼は許してくれない。………否、許すという言葉は当て嵌らない。
彼が、彼自身に、それを願ってはくれない。求める事、望む事、彼はずっとどこかに置いて生きてきた人だ。与える事だけ、願ってきてしまった、偏りの歩みしか知らない人。
「俺はさ、知っての通り自分勝手で臆病者だから。いいよって、教えてもらえないと、怖くて何も言えんの」
少年の持つ偏りに由来する全てを、自分が抱えられる、なんて。きっと彼は願わないだろうし、言わせてもくれない。解っているから、自分も大それた事は言わない。彼は堅実で、戯れのような夢見事に酔い痴れる人でもない。
いっそそうであったなら、もっとこの舌先三寸で、彼の心の負担だって、軽減出来たかもしれないけれど。彼の生き難きは、自身の歩みへの潔癖さだろう。
涙に揺れる銀灰は、もういっそ、睨みつけるように鋭い。なんでそんな事ばかり言うのかと、責めているようで、それはきっと、その中に何か希望を見出しそうな自身を戒めている。
耐える事に長けてしまったから、我慢するのは自分1人でいいと、思ってしまうのだ。彼が我慢する事で傷付く人達なんて、きっと彼は知らない。彼が持つ、それは物珍しい愚鈍さだ。
「…………………………っ」
そっと、頬を包む手のひらを少年の指が包もうとした。受け入れるには、まだ早いタイミングに、どうしたのかと見つめた。それはけれど途中で目標を変え、手のひらではなく手首を掴んだ。
引き離すつもりだろうか。………それは、寂しい。そんな事を思えば、ぎゅっと彼は眉間に皺を寄せて眉を顰めさせた。その拍子に、銀灰からぽろぽろと零れた雫は、まるで真珠のように色づいて見えて、不思議な感慨を湧かせる。
こんなものまで綺麗なのかと、驚いた。涙なんて、自分が流しても醜く愚かで、ただ視界を邪魔するだけの嫌いな物体だったけれど。
………そんなもので、嘆き悲しんだ対象が戻らないと、痛感しているからこそ、大嫌いなもの、だったけれど。
少年の涙は、ひどく綺麗だ。何が自分と違うのか解らないけれど、きっと成分だって異なるに違いない。………舐めとれば、あるいは甘いのだろうか。
そんな事を思っていても、手など出せる筈もなく、困った眉を垂らした先、少年は何とも言い難そうに顔を顰めている。………もしかして、全部顔に出ていたのだろうか。
「あはは、アレン、顔に、ヘタレって、書いてるさぁ?まあ、あってっから否定せんけど?」
勘がいいのも困り者だ。否、彼の場合は、勘ではなく、感受性、か。知らぬ内に読み取ってしまう、それはひどく不安定なようでいて、勘以上に確固たる本質を捕らえてしまうもの。
相変わらず手強いと、仕方なさそうに青年が戯けてみせれば、ムッと少年の顔が顰められる。
「っ、なら何、触ってる、ん、ですかっ」
…………咎めるというよりは、揚げ足取りだ。どうしたいという希望よりも、この状況で黙っている事に居たたまれなくて出しているような、言葉で雰囲気を変えてしまいたいような、そんな声。
それはきっと、青年が願う事に気付いているからだ。そう思えば、少し、青年の中、言葉が軽くなる。
何も知らない者に告げるよりは、予感を持つ者に告げる方が安堵する、なんて。甘えもいいところかも知れないけれど。
「だって、泣いてる。………マナは、泣いてくれなかったさ。でも、アレンは、泣いてくれるん」
結局全部、それだ。ジュニアに与えてくれた、言葉の数々。いとけなく純粋な、見ている方が心苦しくなるような、至純の意志。
遠く離れる事を選んでさえ、その歩みに祈りを寄せ、心砕き慈しみ、弛まぬ事を願ってくれた。
いつかは共にいられなくなるその未来に怯えた自分と違い、彼は初めから、その未来を前提に重なる歩みの間、互いに寄り添い高め合う事を願っていた。
彼はだから、傷付いただろう。自分が選んだものは、彼の祈りとは遠く掛け離れたものだ。
自分の使命への責任感くらい、十分持っているつもりだ。けれど、今回はそれを盾に、心を偽った。それがいつか必ず亀裂を作り己を崩壊させ、歩みを歪ませると解っていながら、目先の安堵を選んだのは、自分の愚かさだ。
マナは……言っていた。この先の時間、悔やむ事なく進む為、後悔しない道を選ぶこと。それこそが、振った相手への誠意だと。
悔やむ道しか選べなかった自分の為に、傷付いただろう。悲しんだだろう。自分自身の傷なんて、気にもかけずに。
その姿が、幼い自分には羨ましかった。そんなにも心寄せてくれる人なんて、自分に与えられる筈がないから。………そう、思っていたのに。
「俺に。泣くの、見せてくれる。…………自惚れさせたくないんならさ、隙見せちゃ駄目なんさ」
こんな自分に、こんな風に与えてくれる、人。自分が彼に与えたものが優しさと痛みとで分けられるなら、きっと圧倒的に痛みの方が多いだろうに。
それでも彼は自分を選んでくれて。そうして、浅慮な選択すら、拒まず。ただその歩みが歪まぬ事ばかり、祈ってくれた、無欲な人。
こんな腕を、受け入れてくれる筈、ないのに。それでも少年の指先は今もまだ、手首に添えながら、振りほどく事はしない。
拒んでしまえばこれ以上、あるいは自分になど巻き込まれずにいられるかもしれないのに。…………もっとも、自分がそれを受け入れられるのか、そちらの方が問題だけれど。
「どこ、がっ……」
不意に、少年は身体を震わせて呟いた。多分、彼としては怒鳴るつもりの言葉だったのだろう。掠れた声は、どこか音が鋭かった。
「ん?」
「こんな、震えた手、で!何が自惚れ、ですかっ」
ぎゅっと、手首を掴まれる。彼の手のひらだって震えているのに、それでもそれとは別の震えに、彼は気付いてしまった。…………だから、どうするべきか悩み、躊躇い、添えた指をそのままにしていたのか。
「ありゃ、バレた?」
苦笑して、悪戯がバレた子供のように告げてみる。思った通り、睨まれてしまった。
それに笑いかける。多分、泣きたそうな、そんな顔。視界がぼやけるのが大嫌いな涙のせいだなんて、思いたくはない。これは、喪ったが為に辛いわけではないのだから。
………全部、自分が彼を傷つけた事に、結局自分がまた傷付いているだけの、悪循環だ。
「だって、俺が悪いんだもん。出来ればさ、サクッとアレンが俺に怒って、ぜ〜んぶ感情吐き出して、アレンの気持ちも希望も聞いてから、俺の我が侭と希望と、折り合いつけてみようかなって思ったんだけど」
はぁ……と、わざとらしい溜め息までつけて戯けてみせた。せめてそれくらいしないと、本当にみっともなく喚きたくなる。
もっと言葉が欲しいと、自分に対して何を願うのか、望むのか、どうしたなら、許されるのか。…………自分で考え与えなくてはいけない全てを、少年自身に押し付けてその答えが欲しいと強請りそうだ。
そんな風に甘えるのではなく、彼に支えられるだけでなく。自分こそがそれを与えられる存在に、なりたいのに。そんな器用さもない腑甲斐無い自分が、不様でしかたがない。
「アレン、怒んないし。…………俺のが、泣きそう」
呟き、必死に瞬きを堪えた。きっと、睫毛を落とした瞬間に、情けないけれど零れる雫を自覚している。
それを見上げながら、相変わらず睨むような眼差しで、それでも少年の頬は……既に涙で彩られている。拭う指先も拒まない癖に、擦り寄ってくれるわけでもない。
こんなに泣くような事も、何も無いのに。彼は彼の我が侭を言って、それを自分に押し付けてしまえば、それでいいだろうに。
…………拒む権利も受け入れぬ意志も、許される立場は、この少年一人にある筈だ。
「初めから、全部、僕は許してましたっ」
それなのに、彼は涙に濡れたまま、そんないとけない声を紡ぐのだ。
戦慄くかと思っていた声は、思いの外澄んで響いた。それを見つめ、真っ直ぐに自分を見上げる眼差しに、ほんの少し、酔ってしまう。
眠りに落ちる少し前、あの時に微かに睨まれたきり、合わさった覚えのない眼差し。ジュニアは……純粋に喜んでいたと、思い出す。
自分達の性を知りながら、それでも見つめられる事を恐れず厭わず、ただ当たり前に目を合わせてくれる、その希有さ。知らない少年にその感謝を捧げても、きっと解らないのだろうけれど。
「うん、知ってる」
小さく頷く間すら、その目を逸らしたくなかった。銀灰に映る自分の顔が、水の膜に邪魔されて歪んでいるのだけ、寂しいけれど。
「それを、今更嫌だって怒る筈、ないんです。自分で納得して、許したんです。ジュニアにだって、全部、自分で選んだ事しか、してない。だからっ………」
ぽろぽろと落ちる水滴。涙が真珠に変わるのは、確か人魚だっただろうか。人魚は恋に破れて海の泡になる。……何も望む事なく、全て受け入れて。相手が幸せである事だけが、残った事実。
ならばこの少年も。こんなに綺麗な涙なら、真珠にも変わるかも知れない。何も望まず、傍にいれた事だけで満足して消えてしまう、そんな儚さ、いらないのに。
…………たった一言、告げてみれば、それだけで変わる事だって、あっただろう。
幼い自分は、マナに与えられた言葉の数々で、随分と人として当たり前の事を知り学び、マナを、愛したのだと、思うから。
それでもやはり、少年は少年で、続く言葉に天を仰ぎたくなってしまった。
「だから、あなたが選んだものは、好きにしていんです。過去の事、思い出したからって、優しくする必要も、負い目を持つ必要だって、な………」
「ストップ!……あー、やっぱ、そっちにいっちゃうかぁ………」
きっとそうなるだろうと、思った。少年は初めからずっと、許すばかりだったから。
こんな自分の身勝手な言葉も、態度も、全て文句も言わず受け入れて、無視するような真似だってしたのに、それでもあの洞窟の中、八つ当たりさえせずに慈しんでくれた、幼い自分を。
だからきっと、もっと言いたい事を言ってと願っても、全て自分が選び決めた事なのだと、噛み付く事があっても憤りを吐き出す事などないだろうと。
解っていたけれど、思った通り過ぎて苦笑してしまう。もっと彼は、自分に対して怒っていい筈なのに。
彼の願いは綺麗過ぎて、どこか、現実味が無くなってしまう。…………それはきっと、彼自身への幸せに関与しない、願いだからだ。
人は、必ず自身に廻るものを望むのに、少年はそれすら望まない。否、望めない、なのだろうか。 ………まるで、願う事が罪のように、彼はずっと、誰かの為にしか、祈らない。
「?何が、ですか?」
こうして言ってみても、何を指しているか、少年には解らないらしい。眉を顰め、不思議そうな声が綴る、無色の音。
それを見つめ、どうしたならそれに彼の色を灯せるか、考える。真っ白なばかりで自身の色を持ち得ない、どこか世界に溶けて消える事を願うように希薄に生きる人の色。
与えたいのは多分、そんな単純な事だ。そして、単純な事こそがもっとも成し難いと、残念ながら、この少年によって青年は教えられた。
思い、苦笑する。なかなか厄介で難解な人を選んだものだ。自分も十分厄介で難儀だけれど、違うところではきっと、彼の方がひどく顕著に頑なで侵し難い。
「アレン、全部、自分で抱えないで?っていったら、怒る?」
自分の望みを押し付けないように、ゆっくり言葉を探した。どうしたなら伝わるか。伝えてはいけない事、気付かれてはいけない事、隠し通さなくてはいけない事。そんなモノがあるからなお、言葉はひどく難しい。
それでも、それを知られてしまえば、きっと彼はまた、許し受け入れてしまう。
…………そんな風に、彼の悪癖に付け込んで傍になんていさせたくない。いつかきっと、自分はそれに耐えられなくなって、また……彼を傷つける事をするに決っているから。
解っている事くらい、避けたい。もう二度と傷つけたくないと、願っているのだから。
「?意味が解らないです」
少年の声が随分と静かに紡がれた。………瞬く瞳から、涙が消えてきた。水の幕も引いたのだろう、銀灰に映る像が歪まなくなり、少しだけホッとした。
感情が昂るとすぐ、自己否定の方によりがちだ。自分にもある部分だけれど、彼のそれは少し、根が深い。
「俺の荷物まで抱えて、無理しないで。俺は俺のものくらいは背負っているさ。アレンの分まで背負える、なんて無茶は言わんけど。でも………」
少年はきっと、自分が犠牲になって救えるものがあるなら、あっさりそれを選ぶだろう。そこにたいした理由はない。ただ、それを見ない振りをして生きる事が出来ない、不器用さ。
己が背負った痛みを知っているからこそ、いっそ愚鈍な程に形成されてしまった、誰かの為にしか生きられない魂だ。
それに、一番難しい事を、多分願っている。
…………自分の為に、生きて欲しい、なんて。
当たり前過ぎて、それを真っ先に願い祈りたい現実が、あまりに悲しいけれど。
「重いこの荷物、お互い背負ったまんま、一緒に歩きたい」
呆然と目を見開いている少年を見つめ、そっとその手をとった。
もう手首を掴む腕に力など入ってはおらず、添えた指先に跳ねる事もなかった。きっと、そんなところに感覚を回せる程、今少年の知覚は動いてはいないだろう。
じっと見つめた銀灰に揺らめきはない。……ただ、言葉の意味を知ろうと必死に思考を巡らせるように微かに眉を顰めているだけだ。
………その悲しい眉間の皺に口吻けて、全部投げ出していいからと抱き締められる程、自分が身軽な人間なら、よかっただろうか。
考え、そんな事、望まれてなどいないのだと痛感する。自分が彼に願うように、彼もまた、自分に願うのは、真っ先にただ一つ、己の為に生きて欲しいという、その原初の願いだ。
「どっちかが諦めて荷物捨てんじゃ、なくて。でも、一緒に」
溜め息のように、どうしようもないその一点だけは、互いに取り零さず逃げず、退かない、その意志を捧げた。
それがある事が、まず、第一条件だ。
その前提がなければ彼はやはり、何をこの先選ぼうと、傷付く。それはもう、あの洞窟の中、苦しい程に見知ってしまった。こんな自分の為に捧げられるには、あまりに過ぎた祈りだけれど。
「………………なあ、ごめん、言わないでって、言われそうだけど」
手のひらの中、佇むまま力なく存在する指先に、そっと小さく口吻けた。あどけない程に無防備な眼差しは、まだ少しだけ悩ましげに眉を顰めている。
それに、告げていいかどうかなんて、自分に判断出来る筈がない。結局これだってきっと、自分の我が侭に変わりはないのだ。
それでも、告げずにいられる言葉でもない。諦めたくないなら、綴らなくてはいけない。告げなければ、伝わらない。…………伝わらなければ、紡げる筈がない。二人途切れぬ絆を織り上げる、大切な紬糸を。
ごくりと、息を飲んだ。喉が干上がっている。今更まだ、躊躇ってしまうのは、己の情の強欲さ故だ。
…………せめてこの言葉は、彼にとっての痛みでない事を、祈った。
「俺、アレンがいいん。もうずっと、ジュニアの時から、アレンしか選べない」
告げた言葉に、口吻けた指先がぴくりと反応を返す。それに気付かない振りをして、そっともう一度、唇を押し付けた。
落とした目蓋には、少年の姿は映らない。もしも拒絶の意志を見てしまったら、懇願してしまう。そんな風に追い詰めては、いけないから。きちんと、彼の意志を、知って。それが自分の望みと違うなら、手を離して。
その上でまた、歩む寄れる距離を、探ればいい。彼の負担にならないように、けれど、彼の為、自分の腕が必要な時に、伸ばせるように。
…………彼が与えてくれた無償のように、今度は自分がそれを、与えられればいい。
「俺の世界の中、アレンがいなきゃ、何も始まらないんさ。全部……あの時、アレンがくれたものから、俺は始まったから」
「……………僕………?」
呆然と呟く声が、少しだけ悲しそうだ。まるで罪を見せつけられたような、そんな声。
それに、慌てた。彼はあの世界の中、自分に何か影響を残す事ばかり、気に掛けていた。この想いすら、彼の無意識の誘導だなんて、思われたくはない。
「悪い意味じゃ、ないさ。アレンがくれたから、俺は今の道をちゃんと歩ける。進んでいける。だから、そんな深刻な顔はせんで。悪い方、考え過ぎさ、アレンは」
全部、これは全部、自分が選んだ思いだ。………彼を見つめ彼の想う姿に惹かれ、彼の見つめる世界を、愛しいと思った。
そこに少年の意図などある筈がない。ただそこにいて与える事だけを望み、慈しむ腕に罪があるなら、この世にどんな優しさが存在するというのだ。
切羽詰まったような早口に、少年は首を振ったようだ。また、泣いてしまうのだろうか。怖くなって、閉ざしていた眼差しを彼に向けた。
やはり、銀灰が海に溺れそうになっている。振られる頤が悲しげで、違うのだと、同じように青年もまた、首を振った。
「でも、だって、それは、」
喘ぐように息を継いで、必死に何か綴ろうとする少年の言葉は、形にはならずに戦慄いている。
その唇を、指先を包んでいな逆の手で、そっと塞いだ。頬を撫でるようにそのまま指先を蠢かせれば、切なく寄った眉が首を傾げるように問い掛ける。
まるで、泣かないで欲しいのだと、彼こそが願うように。
それに深く息を吸い、吐き出して、不器用に笑ってみせた。ヘタクソな、まるでカッコのつかない笑みだったけれど、それでも少年の眉からほんの少し悲しみが消えたからホッとした。
「俺は未熟モンなの。ジジイみたいに、一人で全部出来ない。アレンが見る世界が、欲しい。いつかいっていた事、叶えて」
そっと、溜め息程にそっと、静かに言葉を綴る。落ち着かせるように、もう一度唇を押し付けた。解るかと問われたと思ったのか、指先が、躊躇いがちに蠢く。拒否、ではなく、言葉の意味を問うようなその動き。
「え……?いつ、か………?」
傾げた首が、ほんの少し頬に触れる手に擦り寄る姿に思えて、青年は笑んだ。こんなささいな事にすら救われた気持ちになるのだから、依存もいいところだろう。
それでも………出来る事なら、自分こそがこの少年の拠り所と、なりたいのだ。もう何も得る事を望まない少年に、願う事を教えたい。そうする事で見える世界の鮮やかさを、もう一度教えたい。
過去の日、だけではなく。未来とて輝き光るのだと、この絶望の世界だからこそ、教えたいのだ。
「一緒に、俺と同じ世界、見て。俺が闇の中、染まらないように、アレンの見る世界、教えて」
呟きに、少年の目が見開かれた。
一度は彼が自分に告げた言葉だ。既に思いを自覚していた自分にとって、それはなかなか甘美な誘惑で、その意志もない彼に言われていると解っていても、危うく腕を伸ばし囲ってしまいそうだったけれど。
それでもきっと、それこそが自分達の重なる、一番の願いだ。
ただ傍に。………その許しと、重なる願い。一方的な望みではなく、互いの手を捧げ合い、別々の道を歩みながら共に歩く、その未来を。
「一緒に、生きて。………アレンが、いいん。アレンだけが、いいん」
噛み締めるように、呻くように、ずっと言ってはいけないと封じていた言葉を、紡いだ。
掠れてみっともない声だ。いつだって少年には格好悪いところばかり見せている気がする。結局そんな、まっさらなままの自分を、いつも少年に晒してしまって、その失敗に凹んでばかりいたけれど。
今はもう、何でもいい。告げてもいい言葉になるのなら、いくらだって惜しみなく捧げたい、ずっとその肌に響かせたかった、言葉だ。
…………不格好でも、決らなくても、何でも。
ただ彼が知ってくれるなら、それでいい。
「アレンが、好きなんさ。………ごめん、嫌でも、諦めらんないん。もう、二度と、アレンがいなくなるの………嫌なんさ………っ」
それでも、告げるのは我が侭で横暴な、告白。唇に触れる指先が震えているのか、自分自身が震えているのかすら、よく解らない。
それでも、たとえ結果が自分が数日前に与えたようなひどい傷になる答えであっても、伝えた事は悔やまない。いっそ引かれそうなくらい、重い告白だと解っているつもりだ。
嘘偽り無く、現状の自分を告げるなら、それでもこれらが正しい。他の誰もいらない。他のどんなものだって、代わりにならない。
……………ただこの少年一人、欲しかった。
ゆっくりと深呼吸をして、青年はそっと捕らえていた少年の指先を彼の膝に舞い戻した。離れた体温が恋しくて、浅ましく視線がその指先を追ってしまうのを押さえ込むように目を瞑る。
同時に、少年の言葉を奪うように唇に押し付けていた、頬を撫でる手のひらを………引き離す為に意識を向ける。そんな風に根気よく己の意識を活用しなくては、答えが怖くてずっと彼の唇を捕らえてしまいそうだった。
……………少年の唇を覆っていた手のひらを、解いた。
そうして。ゆっくりと瞬いた少年の眼差しとともに、解放され言葉を紡げるその唇が、彼の返事を、紡いだ。
ようやく、ラビがアレンと向き合いました。
…………我が侭全開………!!!いえ、決して初めのような、押し付けて、それが相手の為って思い込んだ身勝手さではなくて。
これでも、一応、………アレンの為に出来る事、アレンが少しでも幸せを未来に見据えて進める事、を、考えてくれているのですが。
でも残念ながら、まだアレンはそれを見れなくて、解らなくて、欲しがれない。ので。
我が侭言うように自分の願いとして提示して、同じ事を考えている事、示す事を選んだわけです。
……………まあそれを感情とともに書いてみると、なんだ我が侭太郎!と言いたくなりました。うん、まあ、この連載のラビ、基本そんな子。
そしてこの連載の……というか、基本私の書くアレンは、そんな我が侭太郎の我が侭を眺めて、色々と理解していくのです。なんというか……基本的欲求が食欲以外全て抜け落ちたような子ですから。
自分が何かを願う事、を、許されないと思って生きている人間にとて、願いというのは、叶えるものであって、自分が欲しがるものじゃ、ないのですよ。それがひどく偏った歪さだと、早く気付けばいい、アレンも。そしたらもっと、ラビもしっかりするのですがねぇ。
…………アレンが揺れていると、ラビはそれによってなお激しく揺れるという、とても困った子達です。結局アレンに全てが委ねられとるわい。
次で、一先ずお話は終わります。そしてエピローグに移ります。が。
………エピローグが、3話、あるので(遠い目)
実質あと、4話、お待ち下さいませ。
11.2.19