山となっていた資料に目を通し終わり、老人は一息入れるために居間に向かった。
もしも近所に住む子供が訪ねてきていれば、頂き物の羊羮でも出してもいいかもしれない。
孫と同じく、あるいはそれ以上に懐いてくれている赤茶の髪の子供は、この近隣ではちょっとしたアイドルだ。
おかげで町内会ではやっかまれる事もあるのだから、随分自分の印象も柔らかなものに変えられたものだ。
くつりと老獪な笑みをひとつ落とすと、老人は足音もないまま襖を開けた。
そうして、目的地である居間に踞る背中に目を瞬かせる。そこは辛気臭く鬱陶しい気配に満ちていた。
………とりあえず、それだけで今日はまだあの子供がやってきていない事だけは解った。
「なんじゃ、不細工な顔して辛気臭い」
自分の部屋ではなく居間の座椅子に座る孫のなんとも言えない微妙な表情に、からかうような物言いで老人は探りを入れた。
それに振り返りもせずに少年は手元を見つめたまま答えた。
「………ジジイ、リナリーからのチョコって、どんなんだった」
「普通だ。大判の花のイラストの小袋入りだな」
入っていたチョコも、溶かして型に注ぐタイプで、特別変わった点も奇をてらった様子もなかった。
どうやらトリュフは子供に教えるためか、避けたらしい。中身は見なかったのだろう子供は、自分に渡されたものと同じと勘違いしていたが、言えば気にする子供だ。敢えて訂正はせずに今に至っている。
それは未だ食べずに残していた孫にも言い含めた事だが、ようやく食べる覚悟が出来たらしい彼は、また何か悩んでいるらしかった。
「………だよな。うん、なんか言いたい事は伝わってきたさ」
一人納得したように頷く孫に、なんの話かと老人が覗いたその手元、あったのはチョコだ。ただし、老人とものが違う。
愛らしい犬柄の小袋の中、犬の形をした一口チョコが入っている。それを止めているリボンに一緒に括られているメッセージカードさえもが、犬だ。見事な犬尽くしに少年の肩が若干憂愁を帯びている。
「ちなみに、メッセージは?」
大体予測出来るが、一応問いかけると、少年は深い溜め息を落とした。
「…………猛犬注意って、どういう事さね」
それは果たしてチョコに添えられる文字だろうか。普通、その言葉は玄関先に貼られるものではなかったか。
思わずそんな事を考えて相手の意図を見ぬ振りしたくなってしまった。
「むしろ駄犬注意だしな」
「そういう意味じゃないし!」
慌てたように言い返す様はまだ幼い。なんだかんだ言いはしても、心配性の少女の釘刺しは厭うものではないらしい。
ただ、当人はバレていないと思っていたのだろう。現状が筒抜けだった事の方にこそダメージが強かったようだ。
「てかリナリー、どこまで感づいてんさ。侮れないし……」
「女の勘には永遠に敵わんぞ」
情けない孫の声に忠告じみた事をいう老人に、少年は苦笑する。
まだ中学生の自分に言うには早すぎる言葉だろう。が、それを理解出来る程度にはこの老人の交遊関係故に知識はあった。
「ジジイの人生哲学はどうでもいいさ。あーあ、なんか先週はアレン全然来なかったし、つまらないさ〜」
この前の日曜日は少女と遊んでいた子供は、当然ながらやってこなかった。
それから今日までの一週間、夕方には既に家に帰ってしまっていた子供とは、なかなか顔を会わせられなかった。
がっかりと肩を落とした孫の声に、したり顔で老人が返す。
「来ておったがな」
「ジジイしかいない時間さっ!俺が帰ってくる前にいなくなってたさ」
自分にもそれなりに付き合いはある。全てをあの子供に押し付けるわけにもいかないのだ。が、会えない日が続けば思いが募るのは当然だし、毎日のように言葉を交わしている老人にやっかみを持つのもまた、当然だ。
そんな少年に、老人は軽く息を吐き出し、たしなめるように呟く。
「家族団欒の何が悪い」
作曲に加え、最近は演奏も復活させた子供の養父は、昔馴染みに引っ張り凧らしく、なかなか多忙だ。それでも必死になって必ず家に帰り子供と過ごす時間を確保している。
称賛こそすれ、非難する謂れはどこにもない。
………あの養父は睡眠薬で眠らされた最中に捨てられた子供が、眠る事も出来ず待ち尽くす事を知ってから、日を跨ぐ仕事は請け負わなくなった。
少しずつだけれども、彼もまた、父となり子供と共に暮らす事を理解し始めた。それはきっと、互いにとって、確かに必要な手を見つけた証だ。
「………実は避けられている、とか」
そんな筈があるわけがないと知っているけれど、これだけすれ違っては落胆もする。
確かに小学生と時間を合わせる方が難しいのは解っているけれど、去年はほとんどの時間を共に過ごしていただけに、彼に会わない時間が寂しくていけない。
溜め息を吐きながら呟く様は、どこか大人びた仕草だ。その憂いを帯びた横顔を眺めながら、老人は呆れた声を投げ掛けた。
「犯罪行為をしたなら早めに自首してこい」
きっぱりと言い切るその声に、いっそずっこけられたらよかったのかもしれない。そんな現実逃避を込めた眼差しで胡乱に老人を見遣れば、したり顔で見返されるに終わってしまう。
「ジジイ、中1の俺にどんなイメージ持ってんさ………」
忌々しげに呻いて返しても、眼差しひとつ揺れないのだから、相変わらずこの老人の底は知れなかった。
「リナ嬢と同じだと思うが」
あっさりと少女の危惧も滲ませてみれば、目に見えて少年が落胆して見せた。
普段ならうまく心情を隠せる少年だ。その仕草は老人に見せつけるためのポーズだろう事は容易く看破出来る。
「告るのも無理なのに手が出せるかー!ってか、相手まだ小四だし!」
おそらくは少女にこそ訴えたいだろう事を一息で吐き出し、少年は拗ねたようなむくれた顔でそっぽを向いた。
手を繋ぐくらいは、出来た。まだ相手は小さいし、兄貴分としては当然に受け止めてもらえた。
でもこの国では親愛表現にキスはしない。男同士ではハグすら稀だ。
なかなか触れ合う事もない中で、いまだ小さな体躯しか持ち得ない子供に無理強い出来る事などある筈もない。
精々スキンシップの延長で肩を組んだり、軽くヘッドロックを掛けて戯れる程度だ。
それとて笑いの中で誤魔化されるように体温の甘さに酔う間すらない。生殺しもいいところだ。
そんな不満が解るのか、老人は軽く息を吐きながら、窘めるように釘を刺した。
「そうだな、あと10年は待て」
「え、それは長くね?」
「………………」
きょとんと当たり前のように返された言葉に、つい冷たい視線を向けてしまうのは仕方ないだろう。
現代に貞淑を求めるのも虚しいかもしれないが、何故自分が手塩をかけて育てた孫がこうなったか、今を持ってしても解らなかった。
そんな心情が読み取れたのだろう、流石に今すぐどうこうという意思はないと教えるように少年は苦笑した。
「高校までは待つさ、ちゃんと。うん」
それくらいの分別は持ち合わせていると胸を張って見せるが、どうも老人の眼差しは改善されず、困ったように頭を掻いた。
しかし、今はそれ以上に問題がある。祖父の視線の冷たさ程度、子供への恋慕がばれて以来、今更の事だ。
「てかその前に会えない時間長すぎさ。うーん、なんかいい手ないかなぁ」
ぼんやりした声は恋煩いと称すに相応しいだろう。
相手が子供で同性であることさえ抜かせば、年相応の可愛らしい悩みだ。
「お前は一度リナ嬢の手解きを受けたらどうだ」
いっそその方が相手の伝える意味を掴めるだろう。………少々痛みは伴うだろうが。
呆れた声で成した提案には、肩を竦めるような少年の仕草が返された。
「手加減してくんなくて死にそうだからヤだ」
「……………」
どうやら実地の実力行使がなくとも、的確な判断を即答で出来る程度には理解しているらしい。あるいは生存本能に故だろうか。
そんな生温い老人の眼差しも意に介さずに、少年は渋い顔のまま悩んでいた。
三歳差は残酷だ。中学に行ってしまえ授業の時間も合わない。部活や委員会もある。そうなればなかなか小学生の子供と会う機械がない。
今はまだ休みの日のほとんどを一緒に過ごせているけれど、それとて努力の賜物だ。
………自分が手放せば、きっとあの子は寂しかろうと笑んで見送るのだ。
誰かを求める事なんて、きっとしない。ただ一人、彼が雪に願い与えられたのはあの養父だけだ。そしてそれだけでいいと、きっと思っている。
同じように、求めてくれればいいのに。そうしたなら、自分のこれからの時間全部、あげるのに。
思い、告げるにはあまりに重苦しい自分の感情に溜め息が漏れた。
………凹むように俯いた先、少女からの忠告じみたチョコがたたずんでいて、余計に肩が落ち込んでしまう。
「……ん?あ、そうか、なんだ、明後日もうバレンタインじゃん」
不意に自分に追い討ちをかけたチョコの存在に、そんな大イベントを思い出した。
つい声が弾むのは、明後日貰えるだろう女の子達からのチョコの存在ではなく、イベントに託つけたアプローチに気付いたからだ。
「俺がアレンにチョコやればいいんさ。それなら会えるし、うまくいけば告れるし!」
名案だと、少年は上機嫌な声で呟きながら、既に心は夢の中なのか、鼻唄混じりに立ち上がり上着を取りにむかう。
………この国では一般的にバレンタインは女性が贈り物をする日だ。その真っ只中に中学男子がチョコを買いに行くのだろうか。
どれだけの執着だと揶揄しても無駄だろう。全ては無意識で、時折は天然の無自覚なのだから。
厄介な相手に見初められた子供が哀れかもしれないと、老人は溜め息を吐いた。
「精々気味悪がられんようにしろよ」
神妙な声でアドバイスを送る老人に、少年は驚いたように目を丸めた。
「珍しいさ、ジジイが心配なんて」
いつもどちらかといえば、自分に手厳しく子供に甘い老人だ。まさかそんな老人が労りを見せるなどと、バレンタインの威力に感心してしまうくらいだ。
が、それに返された老人の眼差しは冷淡だった。
「お前を避けるために小僧が来なくなるからな」
折角の上等な生徒が来なくなるのはやはり寂しいものだ。あの明るくあどけない声が響かなくては、どうも物足りなくなっている。
あっさりと心配どころの違いを暴露した老人に、少年は近くにあったミカンを投げつけた。
「孫の恋路に不吉な影ちらつかせんな、ジジイ!!」
なんなく受け取れるミカンの攻撃を有り難くいただき、老人は出掛ける支度を始めた少年の背中を見遣る。
まだ何かぶつぶつと文句を言っているようだ。それでも子供に会う口実を思い付いたからか、文句を言うその声さえ、明るかった。
それに微かに安堵する。それは孫に見せる気はない、僅かな追憶だ。
元々機転が効く上頭の回転が早いせいで、この少年は昔から大人の好む顔を見せやすい子供だったけれど。
それは多分、自分の仕事に関わる癖のある大人に揉まれたせいだろうし、甘えるべき両親が遠い地にいるせいもあっただろう。
それがあの子供と関わるようになって以降、随分と心のままの顔を晒すようになった。
波風立たせない浮き世離れした飄々としたその性情が、子供に関わる全てに対しては形振り構わず腕を差し出していた。
………その意味が解らない子供の筈はなく。
たとえ意味を解しなくとも、まとわりつく少年を拒まない。そうして離れず共にいるならば、きっと。
そう思い、老人は小さく息を吐いた。
それが育つべきか否か。誰も判断など出来ないだろう。
この年齢で囀ずる運命など、砂上の楼閣よりなお儚いものだ。
…………もっとも、永続されるなど、確約の出来るものはこの世に存在しないけれど。
それでもサナギが蝶へと変わるように、花開けばいい。
たとえ別離が未来に横たわる事があろうと、紡いだ情が枯れる事はない。
必ずその歩みの中、絶え間なく響く讃歌と変わるだろう。
歌い祈り愛おしみ、そうして拙い手を取り合うといい。
………そっと閉ざした目蓋の裏側、彼らの歩みに捧げられた祈りの歌を、聞いた。
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11.2.7