青年の掠れた囁きに、少年は目を瞬かせた。
 「………………え……?」
 少年は小さく呟き、意味もなく視線を彷徨わせた。
 その惚けた声に、青年は固く閉ざしていた目蓋を持ち上げる。………何か、これは、違う気がする。
 考えていたような拒否も罵りもないし、嫌悪もない。驚いたようなその声は、予想もしなかった事実に直面した人間のそれだ。
 何か物思うように床を見下ろし、天井を見上げて目を瞬かせ、揺れた眼差しはそのまま青年を通り越し、その隣、何も無い空間をぼんやりと見つめた。
 その呆然とした、惚けたようなその眼差しに、青年は苦笑する。
 ………………まさかと、思うけれど。これはそうだ。
 まるで、解っていなかったのか。自分が少年を思っていること。特別だったこと。その全て、もしかしてただの友人だとか仲間意識だとか、そんな事だと思ったのか。
 ……………そんな生易しい感情なら、告白もする前に別れを宣告するような突拍子もない真似をする程、自分を追い詰め混乱に陥れたり、しない。
 「…………あ、………れ?…………ぼ……く…?」
 ぼんやり落とされた声は、きっと無意識だ。ぐるぐる回るその思考の渦の中、取り零した音。
 それを聞きながら、苦笑が深まった。これは完全に、彼の思考をショートさせるくらい、衝撃だったらしい。
 「もしかして、知らなかったん?」
 かなり、あからさまだっただろうに。おそらく、師も監査官も、解っている。悪くすれば……室長すら知っているかもしれない。
 きっと、この騒動の中、たった一人、解っていなかったのだ。特別の意味の、違い。想いの、差。重ならないというよりは、理解していないような、拙い行き違いだ。
 「え………だって、ジュニア、は………」
 呆然と、思い出しているのだろう洞窟の中の、自身に懐いた子供。あれもまた、かなり強引にあからさまだった。あるいは、遠慮がない分、自分以上に。幼さを盾に、かなり甘えた。
 それも全部、寂しさからとか、人恋しさからとか、思ったのか。そんな生易しい感情で誰かに懐くこと、幼くとも自分はしなかった。
 一人、屹立し、世界の輪の中から外れ、名も捨て記録を刻む1つの書物となり、最後には誰の記憶にも残らぬように消える、そんな生を選んだのだから。
 惑うように目を揺らす少年を見つめ、青年は困ったように笑んだ。その眉の垂れ具合は、滑稽なピエロの泣き笑いによく似ていた。
 そうして、そっと身体を伸び上がらせる振りをして、伸ばした背筋で近づいた少年の頬に、掠めるように口吻けた。
 途端、驚いたように身を引いてしまうその反応に、つい切なく笑んでしまう。
 子供の姿の時は受け入れてくれたのに。………そんな身勝手な事、口には出せないけれど。
 見つめた先、少年はぎゅっと唇を引き結んでいる。それは怒っているように見せて、その実、動揺を隠しているだけの彼の癖だ。
 表情一つで相手を牽制出来る事を、彼は知っている。そしてそれを手繰れる程度には、強かだ。………むしろそれを無意識に取り零すくらい、身に纏わなくては生きられない程、彼は痛みを知る人なのだろうけれど。
 「ジュニアも、したさ?好きだから、知って欲しくて、したんさ。マナ、一回も気付かんかったけど」
 ………そっとゆっくりと、押し付けないように、何も気付いていなかった少年にも解るように、言葉を綴る。
 ずっとだったのだと、あの時からもうずっと、自分の中、あなただけなのだと、教えるように。
 噛んで含めるようなその声に、動揺していた少年は少し落ち着いたのか、引き結ばれていた唇が和らぎ、戸惑うように小さく声を落とした。
 「え…………?だって、ジュニアは、寂しくて…悲しくて、独りぼっち、だったから」
 思い出すように、当たり前の事実を教えるように、惑う眼差しを手元に落とし、少年は言葉を探す。何が、一番近い言葉だろうか。友達……は少し違う。もっとずっと甘えたがった子だった。兄のように……というには少し、自分を守ろうとし過ぎた。
 難しい、比喩だ。家族など知らない自分に、それを当て嵌めるのはあるいは無理なのかも知れない。それでも知識の中知るそれらを順に辿り、一番しっくりくるものを探す。
 「うん」
 言葉を探すその小さな間の間さえ、静かな呼気でやり過ごし、追い込まないように、急かさないように、意識してゆったりとした相槌を落とす。それに感化されたように、少年の傾げた首が小さく頷いて、そっと、躊躇う眼差しで青年を見遣った。
 「だから僕の事、お母さん、みたいに………?」
 「当ってるけど、足りない、かな」
 やはりそこかと、青年は苦笑する。甘えて我が侭を言って、その癖拙い腕でも守れると、頼ってと、やはり甘えていってしまう、そんな腕。
 それはきっとそんなものに、見えたのだろう。ただ甘やかしてくれる、叱ってくれる、そんな当たり前の存在を欲しがっていると。
 でも、それだけでは、足りない。もっとずっと、自分の情は深くて強情で………貪欲だ。
 「足り、ない?って………?」
 それ以上に存在、なんて。あるのだろうか。得た事などないのだから解らない。それとも父親、か。支えたい、守りたいと、確かに自分は養父を見て思った。
 けれどそんな細かい違いなど、きっと今この場では無意味な問答だ。何を示したいのかが解らない少年は、じっと青年を見遣った。
 ………目を逸らさず、ちゃんと受け止めようとしてくれるその眼差しに、青年は微かな痛みを覚えて眉を垂らした。
 「マナがさ、全部、だったんだって」
 ぽつり、呟いた声は、少しだけ自虐の音が混じってしまう。………そっと、息を吸い込んだ。そうしてその息の腹に貯め、体内を循環させる。
 声を、痛みに染めてはいけない。彼はすぐに、それに気付いてしまう。気付いて、労ろうとしてしまう。
 「言葉のあやじゃ、ないんさ?そうだったらよかったけど。ダメ、なん」
 首を傾げて、少しだけ戯けてみせた。けれどその眼差しは泣きそうに揺れてしまい、苦笑するように垂れた眉が、ひどく困った笑顔を作った。
 それを見つめ、困惑に顔を染めた少年は青年の言葉をおうむ返しに呟く。
 「だめ………?」
 何が、と。その意味を捕らえ切れずに揺れる眼差しを見つめるのが怖くて、青年の眼差しが躊躇いがちに地に落ちた。
 己の組んだ足の上、所在を求めて指先が蠢いている。
 このまま、途切れさせればきっと、有耶無耶のまま終わらせられる、だろうけれど。…………彼は、敢えて踏み込もうなんて、してくれないだろうから。
 痛くて怖くて、臆病な自分はそれを晒す事に怯えてしまう。それは、きっと、自分が傷付く以上に、彼に痛みを教えるだろうから、だ。
 たった今さっき、ほんの微かに告げただけの言葉さえ、彼は己の罪を見出そうとしてしまうのだから、この想いの重さは、彼を押し潰しそうで怖かった。
 それでも、綴る。知って欲しいという欲求と、求める事が当たり前なのだという、彼が己の中、欠けさせた願いを教えるように。
 「人と関わる……うんにゃ、多分、生物無機物、全部。自分に関わる、全部。それが、マナから始まったんさ」
 溜め息のように呟く。自分にとっての、至上。………彼にとっては、おそらくは………至悪、だろうか。
 「全部………」
 響いた音は、未だ意味を掴みかねていて震えてはいなかった。それに微かにホッとする。出来る事なら、そのまま。痛む事なく、ただ、知ってくれるといい。
 …………彼の悲しむ事が一切なかった、なんて。言える筈もないけれど。
 それでもそれ以上のものを、確かにこの腕は得て、喜んだ。………喜んだのだ。それだけは絶対的事実として知って欲しかった。痛むばかりではなく、自身が与えた祝福を、忘れないで欲しかった。
 その癖、告げられる言葉は、どう足掻いても彼を惑わしそうなものばかりで。己の所行の悪辣さに、溜め息を吐くのも許されないけれど。
 「そう。だから、ごめん。でも、手放せない。………そっちでも、ごめん、って言うべきなんかな…?」
 寂しそうに悲しそうに、青年はそう告げる。少年にはよく解らない言葉の羅列だ。一体何を基準に、それらは成り立つのだろう。その根源を、どこか恐れるように隠してしまっている、言葉。
 青年の綴った音を飲み込み、少年は一度睫毛を落とした。いつだって、彼の言葉は難しいのだ。学のない自分に与えるには、少々度が過ぎている。
 それでも、…………知る事が出来るなら、知りたい。知って欲しいのだと、その眼差しも声もひた向きに自分に願っているから。
 咀嚼、する。言葉の持つその意味を。青年の痛む事を。それは決して、柔らかな意味や、甘やかさだけに包まれてなど、いない。そうだからこそ、彼はこんなにも切なそうだ。
 そう、考えて。…………銀灰が、煌めいた。
 揺れるその眼差しが、困ったように、切なそうに、青年を映す。その眼差しに宿る痛みは、瞳の中で揺れる青年の姿を模したように、そっくりだった。
 「………………ああ、全部……なんです、ね」
 溜め息のように、少年が呟いた。それに切なく青年が笑む。ひた隠してみても、彼はやはりそこに行き着いてしまうのだ。隠したいと言いながら、暴いて知り得て欲しいと願ってしまう、矛盾した自分の願いのままに。
 喜びも幸せも慈しみも嬉しさも楽しさも。
 ……………苦痛も悲嘆も辛さも怨嗟も呪いも。
 関わる事、全て。プラスもマイナスも、全て。おそらくはそれは、愛情などという言葉遊びなど足蹴にしてしまった、根源に眠るもの。
 それは、きっと、始まりに与えられるもの。
 胎児が産まれいで、息をし、世界に包まれたその瞬間に知る、呼吸をする事の喜びと苦痛。肌に触れる空気の痛みと鮮やかさ。そうして、眼に映る眩過ぎる光。
 それを知らず育ち、歩んでしまった奇形の子供。それを教えてしまった、奇怪な少年。
 チグハグで不格好な、歪な二人は、悲しいくらいに重なり合致してしまった。別々の命の癖に、欠けていたピースを、持ち合ってしまっていた。
 ………………それが、至福となるか、至悪となるかなんて、解る筈もない。
 「うん。………ごめん、痛い?」
 出来る事なら至福に、したいけれど。
 それは彼が望まなくてはどうしようもない、そんな祈りだ。
 思い、つい問い掛けた声が憐れみたくなる程情けない音に変わってしまう。また、彼を痛めただろうか。こんな、不格好な祈りのせいで。
 その声に落とした睫毛を持ち上げ、煌めく銀灰がそっと、先程逃げていった青年の指先を見つめた。震えている、自分よりもずっとがっしりとした指先。
 見つめて、思い知る。鼓動を早めるように、けれど宥めるように、疼く痛み。…………これはきっと、違うのだ。
 「…………………いいえ」
 小さな、否定の声。痛い……のは確かで、それは紛れもない事実だ。
 それでも違う。痛みの中、あやすように抱き締めるように、寄り添う鼓動のぬくもり。
 不可解なその感覚に、微かに揺らした視線の先で、彼の指の震えを思う。そうして、どこか確信めいて、思った。
 「これ、は……、僕ではなく、あなたの痛み、でしょう?」
 そっと囁くその声に、彼が息を詰めたのが解る。
 ………ただの、感覚の問題だ。それなのに彼がそんな風に反応する理由は、解らない。
 自分がそう思う事は、彼にとって痛みだろうか。厭われるべき事、だろうか。
 解らないけれど、青年を見上げてみれば、その眼差しが寂しく揺れている。まるで、抱き締めてと囁くような、子供の目だ。
 その眼差しはどこかあの洞窟の中の子供に似ている。同じ人なのだから、似ていて当然だ。そう思い、少年は躊躇いながらその指先を青年の頬に添えた。
 揺れる緑が、瞬いた。やんわり笑んだ唇とは裏腹の、寂しさを思って。
 「不思議、ですね。そう、思う……なんて」
 困ったようにその笑みを見つめ、少年は添えた指先でその頬を撫でた。甘えるように落とされた青年の睫毛が、少しだけ濡れて見えたのは、気のせいだろうか。薄暗いこの室内、なかなか上手く相手の顔を見通せなかった。
 揺れる赤い睫毛を見つめていれば、小さく、掠れるように青年は声を落とした。
 「なあアレン………、一緒に、生きよう?」
 それはどこか寂しく切なく響く声で。苦笑するように唇を笑みに染めている姿さえ、どこか悲しそうで、儚くて。
 普段の明るく戯けた青年からはあまりに掛け離れたその仕草に、少年は戸惑うように眉を垂らした。
 何か、悪い事をしただろうか。それとも彼に触れる事自体、痛みだろうか。引き離そうかと思い指先を蠢かせれば、切ない眉はより色濃くなって、それを惜しんだ。
 …………そうされるともう、どうすればいいか解らなくなって、少年は困ったように首を傾げた。
 「ラビ、さっきから、なんでそんなに慌てているんですか?」
 まるで先回りするように、ずっと言葉を重ねて来ている。待ってくれるけれど、その実、待っていない。………待つ事で逃げるとばれているのだろうけれど。
 そんな少年の戸惑いの声に、青年は同じように首を傾げて、笑んだ。
 そっと、頬に添えられた細い指先を包んで、擦り寄る仕草で招き寄せ、爪先に口吻ける。まるで懇願するかのような、その仕草。
 「答えが、欲しいん。それだけ。…………マナはさ、結局全部、隠したまんま、いなくなっちゃったし」
 静かに綴る低い音。室内の静謐に溶けそうなその音が、微かに震えて聞こえた。
 …………それともこれは、指先を包む指先と、触れる吐息が震えているが故に、そう錯覚しているだけだろうか。解らない、けれど、それでも彼が打ち震えて怯えている事は、解った。
 「アレンも、そんな気が、するんさ」
 見つめた先、そっと冷たい指先をあたためるように熱い息が吹きかかる。囁きとともに落ちたそれは、多分、溜め息だ。
 寂しいと泣くような、それを晒す事を躊躇うような、そんな吐息。
 「……………一人で抱えて、全部、自分だけで、終わらせようって、生き急ぎそう」
 「………………僕は…」
 間違ってはいないその見解に、けれど違うと否定したくて、少年は小さく口を開く。落としかけた言葉は、それでも続きはしなかった。
 ………続く筈もない。青年の見据えたものは、正しい。あの洞窟の中、もうずっと、自分は祈っていた。彼がいつか誰かを見つけ、そうして笑みを咲かせてくれる腕を愛おしむ事、を。
 自分は彼を傷つけただけだったから。悲しませ怯えさせただけだったから。
 それでも与えてくれた優しさに報いたくて、願ったのは、いつかの未来の彼の笑みだ。
 きっとそれは………彼がたった今告げた言葉に、要約されてしまう、祈りだ。
 解っているのだろう青年は、寂しく細めた瞳を笑みで彩らせて、捕らえたその指先を包む力を強めた。
 「だから、答え、頂戴?これは俺の我が侭。アレンはそれに付き合うだけ。それで、いいさ。今はまだ、俺、欲しがってばっかだし」
 何もかも全部、自分のせいでいい。否、自分のせいだからこそ、背負うべき痛みだ、これは。
 まだ洞窟の中と同じ祈りしか、少年はきっと携えていない。…………当然だ。彼にとって、それはまだ一日だって経っていない、連動した時間の流れだ。一瞬で人の考えが覆る筈もない。
 そんな人に、傍らにいてと願う残酷さを知らないわけではない。
 もうたった一人を選び愛おしんでいた人。その絆は一方的に途切れた筈なのに、それでも捧げる祈りの静謐さに、羨んだ。それが欲しいと我が侭を押し付けた幼い指先さえ、愛しんでくれた。
 …………何もかも全て己で背負って消えるつもりだったマナが、それでも最後、ジュニアの捧げた涙に与えてくれたのは、共に分つ事を許す、共有の意志だったのに。
 舞い戻り記録を蘇らせた、成長した筈の自分が彼に与えられるものは、どうしてこんなにも苦いものばかりなのかと、唇を歪めた。笑みにもならない不格好さは、きっと彼の指先に隠され見えはしなかっただろうと、願いながら。
 「ジュニアより、子供みたいさ」
 溜め息じみた言葉を落とし、あの世界、彼が与えてくれた全てに歓喜し、伸びやかにしなやかに心を広げた幼い自分を思う。………結果的に言ってしまえば、その糧を己の腕で壊したという刷り込み故に、再び瓦解し頑丈に蓋をされたのではあるけれど。
 それでもきっと、もっと優しく花開くべきものだった筈だと、思う。
 マナがジュニアに与えてくれたものは、そうした糧だ。それを踏みにじったのは、自分の愚かさだと、解っている。
 「…………そんなの、初めからですよ?」
 「手厳しい。………うん、でも、ジュニアに負けないように、頑張ってみるさ」
 ぽつり告げた声は、窘めを孕んでいて苦笑する。彼の目にはきっと、今の自分は幼かったあの頃と変わらず映るのだろう。
 それくらい、揺らめいている。自覚はあれど、なかなかこれをコントロール出来ないのがネックだ。それは既に師にもバレているにだから、きっと精神鍛錬が今後の重要課題にされるだろう。
 ちょっとした現実逃避を思いながら、そんなもので回避出来る事柄は何一つないと、溜め息を落とした。
 「だから、アレンが、見てて。情けないだろうけど。頑張って、いい男に育つさ?」
 …………もういっそ、育てて欲しい。きっと自分は幾度だって間違うだろう。
 この腕が揺れる度、自分は情けなくも同じように戸惑い揺れて、彼を抱き締める前に、怯えてしまう。……失うのではないかというその恐怖に、きっと幾度だってこの足は竦むのだ。
 「それ、自分で言いますか」
 クスリと笑う少年の声はいつも通りだ。けれど。
 ………見つめる眼差しも、その眉も、泣き出しそうで……青年の眉も垂れてしまう。
 「アレンは一生言わないさ。素直じゃないし、恥ずかしがり屋だし?」
 あんなに、ジュニアには告げてくれたのに。まるで刻むように教えるように、未来の中、自分にもそんな出会いがあり慈しめるのだと、示すように。
 ひた向きに見つめた視線の先、必ず咲き誇る花が佇むのだと、囁いた。それがあなたなのだと、告げた言葉が届けばいい。自分の花は、この人一人と、知ってくれればいい。………それとも、それすら、彼にとっては悲しみを喚起するだろうか。
 「……………………っラビ、ジュニアの時の事は、言いっこ無し、です!」
 青年の言葉に一瞬で顔を染めた少年の声が、少し慌てていた。何を指し示しての発言か、解ってくれたらしい。………全部、覚えている。お互い様だ。
 「なんでさ。マナは一杯、言ってくれたさぁ?」
 あの言葉の全てが自分に欲しいと、腕を伸ばしたジュニアも、それを捧げられていながら気付かなかった愚鈍な自分も、全部お互い知っている。
 そして捧げた先をお互いに、もう、理解している。答えは……本当は初めから、知りあっていた筈だ。
 「あなたに、じゃないからです!」
 それでも、それを未だ自覚出来ないのか、あるいは打ち消そうとしているのか、首を振り、否定するような素振りで、泣き出しそうな少年の顔。
 今その目元に口吻けたら、きっとその水滴は決壊して、零れ落ちるのだろう。あと一歩が、今だ遠い。触れる、事を……許してくれても、許されていない。
 自分が願えば与えられるのだろうけれど、彼がそれを願わないなら、なんの意味もないのだ。
 「それ、告白と変わらないって、解ってる?」
 「…………………………」
 そっと囁きかけた声は、少しだけ笑んでいた。それに睨みつける眼差しはどこか不貞腐れたようで、あの世界のように一方的な加護を与えようと包み守る為の存在ではない、年下の少年がそこにいた。
 それが、ひどく嬉しい。自分とジュニアは違うと、そう言っていた少年の言葉の意味が、なんとなく解る気がした。
 「駄目なら駄目って言わないと、付け込まれるさ。知ってるでしょ?ジュニアだって、結構ずる賢かったさぁ?」
 …………ニッと笑う顔が、少し意地悪だ。それがわざと晒された表情である事くらい、解る。
 眉を寄せ、少年は唇を噛み締める。どうしてこの人はこうも人を追い込もうとするのだろう。意地の悪い振りをしてそんな事を言って、その癖その眼差しは、揺れている。
 選ばせるような顔をして、選ぶ範囲を狭めるのだ。
 ………拒まないでと寂しく囁くその眼差しを、自分が息が詰まる程抱き締めたくなるなんて、知らない癖に。
 「僕は、嫌な事は嫌と、言います。でも、どうしたらいいか解らない事は、答えられないんです。察して下さい」
 「知ってる。だから、逃げ道無くしてるんさ?」
 にっこり笑って、偽悪的な発言をするのも、あるいは今更だろうか。そんな事を思い、俯きかけた少年の頬を引き戻すように、口吻けた指先に唇を押し付ける。逃げないで、と、声にも出さないそのサイン。
 「………質悪い、ですね、本当に………」
 噛み締めた唇から零れた、きっと本気の言葉。それに苦笑する。もうとっくに、そんな事知っている筈だ。何も知らない頃のジュニアとて、随分と彼にこの性情を教えた筈だ。
 そもそも出会ったその時に、真っ先にジュニアはマナを担ぎ情報を引き出す事を選んだのだ。あの子供が純粋な子供と思う程、彼とて盲目ではないだろう。
 「うん。言ったさ?諦めらんないって。逃げても、追うよ。…………逃がさない」
 ひたと、見つめた指先の奥の銀灰。あの洞窟と同じ薄暗さの中、輝く少年の姿。それを細めた眼差しの中に収め、いつかの誓いのように、そっと、引き寄せた左手に口吻ける。
 …………探すよ、見つけるよ、逃がさないよ。ちゃんと、自分は言った。あの時、全部、本気で言った。
 それを拒まなかったのは、マナだ。最後の最後、結局許したのは、彼なのだ。
 だからもう、遅い。誰かを見つけても、その傍に置いて。………自分以外、同じ特別などもう現れないと言ったその唇で、肯定の言葉を紡いで。
 「…………………………………………………、ラビ、解っているんですか、本当に」
 願い、見つめた唇は、躊躇いに躊躇ったあと、綻ぶ……というよりは、気力で抉じ開けたように固い音を紡いだ。
 なかなか手強いとそれを見つめ、青年は笑んで首を傾げてみせた。
 「何を?」
 囁きに触れた吐息に、少しだけ揺らめく指先。手放してと願うそれに、仕方なさそうに彼に時間を与えるように、そっと手のひらを返し、自由を与えた。途端、ゆるゆると逃げていく指先を、つい物欲しそうに眺めてしまった。
 ………もっとも、そんな事、俯き言葉を探していた少年には、一切気付かれなかったようだけれど。
 「あなたは、ブックマン後継者で。本当なら、血だって、繋いでいくべきじゃ、ないんですか?」
 だからこそ、自分はただ与えられればいいと、願った。あの幼かったジュニアを慈しみ守り思いを捧げる事で、彼の中咲き誇るその心が、いつか誰かを見つけ共に歩む未来へと歩めるならと、思っていたのに。
 その必要がないなんて、言える筈がない。彼らは血を繋ぎ後世へと途切れる事なく紡がなくてはいけない、大切な使命がある。それはきっと、個人の命すら顧みないくらい、重要な事な筈だ。
 「俺の血じゃなくても、一族はちゃんと受け継いでいくさ」
 けれど返されたのは、そう言われる事くらいは承知していた、そんな雰囲気の、声だった。
 既に先回りされていたかと、溜め息を吐きたい唇を苦々しく歪めた少年は、飲み込みかけた吐息を、我慢する意味もないと吐き出す事にし、肩を落とした。
 どうして、こんな話しになっているのだろう。そもそも、自分が勝手に彼を想っただけで、彼はそんな筈、ないのに。絶対に、彼は、ジュニアであった頃に吐露した自分の思いに感化されただけだ。
 それなのに、まるで本当に自分がたったひとりの人のように、告げないで欲しい。
 欲しがって掴もうとしてしまう自分の悪辣さが、苛立たしかった。
 「…………女の人大好きな癖に」
 呟きは、小さく棘ついていた。彼を責めるわけではなく、その言葉は多分、自分自身に対しての、棘だ。
 「だってマナ、いなかったから。本気じゃないのに、男遊びする方がおかしいさ。俺、ノーマルだし」
 証拠のように返された声は、どこか苦笑を孕んだだけで、痛みはない。
 それを耳に響かせ、そっともう一度、今度は気付かれないように静かに吐息を漏らした。
 「……………ノーマルならなんで僕なんですか」
 どう足掻いても、自分は女性的ではない。イノセンスを手繰るその能力で言うならば、元帥に継ぐ位置にある筈だ。おそらく、対AKUMAの戦闘であれば、彼らに劣る事はない。
 それに伴ってしなやかさを帯びて来た身体だって、そろそろ少年期を脱してくる筈だ。すぐに、彼と同じように、青年になる。
 そんな自分を、ノーマルだと断言する人間が愛おしむ筈がない。そう切って捨てようとすれば、コテンと、不思議そうに青年の首が傾げられた。
 「マナは、どっちでもいいから。でもまあ、アレンの顔って、俺の好み……っていうか、多分、アレンの顔が俺の好みにインプットされたんだろうな、きっと」
 じっと、俯く少年の顔を見つめ、見えづらいと落とされた前髪を掻き上げてみる。
 薄暗い室内の中、仄光る白い肌。白磁というに相応しい、きめ細やかさ。額のペンタクルから続いていく左頬を両断する赤い筋すら、綺麗だ。
 長い睫毛が落とす濃い影も、揺れる満月色の瞳も。出会った頃よりも引き締まり始めた頬も、色素を消してその心のように真っ白になった髪さえ、愛しい。
 そのまま見下ろしていたら、きっと誘惑に駆られてその額に口吻けてしまう。思い、そっと手放した前髪の先、不可解そうに刻まれた少年の眉間の皺に苦笑する。
 「それ、かなり微妙ですよ」
 心底解らない、と。言いたそうなその声。自分の顔が整っている事くらい、知っている癖に。それが機械相手にしか通用しないと思っているのだろうか。
 「仕方ないさ。おかげで俺、基本ストライクする相手、報われないの限定だもん」
 「はい?」
 肩を竦めて告げてみれば、なお訳が解らないというように少年の声が響いた。ストライクした時点でどうだろうと言いたげなその音に、苦笑が深まった。
 ずっと、きっと、無意識に、探していたのだ。自分のたった一人。探すのだと、見つけるのだと、そう決めて誓った、たった一人を。
 必死になって、この隻眼に映る人の中、酷似する思いの欠片を手繰っていた。我ながら呆れる純愛加減だ。
 「あれ、気付かん?って無理か」
 意外とこれは、告げるのは恥ずかしい。…………むしろ、深過ぎる占有欲の現れだろうか。
 一刻も早く、見つけて。そうして抱き締めたいと思う、この渇望と焦燥感は、きっとジュニアが抱えたものだ。抱えて、無意識に育て、今はもう、溢れる程になってしまった。
 「??」
 一人で納得してしまっている青年の言葉は理解が出来ず、少年は眉を顰めて見遣った。自分と彼の思いを切り離してきちんと考えさせようとした筈なのに、何故か妙な方向に進んでいる気がしてしまう。
 捕らえられる前に、捕らえてしまう前に、もう話を終わらせてしまった方がいいのか、否か。その判断が出来ない。
 ………結局、全部、彼の手の上のような気がして、腹立たしくてつい、面白うそうに目を細める青年を睨みつけてしまった。
 それをきっと、嫉妬だとかヤキモチだとか、そんな風に受け止めたのだろう青年は、楽しげに瞳を瞬かせている。
 意味が違うと詰りたいけれど、きっとそれすら口にすれば都合良く解釈するのだ。……………自分の望みなんて、とっくにお見通しだろう、彼の頭の回転の早さが恨めしかった。
 「俺がさ、いいなって思う人、綺麗で…一途に誰か一人、思ってる、人」
 にっこりと、誇らしげに言い切った声。見つめた先は結局、同じだったと、今なら解る。
 ………マナの、ように。たった一人に自分の全て、捧げて。見つめる眼差し全部、その人だけ。
 そんな風に、思われたかった。その人の目を、自分に向けたかった。涙に濡れる事なく自分の色に、染まって欲しかった。
 抱き締めて、慈しんで、他の誰も………彼の世界の後継者になんて、触らせないで、独占したかった。その焦燥を思い出させ見つける心を逸らせるように、自分が心惹かれた人は、そんな思いにもう、染まった人ばかり。
 「マナ、みたいに…たった一人、もう見つけて、それ以外、入り込めない人。ば〜っか、ストライクするんさ。おかげで俺、一回も好きな相手作れた事ないし」
 初めからもう、手に入らない事を前提として、その姿の美しさに惹かれた。………マナを、思い出して。重ねる事も出来ないけれど、思い捧げるその仕草は、忘却した記録の中、もっとも深く穿たれ刻まれた、自分が望んだものだ。
 マナはいないか、探していた。無意識に、ずっと。誰か、たった一人を想う人が、マナだったから。
 どれだけ純愛じみた真似をしていたのだろう。幼くとも触れる喜びに溢れていた癖に、妙なところで奥手だったらしい自分に苦笑する。
 その笑みに少し顔を顰め、勘違いしたらしい少年が微かに棘ついた声で呟いた。
 「…………………遊び歩くのもどうですか……」
 相変わらず、そうした面では潔癖だ。紳士だから、というよりも、きっと彼の中、想う事はとても神聖で美しいものだからだ。
 彼を拾い共に生きた養父が注いだ無償が、彼の中、他者を思う事の美しさを教えたのなら、それはどれ程深い絆だろうと、羨んでしまう。
 「人聞きの悪い。相手も承知の上、でしか相手なんてシマセン。お互い様って言うの、そういうのは」
 それに比べれば確かに自分の交友関係は、あまり綺麗ではないだろう。自分の本職の特殊性が、たった一人を選ぶにも制限を加えていたし、もう既にとっくに無意識の中、定めていたたった一人がいたのだから、どれもこれも割り切ったドライさの中でしか人の輪に交われない。
 そんな自分の中、知りもせず、まだ出会ってもいなかった少年が、当たり前のように寄り添い傍らにいてくれた。
 まだ何も知らなかった筈の、真っ白な少年。誰も想った事はなく、過去の中、養父への愛を抱え滑稽に戦場ですら優しさを掲げ慈しみを晒す人。
 いつもなら冷めた眼差しで愚かと切り捨てる筈、だったのに。
 ………離せなかった視線も、守りたいと伸ばした腕も、全部、無意識だ。過去の記憶など関係はない。ただ、この人だったからだ。
 この人が良かった。眩く輝くように自分の瞳に居座り、境界線も無視して手を伸ばしたいと想わせた、枯渇を癒す甘露。
 「だからさ、俺の中で……『マナ』が、理想なんさ。見た目も中身も。だから、それが男でも女でも、言っちゃ悪いけど、赤ん坊でも爺さんでも、関係ないんさ」
 自嘲げに、笑う唇が少し、痛い。それを見つめ、少年は偽悪的な仕草に呆れたように顔を顰め、軽く息を吐き出した。
 「大問題です、それは」
 いくらなんでもそれは持ち上げ過ぎだ。解って欲しいと思うにしても、もう少しオブラートが必要だし、そんな風に誇大して告げる必要もない。
 少年の溜め息の意味を読み取って、青年は苦笑する。
 …………どこも、何一つとして、過大表現などしていないのだと言えば、流石に彼も引くだろうか。
 それでもきちんと知ってもらわなくては、彼に選んでもらえない。知った上で、彼はこの先を選ばなくては、同情や憐れみで選んだ後、後悔するのは彼だ。
 「俺には些事です」
 にっこり笑った瞳の奥、笑えないくらいの、真剣さ。
 ちゃんと気付いてと少年の瞳を覗き込めば、瞬いた少年の眼差しに、微かに過った、影。
 「………………………………」
 言葉を忘れたように惚けた唇が、ただ呼気を重ねた。
 瞬いた瞳が、微かに顰められたのは………痛み、だろうか。あるいはこれは、懺悔か。何に対してと思うより先に、そっとその睫毛を撫でた。
 ぴくりと震えた肩が、躊躇いを教えた後、そっと頷くように上下した睫毛。
 理解したと、告げるそれに、眉を垂らして笑いかけた。きっと、情けないくらい泣き出しそう顔で。
 「だから、謝ったさ。俺、悪いけど結構、怖いと思う、けど?」
 この想いを告げる事さえ躊躇うくらい、強欲な感情だ。求めるならばもう、全て。諦め続けたもののように一瞥もしないその潔さとは真逆の、全てを願ってしまう。
 それがどれ程重いものか、知らないわけではない。
 それ、でも。もう遅い。自覚して、取り零す事なく蓋をして封じ込めた時期が終わってしまった。求めてもいいと、しどけなく寄り添う身体が教えてしまっている。
 拒む言葉もなく、それでも躊躇い続ける理由だって、解っている。
 「諦めない、し。……逃がせない。本気でさ、ダメって思うならもう、息の根止めて?」
 だからもう、きっと、止まらない。彼の腕を掴んでしまう。引き寄せてしまう。振られた頤がそこにあっても、情けなく泣き笑って、選んでと告げてしまう。
 ………選びたいのだと、彼の瞳が揺れるのに、諦められる筈がない。
 「はぁ?!」
 それでも告げた最終手段には、驚愕を通り越した、本気の怒りを秘めた眼差しが向けられて、苦笑する。
 きちんと、言ったのに。………自惚れさせたくないなら隙を見せるなと。自分は幼い頃からずっと、こんなにもずる賢くて、欲しいものの為ならいくらだって、全て晒して掴みとってしまうのを、知っている癖に。
 「っていうのは、流石にアレンの性格に付け込むから、忘れていいけど」
 くすくすと戯けて笑って、有耶無耶にするように、笑んだ。片目に映った少年の眉間は険しく皺が寄っていて、言葉の真意を確かめるようにひた向きに自分を映している。………心地いい、綺麗な眼差しだ。
 「なんなんですか、結局」
 声が、少し、尖っている。責めているというより、探る声。
 …………どんなに戯けてみせても、彼は見つけてしまう。この声の中、潜んでいた本気の響きを。
 それに苦笑して、降参するように、軽く両手を上げてみた。その仕草にますます不可解そうに顰められた眼差しと、傾げられた首。
 そうしなければ、抱き締めてしまう。抱き締めて、言葉など許さず、奪いそうだ。思い、困ったように眉を垂らしてしまう。
 「アレンがいないと生きられない、っていうこと」
 極当然の、当たり前の常識のように、静かに告げてみる。
 きちんと笑んでいるか、解らなかった。泣き出しそうな、喚きたいような心が暴れている。
 解って。思い知って。そうして、その惑いも怯えも全て不要なのだと、受け入れて。
 ………思いは重なり繋がっていると、理解して。
 「冗談でも洒落でも、口説き文句でもなく。厳然たる事実として」
 噛み締めるように、厳かに告げる声は、少し儚い。少年の瞳が微かに揺れていて、それに感化されてしまう自分に苦笑する。
 「アレンと一緒じゃないと、俺って魂が存在出来ないんさ」
 力なく落とした両手。ぎゅっと握り締めて、懺悔より深く愛を囁く事が痛い、なんて。滑稽な話かもしれない。
 こんなにも重く穿たれていなければ、躊躇いなどなく彼を口説くくらい、出来たかもしれない。いつもの調子で戯けて明るく軽く、遊ぼうと笑んで、告げられたかも知れない。
 考え、どちらにしろ無理だと胸中苦笑した。
 そんな風にして手に入れてもきっと、結局は求めてしまう。彼の、全て。身体だけでなく、心も、思いも、魂すら、全て。
 その身に宿り傲慢な愛を囁き続けるイノセンス以上に、深く。繋がり溶ける事を願ってしまう。
 ………現に、こうして、彼の中、自分はっきっと……溶けた。その鼓動の中、自分の欠片は存在している筈だ。
 「だから、さ。お願い。………義務じゃなく、選んで」
 縋るように、けれどそれが許されるか解らずに怯えるように、そっと少年の手のひらをとった。目を瞬かせた少年の瞳の中、情けなく笑う自分が見えた。
 それにまた笑んで、抱き締めるのではなく、代わりにその手を握り締める。………逃げないでと、願うように。
 「…………何かあるって言う事、ですか?」
 捕らえられた指先を見つめ、それでも抵抗しない少年の小さな囁きの中、彼がひどくその言葉に含まれる意味を探っている気配が伝わった。
 学がないとすぐにいう彼だけれど、存外侮れないのだ。彼は与えられた知識ではなく、己が携え生きて育てた学びを正しく活用する術を知っている。
 それを気に留め、そっと青年は息を吸って、声を落とす。決して揺れず、恐れず、いつもと変わらない淡々とした音色のまま紡ぐこと。それだけに、集中した。
 「ううん。でも、アレンが望むなら、一緒にいなきゃいけない理由もつけてやれる。けど。………それじゃあ、俺が嫌」
 ………彼の血の中。……否、もしかしたならば、心臓の中。きっと残っている守り石の効用。それがどんな効果を齎すか、解らない。イノセンスとの連動も不明だ。それでもそれはきっと、貴重な資料だ。
 解っているから、教えたくない。そんな理由で自分が傍にいるなんて、思われたくない。自分が彼を選んだ事は、自分の意志だけだ。他のどんな要素も関係はない。
 こんなにも枯渇している。彼という存在がなかったからこそ、餓えて乾いた自分の心。
 …………それを潤いに満ちさせる事が出来るのはやはり、この人たった一人なのだ。
 「あなたが、ですか」
 「うん。俺だけ。アレンもジジイも、どっちでもいいんだろうって思う。世間とか後世考えるなら、そうしろって言うかも。でも、俺は嫌」
 呟く少年の声に、少しだけ自嘲した声が洩れてしまう。きっと二人とも、否、誰もが。自分の立場と、それが故の危険性を考え、理由を与える事を示唆するだろう。
 解っている。自分達孤立の一族の傍、他者が佇む事は危険だ。それでも義務なんて理由で、傍にいて欲しくない。
 その心が望んだのだと、あの洞窟の中、囁いたようにたった一人に捧げるその声で自分に与えて欲しい。
 これは……紛う事なく、自分の我が侭だ。それ以外の何ものでもない、身勝手さだ。
 それでもどうかと、願った。ぎゅっと握り締めた手のひらは、緊張からか、微かに冷たい。それを少しでもあたためられる存在でありたいと、願った。このぬくもりが彼の心に寄り添って欲しかった。
 「だから、アレンがアレンの意志で、選んで。一緒に、いて」
 いとけなく、願う声。まるでジュニアのように幼くて青年の眉が情けなく垂れた。
 それを見上げながら、少年は切なく瞳を眇める。本当にもう、どうしようもない、話だ。それを告げるこの人は、結局何も解っていないのかも、しれない。その優しさも残酷さも、全て。
 「…………………………はぁ……、なんだか、初めから終わりまで、あなたの我が侭をずっと言われ続けている気がします、この数日」
 青年の真似、わざとらしく深く溜め息を吐いて、戯けるような声で呟く。………やはり似合わない仕草に、自分自身で笑いが込み上げきた。
 これなら、平気か。そう思い、笑みをそのままに、ひたと青年を見上げてみせる。
 「…………まあ、その通りなんだけど」
 見つめた先、青年は微妙な顔をしていた。少しだけそれは、途方に暮れた顔に似ていて、騙せなかったかもしれないと、胸中苦笑した。
 ………大丈夫、痛んでなど、いない。この数日の痛みに比べれば、こんなものは痛みにも入らない。
 「今更、一つくらい増えたって、いいですよ」
 多分、笑えた。きちんと、いつも通りに。
 それは逆にこの流れの中、妙の浮いているかもしれない。それでも、笑った。それ以外、示す表情が解らなかったから。
 「へ………?」
 思った通りの戸惑いの声。瞬く隻眼が少しだけ、窺うように見据えている。
 まるで、見極めるようだ。自分の言葉が彼の中、どのように分解され暴かれているか、想像する。出来る事なら最後の最後、与えられるのは痛みではないといい。そう、祈りながら。
 「どのみちね、ラビ。あなたはすっかり忘れているみたいですけど」
 揺れる翡翠。新緑が芽吹いたその瞳の中、躊躇いがちにこちらを見つめているのはきっと、自分と同じ恐れからだろう。
 自分が与えたものが、相手の決定を促し答えを押し付けた。そんな、恐怖。
 でも、彼は、いいのだ。彼は……初めからもう、自分が選んだものの上に、それを置いただけ。自分とは違う。罪も負い目も持つ必要のない、願いだ。
 思い、噛み締めかけた唇を、必死の自制で笑みのまま維持させる。気力を根こそぎ注ぎ込まなければ難しい事にこそ、苦笑が漏れそうだ。
 「僕は、あなたが好きなんですよ?」
 小さく、揺れないように捧げた言葉。…………多分、あの世界でジュニアに出会い自覚した全ては、それ以前から芽吹いていたものだ。
 あるいはだからこそ、彼はあんな態度に出たのか。この浅ましさに捕らわれない為に、退いたのか。
 ………それはきっと、正しい選択だ。彼は渡り鳥だ。どこにだって、誰にだって留まる事はない。そうした生を歩む人だ。
 それを、自分は愛しんだ。彼ら師弟が歩む先を、自分は愛しんだのだ。それは嘘ではなく、偽りでもない。ただそこに、こんなにも我が侭な感情が入り込むなんて、思わなかっただけだ。
 戦慄きそうな唇。涙を溜めるように揺れる瞳。それら全部隠したくて、呆れた振りをして顔を逸らし、右手で自身の目元を覆った。口元だけは、隠すわけにはいかない。そんな真似をすれば、すぐにバレる。
 ……………泣きたいと、嘆きたいと、叫んでしまうこの心に。
 「…………………………」
 沈黙は、きっと断ずる為に自分を見つめているからだろう。相変わらず不器用な癖に……ひどくこちらの事を気にかけてくれる人だ。それを優しさと知らず、戸惑いに眉を顰めるだけで、傷つけたのだと慌ててしまう、どこかそそっかしい人。
 出来るなら、自由なまま。自分の事など気に掛けずに生きてくれれば、それがきっと、彼にとって一番良かった。のに。
 「そのあなたにこんな風に懇願されて、どこまで嫌だって言い続けられるとか、思ったんですか」
 …………駄目だ。思い、溜め息のように吐息を落とした。目元を覆った指先に濡れた感触を感じ、必死に呼吸を整えながら、気付かれないように俯いた。
 もう、拒める筈がない。あの世界の中、幾度ジュニアを思い、彼を想っただろう。幼かった彼はいとけなく優しく不器用で、精一杯の腕も、いつかの誰かの為なのだと、知らずにいた純粋さ。
 そこに、入り込んでしまった。彼を想う事で、零されてしまった愛しさが、きっと記憶を思い出した彼には、枷になった。だからきっと、自分が選ぶべきは、拒絶な筈だというのに。
 願う事なんて、許される筈がないのに。許していい筈が、ないのに。
 いつかは手放さなくてはいけない人だけれど、それでも、その腕が憐れんで自分に向けられている、その一時だけでも。ほんの微かなその時間だけでも、いいから。この先を歩む為の力を、貰いたい。………それが、許されるならば。
 それが与えられるなら、もうそれ以上、何もいらない。
 彼の為に自分が出来る事、全部捧げて、自分の中、彼への思いで満たして、そうして………手放そう。必ず、彼が羽ばたくその時は。
 笑んで、彼が何一つ気に病む事なく己の道を歩めるように、さよならを言おう。
 彼らの歩みを阻むなんて真似、したくはない。自分の我が侭で、この一時を捕らえる事だって、本当ならば許されないのだから。
 俯き、少年は嗚咽を堪え、唇だけで笑んだ。前髪と覆った右手できっと、この揺れる眼差しは見える事はない。しなだれそうな肩を精一杯押さえ込んで、皮肉に、からかうように、必死に声を押さえて、綴った。
 「滑稽過ぎて、むしろ笑うの堪えるのが辛くて、涙が滲みましたよ、本当に………」
 声は震えなかった。それにホッとする。そんな真似してしまったら、きっと彼はもっと自分の為、傍に居ようとしてしまうだろう。
 彼は優しくて、傷付き萎れていた自分を咲かせる為、その腕を与えてくれただけなのだから。
 それ以上を願っては、いけない。望んではいけない。解っていても、何故かこの胸は痛み続ける。
 捕らえてしまった、と。…………この胸が痛むのは、罪悪感からだろうか。許されない事を身勝手に敢行しようとする、罪の意識だろうか。
 解らない。解らないけれど、ひどく悲しい気がして、軋む心臓に嗚咽が混ざりそうになった。
 「アレン………」
 そんな事にはすぐに気付いてしまう青年の腕が、躊躇いがちに頬を撫で、鼻先を髪に埋めてきた。
 …………まるで抱き締めてもいいのかと問うような、辿々しく幼稚な指先だ。
 それでもそれは、幼い我が侭を内包していて、拒むように微かに肩を揺らしても、離れようとはせずに、逆に腕の中に抱き込むように背中に回ってしまった。
 「くすぐったいです、甘えないで下さい」
 鼻をすするようなみっともない真似、したくはない。このままこの腕の中、泣きじゃくるような不様さも晒したくはない。
 彼の前では、笑っていたい。この先、彼がいつたったひとりの人を見つけるか解らないのに、彼の中、不安を残したくはなかった。
 大丈夫と笑って、その腕がなくても平気なのだと、示してやりたい。こんな風に、寂しそうに抱き締める仕草、晒さなくてもいいように、したいのに。
 「だって、アレン……泣いてる、し」
 幼く響く青年の声が、胸に痛い。優しい音色が耳に痛いなんて、滑稽な話しだ。その優しさを求めているからこその、痛みだと痛感する。
 唇を噛み締め、数度深呼吸をする。喉が熱く、目の奥が痛い。こんなにも嘆きたい衝動、幼い日に全てを失ったあの日以来、だ。
 それでもそれら全て飲み込んで、腹の奥、更にその底に、押し込め蓋をする。
 気付かれてはいけない、それは嘆きだ。
 そうして笑んでみる。唇だけでも笑む事が出来れば、声は笑いを滲ませられる。大丈夫、笑う事は、得意だ。
 「あなたが滑稽だからです。笑っているんです。これは、だから、笑い過ぎでお腹が痛いから、ですよ」
 窘めるように告げてみれば、ぎゅっと、肩を抱く腕に力が籠る。そのせいでより一層近づいた青年の体温が、心さえあたためたいと願うようで顰めた眉とともに、一筋落ちてしまった、水滴。
 「うん………でも、触りたい」
 それが彼に触れる事はなかったけれど、吸い込んだ息がしゃくり上げてしまって、きっとバレたと少年は顔を顰めた。………青年の声が、それを肯定するように打ち拉がれる寄る辺ない音になって、悲しい。
 彼には、笑っていて欲しいのに。幸せになって欲しいのに。そうして、その歩みの中、彼の血を繋げその笑みを咲かせ支えてくれる誰かを、得て欲しいのに。
 自分では到底役不足だ。思い、落とす溜め息も勿体無くて、飲み込んだ。
 そんなささやかにさえ、きっと彼はいたわりを寄せてしまうだろうから。そんなぬくもりに付け込むような真似、したくはない。
 それなのに彼は、頬をすり寄せるように腕の中、自分を抱き込んで離してくれない。縋りたくないと、幾度だって示した筈なのに、縋ってと願う指先が微かに震えている。
 「泣かせたいんじゃ、ないん。笑って欲しいって、思ってるんさ。でも…なんでこう、俺ってお前笑わすのヘタかなぁ……」
 溜め息のような呟きは、自嘲に染まっている。彼がそんな風に思う必要、どこにもないのに。
 ただ彼は、彼として、生きてくれればいい。それだけで、自分は笑んで進んでいける。
 「僕がね、笑うのは、簡単なんですよ」
 ぽつり、腕の中、囁いた。声はなんとか掠れず響き、ホッとした。
 「?」
 嘆く色を消した少年の音に、青年は目を瞬かせて腕の中の銀灰を覗き込んだ。間近な瞳は、それでもまだ少し、水滴に彩られていて痛々しい。
 それを痛むように寄せられた眉を見つめ、少年は微笑んだ。優しく柔らかい、慈しみを教える笑みで。
 「あなたが、あなたの道を、誇って歩いて。それだけで、僕は笑ってあなたの背中を見ていられる」
 いつだってその道を選んで。自分など顧みないで、咲き誇って。そうしたなら自分は、その花の美しさに笑んで、この世界の肥やしとなったとしても、嘆かず受け入れられる。
 あなたの為に、祈りたいのだ。…………ヘタクソな優しさを、それでもいつだって捧げたいと祈ってくれた人だから。
 自分もまた、彼のため、祈る。彼が彼である為に、その歩みを支える為に、捧げられる全て、捧げる事を。
 そっと青年の真似をして、擦り寄った肩が、怯えるように微かに震えていた。また、何か自分は間違えたか。恐れさせたか。自分は大丈夫だと、どうしたなら彼に伝わるだろう。
 彼は優し過ぎて、自分の祈りは遠く及ばない。どれ程捧げれば、彼と対等になれるのかすら解らないくらいだ。
 「なら、さ。アレン」
 小さく彼の声が響く。耳の傍、注ぎ込むような甘く低い青年の声。
 こんなにも間近、聞く事などない筈だった。あの世界がなければ永遠になかっただろう、距離。
 それを、今だけは寄り添って、みる。ほんの少しだけ、この先を歩む為に、彼のぬくもりを貰えるなら。それだけでもう、十分だから。
 そっと………青年の腕の中、その音に包まれるように身を預けた。
 「アレンも、アレンの道を笑って進んで。俺の為なんて、顧みずに。アレンの為に、進んで。俺も、そうしてくれるならきっと、笑って自分の道、選んでいける」
 腕の中、しどけなく全てを分け与えるように身を寄せてくれる存在に、喉が詰まりそうだった。
 …………こんなにも自分の中、溢れるものがある。その事実が、震える程に嬉しい、なんて。
 教えてくれたこの人は、きっと知らない。ずっとその声は、寂しく響いていて、今もまだ、あの世界の中、打ち拉がれた音に似通ったままの、ひとりぼっちの少年。
 自分が与えた、それは傷だ。望むものを与える事もないまま、それを自覚させる事もないまま、奪いその手から引き離した。だからこの痛みは、自分が引き受けるべきものだ。
 分かち合うべきものなのだと、背負い一人飲み込んでしまう少年に教えるように、囁いた。その声に小さく笑う気配が腕の中、咲いた。
 「頑固者、ですねぇ」
 苦笑するような、いつもの声。ほんの数秒の間に、もう彼は何かを定め己の内で決め、受け入れたらしい。
 それがなんであるか、解らない。解らない自分はきっと、彼よりもずっと歩みが遅いだろう。
 ………それでも手放さない。手放して、あげられない。この腕の中、ずっと存在してくれればいい。そうしていつか、彼がもう一人背負わなくてもいいのだと、誰かの荷まで手を伸ばさずにいていいのだと、解ってくれればいい。
 「お互い様だし」
 ぎゅっと、抱き締める。愛しいのだと教えるように。独りぼっちのままの少年の中、傍にいるのだと教えるように。
 「……まあ、そうなんですけど。そう、ですね」
 囁く声に、苦笑して、少年は痛みすら感じるその腕に頬を寄せた。ぎゅっと瞑った睫毛が、白い肌の上、濃い影を落とす。
 それでも物思うように寄せられる眉は存在せず、その穏やかにも見える睫毛の揺れに、少しだけ安堵する。そうして寄せた唇で、そっと吐息だけで口吻けるように寄せた額のぬくもり。
 言葉を途切れさせる事を恐れ、触れる事をギリギリで耐えて、長く緩やかに落とした溜め息に、少年が少し震えた事が腕に伝わった。
 「………心配して、手を伸ばし合うんじゃ、なくて」
 そんな少年の反応に小さく笑ってみせれば、仕方なさそうに彼は笑って、望んだままに言葉を繋げてくれた。相変わらず、許す事ばかり知っている笑みに、困ったように笑い返す。
 そんな笑みも、結局は愛しいと思うのは、現金だろうか。ただ彼がこの腕の中にいてくれる、それだけでこんなにも鼓動が生きる事を思い出し刻まれる。
 「信じて、背中を見せあって、みましょう?」
 囁く声の、あどけない祈り。彼が望むのはきっと、そんな他愛無い当たり前のこと。
 ………ただ、傍に。そしてそれすら許されないと刻んだのは、きっと自分。だから、それを撤回し傷を癒すのもまた、自分でありたい、なんて。きっと浅はかで傲慢な祈りだろう。
 「もしかしたら、その方がずっと、多くのものが見れるかもしれないし。もっといい答えが、見つかるかもしれませんよ」
 それでもこんな風に、彼は笑んでくれる。鮮やかに、祈りを咲き誇らせて。
 眩そうに眇めた瞳でそれを見つめ、青年はふわり、微笑んでみせる。少年の足元にも及ばない、それはまだ捧げる事に慣れていない、拙い微笑みだったけれど。
 「うん。でも、アレン、忘れないで」
 そっと、微かな躊躇いを持ちながらも、囁く声で彼の額に口吻ける。微かに震えたのはきっと、どうすればいいか解らないからだ。そう思い、ただ腕の中佇んでくれればいいと教えるように頬を寄せた。
 「…………はい?」
 戸惑いに揺れた声は、言葉にか仕草にか。きっとどちらにもだと青年は笑んで、そっと、少年の頬を両手で包む。
 綺麗な銀灰が微かに揺れて周囲を窺い、すぐに諦めてひたと青年を見つめた。逃げられないと解ったらしいと、こっそりと青年は笑んでしまう。
 もう、逃がせない。腕の中に落ちてきてくれたのだ。逃がせる筈もない。もう逃げない、から、逃がさない事も許して欲しい。きっとそんな身勝手、彼は溜め息で聞き流してしまうだろうけれど。
 「必ずこの腕の中、戻ってきて。………身体が朽ちても、心だけは、折れないで、ちゃんと還ってきて」
 微かに囁く声が、震えそうだ。それを誤摩化すように少年の目元に口吻ければ、くすぐったそうに肩が竦められた。
 ………そっと、言葉を綴らせて欲しいというように少年の手が青年の肩を押し、名残惜しそうに青年の唇が離れた。
 「それは多分、僕があなたに言うべき言葉、ですね?」
 いつだってフラフラして危なっかしいのは自分以上に青年だ。揶揄するように言ってみれば、青年もそれに乗るように戯けて笑んだ。
 「手厳しい、けど。言われるまでもなく、俺はお前のところ、戻ってくるさ」
 クスクスと笑う声。耳に心地良くて、泣きそうだ。思い、少年は胆力だけで微笑んだ。……言葉、なんて。告げたら溢れてしまいそうだ。彼への愛しさなんて、押さえ込める筈がない。
 「お前の心臓の中、帰ってくる。いつか、もしもイノセンスがお前を奪おうとしても、絶対に、あげないんさ」
 そっと胸元に触れる、青年の右手。その下で、服に隠され肉体に覆われ、心臓はきちんと脈打っている。その鼓動を確かめるように目蓋を落とす青年の顔は、どこか彫刻じみた美しさだ。
 いつも戯けてふざけた表情でその端正な顔を崩すけれど、真面目な顔をすれば美丈夫なのだと、今更気付いて苦笑した。
 彼の事、知らない。彼の情報は零れ落ちない。だから、自分が探し得ようとしない限り、きっと、何も知らないまま別れがくるだろう。
 それもまたいいだろうか。与えてはいけない情報の多さは、もう承知している。彼がくれるこのぬくもり以上の、一体何を望めというのか。
 思い、少年は愛しげに自身の頬を包む腕に手のひらを重ね、笑んだ。
 この手のひらのぬくもりだけで、充分だ。ジュニアが教えてくれた、ただ寄り添うだけで与えられる心の充足。この人にも、与えられるだろうか。………いつか誰かを彼が見つける、その日まで。
 「………イノセンスと、張り合うんですか?」
 囁き、そっと彼を見つめる。見下ろす新緑が朝露の中、戸惑うように揺れていた。
 「アレンと生まれた時からずっと一緒なんさ。それくらい張り合ってもいいだろ?」
 戯けて、そんな風に笑うけれど。
 ………青年の顔は泣き出しそうに歪んでいて、一つも笑えていなかった。
 きっと、言えない事があるのだろう。その心の中、彼は自分に告げられず痛みむもの数多いのだろうから。
 そっと、近づく泣き虫の顔を見つめ………睫毛を落とす。
 涙味の口吻けは、どこか彼らしくて苦笑した。
 それに何を察したのか解らないけれど、彼の腕が強く、抱き締めた。微かに震えた両腕は、まるで本当に何かから自分を奪いたいと願うように、力強くて。ほんの少し、痛かったけれど。
 そっと、その肩に顔を埋め、何も知らない愚者の振りをして、笑んだ。

 

 全てを暴きたい、なんて、言わない。

 

 ただこの腕が、躊躇わず先を目指せばいい。

 …………新緑から零れ落ちたひと雫が、銀灰の海に溶ける。
 それが全てで、いい。
 告げられない全ては、それでもきっと、どこかで自分に囁いている。

 

 いつの日か、もしも、途絶える日が来たとしても。

 きっと、還ってこよう。この瞳の中。

 

 彼が告げたように、心の中。心臓の、脈打つ鼓動となって。

 ……………………あなたが歩むその道を、共に刻む糧になりたい。

 








   エピローグ1


 さて。読んでいただけて色々ツッコみたいでしょうが、まあ、言い訳。
 ブログで嘆いた、どうしてもすくい切れなかった部分、が……アレンのこの『過去にのみ幸せの糧を見つけて未来に望みを持たない』っつー悪癖だったわけです(溜め息)
 いえ、頑張って、ね?のほほ〜んとラビの言葉受け入れて幸せ一杯v も、考えなかったわけではないですよ?
 でも無理。ラビが初めに刻んだ傷が、君が好き♪の一言で全て消えるなんて、有り得ないですよ。
 自分で納得出来ない事を書いて説得力なんぞ出るかー!!と逆ギレしかけて却下しました、そっちは。
 抉れた傷が、言葉一つで完治する、なんて事は有り得ないのです。見せかけだけそう出来ても、疼き続けて、結局無理が出るし。
 なんとかそれを補完しようと、ええ、頑張ったですよ。エピローグ。
 おかげで3までありますけどね。もはやエピローグじゃないよ、それ(遠い目)
 そして今回異様に長くてすみません。2話分くらい、無理矢理詰め込んでます。エピローグはそんな事ないので、ご安心下さい(汗)

11.2.27