伸びをするように両腕を持ち上げ、青年はそのまま頭の後ろで腕を組んだ。
…………のんびりした足取りで背を向けたのは、今回の任務にあった奇怪の慰霊碑だ。
もうそこに少女はいない。全てを話し終え、あの幼い少女は気丈にも一人、家に帰っていった。自分達に縋る事もなく、あんな戦闘を間近で見て巻き込まれ、恐ろしい目に合ったのに、それでもあの家に帰る事を望むらしい。
それはきっと、そこが帰る場所だと、知っているからこその、揺るがなさだろう。
思い、青年は細く息を吐き出した。
「…………結局、人間の傲慢、かねぇ」
全ての記録はそれをベースに成り立っている。それなくして、記録しなくてはいけないような事象は起こりえない。
解っている。人間は、元来尊大な生き物だ。己をこの世界の中、最上の存在と思い、神の似姿という誉れすら口に出来る、そんな種族だ。
「いつもの事だ。大差はない」
返される老人の声も、色がない。感情を抜け落とさせた、記録者の声だ。
エクソシストとしてであればそれなりに感情を落とす癖に、一旦本職となればそれを微塵も滲ませる事がないのだから、頭が下がると青年は笑った。
「石も、あとからの細工。一応ブックマンとしての体面は保ててるけど、情けない話さ」
記録した事象の上書きは、裏を返せばそれを記録した当代のブックマンが見抜けなかったという事だ。裏歴史を網羅する自分達にとって、それは恥辱というべき汚点だ。
…………それでも人の愚かさは、紡がれた事実を捩じ曲げ壊すというその行為に躊躇いがない、という一点に集約される。それくらい、こうした事柄は多い。
今回も、それだ。思い、鬱屈としそうな胸裏を解放するように、青年は長く息を吐き出した。
「ならばお前が紡ぐ時は見落とすな。次代が迷惑を被る」
「ま、そうさね。あ〜早く帰りたいさぁ」
そう呟き、見遣った先は鮮やかな青だった。それを眩く細めた眼差しに収め、小さく吐息を落とす。
………………あの少女は、言っていた。
自分は見ていたのだ、と。まだ物心つくかつかない頃に、死んだ兄。その意味も知らなかった。知らないまま、嘆く祖父を眺めていた。
そうして告げられた悲嘆と怨嗟の声を、今も覚えていると、打ち沈み言った。
彼らの血筋は元はこの地方の領主だ。………が、それは決して歓迎される意味を持たない。記録を手繰ればあっさりと牽引出来るそれは、口を歪めるに充分な情報で埋め尽くされている。
それらの蓄積により、住民達の暴動が起き、追放された一族。しかし、その中には逃げ延びられないものもいた。
それらは幼い子供か身体の弱い女、あるいは年老いたものばかりで、手にかけようにもそれらに掛かる罪の重さは、逃げていったその人間よりもずっと低く、おそらくは同じ被害者である事もまた、解っていた。
それでも憤懣遣る瀬無い住人に、目溢し出来るだけの心の余裕もなく。
………今この時の命を助ける代わりに、未来の命を搾取する事を、選んだ。自分達が奪われ続けた命と同じように、その代償に。
ようは、人身御供の一族に成り果てたのだ。
自然現象、改革による余波、疫病。………何か人の心を不安に陥れる時、一人ずつ奪われていった命。
それももう、遠い昔の話だった筈だ。それでも少女は知っているという。祖父の弟もまた、そうした形で奪われたと。嘆いていたと……言っていた。
兄は、病気だったと聞いた。実際その通りだったのだろう。が、既に一度過去に家族を奪われていた祖父には、それは理解出来なかったのかもしれない。
失った大切な孫の一人への悲しみが、怨嗟になった。………この地域を呪う、怨嗟に。
そうして嘆いた声に、製造者が付け込んだ。その姿さえ、少女は見ていたという。
それらの話しを聞いて、合致する情報から再構築された事実は、単純なものだ。
孫が病に倒れた事を、自然ではなく人為的なものと見なした祖父。それを止めさせるため、過去の日この地域で起こった残虐な儀式を思い出させるように、人身御供となった者達の形見を埋める石碑に、細工をした。
それでも孫の容態は悪化するばかりで、気も狂わんばかりに嘆き続けて。………失ったその日に、孫娘を腕に抱き、怨嗟を吐いた。
意味は解らなくとも、その感情は伝わる。孫娘は戸惑い、悲しみに沈む祖父の傍にいた。けれど、それだけでは足りない程に、祖父はもう、壊れていた。
壊れて………製造者を願った。願って、自らAKUMAの糧になった。おそらく……この地域では、過去にも幾度もこうした事があったのだろうと、少女は言った。祖父は明らかに、それを知っている節があったのだ。
嘆きの中、製造者の気配とともに、自分に離れるように言ったのだと。巻き込まない為、そうしたのだと。………優しい祖父だったのだと、泣いていた。
だから石の調査に来た自分達が、祖父の嘆きを暴かないように、見張っていたのだ。まさかあんな奇怪な戦闘に巻き込まれるなど、思いもしないで。
それでも、一度として謝罪は口にしない、凛とした少女だった。
過ちがあった事は、知っているだろう。それでもそれしか選べない程に追い詰めたものがなんであるか、それこそが重要なのだと、涙に濡れた睨む眼差しは綺麗に澄んでいた。この、青空のように。
記載の訂正。そして再構築。またやる事が増えそうだと、青年は小さく息を落とし、隣の老人を見遣った。
終始無言のまま、情報だけを蓄積した老人は、あの少女の言葉に何を思っただろう。
記録の最中、決してその眼差しにすら揺らめきを乗せない師は、玲瓏に存在する無機物と同じ時がある。…………その中にどれ程の情を秘めているか、知らないわけではないけれど。
「なあ…ジジイ」
小さく、問うように師を呼んだ。多分、その声は随分と寂しげだっただろう。
ちらりと見上げてきた師の眼差しが、微かに光って見えたから、確実に情けない音だった筈だ。
「なんだ」
微かな逡巡を見据えるように、老人の声が響く。歩む足音もしない、気配を殺す事に慣れた歩みのまま。
それを聴覚だけで記録しながら、青年はじっと道の先を見つめた。まだ、この町外れから列車のある駅までは、遠い。
「あの子の話、任務には関係ないさ?」
「………………………」
「言わんで、いいよな………。きっと、泣くから」
あの優しい少年は、泣くだろう。少女の為、祖父の為、AKUMAとなり自分が破壊した、少年の為に。
どうする事も出来ず、過去となって連なった事実だけと解っていても、幸せになって欲しいのだと、破壊し救済した魂を思い、涙を流す。
それはひどく、痛ましいから。出来る事なら、何も知らずにいて欲しい。
打ち沈みそうな声を呑気に吐き出しながら空をもう一度見上げた青年に、老人は呆れたように溜め息を吐く。
…………成長したようで、なかなかその歩みは躊躇いがちだ。
まだまだ手のかかる未熟者を見上げながら、老人はその口を開いた。
「小僧を舐めるなよ、ジュニア」
ささやかな逆襲のような、幼稚な名称。今はその名で師が呼ぶ筈がない、仮の名を与えられている身だ。
それに目を瞬かせ、頭の後ろで組んでいた腕を思わず解いて師を見下ろした。
「……へ?」
相当間抜けな顔をしていたのだろう。師は呆れ果てたように目を眇め、盛大に溜め息を落とした。
「アレが、嘆くだけで終わるわけがあるまい。お前の腕なんぞなくとも、一人立ち上がる」
あの少年は、ただ独りでも己の道を見定め歩めるものだ。その為の胆力も術も、持ち合わせている。
それこそを持たなくてはいけない自分の後継者は、何を間違えたのか、その人がいなくては惑いやすい欠陥品でだけれど。
…………それでも、その歩みはきっと、美しかろう。惑うのは、心を宿し生きるからだ。
宿ったその心は、この世界を映す水晶体として、美しく透明に開花すればいい。汚濁と成り果てるこの残酷な世の理も、眼差し一つ、見据える心一つ変わるなら、色鮮やかに彩られた祝福を教える。
それを、見出せればいい。もっとも、それにはどう足掻いてもあの少年の眼差しが傍らになくてはいけないのだから、厄介な弟子だ。
「うわ……キッツイ言葉さ、それ」
青年は辟易とした顔をして、それでもその声はどこか楽しげに笑っていた。
少なくとも、この程度の言葉に凹み打ち拉がれる事は無くなったらしい。それでもまだ、この青年は不安定さを持ち合わせてはいるけれど。
早く、重なり合い紡がれればいい。もっと深く、根強く、連なればいい。
そうしたなら、揺れる眼差しもまた、しなやかに成長し、大樹を宿すだろうから。
「ならばお前も進め。でなければ、小僧に取り残されるぞ」
………それでもそれらは全て、まだ未確定の未来の予測だ。………思い、老人は釘を刺すように青年に素っ気なく告げた。
「…………本当に、ジジイは敵か味方か解らんさ」
あまりにあっさりしたその言葉に、青年は苦笑する。始めから全て、見通していた人だ。その癖、阻む事もなく、自分の選んだものの愚かさを示唆した人だ。
少年の腕を選ぶ事を黙認してくれた。……否、それが無ければ自分が壊れる事をきっと、自分以上に知っていた。
この背を励ますように叱咤して、その癖こんな風に放り捨てるように告げて。そのどちらもが老人の中、ただ一点に帰着する情によって醸されるのだから、彼だってきっと昔は質の悪い人間だった事だろう。
そう揶揄するような声音に、呆れたような眼差しを老人を流したあと、口にした煙管を外すと、細く長く、煙を吐き出した。
「お前がまともな後継者ならこんな気苦労せんわ」
敵も味方も、無関係だ。ただその一点があるからこそ、繋がる絆。そうしてそれを、愛おしみ眺める少年の眼差しをよく知る、情の全てをひた隠しにしている好々爺。
それでもこの老人はいつだって甘さ以上に厳しいのだと、これから帰ったあとの修練を思い、青年は苦い顔を落とした。
出来れば、早く帰って、少年に会いたい。会って、抱き締めて、全部終わったのだと……教えたい。
もう何も気に病む事なく、あの洞窟の出来事は全てが終結し、あとはもう、未来しか残されていないと、教えたい。
………自分達とてもう、未来に進む以外にないのだ、と。
そんな物思いすら看破しているのだろう老人は、皺の寄った唇に煙管を銜え、そっと落とした目蓋の先で、ようやく見えた森の終わりを見つめた。
「悔しいのなら、さっさと育て。未熟者が」
そう、緩やかに呟きながら。足音もなく進む小柄な肩を、青年を苦笑して見下ろした。
老人の吐き出した息が、心配の色を宿している事、今ならば読み取れる。
………あの少年が愛しみ、笑いかけるその先にある、優しさ。
辿る糸を見る事が、ほんの少し、上手くなった。それだけは褒めて欲しいものだ、と。
青年は空を仰ぎ見る。
どこまでもどこまでも広がる、無限の空を……………………
前 エピローグ2
この話で、取り合えず、内容的な謎解きは終わり、かな。
あとは………ジュニア救済と、アレンの悪癖どうにかするのですよ。
11.2.27