目を瞬かせて首を傾げてしまった少年に、青年は苦笑した。
普通、こうしたなら、続く言葉は解るだろうに。どうしたのだろうと不思議そうなのだから、この少年には困ったものだ。教える事が、多過ぎる。
「手から、血が出てね?」
当たり前の事を指摘して、青年がその傷を見下ろせば、同じように視線をずらしてそれを見つめ、また目を瞬かせ、少年はこくりと頷いた。
「はぁ…、本当ですね」
気のない、というより、見たままを返す以外どうすればいいか解らない声が呟いた。
手を振り払って大丈夫という事もない辺り、それを気にする意味すら、解っていないのかも知れない。
仕方なく、青年は首を傾げながら自分のホルスターを探る。確か、数枚の絆創膏くらい入れていた。
「紙か何かで切ったんかなー」
腕を掴んだまま絆創膏をとるまでの時間稼ぎに呟いてみれば、ああと思いついたように少年が納得して頷いた。
「そっか、さっき報告書まとめていたから、それかもしれないですね」
呟きながら、青年の動きの意図に気付き、少年はようやく腕を取り返そうと引き寄せた。が、すぐにそれに気付いた相手の指先が、しっかりと握り締められてしまい、動けなかった。
内心困りながら、少年は青年に微笑みかけてみる。多分、眉は垂れた困り顔だった。
そんな少年にしたり顔で青年は同じく笑いかけ、取り出した絆創膏を挟んで持った指先で、乾いていないその傷の血を指差した。
「まだ血が止まってないさね?」
きっと触ればそのまま赤く指先が色づくだろう。爪先で突つくような真似をしたら、ぴくりと指先が跳ねて逃げようとする。
痛みの予想に逃げるというよりは、触られる事に逃げるような仕草に、相変わらず触れ合いは苦手らしい少年を垣間見た。とはいえ、普通のスキンシップくらい、窘めの言葉を吐く事はあっても、受け入れるのだ。
ただ、こうしたいたわりを孕むものが、彼は苦手だ。
「その内止まりますよ」
案の定、にっこりと鉄壁の笑顔を浮かべ、手首を包む青年の指先をやんわりと取り外すように包んだ。………思いの外冷たいと感じたのは、手袋が冷えているせいだろうか。
奇妙な違和を感じながら、青年は自分の手を外そうとする手の甲を軽く爪弾いた。
「こら、アレン、絆創膏くらい貼るさ?」
「いいですよ、この程度で」
窘めを孕む声に、困ったように少年が返す。確かに、この程度と言ってしまえばそれまでだが、もう既に絆創膏を取り出したのだ。このまま突っ返されてしまっても、青年としても虚しい。
ちょっとした意地になって、青年は少年の手首を無理矢理引き寄せた。
「ダメ。ほら貸して」
少し、低い声。すぐに反応した少年の腕は、一瞬動きを止めてしまう。それを見計らい寄せた小指の下、まだ鮮やかなままの赤を保つ傷を、口に含む。
…………やはり鉄臭い、血の味がした。顔を顰めかけて、けれど晒す事は我慢する。きっと眉を顰めるだけでも少年は青年を振り払う事に躊躇わないだろう。
「ラビ?!ちょっ、何を……!」
ギョッとしたような声は、僅かに震えを孕んで響いた。それに周囲にいた数人の通行人が目を向けるが、状況を見てすぐに目を逸らす。
……………はたして彼らの中ではどう映ったのか、少々気になるところだが、どのみちこの先関わる事もないモブだ。記録するまでもない。
そんな事を考えながら、青年は傷の上、舌を這わせる。なめらかな肌の感触だけになるまで繰り返せば、怯えるように少年の手のひらが震えていた。
何よりも相手の嫌悪や拒絶に敏感に反応する子だ。見せる表情の細部まで、知らず察知してしまう感受性は、こんな時厄介だ。
きっと目紛しく彼の中で感情と理性と意識が交差して、こちらの反応を予測し、たとえそれがマイナスに傾いたものを晒したとしても受け入れるように地盤作りをしている。………面白いくらい、彼は自分自身に否定的で、関わる相手の全てに、必ず別離を加えて想定している。
濡れた肌を軽く拭いながら唇を離せば、思った通り少し青ざめた顔で少年はこちらを見ていた。普通、怒るなり照れるなりで顔は赤くなるものだというのに、珍しい反応だ。
その顔を記録しながら、なんて事はないいつもの顔でコテンと首を傾けて戯けて笑った。その方が、きっと彼は落ち着くだろう。
「消毒代わりさ。嫌でもまあ、ちっと我慢な」
軽い調子の声で彼が嫌だっただろうと先に労ってみせると、びっくりしたように目を丸める。次いで、顔を顰め、泣きそうな顔で唇を引き結んだ。
…………それはどこか、叱られる事に耐える子供の顔に似ていた。
この子は、たまにこんな風に相手が厭っただろうと問うと、そんな顔をする。悲しいでも辛いでもなく、恐れるでも怯えるでもなく。ただ、どこか、耐え忍ぶような、そんな顔。
「馬鹿ですか!他人の血を舐めるなんてっ」
ぎゅっと、右手を握り締めようとする手のひらに気付き、青年はするりとその拳の中に手のひらを滑り込ませた。今力一杯握り締めたら、また新しい血が滲んで膨らむ。
先程までとは違い湿った肌は、血を広がらせるだろう。折角綺麗にしたというのに、それでは元の木阿弥だ。
意図が伝わったらしい右手は、こちらの手のひらを握り締める事なく、力を抜いた。………それが少し残念だ。
きっと縋るような仕草はその表情と相俟って可愛かっただろう。子供そのものに、時折思える程に、この子はいとけなく無防備を晒す事があるのも、気に入っていた。
自分達の存在の意味を知った相手は、大抵は緊張と警戒を持って関わるから、無邪気や無防備は縁遠い反応であり、仕草だ。
それを引き寄せるように、青年はどうすればいいか解らず力の抜けた少年の右手の甲を、親指で撫でて宥めるように笑った声を紡いだ。
「水無かったし、手っ取り早いさ?」
飲料水でも携帯していれば、それをかけてもよかった。が、残念ながらそんな準備のいい事はしていないし、そもそもあったとしてもそれは基本、非常時用だ。この程度の事に使うものではない。
解っている少年は、複雑そうに顔を顰めて俯いてしまう。その反応は予想外で、青年ははてと首を傾げた。
勿論、スキンシップに慣れていないとか、男にそんな真似するのもされるのも嫌だというのも、解らないでもない。が、基本彼はお人好しだ。好意を示して差し出されれば、大抵の事は受け入れ甘受する。
これも許容範囲であろうと目算していたが、範疇外だっただろうか。
機嫌を損ねると今後の関わりにも支障をきたしてしまう。どうするかと見遣った翡翠の中、真っ白な絹糸がゆらり揺れて、彼が小さく息を飲み込んだのが解った。
「………血には危険があるから、無闇に触るなって言ったの、ラビです」
困ったように口ごもり告げる様が、幼い子供のようで青年は笑った。思った以上に優しい笑みだった事が、少年の困惑に揺れる眼差しが落ち着いた事で解る。
それを確定させるように、青年は少年の俯きがちな額を軽く小突いた。
ようやく、この少年の戸惑いの根源が見えた。これなら、問題ない。言い包める事が容易い物思いでよかったと、青年は胸中でホッと息を吐いた。
「まーね。でもアレンだし、平気っしょ」
エクソシストは身体検査も義務だ。今まで少年が検査に引っ掛かった事はない。ならば問題はないだろうと笑えば、また困ったように少年は自身の手のひらを握り締めて、覆い隠すように背後に押し退けてしまった。
「……寄生型の血、が、…………平気かどうかなんて責任持てませんよ」
呟いたその声に、やっと合点がいった。
随分引き摺ると思えば、それを気にしていたのか。別段、右手を舐めただけだ。イノセンスによって細胞単位で人と違う物体となった左腕ではない。
言われれば確かに考えるべきだったと悩むが、だからといって嫌悪が湧くわけでもない。少年は気にしすぎだ。
だからこそ青年は呑気な顔で今気付いたかのように目を瞬かせると、手を打って頷いた。
「あ、そうか。でも血の味は俺と変わらんさ」
「味って………」
ひくりと少年の顔が引き攣った。………確かに自分の血を味わわれるのは嬉しくないだろう。
仕方無さそうに青年は苦笑した。
「嫌な顔すんなよ。口の中切れば嫌でも味わうもんさ」 戦いが仕事の自分達だ。今更血の味程度、知らないなどとは言わないだろう。
そんな青年の物言いに少年は呆れたように息を吐き、小さく笑った。……それは、その他の表情が作れなかった、そんな困惑の結果の、嘘の笑みだ。
「そりゃそうですけどね。ラビは物好きですね」
気持ち悪いだろうに、と。きっと続けたかったに違いない少年の声は、不自然でない程度に途切れた。
それはきっと、言えば気にさせると解っている少年の気遣いであり、怯えだ。
「そう?好奇心旺盛と言って♪」
それをあっさり笑って受け流し、青年は何て事はないという顔をした。実際、気にするような話は何もないのだ。
寄生型の血など舐めた事も、分析をした事もないが、舌に残る鉄臭さは、自分の血と大差なかった。…………それとも、左手の血ならばまた、違うものなのだろうか。
ふと思い、疼くように舌先が唇を舐めてしまう。まるで飢えた犬だなと、先程評された動物が脳裏を過った。
「でも寄生型の体液って、何か違いあるんかね」
クスリと笑い、からかうように首を傾げて告げてみた。可能性は低いが、もしも左手にも傷があるならば、舐めとれるだろうか。
味が違ったら、なかなか貴重な記録かもしれない。
「はい?」
聞き流すかと思った少年は、けれどきちん問い返してしまった。それに人懐っこく笑ってみせて、青年は隠された左手の、二の腕を指先で辿る。
「機会があったら試したいところさ」
ゆったりと腕を辿る青年の指先の、服の上からのその刺激に、顔を顰めた少年が一歩、距離をとった。くすぐったかった、などという理由ではないだろう。それに青年は胸中でクツリと笑った。
………素直な反応だ。きちんと危険を察知して逃げる算段を立てる事が出来ている。
それでも顔に出さないのは、流石のポーカーフェイスだ。
そうしてとった距離を縮めずに、それでも怪訝そうなわざとらしい顰め顔でこちらを窘めてくる。
「………ラビはマッドですか、もしかして」
師匠と気が合うかもと、溜め息を吐きながら少年が言った。…………嫌そうな顔はそれが故というわけだろうか。
なかなか読み取らせない仕草に、警戒心を刺激しないようにからりと青年は笑う。
「いんや?なんとなく思っただけ。ビビんなよ〜」
悪戯が成功した、そんな屈託の無さで笑ってみれば、微かに緊張していた少年の肩から力が抜けたのが解る。
「いえ、どちらかと言うと呆れました」
返される声は今まで通り、軽い音に近付いた。静かに周囲を窺っていた緊迫の気配がそっと彼の中、隠されていく。
…………この少年は、お人好しだが、無知ではない。きちんとこの世には悪人がいる事も、親しい顔が牙を剥く事も、解っている。解った上でのお人好しを、苛立たしそうに詰った黒髪の友人を思い浮かべ、青年は笑った。
「ひでっ」
ちゃんとこの子は知っているよ、と。たった今の少年の言葉と、過去に吐き出された友人のいたわりを覆い隠した棘の声の両方に、笑った。
少年の目が、くるりと揺れる。綺麗な銀灰が陽射しが降り注いで、灯火のように淡く輝いている。その中、探っている、静かな叡智。
………自分達とは質の違う、生きるという中で培われた無意識の警戒、だ。
自分の笑みの中、彼は何かを察知した。察知したそれがなんであるか解らずに、浮かべた笑みが僅かに困惑を孕んでいる。
もしかしたら好意を踏みにじったから怒った、とでも思ったか。そこまで狭量ではないつもりだと、にっこりと笑ってみれば、また困ったように彼の眉が垂れる。
どうにも彼は、差し出した物を嗅ぎ分ける事が上手くて困ってしまうと、苦笑をした。
「あ、ほらアレン、この道」
そうして話題を変えるように青年はようやく見えた曲がり角を指差した。
「?」
「街のメインストリートさ。ここ進めばマルシェに着くん」
不思議そうに瞬く銀灰に、今度はきっと月のように輝く光が灯るだろうと、青年はとっておきの秘密を教えるように先程提示したルートの最終目的地を口にした。
途端、少年の顔が笑みに輝いた。まだまだ食い気に気をとられてしまうのでは危なっかしいと、青年はもう警戒を忘れて擦り寄ってきた幼い少年の肩を叩いた。
油断しているその隙に手早く先程舐めとった傷に絆創膏を貼り、ようやくこの小さなひと騒動の終止符が打てたと、大仕事をしたような笑顔で汗を拭うふりをする。
そのわざとらしい仕草に少しむくれた少年は、それでもニッと子供のように笑う青年に仕方なさそうに同じ笑みを向けた。…………キラキラと陽射しに透けた赤い髪が綺麗だ、なんて。からかった彼には教えはしないと決めながら。
「じゃあ早速向かいましょう!」
なんとなく貼られた絆創膏に、舐めとられた血の事を主張されているようで気になるが、この際もうそれは忘れる事にする。いつまでも引っ掛かるような事でもない。
青年を置いていくふりをして大股で歩を進めた少年の背中に、呑気な、けれど少しの窘めを孕んで青年の声が降り注いだ。
「情報収集も忘れちゃダメさ、アレン」
ここまで歩いた中、まだほとんど聞き込みらしい事はしていない。勿論、人の集まるところは情報の集まるところだ。市場に行けば大食いの少年が満足するだけの食べ物を買うついでに、快く話を聞き出せるだろう。
その方が効率がいい事はよく承知している少女の、これはきっと一石二鳥の誘導だ。
「わ、解ってますよ!ほら、行きますよ、ラビ!」
それを知らず、本当に好意だけを受け取って慕っているだろう少年は、ほんの少し、道化のようで滑稽だ。思った青年は、目を瞬かせた。
……………随分と、穿った考え方をしたような気がする。間違ってはいないだろうが、それは人の行動の中の、当たり前に作用する物のついでというものだ。
少女はきっと、本当にただ、この少年が喜ぶ事を差し出したかっただけだろうし、だからといって彼がしなくてはいけない仕事を疎かにさせれば、彼自身が気に病むと解っているからこその、心遣いだろう。
彼女の性格はよく知っている。数年も同じ場所にいれば、関わる人間の思考パターンは把握するものだ。それなのに、どちらかというと自分寄りの曲解を与えるなんて、あの可憐な少女には無粋な想像だった。
思い、嬉しそうな少年の横顔と、弾むように歩くその背中を見つめる。
「はいはい、慌てんでもまだ時間はあるさ」
幸せそうだな、と、陽射しの下、フードに隠れない白い髪を見つめて思う。確かそれを外すようになったのは、あの少女が日に透ける彼の髪を朝露を含んだ花に似ていると喜んでからだ。
きっと彼にとって、あんな風に真っ直ぐに感嘆された事はなかったのだろう。戸惑い恐縮し、フードに隠そうとしていたのを思い出す。
自分もからかって彼の髪もその頬の傷も、気にしていない事を教えていたし、クロウリーに至っては何が悪いのか解っていない顔をしていた。老人は初めからそれを指摘して当たり前に受け入れている事を示していたし、きっと教団の室長周辺はそんな自分達と同じ反応だったに違いない。
………それでも、きっかけは多分、あの少女だ。
何も含まない、ただ心動かされて紡いだ稚拙な感嘆の音が、少年の殻を一枚、なくした。
考えてみると、それも自分が初めではなかった。老人にしろ少女にしろ、随分と自分を出し抜いて色々な記録を奪ってくれている。
こっそりと小さく息を吐いて、なかなか思うように記録出来ていない現実に青年は唇を尖らせた。傍にいる時間は長いが、どうも上手く記録ははかどっていないらしい自分に気付くのは、少し情けない。
「もうちっとゆっくり行けばいいんに……」
そそくさと急いで進む少年の背中を見ながら、小さく息を落として青年は口の中で呟いた。
呟いたあと、コテンと首を傾げ、目を瞬かせた。
………まるで、この時間を惜しむような感覚が不可解だ。
思い、青年を呼ぶ少年の声に答え、その隣に並ぶために駆けた。
………きっと息抜きをしたかっただけだ。
ここのところ元帥探しと平行して、随分と記録する量が増えている。流石に疲れたなどとは言えないが、気晴らしはしたい。
だから、この面白くて目の離せない少年を傍に置く時間が長い方がいいと思う。ただそれだけだ。
そう思いながら、青年は楽しげにマルシェを思い描く上機嫌の少年に、からかいの声を掛けた。
返されるむくれた顔を思い描きながら。
浮かんだのは、自身すら知らぬ微笑み。
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…………他意がない事にこそ、むしろ問題を感じる兎でした。
もうちょっと、自覚までに時間がかかりますよ。自覚したあとの方が厄介ですけど、この子。
大体、この辺りが中核になる……かなぁ??
ラストはもう書いているので、そこに持っていく為にちらほらちらほらあらすじを書いていっているのですが。
………すでにもう、10話を越える事が確定している事に凹みますよね。
いい、どれかドッキング出来る部分があったらドキングして短くする…………!
もともとアレン片思い(正確には両思いだけど先に自覚したのがアレン)のお話の、さくっとラビから離れて諦めようとする話のネタもねじ込んだせいで余計に微妙な事になっていっています。
まあ、こちらの話だとラビが不憫ですけどね。いや、いつもアレンばっかり大変だからと思ったのに、本気で報われなくて悲恋に終わる気がしたので諦めたんですよ、書くの。
アレンに応える気がない(あるいは諦める事を決めた)場合は、ラビではどうしようもないらしいです、うちの子達。
全てにおいてアレンが鍵なんだろうな……うん……………
11.4.16