前を進む少年の背中を、頭の後ろで腕を組んだまま見据え、青年は苦笑を漏らした。
ずっと迷う仕草もなく彼は前を歩いているけれど、このまま進めば残念ながらこの町から出てしまう。ちらりと見遣った少年の肩の先にある看板には、しっかり町番が書かれているが、その名が変わった事に、彼が気付いた気配は未だない。
勿論、これが隣町に赴く為なら、なんの問題もない。が、自分達は移動する為に歩いているわけではなく、宿に戻るために歩いているのだ。町から出る意味はない。
そろそろ気付くだろうかと思いながら、町の中央を通り過ぎたのは随分前の話だ。
そんな事をのんびりと考えながら、気付かないからこそこの少年はいつも迷うのだろうと思い付き、クスリと笑った。
………流石に、タイムリミットだ。
小さく笑い、青年は先を進む少年に声を掛けた。
「アレン、こっち」
不意に静かだった青年が掛けたその声に、少年が振り返った。瞬く少年の眼差しが、続く言葉を待っている。そんな青年の視界の中、次の町へと続く事を示す町番が見えた。
それ以上何も言葉を続けない青年を見る、不可解そうな少年の姿は、その町番と自分達の状況を考えると、妙にミスマッチで滑稽だ。
苦笑する青年に、何かあったのかと歩み寄る姿が、迷子の子供が駆け寄る姿に重なって、つい吹き出してしまいそうな唇を、青年は必死に耐えた。
なんとか耐えられたその隙に、顔を覗かれないようにと近付く少年に腕を伸ばす。
また、瞬く眼差しが一瞬だけ見れた。すぐに掻き消えてしまったのは、無防備な少年の腕をとり、自分ごとくるりと回ったからだ。そうして、少年からは見えなくなった唇で、苦笑を落とす。
引いた少年の腕が抵抗するように突っ張った。それを手のひらで感じ、青年はそれを窘めるように力を込めて、また一歩分、引き寄せる。そうしてそのまま、青年は進路を今までとは逆にとり、歩を進め始めた。
そんな青年の突然の言葉と行動に、少年は目を瞬かせて転びそうな足先をたたらを踏みながらバランスをとる事しか出来ない。純粋な力関係では、左腕を使わない限り、適う筈がない体格差だ。
「………?すみません、ラビ、意味が解りません」
まるで言葉の足りない青年の言動に、困ったような声が返された。それを聞き、青年はつい我慢しきれずに、小さく吹き出すように唇から息を落とした。…………それは少年には溜め息に聞こえただろうか。
それでも浮かんでいる笑みに気付けば、きっとバレてしまう。先程とは逆に背中を見せる立ち位置でよかった。気付かれたらきっと怒らせてしまうだろう。
なかなか彼は、優しげな面持ちとは裏腹に、短気だ。
思い、青年はステップを踏むように軽やかに、けれど少年が歩くには少しだけ早い歩幅で先を進み、顔を覗き込まれないように注意をした。
微かな慌てた声が背中で聞こえたが、青年はそれに気付かなかったような顔をしてニヤリと笑う。今度のそれは、多分、声に滲んでしまった。
「いや、まんま。そっち、真逆なんさ」
弾むような声で青年が言ってみれば、少年は今度は逆に驚いたように硬直した。引き攣る頬と同じように腕までびくりと跳ねている。
それを手のひらの下に感じ、青年は笑みを深めた。………やはり全く気付いていなかったらしい。周囲の様子にまるで怪しみもしなかった辺り、彼らしかった。
「へぇ!?だ、え、うそ?!」
驚いた少年の声の中、唯一単語になったのは、きっと青年こそが言いたい言葉だろう。
思い、ついからかうような声が響いてしまう。
「いや、マジで。一応気付くの待ったんだけど、このままだと町から出ちまうんさー」
ほらと後ろ手に指差した方を振り向いているのか、少年の歩調がまた少し乱れた。今度はそれを支えるように歩幅を調整しながら、先程見つけた町番の書かれた看板を発見したらしい少年の、驚きに飲み込む息を聞いた。
驚きと困惑に染まっただろうその顔を見たい衝動に駆られるが、我慢する。きっと見たらからかわずにはいられないだろう、珍しい少年の幼い顔だ。
今でもきっと不機嫌になっているだろうに、これ以上それを突ついて爆発させると、宿まで連れて帰るのが夜中になってしまう。
そんな道中も面白いかもしれないが、きっとそんな真似をしたら、それ以後2人での調査などさせてくれないだろう同行者達の怒る顔も浮かぶのだから、しかたがない。今の愉快さの為にこの先の楽しみを減らすのは愚かな事だ。
…………思いの外、この少年と出歩く事を楽しんでいるらしい自分に、青年は少しだけ意外そうに唇を吊り上げるた。考えてみると、随分前から、彼を記録するのは自分の役目と、言われるまでもなくそう決めていたのだ。面白い少年の傍は、思いの外居心地がいい事も疾うに知っていた。
そんな青年の考えなど気付きもしない少年は、背中でワタワタと必死に歩きながら、ようやく状況を飲み込めて、目の前の赤い髪を睨みつけてきた。なかなか鋭い眼差しを感じ取り、青年は胸中で苦笑する。
「そういう時はすぐ言って下さい!うわ、じゃあリナリー達、心配しちゃうじゃないですか!」
不安に染まった、戸惑いの声。真っ先に考える事が仲間の事である辺り、彼らしい。
いつだってこの少年は、周りにいる誰かの事を考えて行動するのだ。自分達とはまるで違う、珍しい生き物。面白くて、つい観察してしまう。
その思考回路を暴き構築する全てを羅列して組み直したら、どれだけの充足感を得られるだろうか。………知識欲に弱い自分の悪い癖だと思いながら、つい少年の反応を予測しながら、いらない事も零してしまう。
おかげで、彼には人当たりのいい人間から、おちゃらけた道化に思われていそうだが、人の意識を惹き付けるくらい謎の多い少年が悪い。
そんな責任転嫁を思いながら呑気に歩く青年の、赤い髪を少年は睨み付ける。そうしてから、少年は不安げに空を見上げた。空は先程までの青から、青年の髪と同じ色に変わりつつある。
………もうそろそろ夕刻だ。宿で待つ少女達が心配しない筈がない。それくらい青年とて解っている筈だ。それを自分の不手際を知っていながら助長させて不安を煽るなんて、していい筈がない。
拗ねたように顔を顰めた少年の様子が先程叫んだ声だけでも解るようで、青年は喉奥で笑ってしまう。
きっと彼は宿に待つ仲間の事しか考えられない状態で、今、自分がその腕を掴み歩く奇妙ささえ、彼の中には入り込んでいない。
それにクツリと笑ってしまう。少し周囲に目を向けるだけでも、不可解そうな視線がちらほら向けられている。が、普段ならそうした視線に敏感な少年も、最近は自分の奇行に振り回されるが故か、あまり過敏に反応しなくなった。
それは多分、そう悪い事ではない。自分が傍にいる時に起こる、ほんの少しの変化は、どこか楽しく嬉しかった。
「あ、それは平気」
不満げな少年の声に、与える答えを携えている青年の声は楽しげに弾んでしまう。少年の叫び声に比べれば、ひどくあっけらかんとした声だ。
それにムッとしたように少年の声が、覆い被さるように返された。
「何で言い切れるんですかっ」
こんな旅の最中だ。約束の時間を大幅に過ぎれば、心優しい少女が不安を抱かない筈がない。
ただでさえ先日の任務で悲しませ傷つけた自覚があるのだ。これ以上、無用な不安など与えたくはなかった。
そんな思いも解っているのだろう青年は、少年の声にさえ呑気に鼻歌でも歌いそうな軽やかさでその理由を答えた。
「だってさっき伝えたし♪」
つい吹き出しそうな声になりかけ、青年は少年に気付かれないようにそっと、声の調子を整えた。ここで笑っては、怒らせてしまって次の反応が見れない。それは少し、つまらなかった。
「……………はい?」
訝し気に眉を顰めた少年は、けれどすぐに青年の言葉の意味を理解したのか、返す声が引き攣ったものに変わった。きっとその顔も、嫌そうに引き攣っている事だろう。
…………聞き間違えた事を願うようなその声に、我慢しきれずに青年は小さく吹き出しながら少年に振り返った。
ずっと見るのを我慢した視野の先、佇む少年はやはり眉を顰め唇を引き結び、幼い子供の癇癪のように目元を赤くしている。こんな顔は、多分、同行者にも見せないだろう。
いつだって背伸びして静かに佇むばかりの、無に近い気配で控えている少年だ。からかい翻弄する自分にしか、そんな顔は見せない。
思い、つい笑ってしまう瞳が解るのだろう。隻眼に映った少年の眼差しは、少し、険しかった。それにクスクスと笑いながら、種明かしをするような口調で青年は後ろ歩きのまま歩を進め、答えた。
「アレンが買い食いしてた時、待ってろって言ったさ?」
それが答えの全てというように戯け顔で笑んでみれば、キョトンとした少年の眼差しが、見る間に大きく見開かれた。
彼は無学というけれど、その実頭の回転は早い方だ。知識の量は足りないが、それを補い事実と情報を組み合わせ推論を導き、それに即した意見を持つ事には長けている。
事実、たった今でさえ、こんな少しの情報で彼は告げてもいない部分を読み取り、顔を引き攣らせている。
「まさか……」
戦慄くように少年が小さく唇を震わせた。落とすつもりもなかった呟きなのだろう、歩く速度が落ちた事からも、彼の意識がまるで違うところに飛んでいる事が解る。その腕を軽く引き歩を進ませながら青年は宿へと誘導していく。無意識でもきちんとついてくる辺り、本当に子供のようだ。
グルグルと目紛しく動く頭の中を整理しながら、少年は必死に考える。
…………青年の前を歩き始めてから少しして、屋台のある通りに出くわした。美味しそうなその匂いに誘われて、小腹が減ったからと買い食いをしたのも、しっかりと覚えている。青年も苦笑は浮かべていたが、食べ物を買った屋台から色々と情報を聞きながら歩き回ったのだ。
その時不意に青年は、自分も屋台を見てくるから食べて待っているようにと、随分入念にベンチまで指定して言われた。それは、記憶に新しい。
確かに人通りも多かったし、目印になりそうな木の下のベンチを選んだのは、彼が出歩いても迷わない為だと思っていた、けれど。
そうではなかったのか。ひくりと自分の顔が引き攣った事が解りながらも、少年はそれを改善出来なかった。
「ご名答♪そん時ジジイに遅くなるって言っといた☆」
思った通りの反応に、満足そうに青年は笑顔を咲かせて少年の髪を開いた片腕で撫でた。まるで幼い子供にご褒美でも与えるような仕草に、きっと今度は腕を振り払われるだろう。
そう思いながら、掴んだ腕と髪を撫でる腕、どちらが先かと予想していた。そんな眼下で、少年の瞳はまん丸に見開いて、綺麗な銀灰が欠ける事無く全て晒された。
「ブックマンにまで?!ちょっ、なんて事するんですか!」
慌てたような声と共に、手のひらに収まっていた腕が振り払われた。こちらが先かと思う間もなく、青年は意外な反応にキョトンとしてしまった。
唐突に消えたぬくもりに、青年は目を瞬かせて少年を見遣る。否、その点は驚くべき事ではない。予想は、していた。けれど、その反応は、想定外だ。
からかった事を、怒ると思った。子供扱いするような仕草に、不機嫌になると思った。
そうして軽やかに笑んでもう一度腕を引けば、彼はきっと仕方なさそうに息を吐き、嫌そうな顔をしながらもまた、掴まれた腕を拒まずに隣を歩くと、思っていたのだ。
けれど、振り返った先、見えたのは眉間にシワを寄せて顔を赤くし、唇を噛み締めるように引き結んだ、少年の顔。
………これは、かなり本気で怒って、いる。
「へ?怒りどころ、そこ?」
からかった事でも子供扱いをした事でも、ましてや迷子を容認した事でもなく、老人に告げた事、か。予想にも加えなかった、反応だ。
………仲がいい事は知っていたが、そんなに懐いていたのか。
そう考えたなら、何故か腹の内が鈍痛を教えた気がした。気持ちの悪い感覚だ。解り易そうでいて、解りづらいこの少年は、時にこんな風に吐き気にも似た感覚を教える。嫌悪……ではない筈だ。それが収まればまた、どうしても自分はこの少年をからかいたくなるのだから。
ならばそれは何かと問われれば、ただ気持ち悪いだけとしか答えようもない。腹の奥底、じくじくとして、鬱陶しい感覚はあまり好きではない。どちらかというと全てをすっきり分類する方が、自分達の性にはあっている。
それに顰めかけた顔は、それでもなんとかいつも通りの戯け顔に保ち、青年は睨んでくる少年を見遣った。
「当たり前です!僕、ただでさえよく食べるし迷子になるしで迷惑掛けてるのに、呆れられたらどうしてくれるんですかっ」
こちらの反応になど気付く筈もなく、少年は肩を震わせて青年を追い越そうと大股に一歩を進めた。彼の言い分は正しいようで、少し間違っている。それが不安というならば、まず真っ先に立った今、自分にぶつけるべきものな筈だ。よく食べて、迷って、多くの時間を浪費したのは、まさに今の状況なのだから。
それなのにそんな事には目もくれずに立ち去ろうとするその肩が追い越す事を許さず、後ろ向きのまま軽やかに少年の前を青年は進んだ。
ちょっとした、それは意地に近い意地悪だったと思う。予想とは違う上に、自分の事を蔑ろにされて、ほんの少し、腹が立ったのも事実だ。
そうして見遣った視線の先、その表情をこそ隠したかったのだろう少年を写し取った。
………必死に言葉を紡いでいた少年の顔は、憤りから、寂しげな子供のそれに変わっていっていた。
初めて見た、変化だ。彼は寂しいとか悲しいとか、そんな表情を、自身の身に対して浮かべた事がない。目を瞬かせ、青年はその姿を記録する。
まるで、慕う腕が奪われそうだと告げるようなその表情。自分のせいと責める事はないけれど、打ち沈む意識が無言で萎縮している。自分にではなく、宿で待つ筈の、何もしていない老人に向かって。
それに微かに青年の眉がつり上がった。が、それも一瞬で、すぐにいつもの笑みに舞い戻る。
…………胃の奥が、気持ち悪かった。どうにかそれを吐き出したい。けれどそれが、物理的に吐き出せるものでない事くらい、青年にも解る。
理由もない苛立ちも気持ち悪い。思い、青年はくるりと身体の向きを変え、少年に背中を晒した。
「あー…平気っしょ、アレンなら」
にっこりと、どこか胡散臭そうな笑みで笑い、青年は素っ気なく告げた。我ながらこれでは勘のいい少年が納得する筈がないと思える程、薄っぺらな声だ。
思った通り、先程までとは違うその音の微妙な差異に眉を顰めながら、少年は用心深く青年の背中を睨んできた。
「まったく説得力ないです」
平気と大手を振って言われるような、そんな確証がどこにあるというのだろうか。………ある筈がないと睨む銀灰は、微かに揺れて幼かった。
それが、解ってしまうのも奇妙な事だ。そして、そんな少年の仕草が、何故か気に入らなかった。先程までは何も知らず先を歩く細い背中を、ただ楽しみながら眺めていたのに。
老人を慕う様が、ひどく不愉快に感じた。
自分達師弟の背負うものに嫌悪を持たないというならば、師ではなく歳の近い自分こそ、その対象になるべきだろう。
どんな表情を晒すか、予測し試して楽しむのは、一緒に行動する事の多い自分の特権だ。記録した表情のレパートリーだって、師に負ける筈がない、のに。初めて見せる表情が、いつだって自分ではなく師に向けられているのが、気に食わない。
今日増えたその表情の数は、どれもこれもがおそらくは師が先に記録したものだ。傍にいる事は自分の方が多いのに、その髪の感触すら、知ったのが先程が初めてなんて、おかしい。
だから、その糸を断ち切りたくて、一番効果があるだろう言葉を紡いだ。
どれがいいかと選べるくらい、この少年は自分達記録者にとって、あまりにも希有で得難い対象物だ。
クツリと笑いかけて、その笑みだけは、腹の奥底に眠らせる。………見せれば、自分こそが嫌悪の対象になる事くらい、解っていた。
そうしてちらりと首だけを廻らせ、少年の顔を窺う。顰めた眉がほんの微か、不安に染まっている。それに少しだけ感じる充足に苦笑しそうになった。
やはり、そうやって、自分の声に態度に晒されるものは、心地いい。あの老人になど差し出さないで、全部自分に見せればいいのに。
「だってアレンは予言の子だし、ジジイの興味はなくならないさ。だから平気♪」
明るく弾む歌声のように、何気ない会話を装って零した。それに微かに少年の呼気が乱れた気がして、こっそりとほくそ笑んでしまう。
もしも全部自分に見せているなら、そんな事、言わないであげるのに。もっと楽しく嬉しい事で満たして、新しい顔を彩ってみせるのに。
それらを自分以外に与えるなら、得るものが少し変わるくらいは仕方がない。選択権は、いつだって少年自身にあった筈だ。だから、この結果を選んだのは、少年自身だ。
そう押し付けるように決めつけた眼差しは、どんな色をしていただろうか。少年の瞳に写らなくては、そればかりは解らないのが惜しかった。自分のどんな仕草に彼が何を返すか、そこまでを記録してこそ意味があるだろうに。
この少年は、そんな時に上手に視線を逸らし瞳を晒さない。………目の輝き、色の明暗。それだけで感情が知れてしまう事は、彼はよく知っているのだ。
だから彼を見遣った瞬間に告げたのは、わざとだ。上手く読み取れるかと思ったが、そっとさり気なく伏せられた睫毛が、その色を影の中に隠してしまった。やはり彼は手強いと、胸中で苦笑する。
それでも、与えた言葉は、突き刺さっただろう。それが虚偽ならば憤るだろうが、彼は残念ながら、勘も良ければ頭も回る。決して、今の自分の言葉が嘘ではないと、解った筈だ。
…………自分達の生業を知ったなら、誰もが持つ嫌悪。それを揺さぶるように教えた青年の笑みに、そっと少年は目を瞬かせた。
何か、告げようとしたらしい唇が、一度開き、けれど音を紡がぬまま、閉ざされた。
「………………」
静かに逸らされた視線。落とされた睫毛だけではなく、完全な遮断を教えるように銀灰が見えなくなった。
…………微かに歪んだ眉は、嫌悪か悲哀か。考え、その可能性を計算しながら、青年は笑いかけた。
このまま、嫌悪に歪んで、自分達の生業の業深さに、慕う腕など断ち切ればいいのに。そうしたなら、年齢が近い分、きっと自分の方が彼に近くなる。
あの老人に新しい顔なんて見せないで、全部初めに自分に見せてくれればいい。そうしたらこんな風に痛む事もないだろうにと、身勝手に考えた奇怪ささえ、青年に自覚はない。
「どーしたさ、アレン?」
それでも想像した事実が、今度はひどく楽しい気がして青年の声は明るかった。この少年が零す全てを、自分が真っ先に記録する。………思うだけでも甘美な誘惑だ。
あの師に勝るものがあるという、優越だろうか。解らないが、青年の笑みはどこか満足げだ。
それを見つめたわけでもないだろうに、少年の肩が微かに震え、そっと落ちた。それは多分、溜め息をする仕草だ。
「……いえ、何でもないですよ」
楽し気に問う青年の声に、微かな溜め息と共に返された言葉は静かだった。どこか素っ気ないくらいに。
予想よりもずっと落ち着いたその声に、青年は少年を見遣った。が、逸らされたままの頤は、微かに白い髪の合間に見えるだけだった。
その眼差しを見たかった。どんな顔をして今、その声を紡いでいるのだろうか。
肩を掴み、こちらに顔を向かせようか。腕を引き、また傍らに寄せて覗き込もうか。思い、けれど………それらは実行出来なかった。
見ていれば、解る。その気配すら、触れる事を許さない、絶対的な壁がある。拒否ではなく、忌避でもなく、ただまるで大切なものを守る為の城壁に変わったかのように、少年の肩も首筋も僅かに見えるその頤でさえ、頑だった。
赤く染まり始めた街の中を歩くその姿は、そのまま夕闇から取り残されて赤いまま、その黄昏時に佇み続けそうな、静寂だ。
「ただね、ラビ、僕はブックマンの事、好きです」
真っ白な髪の先、呟かれた声はひどく静かだった。サクサクと歩む足先と同じ程、静かだ。隣を歩きながら、少年はこちらを見ない。無視をするのではなく、上手くその表情を隠しているだけだが。
端から見れば、普通に一緒に歩く仲のいい友達にしか見えないだろう、そのそつのなさ。
静かなその声の中、自分以外には気付かないだろう、頑な隔たりは、心地いいような悪いような、奇妙な感覚を教えた。
…………その癖、響くその声は優しく師を包むようで、青年は唇を引き結んだ。
老獪な師を、それでもそんなにも真っ直ぐに慕うのか。いつか自分達が教団から去れば、傷付くだけだというのに。
その胸の中、悲しみと喜びの色を咲かせ、刻むつもりか。自分より先に、あの師の事を。
彼の事を記録対象と、初めから晒していた師だ。優しく笑んで迎え入れた自分よりも、何故そちらを選ぶのか、解らない。
笑顔を作る事は、師よりもずっと上手い筈だ。スタイルの違いであろうと、そこだけは自分の勝る部分だ。だから、人の輪の中、自分の方がより柔軟に入り込みすり寄り情報を掠め盗る事に長けていた、のに。
この少年は、そんな手管に落ちる事もなく、ただ笑んで眺め、1歩の距離を近付く事を許さない。
それ、なのに。…………きっと、あの師はその内側、そっと入り込んでいる。どんな手法を用いたのか、知らない。が、彼が落とす表情言葉仕草が、自分よりもより師を近くに置いている事を教えるようで、喉奥が乾くように痛くなった。
「………あんなジジイを?物好きさね」
思い、つい漏れた声はどこか冷たく響いた。………師の呆れた声が聞こえそうだ。まだまだ未熟な自分は、こんな会話の最中さえ、うまく声を覆い隠せない。
そんな、自身のいたらなさに舌打ちしたい心境の中、不意な聞こえたのは、透明な音。耳を疑う程の静謐の、音だった。
「はい。ですから、たとえあの人の弟子であっても、貶めないで下さい」
憤りも悲しみも、ましてや喜びも楽しさも含まない、無色の音だ。
それは……初めて聞いた、少年という存在すら見えない、無の気配。
「………へ?」
聞いた事のない少年の紡ぐ音に、間の抜けた声を落としてしまう。……本当に、未熟だ。もっと上手く、驚いた事も隠してみせなければ、バレてしまう。
悔やみかけた唇が引き結ばれるより早く、その静かな音色が響く。
個を消した音、なんて。幾度だって聞いた事はある。記録の中、明滅するようにそれらが存在を主張する。が、それらのような大義名分もない少年が、何故こんなにも透き通る音を晒すのか、解らない。
そうして、振り返った、綺麗な少年の顔。笑みでもなく、憤りでもなく、その表情は………一体、どの感情のカテゴリーに収めるべきだろうか。
初めて見た少年の表情は、ラベルも貼れずに困惑を生む、顔だった。
……………ひどく綺麗な癖に、手で触れる事すら許されない、そんな静寂(しじま)にも似ていた。
「ラビ、あなたはあの人の弟子として学んでいるんでしょう?」
響いた音色とは裏腹の、きつい程真っ直ぐな眼差しが青年を射抜いた。その眼差しにすら色がないのにそう感じるのは、おそらく自分自身がその眼差しから逃げたいと思っているからだ。
怖い、のではない。………否、やはり怖いのか。その眼差しに捕まる事を心地良く思う半面、その眼差しの意味を考える事を放棄しているのは、恐怖なのか、解らなかった。
そんな己の内部の葛藤など知られる不様は避けたくて、青年は形だけの笑顔を作ると、震えそうな呼気を制して音を綴った。
「まあ、弟子っつーか、後継者だけど?」
大差はないが、何となく言葉を逸らしたくて、青年は無意味な抵抗をするように答えた。
それを見つめ、少年は微笑む。………絵画じみた、綺麗な笑みだ。
思い、理解する。これは、無機物だ。生きているのに、呼気を宿しているのに、気配がない。鼓動を感じさせない、完璧な心の遮断、だ。
気付いたその瞬間、自身の内部で軋んだモノが何か、青年は捕らえ損ねてしまった。それを探ろうと意識を向けた瞬間、囁く無音が響いた。
「なら、言葉の意味をもっと大切にして下さい」
綴る少年の声が、意識を絡めとる。思考が分断される。………喉が、渇いて仕方がなかった。
「……………なんさ、それ」
結果、浮ついた脳は少年の意図する意味を、理解し損ねてしまう。
………言葉なら、山と覚えた。当然だ。そうした生業を選び生きてきたのだ。必要な知識を得る事は息をする程に当たり前の事だ。
顰めた眉の先、少年の睫毛がそっと落とされる。そうすると、本当に精巧な人形じみていた。
そうして、眇めた視野に映える夕焼けの中の綺麗なビスクドールは、まるで歌うように静かに囀ずった。
「ブックマンは、優しいです」
柔らかな、音色。ようやく宿した音を彩るのは、愛おしむように優しいいとけない子供のそれだ。
「だから、それは………」
叫びかけ、青年は口を噤んだ。…………裏があるのだと、いう意味があるのだろうか。 思い出す、出掛ける前の老人との言葉のやりとりを。多分、あの老人は純然とこの少年を慈しんでいるのだろう。それを自覚し、それが故に彼は自身を戒めている。
そしてそれを少年は知っているのだ。……否、気付いていると、言うべきか。
あの老人が解りやすく示す筈もない。その中で少年はただ感じ取れるだけのそれを、疑う事もなく見出だし受け止めたのか。
思い、見据えた先の少年は、あまりにも静かだ。
「ラビの目や価値観からどう判断したか、僕は知りません。でも、それはあなたも同じです」
………静かな癖に、揺らぐ事を知らない音が、ゆったりと響く。
目を瞬かせて、青年はそれを聞いた。
何故こんな話になったのか。考えるのも馬鹿馬鹿しい。自分が苛立たしさを解消しようとしたせいだ。結果、眼前に広がるのは、想像とは裏腹の静けさと緊張。
………否。緊張は、自分だけか。少年にはどこにも力んだ様子は見られなかった。ただ流れるその音だけが、彼が動く証のようだった。
綺麗な人形は、ただ綺麗なだけだ。自分に向けられる意志がない。眉を顰めかけ、どうこれを打破して常の少年を引き寄せればいいか、計算する。
つまらない、のだ。綺麗なだけの人形を眺めたいなら、収集家にでもなればいい。自分は、生きて戸惑い模索する、混迷の中を進む真っ白な光が見たい。
こんな物では、満足など出来る筈もない。思い、驚いた。……………観察していたものが、その意味を変えてしまう。
目を瞬かせ、青年は息を飲みかけた。何の、これは欲求か。記録物は記録物。それ以上でも以下でもない。そう、教え込まれていた筈だ。
その中に加わっている人物を、自分の望むまま、見たい、なんて。
有り得ない、感覚、…………否、感情、だ。己の内で練り合わされ形を変える何かに、吐き気が込み上げる。
そんな最中、まるでそれを宥め癒すように、声が響いた。
「僕が関わり言葉を交わしたブックマンは、飄々として掴み所がないけど」
綺麗な生きる歌声。師を思い綴るそれは、優しくぬくもりに溢れている。そうして綴る音の合間、彼は笑んだ。………幸せそうな、微笑みだ。花のようになどと言えば、花が恥じる程、可憐な。
先程自分が刻もうとしたものとはまるで違う表情だ。
それが捧げられた先は、自分ではなく師であることが、ひどくもどかしい気がした。
傍にいるのは自分だ。声を掛けたのも、それを引きずり出したのも、自分な筈だ。それなのに、それが向かう先だけが自分ではないなんて。
………どうして、自分にはその微笑みが零されないのかと、理不尽な憤りを感じる。
その意味を考えかけ、拒むように押さえ込む。気付いて、なんの意味があるのか。そう思う事自体、既に手遅れなのかも知れないと、腹の奥底で溜め息を吐いた。
苛立たしげに顰められた眼差しの先、少年の笑みは絶える事なく咲き誇る。それが、自分に向けられればいい、なんて。今更過ぎる都合のいい戯れ言だろう。否、戯れ言にすらならない。初めて見たものを記録したい欲と鬩ぎあうものを知覚するのは、滑稽な程過去に遡るべき感覚だ。
見つめた先、少年は笑う。彩りも鮮やかに、赤に抱かれて。自分と同じ髪の色に真っ白な髪も肌も染めて、それでも綴る音だけは、自分に染まらない。
「ちゃんと、僕の事を見てくれる人です」
そうして囀ずるのは、意味の解らない、称賛の歌声だ。
見る、ならば、きっと自分の方が見ている。どれ程観察し分析しただろう。彼に関するカテゴリーは、今も溢れる程に情報が渦巻いている。
軽く傾げた首に疑問が解ったのだろう。少年は一歩先を歩みながら、その声を落とした。
それはどこか寂しげな仕草で、逸らされたままの顔が、ひどくもどかしい。肩を掴みこちらを振り向かせたいけれど、凛としたその肩は触れる事を許すようには到底思えなかった。
「あのね、ラビ、ブックマンは、情報として僕に話しかけたり、気に掛けたり、してないですって、言いたいんですよ」
さらさらと流れる白い髪が、夕日に透けて綺麗だった。こんな鮮やかな景色ばかりなら、どれだけ世界は優しい事だろうか。思い、睫毛を落とし、咀嚼する。
窘めるような少年の声。………表情は見えなかった。多分、見せないようにしている。その首筋が、先程まではなかった緊張に染まって見えたのは、気のせいではない。
どうしてと、問う事すら愚かなのか。
問うような感情がある事が、愚かなのか。
それすら解らない、けれど。
吸い込む息すら、枯渇した喉を助長する。
その全ての因がこの少年なのだ、と。
…………眇めた翡翠は認めるように、瞬いた。
前 次
この辺りからが当初書くつもりだった部分ですね!
物凄い唐突な始まりだったからと書いてみたら前半あんなになったんですよ。無理矢理きゅっと縮めた。
今回はブックマンが凄いでばります。いや、ストーリー的に、ではなく。ラビの中で。
全てにおいてブックマンの方が上なので、ラビがもがけるかどうか(笑)そしてアレンがそれに巻き込まれない事をひたすら祈りたい。
でも今回のアレンは、お解りいただけているかとは思いますが、言いたい事はきっちりしっかり言うタイプ。ですので、大丈夫かな?
これはこれでまあ理由があるのですが。それはもう暫しあとにて♪
11.4.16