辺りを窺ってみれば冷たい海中だった。
驚いて目を丸めれば、ごぽごぽと盛大な音をたてて自分の口から空気が零れ落ちる。慌てて口を手で塞いだ。
けれどもう遅い。大部分の酸素を失って喉が熱かった。
早く地上に戻らないと。腕を伸ばし、日差しの射す海面を目指した。
その腕を誰かが掴む。誘導するように、力強く。
キラキラと見たこともない金の髪が輝く。いま目指す太陽と同じ色。
喉が苦しかった。痛かった。酸素が足りなくて、目眩がする。
けれどきっと大丈夫。目の前には太陽があるから。それが綺麗に映える場所にいけば、空気がある。
腕を引かれながら、霞んだ目を起こすように力を込めて、持ち上げた。
すると、景色が変わった。
眼前には、金の髪を垂れ下げた子供の顔。自分を海から空に導いた腕の持ち主。
うっすらとぼやけて見えるのはまだ自分が海の中だからだろうか。そういえば、まだ喉が痛いし息が出来なかった。
「………ぁ…?」
声を出して名を呼ぼうとして、海の中で話してはいけないのだということを思い出し、閉じる。
まだ海上は遠いのだろうか。クラクラと酸欠でのぼせた思考で思いながら、自分より先を泳ぐ彼を見上げた。…………何故か彼の髪は水中を漂わず、まっすぐに自分の方に落ちていることを不思議に思いながら。 肌も水に包まれているような寒さはなかった。もっとも水中にいるような重みを感じはしたが。
不思議な空間だ。水中にいるはずなのに、地上にいるようだ。そういえば差し込む日差しもまるで水を介していないようにはっきりとしていた。
もう一度、問いかけたくて唇を開く。彼ならきっと言葉にしなくても唇の動きだけで分かってくれるだろう。
見上げて、疑問を口にしようとした。
………けれど万華鏡のようにキラキラと反射する視界の中、ひどく優しく彼は笑っていた。それは初めて見る、顔だった。
まるでいとけない子供のようなそれは、顰めたような眉を常に持ち合わせている彼には少し滑稽なくらい幼い仕草だ。それが微笑ましくて、自分もまた、笑った。
彼の名を口ずさみ、足りない呼気を自覚しながら、けれど精一杯、笑った。
戦う術を身に付けるための場所で出会った同い年の友達。こんな場所での出会いのせいか、打ち解けるには互いにあまりにぎこちなかった。
こんな風に笑いあえる、そんな関係だったらよかった。戦うことは嫌いじゃなかったが、戦うことが生きる意味ではないと、思うから。
守るための力は欲しいけれど、傷つけるための力は欲しくない。
………それを甘ちゃんだと鼻で笑う彼だって、こんな風に笑うのだから。
ゆっくりと瞼を落としながら、もう動かせない唇でもう一度彼の名を呼んでみる。
その笑みが、みんなにも与えられればいいのに。



水の底に棲まうモノ  3



 人工呼吸のおかげか、子供はすぐに息を吹き返した。意識を失ってもなお空気を送られなければ危険だが、即解放されて呼吸を補助されれば大抵は助かる。分かっていながらあっさりと手を離し酸素を与えた自分の腕を忌々しそうに睨んだ。
 またしばらく彼は目を覚まさないだろう。それとも無理矢理叩き起こしてしまった方が早いだろうか。
 少し思案した後、子供は己の髪をかきあげ、舌打ちをして、横たわる子供に背を向けた。
 いま起こしたら無様な顔を晒しそうだ。この世のどんな生き物にもそんな様を見せるつもりのない子供は、しばしの休息を己に与えることにした。
 考えてみれば海中からこの子供を抱えてここまできて、その後二度も蘇生活動をしたのだ。多少の理不尽さに目を瞑り、相手に原因を全て糊塗し、その結果疲れた自分は休むのだと納得させる。決して彼を休ませてやろうとか、そんな甘い考えではない。………馬鹿らしい、自己問答だ。
 中腰のまま考え込んでいた子供はようやく己に非のない理由を見繕い、軽く息を吐き出して座り込んだ。
 ………瞬間、何かが割れるような小さな高い音が地面から聞こえた。
 いぶかしんで周りを見るが特に何もなかった。次いで自身の所持品を思い出し、子供は軽く眉を顰めた。
 ポケットを探り、取り出したのは大粒の真珠。案の定、それは傷付き欠けてしまっている。
 別段欲しかったから持ってきたわけではなく、彼を誘き出す口実に丁度よかったから引き合いに出しただけのものだ。価値があればまだしも、こんな傷が付いてしまったのでは何の意味もない。
 邪魔なものを持っていても仕方ないかと、子供は岩場に摩られてざらついた部分を指先でなぞる。と、その視界の中に子供の指先が写った。
 軽く握りられた拳が、蠢いている。人さし指と親指が擦り合い、まるで何かを摘まみ上げているようだ。それはちょうど今現在の自身と同じ指の動きで、目を丸めて自分の手と彼の手を交互に見遣った。
 まさか自分の動きを真似ているなどとは思わないが、偶然にしてもタイミングが良すぎる。何故彼がそんな真似をしているのかと好奇心をかられ、子供は指で弄んでいた真珠を岩肌に落として転がすと、横たわる子供の手を取り上げた。
 他者の熱に驚いたのか、蠢いていた指先は一瞬怯み、警戒するように動きを止めた。が、気配を消して体温を同じほどに下げてみれば安堵したのか、また同じ動きを繰り返した。
 それはまるで愛おしむかの、ようだ。………そうしてふと思い出す。そもそも事の発端は真珠を見つけた彼が感激したせいで起こったことを。
 別段自分にとっては珍しくもないものだが、海に面していない居住区の人間には貴重なものなのだろう。物欲に乏しい彼にしては珍しく、随分と興味を引かれていた。
 ころころと、自分が見つけた真珠が岩肌を転がる。風に遊ばれて、くぼみの中の水で泳いでいる。手を伸ばせばあっさりと捕えることの出来るそれを、再生途中のこの子供は探しているのだろうか。
 「…………………」
 顔を顰めて、子供は手の中で蠢く指先を見つめる。
 …………どうせあの真珠は傷付いて欠けてしまい、価値なんてない。こんな風に探し求めている彼の真珠ではないし、まして手にしたところでぬか喜びだ。
 だから、これは、優しさとは別のものだ。喜ばせるためではなく、突き落とすため。手にした宝がなんの価値もないと分かれば落胆する。そのための、ちょっとしたオプションだ。初めから無いよりはあったものが無価値の方が希望を持てない分、よりダメージは深い。
 そう思いながら、子供は手を伸ばす。軽く腰を上げるだけで届くくぼみは、自分達が手ですくえる程度の水がたたえられていた。
 その中で泳ぐ傷付いた真珠は抵抗することなく指先におさまり、水の中から救出される。
 しばらく自分の手で弄び、冷たさがなくなった頃、掴んでいた手のひらの中に、落とした。
 指先は求めたものを得たことに気付いたのか、数度それを確認するように転がして、無くさないようにと、指を手折り手のひらに包んだ。
 呼気すらまだ浅い子供の顔には、別に笑みなど浮かんではいない。それでもその指先の、なんと素直な反応だろうか。
 無表情にほど近いその顔は、大人に与えられる我が侭を言わない従順な子供のもの。けれどその指先は、本当は欲しくて仕方のないものをずっと求めて彷徨っている。
 さっさと気付いてしまえばいいのだ。………大人たちも、この子供も。
 眇めた視界には真珠を包む子供の指先。恭しく口吻けて、手を離す。
 正義を口にするのも、したり顔で説教するのも、結局は愚かなことだ。生き物は必ず欲求を持ち合わせていて、それを充足するためにのみ、生きるのだから。
 こうして今は共に修行し力を競い合わせたところで、この先永遠に仲良しごっこなどあり得ない。
 必ずどこかで欲望は蠢き、人を喰らい、世界を喰らう。
 そのときもまだこの手は隠されたままかどうか。うっすらと笑んで、眠る子供を見下ろした。
 穢れたなら生きられない、そんな子供。理想を口にし、それを体現する以外の術を知らない愚者は、欲望の意味すら知りはしない。
 戦う意味を知らない子供は、争い合うことでしか生きられない生物の本能を未だ飲み下せない。
 …………だから、いまはまだ、お友達ごっこを続けよう。
 きっと自分達はこんな風にはまみえない。自分は馴れ合うだけで満足は出来ないのだから。
 遠くはない未来で、自分達は対峙する。友人として、なんかではなく。仲間なんて、あり得ず。力の限り、その命奪い合うような、そんな極限の中で。
 ぺろりと唇を舐めて、その愉悦に体を震わせる。所詮人は人に干渉することで喜びを分つのだ。友情も愛情も、結局はつまるところ、他者への干渉を緩和するための免罪符。
 それならば、その肌の下、流れる赤い潮に触れて、吐息にすら、浸って。その全てを己にのみ触れあわせ、干渉することが許されたなら。
 …………その究極の干渉に目眩がするほどの歓喜が身を駆ける。
 それが許されるそのときまで、いまはまだ、他者の定めた干渉領域で我慢しよう。
 美しく穢れなくいつかは花開く、愚かで滑稽な子供。本当であれば今日この場で途切れたはずの呼気を、繋げたのは自分だ。
 だから再びそれを奪うのもまた、自分。
 ………だから、今日のこの行動に矛盾などない。
 ゆっくりと息を吸い込み、子供は空を見上げた。笑みをつくろうとした唇は、けれどうまく形作れずに霧散する。
 躊躇ったわけでも惜しんだわけでもないのだと。誰にいうでもなく独り言ちて、空を睨んだ。
 ゆらゆらと揺らめく、今はまだ子供の肉体も心も疎ましい。誰にも否定させず、邪魔もさせない、それだけの力を有す大人にさっさとなってしまいたかった。

 釈然としない部分を未だ持つ幼さを厭いながら、子供は見上げた空さえ否定するように、目を瞑った。

 








   

 パーパもアラシも『不安定』を書ければなーと思うのですが。なかなかやはり難しい………。特にアラシ(汗)
 成人アラシの思考回路になりつつある、まだそこに片足しか踏み込んでいない、そんな子供時代にしたいのだけれど。子供の心理は大人以上に難しいです…………

06.7.22