季節が巡る。
四季のある国に住う身には、それはいっそ目まぐるしいほどだ。
夏が過ぎれば秋となり、紅葉を見ていたら雪が降る。
寒さに震えていたのが桜を愛でるようになって。
また、灼熱が降り注ぐ季節が訪れる。
めぐりめぐり巡り続ける。
それは永遠の循環。
03.移ろいは私を残して
吐き出した息は、少しだけ重かった。
見上げた空は既に宵へと変わっていて、明るかった青空は消えている。さぞ息子夫婦は心配していることだろう。それとも居候の虎がおろおろしているのを逆にたしなめているだろうか。
あまりにもリアルな想像に不意に口元が笑みに彩られた。先程まではそんな物思いも出来ないほど憂鬱だったというのに、相も変わらず現金な自身に少し飽きれてしまう。
「…………………」
思った瞬間、脳裏に掠めた金色が睫毛に降り注いだ。
驚いて目を瞬かせてみれば、それは残像でも実態でもなく、雲間から顔をのぞかせた月明かりだった。
細い三日月は、これから肥えようとしているのか、あるいは消え失せようとしているのか、どちらとも判断がつかなかった。考えてみると夜空を見上げるという行為自体、久しぶりであることに気付く。
ずっと、自分はこの世界にいなかった。
この世界もまた、月を愛でるような余裕のない混沌とした時間を過ごしていた。
きっと今頃はあちらこちらで月見酒のための盃が傾けられているだろう。平穏への感謝とその尊さを噛み締めるために。
多くの命を失って、また、それを得て。戦うことと守ることを同時に行う矛盾の中、人々は生きていた。繰り返されたその行為は、まだ深い傷跡をこの世界に残している。
あちらこちらに顔をのぞかせている歪み。連日のようにそれらの調査に赴き、巻き込まれた人たちの救出を繰り返す身としては、今もまだ平穏だとはいいがたかった。
ただ一つだけ確実に違うことはある。無益に争う必要がなくなったこと。命を奪い合おうと、戦う必要がなくなったことこそが、何よりも自分達にとっては嬉しいことだった。
それに物足りなさを感じている人間がいようと、自分はこの慎ましやかな空気が好きだった。
怒声もなく喧騒もなく、ただいたわりあい尊重しあう、優しい空間。幼い頃から夢見ていた、ぬくもりに包まれた光景だ。
思い、また、ため息が漏れた。
一番はじめ、それを与えたいと思った相手は、今はそれからもっとも遠く離れた位置に立っている。そんなものいらないとせせら笑うだろう姿は想像に難くない。
出会ったそのとき、彼はとても小さくて。………笑うことさえぶっきらぼうな、感情を表現することが不得手な幼子だった
自分はそれを知っていて、けれどあまりにも、知らな過ぎていた。
彼は不器用だけれど強い戦士で。実力と思いが比例して育まれると思い込んでいた自分は、彼をひどく傷つけた。
それでも彼の手はずっと自分に伸ばされていて、弾いても弾いても、彼は諦めもしない。
不敵な笑みと揺れる瞳で、自分のものなのだと、そんな風に囁く。そう言葉に換えなければ不安だとでもいうかのような腕は、顔を顰める自分を掴んで離さない。
自分では意味はないのだ。幼い日の刷り込みが、ずっと彼を離さないだけなのに。
彼は自身の意志で自分を選んだと豪語する。それがとても悲しい意味を持っているとは考えず、目を塞いで。
「…………もっと、なぁ…………」
不意に考え、ぽつりと言葉がもれた。己の耳に響いた掠れたような声に苦笑する。
自分のことなど忘れて、誰か彼を知ろうとする人を探せばいいのに。一番始めにつまずいて、人との関わり方を知らずに育った子供は、はじめの相手以外目も向けない。
そんな狭い世界、意味はないのに。自分だけが生きているわけではないのに。
そもそも、自分が彼とともに生きられるわけではないのだ。同時に心臓が止まるなどという奇跡は起こるはずもなく、自分が消え失せたあいだ、壊れた眼差しで崩壊を求めて歩んでいた彼の痛ましさを思えば、この関係は到底プラスではないだろう。
それでも季節が巡るように、あの金の髪は訪れるのだ。皮肉な笑みを浮かべた口元を月に晒し、無骨な指先を自分に伸ばす。
それはたいした逢瀬ではなかった。年に数回の、そんなものだったはずなのに。
自分がこの世界に舞い戻ってから幾度目だろうかと、指を折りかけて、止めた。…………到底両手では数えきれないことは十分知れていたから。
不安そうに揺れる眼差しが、脳裏を掠める。それを見るといつも息が詰まるのだ。もっと自分は出来ることがあったはずだ。幼かった日に、彼とともに歩む未来だって確かにあった。それなのに、自分は間違えた。
拒まれることを嫌っていたからこそ、我が侭で奔放でいた彼。解っていたから拒むことなく傍にいた自分。
それが、たった一言で、亀裂が走った。
全く別の位置に立っているのだと、そう知った彼は、以降……殊更に己の性情を自分と真逆に向かわせた。不器用ではあっても、優しい子供だったのに。いつか失うことを忌避したくて、彼は初めから手を離し、傍にいるのではなく遠くから奪うことを選んでしまった。
それは自分が選ばせた結果だ。だからこそ、自分など忘れて誰かを探してほしい。
そうしたならきっと、あんな泣きそうな顔をすることもなく、震えていることすら気付かずに自分を抱きしめることもないのに。
緩く息を吐き出し、空に浮かぶ月を見上げた。
雲が半ば覆っていて、その光は先ほどよりも若干弱い。元々細い三日月だ。その月光はひどく希薄だった。
細めた視界に映したそれは、これから満ちていくのか。
………満ちていけばいいと、眉を顰めるように泣き笑いをこぼして思う。
鼓動くらい、いつだってやることは出来たのだ。一番はじめに彼を裏切り貶めたのは自分だったから。
償うためではなく、自分と決別させるために、それはいつか彼に与えなければいけないものだった。それは出来ればあんなタイミングであってほしくはなく、せめて自分が慈しむ子供の成長を支え終えた後が、よかったのだけれど。
それは身勝手な祈りだろう。その頃には自分達もいい年だ。依怙地さに磨きがかかっているだろうその頃に手を離されても、途方に暮れる以外どうしようもないだろう。
だからきっと、あのタイミングは最後のチャンスだった。
それを彼はあっさりと放り捨ててしまった。奪い壊した自分という器を、また恋しがってしまう。消え去ったままもう現れることはないだろうと、そう思えるだけの時間が経ってもなお、彼は自分が現れることを確信していた。
自分では、駄目なのに。
……………また彼が悲しむことしか繰り返さないというのに。
それでも彼は失い、また得た自分を、我が物顔で引き寄せる。自分のものなのだからと、悲痛な色を浮かべた瞳で、余裕をたたえた声で。そんなチグハグささえ気付かない。それほどまでに追いつめる自分を、なぜ求めるのだろう。
幾度諭しても顔を顰めるだけだ。悪ければ口を塞がれる。思考を掻き乱されて、言葉も告げなくされる。
意識が遠のく頃、彼はようやく認めたかのように小さく囁く言葉がある。それはいま見上げる三日月の月明かりほどに、微弱な声音。
自分の耳に届かないからこそ告げられる心。………軋むのは、自分の心臓。
この鼓動を与えるだけで、彼が救われるだろうか。そんな埒も明かないことを考えてしまうほど、その音は切ない。
自分に出来ることは少なくて。彼が求めるものも与えられず。さりとて拒むことはなお出来なくて。
「矛盾……だよなぁ………」
解っていても、それでもやはり、これは続いてしまう。
伸ばされる腕がなくならない限り、続いてしまう。そしてどこかで自分は確信もしているのだ。
決してあの腕が自分以外に伸ばされることがないという、その悲しい現実を。もっと周囲を見てほしいのに。世界の広さを知りながら、彼はあまりに狭い世界に閉じこもってしまっている。
緩く吐き出す息の先、月光が細やかにそれを染める。
歩を進めた先、影すら消えた道を見遣って、また雲に月が隠れたことを知る。それを踏み締めた足で、進んだ。
月はきっと消えはしない。少なくともそんな現実を自分が生きている間に見ることはない。
そして、雲が月を隠さぬこともこの先なくならない。
顔を顰めて、吐き出しそうな吐息を飲み込んだ。もうすぐ我が家が見えるだろう。そうしたなら、この憂愁を引き摺ってはいけない。あの光の中に、闇夜に注ぐ月明かりは、あまりにも脆弱で容易く壊れ消えてしまう。
せめてもう二度と傷つけないことを、祈って。引き攣りそうな口元を、少しだけ震える指先で揉んだ。
笑って。………日だまりのなか生きている優しい人たちを悲しませないために、笑って、いる。それは辛いことではなくて。月明かりの下の寂しい笑みとは、質が違う。
「…………普段は嫌っているくせになー」
くすりと小さく笑い、どこか仕方のない子供の我が侭を見遣るようにして空を見上げた。
笑えと彼はいい、傍にいろと縋る。それは遠のく記憶の中の、ほんの一瞬の出来事。まやかしだといわれれば否定のしようもない、そんな泡沫の記憶。
月明かりではない光が見えた頃、耳には愛しい子供たちの声が響く。自分の名を呼んでいる、声。返事を返せば駆け寄ってくる気配。
同じように駆け寄って、今はもう注がれない月明かりに、ふと目を空に向けた。
月のいた場所は虚空が広がり、雲に隠されたことを知る。それでも暗くならないのは、自分を迎えにきた子供たちの手にある明かりのせいか。
…………消えることなく光を落とす月か、自分か彼か。
その月を隠す雲は、自分は彼か。
不意にそんなことを思い、首を振って、忘れる。
今はもう、月の支配は遠のいたのだから……………。
残酷な意味での慈悲を与えるパーパと、それを求め続けているアラシ。
どっちが加害者でどっちが被害者か、それすら曖昧な関係。
ただきっと、ずっと巡り続ける。互いがいないことすら、不自然すぎて認められない。
そんな依存傾向の強い二人でした。
………正直、こういう関係は好きじゃないですけどね。痛み続けるだけだから。
06.12.22