さらりさらりと靡く闇
藍色の空に黒が蠢く
瞬く星の隙間から
こぼれ落ちる雨のように
さらりさらりと
揺れ動く

掴んだはずの手のひらには
こぼれ落ちたぬくもりと
虚空だけが、残った





04.半月はもう見えない



 目を瞬かせて空を見上げた。否、空を見ようとして、見えなかったことに目を瞬かせたのか。
 どちらを先に行ったかさえ解らない。そんな現実に小さく息を吐き出した。
 眼前には不敵な笑みをこぼす人影。くつくつと喉奥だけで笑う様は獣のようだ。どうしてこんな態勢になったのかと、つい今さっきの記憶を探る。が、どう考えても自分は眠っていただけだ。
 生き返ってから………より正確に言うのであれば、2度目の生き返りから、まだ月日は経っていない。そのせいか体が馴染まない感覚があり、眠りをまるで赤子のように多く必要とする日々が続いていた。
 それでもやるべきことは数多くあり、それらをこなす合間、唐突に自分は眠っていることがある。幼馴染みの鳥人の言を借りるなら、それこそ電池が切れたかのように、だ。
 今日は自分の意識がある内に休憩を取れたせいか、目を覚ました今もどこも痛みは感じない。時折気を失ったように眠りに落ちるらしく、目を覚ませば打ち身に顔を顰めることもあった。ひどいときは崖ぎりぎりの位置で眠っていたこともあり、それを息子に発見されて泣きながら半狂乱で諌められて以来、こうして休むことを念頭に置くようになった。
 それでもやはり絶対ではなく、危険地帯ではないと解っている場所にいると油断して休むことを忘れてしまう。だからか、ここ最近自分は一人で動き回ることが少なかった。
 いつも誰かしらが傍にいた。そうして、気遣ってくれた。まるでもう二度と失いたくないと、その度に囁かれているような待遇だ。正直不安さえ滲ませる彼らの態度に微苦笑がもれない日はなかった。
 もう戦いは終わり、自分達は平和を手に入れた。失うことを恐れる必要はないのだ。それでもそれを知ってしまった心は、それを繰り返されることを恐れて自身を雁字搦めにしてしまう。
 まるで遥か昔の自分のようだ。………己の過失で失った命を忘れることを恐れて、幾度も自身で傷を抉っていた浅はかさ。
 やるべきことがもっと他にあると気付もせずに、盲目的に罰だけを求めていた幼い自分。
 あの頃の自分の顔など覚えてもいないけれど、それでも不意にそれが掠め、彼らに重なる。
 それを思えば、こうして再び舞い戻れたことはどれほどの幸だろうか。あんな思いを自分のせいで一生背負わなければいけない、なんて。
 そんなことだけはあってほしくない。愛しい人たちには、自身の死が優しく伝わることを願うものだ。たとえ死を賜る原因がその人にあっても、愛しさが変わることはないのだから。
 生き返り、みんなにもとに戻って、真っ先に感じたのはこれ以上悲しませることのない喜び。ただそれだけだった。
 ………もっとも舞い戻れたが故の弊害に今はみんながやきもきしていることは知っているのだけれど。
 一人で出歩くことさえ躊躇いを与えられるなど、幼かった頃にさえないことだ。
 「……なに笑ってやがる」
 不意に聞こえたのはどこか不機嫌そうな男の声。不機嫌になるべきは自分の方だというのに、どうも彼はこうしった面がひどく我が侭で独尊的だ。
 そう思ったせいか、更に深まった笑みに苛立ちに染まった唇が鎖骨に噛み付いた。それこそそのまま骨すら砕いて喰らうつもりかと疑えるほどの力で。
 走った痛みと、男の舌先が何かを舐めとった感触で、皮膚が裂けて血が溢れたことは知れた。顔を顰めてそれに不満を示せば、男はまた楽しそうに笑った。
 まるでそれだいいと、そういうかのような揺らめきだ。
 己を前にしたそのときは、他の一切を介入させることを嫌う男は、ほんの一瞬であろうと他者を思う自分をあらゆる方法で振り向かせようとする。その大部分は嫌がらせであり、傷を伴うものなのだからこちらとしては願い下げなのだけれど。
 …………けれどその感情はあまりにも稚拙で幼く、幼少期の彼を思い出させる。
 あの、頃。彼はまだ何も知らない孤独な子供で、自分は与えられるものの多くに戸惑い大人たろうとしている可愛気のない子供だった。
 無辜の腕はあまりに無知であるが故に凶暴で、多くの大人がそれを彼の性根の劣悪さを思わせていた。それは少しだけ狂った歯車でしかなかったというのに、だ。
 彼は知らなかった。同じだけの力を持つものを手に入れていなかったが故に、力の加減を覚えることなく育ってしまった。野生の獣はまだ牙も生えぬ頃に互いに噛み合いその力加減を覚えるのに、その相手すら彼は得ていなかったのだ。どれだけの力が弱者を傷つけ壊すかなど解るわけがない。
 自分はそれを知っていて、まだ何の力もないくせにその拙さを愛しく思い守ろうと、した。自分が導けると傲慢にも思ったのだ。
 そして、崩壊は容易く訪れた。
 ……………あまりにも自分は浅はかすぎた。情緒というもの自分は知り得ていなかったのだ。
 緩やかに息を吐き、顔を顰めて空を見上げた。その先には濃紺すらも適わない夜空と、煌々と輝く満月。そして、自分に覆い被さる男の顔。
 「……………痛い」
 「痛かねぇだろ?」
 憮然とした言葉に彼は唇だけを笑みに染めさせる。さらりと落ちた金の髪。その奥の満月が、彼に隠されて半分だけ自分の目に映った。
 笑んだ唇とは裏腹の、否定を求める彼の瞳は、瞬く月明かりの逆光に掻き消されてしまう。
 その代わりに輝く月光はしとどに彼を濡らし、自分にも降り注いだ。満月の、その明るさ。………痛ましいほどの、光度。
 瞬く振りをして瞼を落とす。光景を、隠してしまいたくなるこの衝動。
 彼は優しかった。それが他者には解らないものであったとしても、彼は確かに優しかったのだ。不器用という以上の無知さ故に、それを示す方法が解らないだけで、………少しばかりの欠落故に、方向を誤りやすい、だけで。
 彼は優しかった、のだ。
 だからきっと自分と関わる中で彼の性情は華開くと思っていた。自分が示せばそれを理解し染まっていくと思っていた。それは、自分と同じように物を考えてくれると言う、幼さ故の傲慢さ。
 世界の中心は自分でなどなく。世界の倫理は自分だけで形成などされてはおらず。………人の情緒は、多種様々だ、など。当たり前すぎるほどに当たり前だというのに。
 幾度も自分はそれを痛感し、それが故に傷付き生きていたはずだった。だからこそ、出会ったあの子供には同じ思いをさせないようにと手を伸ばしたのに。
 あっさりとそれを放棄してしまった。もう大丈夫と、やはり身勝手にも思い込んで、別の道を自分は歩いていると突然手を離した。
 そんな真似をして、戸惑わないはずがないのに。…………裏切りを感じないはずがないのに。
 同じだとずっと囁き続けながら、その手を踏みにじるなんて…………どれほどの卑劣さだと罵ればいいのだろうか。
 彼はそれを罵らず、ただ傷付いたその心さえ、自分から隠した。
 傍にいる方法を模索したのだろう。自分とは違うことを知って、同じようにいることは出来ないとも思ったのだろう。そして、別の道を歩む限り、自分達に接点は限りなく少ないと、そうも思ったに違いない。
 裏切られた人間は卑屈で、希望を容易くは祈れない。捨てられることしか考えられず、傍にいることではなく離れていく背中だけが脳裏に刻まれた。
 彼は泣いただろう。自分に知られないように、きっと幾度も。
 そしてその結果、導かれた答え。…………それでも自分を手放せないという、あまりにも悲しく優しい彼の、答え。
 「なあ……アラシ」
 眼差しを隠したまま、呟く。それは独白ともとれる声音。
 耳をそばだてる必要すらなく、彼は自分の言葉にいうだって耳を澄ませている。一言だって取りこぼさないように、その心は何よりも優先的に自分に示されている。
 知っているから、悲しい。そうしてしまったから、苦しい。だからこそ言わなくてはいけない言葉は、それでも凶器でしかないこともまた、知っている。
 遣る瀬無さに眉を顰める。すると何かが動く気配が間近で起こった。
 頬に触れる、なにか。指先か……あるいは唇か。慰めるともなだめるともとれる優しさで、撫でるようにそれは揺れた。
 …………きっと泣きそうな顔になっていることだろう。あの頃に比べ、自分は感情をそのまま顔にのぼらせることが当たり前になってしまったから。そんな素直さ、彼にとっては疎ましいだろうに。
 優しかった。方法を知らないから、それは自分達の世界の常識に則したものではなかったけれど。それでもその理由を問えば、いつだって相手へのいたわりや気遣いに溢れていた。
 自分と彼は鏡のようだった。環境が入れ替わっていれば、自分が彼になり、彼が自分になっただろう。
 それでも、自分は自分でしかなく、彼は彼でしかない。
 歯がしみしたところで詮無きこと。解っているから、自分は言葉を与えなくてはいけない。
 優しいぬくもりに気が削がれそうになりながら、それでも気力を総動員させて目を開ける。夜空には美しい金の髪が揺れた。自分を覗き込む彼の顔と、彼の後ろに彩られた満月。
 優しく細められた瞳と、真逆の嗜虐的な唇。満月のはずの月は、彼が半分その身をもって隠していた。
 ゆっくりと瞬き、そっと手を伸ばす。拒まれることのない指先は彼の髪をすくい撫で、その顔が覗き込めるように頬を包んだ。精悍な顔だ。男として整った、美丈夫たる容姿と肉体。
 それがずっと縛られている先がこんな矮小な存在だ、なんて。あまりにも哀れだ。歪んだ視界に一瞬だけ腕の中の頬が揺れる。こぼれそうな涙のせいで半分だけ見えていた月と彼が接合し、満月にさえ、見えた。
 彼が隠した半分の月。それはずっと自分の中に隠されていた、欠片。
 自分に捕われ続けてしまった彼が、一番はじめに自分に与えたもの。自分が、与えたかったはずのもの。
 「…………いい加減、自由になれよ」
 幾度彼を置いて消えるか解らない自分など、忘れてしまえばいい。………はじめに裏切ったのは、自分なのだから。
 こぼれ落ちた涙は眦(まなじり) を過り耳に流れ込んだ。わずかに鈍る聴力を補うように触覚が彼の動揺を伝える。
 「………………もう、ここにくる意味はないだろぅ………?」
 掠れるほどに小さな声は、痛々しかった。自分でさえそう思うのだから、彼には手折れるはずのない悲痛さだっただろう。
 それでも手を離し、自分は彼から顔を逸らした。瞼を落とし、消えてほしいと、そういうように。
 自由をもって帰って欲しかった。自分になど捕われないで、こんな風に、一人倒れるように眠り込むその時に心配して傍に必ずはべることのないように。
 己の人生を己のために、生きてほしかった。自分を捕らえるためにだけ生きるような、そんな寂しい生き方ではなく、幸せに………なってほしかった。
 それで、も。
 「…………自由にしてるから、こうしてんだ」
 苦々しそうに彼は呟き、剃らした顔を抱え込むようにして自分を抱きしめる。逃げるなと、今度こそ手放しはしないと、そう囁くようなその力で。
 隠し込むように閉ざされた瞼では、満月は見えない。…………彼から奪った半月もまた、消えた、のに。
 触れるぬくもりと辿々しい口吻けが、また、それを与えようとする。
 あまりにも一途な情が、痛みすら伴って注がれる。捕らえたのが、捕らえられたのがどちらであるのかなど解るはずもない。
 …………それがどちらもだ、など。加害者でありたい自分に、理解できるはずもない、のだ。

 

 優しすぎる腕の中、こぼれた涙は、月色、だった。

 








   

 鏡映しな二人、のイメージで。真逆だからこそ、同じような二人。
 情景的に書きたかったのは、満月の淡い光とアラシの髪が混じってしまうシーン。早い話がパーパの半泣き状態で見た景色。
 でも心象風景に近いものなのであまり事細かに書くわけにもいかないシーン。
 なのでその辺がちょっと不満(苦笑)

06.12.30