小さかったセスナが空に映える。見上げたそれは着実に自分の元に近付いてきた。
 軽く、笑みが灯る。……自覚していないそれはひどくやわらかい。
 好きな相手が来るとか、そんな当たり前の感情ではない。反発もあるし、蟠りもある。それでもその傍を心地よいと感じる自分もまた、知っていた。
 長い年月の間溶け合っていた意識の果て、別離を強制されて孵化した自分。怯えて目の前のものを壊そうと震えていた愚かさを、あっさりと打ち壊した自分と一緒だったはずの男。
 憧れた、なんて言葉は知らない。
 ただ自分の足で歩き始めた時間が閉じ込められ捕われ続けていた時間に近付いて……少しずつ、やっと認められるものが増えてきた。
 早く、来るといい。
 昨日メールを送られて弾んだ胸を覚えている。出迎えなど偉そうに言い付けるなと反発する事は簡単だけれど、それさえ凌駕した優越感。一族の中、自分を選んでくれた二人が愛しいと感じる幼さがいまだ自分の中にはあるのかもしれない。
 …………轟音とともに地に近付くセスナを細めた視界におさめる。舞い降りた風に遊ばれた自身の長い髪が鬱陶しいほど翻っては顔に打ち付けられた。億劫げな仕草でそれを押さえ、キンタローは開かれたドアをじっと見つめる。
 かすかな音とともに見知った金の髪が翻った。一番はじめに、自分とともに涙を流した血の繋がった他人。
 「キンちゃんすご〜い! 時間ピッタリだね」
 「暇だったからな」
 微かに笑んで返せば満面の笑み。当然のようにさらされる幼い素直さは同年齢のはずの彼をかなり幼く見せる。これでも自分達いとこの中で唯一の妻帯者のはずなのだが。もっとも、その喪失と最愛の息子を手放さなければいけないという過酷さを背負ってもいるけれど。
 それらを経て、なお失われることのなかった幼児性は、ある種彼の強さ。………自分達は持ち得ない、純正の心というべきかもしれないけれど。
 「おいグンマ! さっさとどかねぇか。俺が出れないだろ?」
 久しぶりに会ったいとこの奥から、もう一人の声がする。
 前線を退き、今はもう引退したことを理由に顔を合わせることも稀な人。
 微かな風に黒が揺れた。人を、引き付けてやまない色。決して混じることのない色を身に纏いながら、彼はどこにだって溶けるように存在する。
 見なくなって突然に知ったそれは事実。いるはずがないと解っているにも関わらず、彼の気配を感じる。それはあまりにも彼が心砕きこの地を愛しんだが故に、全てが彼を懐かしんでいるかのようだった。
 懐かしい、声。その姿。
 堂々と揺るぎなく翻った髪に、精悍な肢体。変わらない、意志の深い眼差しの奥底に溶かした柔らかさ。
 懐かしいそれに笑みがこぼれかけ、唇を引き締める。
 それに気付いたらしい彼は小さく笑って不敵に唇を歪ませた。
 「なんだ、お前……拗ねたガキみたいな顔して」
 「誰がガキだ」
 軽い憎まれ口にほっとする。解っていて彼がそうしていることも知っているけれど。
 まだ、少しだけ残っている違和感。彼が彼であるが故に亀裂を走らせる自我。元は同じであったはずの存在が眼前に存在していることは、どこか不条理な怒りを込み上げさせる。もちろん、それに身を任せて彼を自分の中に還させるとか、あるいは存在自体を消し去るとか、そういった物騒さはもう得ることもできないけれど。
 それでもつい、身構えてしまう。見ていれば込み上げる思慕ともいえる感情。還したいのではなく、還りたいのか。
 …………彼の中に還りたくなる、郷愁とでもいうのか。
 見つめていれば安心する。どこか親とか、そういったものに自分にとっての彼は似ているのかもしれない。必ず、自分を受け入れてくれる存在として…………。
 「それよりもよ、お前……今日なんで呼ばれたか知っているか?」
 他愛無いじゃれあいに似た言葉の応酬を避け、シンタローが問いかける。ほんの少しだけ、不安をにじませて。
 それを知っているから、きっと彼に傾斜するのだと微かな苦笑が込み上げる。なんだかんだといいながら、結局は同じであった彼は自分には微かにこぼしてしまう弱さがある。きっと気付こうとしなければ気付けない、そんな些細なものであるのだろうけれど…それでもそれを与えられるか否かはかなりの差がある。
 それは自分に誇りにも似た自負を与えてくれた。長かった彼の傍らにいる間、ずっと自分を支えてくれた自負。
 彼の意志に応えることができる自分でいたくてなかなかの無茶も多かった。………彼がいなくなってから気が抜けたように無気力な時期もあったほどの重さで自分を支配していた渇仰にも似た何か。
 「…………いや、何も知らされていない。問いつめても躱される」
 まるでウナギだと忌々しそうに呟けば苦笑の気配。
 多分彼は気付いているのだ。自分が知りたくて探ったのではなく、こうして彼に問いかけられた時に誰よりもはじめに答えを返せる者でいたいと願う自分の内に。
 ほんの微かな羞恥。まるで認められたいと、必要とされたいのだと泣きじゃくる子供のようだ。
 それを嘲るものではないからこその心情は、けれど誰よりも彼自身が抱え続けた血を吐くような祈りの声。
 お前までそうなる必要はないと、まるで諭すような視線。そうあることが如何に苦しいかを知っているからこそ、彼は同じ道を歩むことはないのだと呟くけれど、それでも自分はこうありたいと願ってしまう。
 いまもまだ、還りたいのか。
 同じ存在として、その身に溶けてしまいたいのか。
 わからないけれど、彼を見ていると悲しくなる…から。
 雁字搦めのまま必死で自由をふりかざす道化のようで。それを強制しているのは自分達で。
 ありの侭に振舞えといいながら、その手には彼をしばる強固な鎖を握りしめている愚かしき矛盾。解っていて、それでも全てを受け入れることにどれだけ心をすり減らしたかなんて、これだけの時間が流れてようやく考え至れるくらい、自分には彼が必要だった。
 手放したくなかった。
 申し訳なさそうに眉を顰めてみれば軽く肩を叩く気配。微かなぬくもりに息が詰まる。もうずっと、そばにいなくなってどれだけの時間が経っていたか。
 これほどの長き時間を離れた事などない身には、それだけでも十分な責め苦にも似ていた。手放す事を恐れていたが故に手放す事を覚悟しなくてはいけない。
 その予感が、近頃は実感に変わってきている。だからこの急な召集にも怯えが走った。
 そして彼を見て、どこかで確信に変わった事を自覚する。
 はしゃぐように久しぶりにやって来た本家の庭に走って行くいとこを見つめる背を眺め、一度キンタローは息を吐いた。  忌々しいという事は簡単だ。それ以上のこの空虚を、どうすればいいというのか。
 その最も簡単な解決方法を、果たして彼が許してくれるかどうか……………。それが、判らない。それでも願う事しか知らない自分は、結局は祈りとともにこの腕を彼に伸ばすしかないのだろうけれど。
 「シンタロー」
 小さく、呼んでみる。彼との距離を考えれば聞こえないかもしれないギリギリさ。それでも振り返ってくれる事をわかっている。声が聞こえるか否かではないのだ。
 「なにしてんだ、キンタロー。エスコートくらいしてやれよ」
 からかうような声音で言いながら、待っている。自分を追い越して歩いてから逸らされる事のない視線に気づいているから。
 馬鹿だと、幾度も過去に罵った。全てを抱え込めるほど偉いのかと、断罪もした。
 そしてその度に苛立ちとともに救われる自分もまた、知っていた。
 一歩ずつ歩み寄りながら、ゆっくりと沈下させる思いたち。………ずっと、自分達は彼に救われてきた。真っ直ぐな眼差しの先になにが讃えられているかを知っていながら躱し続ける事で。
 もう、解放されるべきなのだろう。
 そしてそれを彼は定めたのだろう。
 それならば……せめて…………
 「………キンタロー?」
 その傍らに歩み寄った自分に視線を向ける。どこか訝しんでいるのは、自分が神妙な顔をしているせいだろう。
 風が止まる。セスナの巻き起こした風だけでなく自然の風すら。………まるでこの先を暗示するように静寂が辺りを包んだ。
 いないという、ただそれだけでその重さを思い知らせる存在など、他に知らない。それは彼だけに与えられた言葉のようにさえ思える。
 「もし………」
 願う事ばかりの自分に嫌気が差したかと、過去に思った事もある。生まれ落ちた頃のままに苛立をぶつける事だって珍しくもなかった。それでもその全てに真っ向から向き合ったのはただ一人、彼だけだった。妥協するわけでもなく受け入れ認めるだけでもなく。
 対等な存在として、魂のままに相対してくれた。だから………自分は歩く事が、生きるという道の歩み方を覚えられた。
 今度は自分が彼を支えたい。それもまた、自分の独り善がりな我が儘だけれど…………
 「もし、探しに行くなら……言え」
 主語など囁く事は出来ない。彼は自分にその名をいう事を禁じはしなかった。あの島は、自分にとっては生まれ落ちた揺りかごに似ていたから。
 けれどその度に揺れる瞳の意味に、気づかないほど愚鈍ではないから、自然囁く事を止めた。否。………囁く事で彼があの島を思う事を恐れたという方が正確だろう。
 自分達の中でだけ生きていくには彼は清らかに過ぎた。あの島には彼の魂が眠っている。
 ………だから、手放したくなかった。もしももう一度あの島に戻ればシンタローは眠るその魂を得て今度こそあの島から還ってはこないだろうから。
 今度こそ……全てをあの島に残し、自分達は途方に暮れ彼を見送るしかないだろうから…………
 「キンタロー………?」
 訝し気な声。なにが言いたいか判らないという仕草。………同時に、確信に似た意志の疎通が互いの思いを媒介に蠢いた。
 小さく、キンタローが笑う。願いを飲み込むシンタローの仕草に似た笑み。
 「俺も、ついて行く。………許可など貰う気はない」
 拒んでも同行すると囁くにはあまりに静かな笑み。恫喝さえ込めてあるはずの言葉の裏の、寄る辺なき赤子の辿々しさ。
 揃いも揃って、どうしてこんなにも不器用なのだろうか。自分の回りにいる人間は、あまりにいたわってきて遣る瀬無くなる。
 かつての島は聖域で………そこにいるだけで心が軽くなった。それは自分だけではなく、全ての人に適応される作用。だから自分だけが惹かれるわけでもないのに……みんながみんな、自分一人が消えそうだと、怯える。
 その理由も判ってはいるのだ。あの島はいま自分の手の中に残されていながら、自分は未だ探し求めている。
 場所ではなく、他のものにこそ執着しているのだと示してるようなものだ。
 だからこそ晒される、不安。そんな事はないのだと示してもなおそれは消えはしない。自分が枯れる事なく思い続けるものがあるように。
 ゆっくりと息を飲み、目を瞑る。そうして、真っ直ぐにキンタローの姿を映した。
 美しい金の髪が太陽のした晒される。それに包まれた面は憂愁を秘めて微笑んでいた。苦しそうに吐き出した音はどこまでも自分を思ってなのだからもうどうしようもない。
 「お前に、許可が必要かよ」
 喉奥で笑い、とんと胸元を軽く叩く。その心拍が重なっていた相手を前に、なにを言っているのだと囁けばほぐれるように張りつめたものが霧散していく。
 ………結局は支えるつもりでも支えられている事を自覚してしまう一瞬を、それでもなによりも求めている自分に嫌気が差す。
 それでも差し出されるその深き笑みをなによりも守りたいと思う思いもまた、嘘ではないのだ。
 他の誰にも壊させない。それを奪っていいのは自分だけなのだと、そう自負して。

 歩み始めた彼の背中を眺め、空を見上げた。
 中天高くに掲げられた太陽が照りつける。

 …………この先に待ち受けるものを、今は誰も知りはしないけれど………………………

 








   


 終わらないねー……全く。でも次はようやく一族集まっての話し合いからだよ。

 キンタローはこんなイメージだったんです。ずっと書くに書けなかったのはね、PAPUWAのキンタローと全く!違うから…………
 基本は似ているんですけど、対応がね。この神話シリーズのキンタローは南国の方のキンタローの方が色濃いのよ。
 でも今更キャラ変えて書きたくないし。自分の中でちょっと二人の違い落ち着かせながら書いてみました。
 なんで「こんなのキンタローじゃない!」とかいうご意見は勘弁して下さい。
 初めに言った通り、PAPUWAがないものとして書いている作品なので。
 ………書いている私が一番違うよ……と思いつつ書いているので。