会議室を出たあとの長い廊下を歩きながら、やはりきたときと同じように他愛もない話をしていると、ふいに思い出したようにグンマがポンと手を叩いた。
 「あ、いけない。夕飯の時間と場所、聞き忘れちゃったね」
 すっかり流してしまっていたマジックの誘いを思い出し、あとで拗ねちゃうかな、などと父親に対する感想としてはいささか不憫なことを考える。
 「ん〜? ああ、そういや、そうだな」
 「あとで電話してきそうだが……」
 「いいよ、そんなにまだ離れてないし、僕聞いてくる」
 くるりと振り返りながらグンマがいうと、パタパタと幼い足音を残して駆けていく。
 「……………あいつだけで大丈夫か?」
 「そのままおもちゃにでもされそうだな」
 その後ろ姿を見ながら同じ感想抱いたらしい二人は顔を見合わせ、軽く息を落とすとキンタローが踵を返した。
 同じように体を返そうとしたシンタローの肩をキンタローは押さえ、じろりと睨む。
 「お前は先に部屋にいろ。……疲れたのだろ」
 「本当に嫌な感じに賢くなりやがったな、お前」
 ひくりと口角をあげながら呆れたようにいう。昔であればそのまま不貞腐れたように先に部屋に戻るのは彼で、自分が仕方なく二人のフォローに回っていたというのにいまはどうっだろうか。彼はそれなりに人間関係というものを学び、少々ぎこちなくはあってもきちんと社交性を身につけた。
 言葉は未だへたくそではあるが、きちんと人をいたわれるようにも、なった。
 微笑ましいと思うのは同い年の身では侮辱に思われそうだ。
 それでもやはり感じるのは微笑ましさと、感謝だ。
 「じゃあお言葉に甘えさせていただきますかね。一緒になって遊ばれんなよ」
 若干のからかいを込めて答え、シンタローは笑いながら手を振る。昔から変わらない、雄大な背をさらしながら。
 「誰がだっ!」
 噛み付くように叫んでもその背は変わらない。
 かつて彼を殺そうと躍起になっていた自分をあっさり懐に入れるのと同じように、彼は変わらずその背を自分に見せる。
 隣にまで来たいなら、駆けてこいと、そういうように。
 一切の妥協を拒むくせに決して見捨てない背中。
 それを守るためなら何でもしようと、そう決めたのはいつの頃か。覚えてもいない。
 …………だから、何があっても守り抜く。
 あの笑みを、この背中を、いつまでだって自分の前に残したいから。

 「あ、キンちゃんやっと来た〜。遅いよ!」
 「無茶を言うな。あいつは勘がいいんだ」
 「でもまあ、ちゃんとまけたみてぇだな」
 キンタローが一人また舞い戻ってくるのを見てハーレムが笑う。傍目にどう映るかは解らないが、少なくとも親を慕うようにひたすらにシンタローを追う癖が未だキンタローに残っていることをハーレムは知っている。
 だからこそ彼がこの組織に残ることを決めたこともさして違和感はなく、シンタローの傍に控えることを諾としたことも、当然のように思っていた。もっとも周りの反対は相当なものだったが。
 「で、一体なんだってんだ?」
 「やっぱ、シンちゃんに聞かれたくないこと、でしょ?」
 僅かな不安を滲ませてグンマが呟く。自分の夢は本当に秘石たちの諍いだけの、些細なものだった。だから言われるまですっかり忘れていたほど、気にも止めていなかった。
 けれどきっと彼のものは違う。そう、直感で解ってしまう。彼はずっと青の呪縛にかかり、閉じ込められていた。その分誰よりも青の秘石の影響が強く現れると推測しても過ちはないだろうと思うのだ。
 「…………俺も夢を、見た」
 小さく呟く声。僅かに掠れた、厳かさ。
 知らず息を飲む。ああと、こんな時に思ってしまう。確かに彼はシンタローと同じ体にいたのだと。シンタローと同じく、人を惹き付ける声だ。
 「俺自身が、何者かに攻撃を仕掛けていた」
 鬱々と、沈むように語る唇は、けれど決してその音に屈しはしないというかのようにその発音をしっかりしたものに変えていく。
 今までのものと、それは異質な夢だった。誰もが見た夢は、けれどひとつとして主体となるものがいなかった。まるで映画でも見ているような、そんな干渉を拒む絶対的な断絶があったからだ。
 けれどこれは違う。彼が、その夢の中動いていた。…………どこかそれは、生臭ささえ感じさせる単語を付随させてはいたが。
 「相手は…解らない。顔が見えなかった。ただ、その手に掴んでいたものが……許せなくて」
 「掴んでいたって……何を?」
 何となくその答えを知っている気はするけれど、あえて音に換えた。
 確かな形にしなくてはきっとそれを受け入れることは出来ないと、そう思ったから。
 ただの夢だとそういって、笑い話で済ませたくなる自分を知っていたから。
 水を打ったような静寂。言葉に換えたくはない思いと、確かな形に変えて覚悟を決めるべきと思う意志。
 どちらもが本当で、選ぶことがあまりに難しい。
 それでも………決めなくてはいけない。
 暗示は出ている。そしてこれはまるで、最終警告かのように響いた、欠片。
 「掴んで…いた。あいつの髪。黒い、長い髪の下は………青白いあいつの、赤く染まった、顔、で…………」
 瞳孔が開ききってしまうほどに見開かれた目は、瞬くことも忘れた。怒りに狂ったように叫んだ。それでも、相手には届きもしない。そうして、揺れた島。そこで夢はシャットアウトした。
 苦々しいものを飲み込むようにキンタローが呼気を飲み込んだ。忘れてしまいたかった、いっそのこと。
 こんな夢、過去の遺物だ。かつて彼に抱いた殺意がたまたま頭をもたげたに過ぎない。あの島での、あの戦いをアレンジしたものでしかない。そう、思いたかった。
 思うことで避けたかった。それが現実となる可能性を忘れ去りたかった。
 それ、なのに。
 自分だけではないと知らされて。そのストーリーの、最も最悪な部分を自分が肯定するようで。
 言葉にしなくてもいいなら忘れようと、思ったのに。
 「………………早く旅に出たい…」
 ぽつりと、まるで子供が嘆くような寄る辺なさでキンタローが呟く。
 彼の傍に立ち、彼が生きていることを感じ、そうしていがみ合いながらも一緒にいることが出来たなら、こんな夢の符号、忘れてしまえる。彼を島ではなく海上に解き放ち、そうして自由に羽ばたかせたなら、きっと何もかもが美しく花開くに決まっているから。
 「………早く…………」
 呟く声の哀れさにかける言葉も忘れ、辺りは静まっていた。
 与える言葉も紡ぐべき音も、ありはしない。
 誰もがただ粛々とその音をその身に刻んでいた。
 一刻も早く、彼を解き放たなくては………と。

 窓の外はのどかだった。
 この本部の中も大分緑が増えた。機械の要塞のようだったここにもあの島のような香りが少なからず漂うようになった。それにホッと息を吐く。
 昔はここの無味乾燥さが居心地が良かった。
 感情を麻痺させるにはありがたい建物だった。感情を動かすべき対象がないのだから、人形のように意識を埋めるのは容易かったのだ。
 そうして壊れかけた魂で辿り着いたあの島で、ゆっくりと癒された傷は弾力を帯びて羽撃くことを学んだ。とてもとても自然に楽しく遊ぶように生きるその意志の有り様を。
 椅子に座り伸びをした。あくびをしたところで誰もおらず、まどろむような意識をぼんやりと漂わせた。
 そんな、無駄にさえ思える時間の使い方もあの島が教えた。体だけではなく心さえ休ませる術を、あの島は確かに知っていたから。
 「…………」
 早く、会いたい。
 あの島を探して、彼の子供を見つけて。そうして、言いたい。ただいまと、そう声をかけたいのだ。
 長すぎる時間の果て、もしも自分を覚えていなくとも構わない。自分はこんなにも鮮やかに覚えているのだから。
 久しぶりに呼んだ子供の名前は、それでも辿々しくなかったことが嬉しかった。
 その名を綴ることをこの舌が忘れているのではないかと危惧しても、自分はその名前を音に変えることがずっと出来なかったから。
 ただ、嬉しかった。
 みんなが心配している夢の話とて上の空だった。………自分を心配し、守るためにどうしたならいいかと、そんな話し合いをするためだけの会合だと、すぐに気付いた。それでも大丈夫とただ笑っていたのはひとえにあの島を探しにいく意志を固めたからだ。
 もう、この世のどんなものも自分を縛ることはできない。
 見送ることを了承した一族のものたちが安心して帰りを待てるように、自分はただ駆けるだけだ。
 この命の限り、駆けるだけだ。
 あの、島を探すために……………
 うとうとと目蓋が重く垂れ下がる。
 それを感じながら、ひどく満ち足りた気持ちで、笑んだ。
 あの島が見える。
 かつての子供が、未だ子供の姿で振り返る。
 驚いたようにその無表情な顔の中、大きな目を少しだけ見開いて。
 そうして、腕を伸ばすのだ。
 小さく短い子供の指先が軽やかに自分の額を弾き、笑う。
 彼にいうためにずっととっておいた帰郷の言葉を捧げれば満足そうに子供は笑い、犬とともに自分にじゃれつくだろう。
 ああ……なんと幸福な夢物語。
 それを夢見ることすら禁じ、今思い出せるのは最後に自分を振り返り去っていったあの小さな背中と物言いたげな瞳だけ。
 すくいとれなかった最後のその言葉。……もう彼は覚えていないかもしれないけれど。
 愛しい島にいた、同種の生き物を知らない幼い子供。
 その小さな手のひらをまた掴み、微睡むようなあの日々の幸福がどれほど自分の糧となったかを教えてやりたい。
 偉そうな物言いで、それでも確かに人を思うことを知っているあの声を、聞きたい。
 そう長い時間はかからないだろう。準備はもう、したのだ。
 あとはゆっくりと休暇を過ごすつもりで海を渡ればいい。
 自分が待ち続けた時間に比べれば、あの島を探す時間など物の数にも入らない。
 早く、会いたい。
 落とした目蓋に鮮やかに浮かんだ子供の面影にゆったりと笑み、シンタローは束の間の眠りの世界へと落ちていった。

 神話は綴られる。
 決して人の干渉できぬ遥か彼方で。

 そうして動く、この世界。
  さあ。
       嘲笑うものに唾を吐きかけろ。

 








   


 キンタローの夢は現実感があり過ぎてさぞ嫌だったろうな、と思います。
 私なら見たくないなー。大事な人間が目の前で殺されて、復讐もできずにいる夢なんぞ。

 今回はキンタローの夢と、シンタローのパプワ島への思いという感じで。
 見事なくらい殺伐とした雰囲気とほのぼのムードという対比ができました。面白い面白い。