網膜パターンを取り込んでいるさなか、中にいるはずの人物に声をかける。
もう既に声紋は取ったあとだ。モニター越しに声をかければそれは直に室内に響く。
「おい、入るぞ?」
普段、こうして自室を訪れるときは必ず彼自身がドアを開けた。ところが今回はそうではなく、全てのセキュリティーが解除された後の、無機質な機械音でドアは左右に分かれて開かれた。
「あれ〜? シンちゃん、いないの?」
答えが返らないことに首を傾げて後ろに控えるグンマが声をかける。明るい、先ほどまでの余韻をかけらも見せない幼い声で。
つくづく、こういったところはグンマにかなわない。相手の中にある警戒心を溶かしてしまう、それは愚かさでも弱さでもなく、彼自身が得た純正の強さ。
「………いや、いる」
小さくそう呟き、困ったように息を吐く。
いることは、いた。それは間違いではない。が、問題は相手がこの室内に入った自分達に気づかないほど熟睡してしまっているということだ。
彼の自尊心からいって声をかけて起こしたりしたら照れ隠しから不機嫌になりかねない。
どうしたものかと考えているその一瞬の虚を突くように、グンマはキンタローの脇をすり抜けて室内の奥、窓の近くに備えられた椅子に眠るシンタローに駆け寄った。
そうしてそのまま………眠るシンタローに遠慮なしに飛びついた。無防備極まりなかったシンタローにはかなりの衝撃だっただろうことはそれを眺めざるを得ない位置にいたキンタローにもよくわかった。
「シ〜ンちゃん! もうお昼寝は終わりだよ。外に散歩にいこうよ」
高らかに明るい声が響く。楽しみで仕方ないと、そう響く音。
これで自分達と同い年なのだ。どう考えたって、信じがたい。
はじめの衝撃でか、あるいはグンマが駆け寄ったその気配でか、とにかく起きたらしいシンタローは自分に抱きついているいとこを眼下に見下ろし、顔を引きつらせている。これはこのまま怒鳴るかと、叱りつけられるグンマを思いまた溜め息が漏れる。
が、思ったような怒鳴り声は響かなかった。
「どけ、重いだろーがっ!」
そう叫んでグンマを首から引き剥がすだけで、シンタローは叱りも怒鳴りもしなかった。不思議なものを見るように二人を見つめ、キンタローは近付いていく。癖で消していた気配をこぼしながら。
そうして気づく。グンマが怒鳴られも叱られもしない理由。気配の消し方も知らない彼は、だからこそ、この一族の中で唯一彼にとって安心して近付くことを許せる者なのだという事実。
………それがグンマ自身にとってどういった意味を持つかは抜かして、一瞬……本当に一瞬だけ、羨ましく思ってしまう。決して傍に寄ることを拒まれるわけではないけれど、必ず一呼吸が必要なのだ。その一瞬の間が、時折ひどく遠い距離を思わせるのもまた、事実。
「キンちゃんも、ほら、どうしたの? 夕飯まで買い物しようよ。準備、大変なんでしょ?」
何気なく言葉にされる別離の薫り。それは自分にとってはさした意味はないが、言葉と換えている彼には……重いだろう。
やはりかなわないと、どこかで思う。
実力とか頭脳とか、そんなものではなく、どこかもっとずっと別の次元で、おそらく自分もシンタローもこのいとこにはかなわない。
そう思いながら、二人の手を引く幼く笑ういとこを見遣る。もうすぐ、長の別離を強いられる、同い年の最後のいとこ。
準備はさしてかからなかった。
実際、ほとんどは既に用意し終えているのだ。あとは急遽くることを決めたキンタローの荷物と、彼の分の船の中の居室を繕うだけだ。その点は既にメールで知らせてあるので帰る頃には整っているだろう。
食料なども困らないだけの量は用意したし、木は無理でも野菜程度であれば栽培できる設備も整えた。
後はこの身を船に乗せ、海を渡るだけだ。
ワクワクしてしまう。まるで遠足前日の子供のようだ。
「………明日、午後には島に着くか」
「んー…そうだな。で、その後荷物や設備の最終チェックをして、翌日の朝に出発だな」
「子供たちにはいったのか?」
「いや、まだ。でも解っていそうだな……特にトチギは」
「………勘が良さそうだ」
「まあな。その上、大人のことをよく解っちまう子供になっちまった」
苦笑して、こぼす。かすかな愚痴。
決して批難や批判ではない、それは聡く育った子供を思う痛み。
「言葉が少ないからって、頭が悪いわけじゃねぇ。あいつはむしろすげぇ頭がいいし、理解力も高い」
「グンマの子だからな」
「それ、なんつーか微妙だな」
かすかに笑い、シンタローが揶揄する。昔であればそんな言葉で括られることはなかったと楽しげに。
「俺にやることはあるか?」
「今のところは平気だ。けど、実際海に出たら色々だな。コンピューター関係の管理は多分一存するぜ」
「それくらいは構わない。他、は?」
何かもっと別のことはないのかと、まるでねだるようなキンタローの声音に目を瞬かせ、ふむとシンタローは悩む。役割が欲しいと、その目は確かにいっている。今いったような役割ではないと、そういっていることも分かる。
では何かと問うことは、多分彼は望まない。与えることを強制した役割分担など、彼はむしろ拒むだろう。自分の望んでいないことだと。
そう思い、小さく笑う。不器用な一族の血は変わらず流れている。誰もが人を思うことがひどく不得手だ。だから、時折見間違える。傷つけるために言ったはずではない言葉が凶器となったり、癒すための御手が傷を抉ることもある。
知っているからこそ、言葉の重さを噛み締めて笑いかけた。
「そうだな……たまにでいいから、愚痴を聞いてくれ」
他に言えそうな相手がいないと困ったように笑っていえば、厳かに頷く生真面目ないとこの顔。
「解った。何かあれば必ず、言え」
どんなときでも聞こうと、まるで誓うかのように恭しく答える律儀さに苦笑する。
「明日早いしな、さっさと寝とけよ」
「……この資料を見終えたら寝る」
「ん、じゃあ先寝てるわ。わからねぇところがあれば起こしていいからな」
おそらくはそう断っておいても聞いたりはしないだろうとは思ったが、一応声をかけてシンタローは奥に続く自分のベッドルームに進んだ。もう既に資料に没頭しているらしいキンタローは上の空の返事を返している。
本当にこのいとこたちは性質が似ている。一度興味を持ったものに対する執着心と向上心。何よりも異常なまでの集中力。短時間でその世界のトップに上り詰めることのできる、それは才覚だ。
明日一日中分時間があるにも関わらずこんな風に自分の部屋に押し掛けて資料を欲しがる当たり、大分研究者じみてきていると思う。もっとも技術者が必要なのだと、そういってIT関連の知識を詰め込ませたのは自分なのだから文句はいえないのだが。
ベッドに入り込み、目蓋を落とす。
………昼間見た幸せな夢をもう一度見れるようにとほのかに笑んだ口元を枕に押し付けながら。
『シンちゃん、毎日連絡をするんだよ! それから生水とかには気をつけて! それに…』
『シンちゃんキンちゃん、あとで僕達も島の方に行くからね〜! お見送りさせてね!』
『おい兄貴、後ろで湿ってキノコ生やしてねぇでもうちょっとまともなこと声かけとけよ!』
『シンちゃ〜ん! やっぱりパパも一緒にいくよ! 追いかけるよ〜!!』
『……………出来る限りは監視しておくが、俺も兄貴のお守はごめんだぜ』
『大丈夫だよ〜v 僕が追いかけさせないから。安心してね、二人とも!』
続々と切り替わっては話すけたたましい親類たちに思わず無表情になって二人はモニターを見つめてしまう。解ってはいたが……相変わらず喧しい一族な上、まるでまとまりがない。
「まあ………いつもどおり、だな…」
逆にこの状態になっていないときの方が本気で追いかけてきかねないので怖いと影でも背負いそうな勢いで疲れた顔をしたシンタローがぼやく。
確かに彼と同じ体にいた時そんな記憶があるような気がすると思い出したくもない記憶を掘り起こして同じような影を背負いそうになったキンタローは頭を振ってそれを追い出した。わざわざ思い出したくないものを思い出して抱える必要はない。そう割り切らなくては、あまりにも自分達は多くのことを背負い過ぎている。
「何か…夢見てぇだな、キンタロー」
「…………?」
「こうして、またパプワ島を探しにいくなんて。俺は一生もうできねぇと思ってた」
忘れたこともないし、行けなくてもいいなんて一度も思わなかったけれど。
それでもどこかで確信に近い気持ちで諦めていた。自分はもう二度とあの聖地へ入ることはできないだろうと。そこを探し出すより早く、この命は潰えて消える、そんな不可解な思い。
夢見て、憧れて。それはただ決してての届かない絵空事のような願いだった。それが今、叶おうとしている。もう明後日には海を渡りはじめ、パプワ島を探すのだ。
「なんか………まだ信じられねぇな」
幸せそうに笑い、シンタローが呟く。窓の外を見つめ、青空の先、必ずあるはずの聖地を思って。
その姿を…さらされる背中を見つめて、キンタローは座席に背を深く預けて息を吐き出す。………まるで贖罪のようになる声を諌めるように。
「もうすぐ、だ。いまからそんなではもたなくなるぞ」
「わかってるさ。だてに総帥業務こなしてねぇぜ?」
笑う顔さえ、いまは幼い。あの張りつめた糸が柔らかくほどかれ、かつて彼を包んでいた緑の歌声が聞こえる気が、した。
「明日は親父たちも島に来るし、そうしたら派手なパーティでもするか?」
「朝に出発じゃなかったのか」
「う………じゃあ、今日の夜?」
「島の子供と、だな」
昨夜十分パーティー並の食事会をしたのだから十分だろうと思い出した記憶に溜め息を吐きながらキンタローがいった。あの数時間の間に一体どんな手腕を振るえばあんな豪勢なパーティー会場が出来上がるのか問いただしたかったが、誰一人としてそれを不思議に思わない当たり、やはり少々常識から逸脱した位置にいる一族なのだと、どこか達観する思いで悟ってしまった。
もっとも、それを行うに足るだけの経済的・社会的地位を確かに自分達一族は獲得はしているのだけれど。
「まあまた親父たちとはパプワ島ですればいいか。再会記念パーティー!」
弾む声で言う姿はどこかグンマが被る。押し隠し常に冷静でいることを己に強いなければ、きっとこのいとこたちは本当にそっくりだったのだろう。その外見的色彩以外は。
「そうだな……」
緩やかに頷き肯定すれば、満足そうな笑み。
早く、早くと心は急いた。
「早く、いきてぇな。ずっと待っていたからかわからねぇけど、すげぇ待ちどうしいんだ」
そういって笑う。その目の奥。
誰も気付くことはない最果ての闇の中。
確かにその命は知っていた。……己の尽きる命数の残り僅かな時間を。
秘石の力によって作り出された体を有し、同じく秘石によって生み出された命は、確かに理解していたのだ。
………己の命が後一日しかないこと、を。
ようやく佳境も目の前です。
そろそろ死にますか? 死ぬんですか? そんな感じ。
………あー…そのシーン思うと心臓いたいんですけど。
ああもう本当に厄介な連載だわ(遠い目)
本当は今回のは閑話的なストーリーだったのでそのままラスト部分のセスナからの光景で始まらせようかとも思ったのですが。
………あんまりにも自分の脳内が殺伐としたイメージを描いたので逃げてみました。
うう……私はシリアス書くの好きだが、残虐シーン書くのは嫌いだー(涙)
そんなわけでそういうシーンはあっさり書けることを希望。
どうなるかはそのときの私次第(きっぱり)←直視を避けなければそれはもうきっちり書いてしまう。