耳障りな声だった。ずっとずっと体内で響いているような、そんな音。
不快で耳を削ぎ落としたくなる。それでも、それを何一つ聞き漏らすまいと神経がざわめいているのが解った。
愕然とする。この声を、この身は確かに求めている。
「おや………どうかしましたか……?」
くすりと面白そうに彼が笑う。自分の中の変化など見通しているような、酷薄な青い目。
奥歯を噛み締めてその声に答えそうな喉を押しやった。まるで、操り人形だ。その声に誘導され、望むがままに動いてしまいたくなる、誘惑。
「頑固ですねぇ。もう、気づいたんじゃありませんか?」
「………なに…を………っ!」
喉奥から絞り出した音は、それでも低く地を這うように相手を威嚇する。
まだそれだけの元気があるのかと驚いたようにわずかに目を見開き、アスは軽やかに両手を動かすと、拍手を贈った。一見すれば紳士のような、その姿。
「その体を作ったのは…秘石ですよ」
「………………」
「赤と青は弾きあう。それでも、私の影であるあなたが何故そこに馴染むのでしょう?」
謎掛けのように言葉掛けながら、明日は笑う。
辺り一帯の空気が、ざわめいている。危険信号。解っていても、足が動きはしなかった。対峙した瞬間から、予感が身を閉める。
戦うことすら、許されないと。
「その体は青の力で殺され、修復されたもの。痕跡があれば、入り込むことは訳がありませんよ。生みの親であれば、ね………」
極上の笑みで囁く、呪いの音。
その身は支配されているのだと、彼はいう。
遥か過去、一度死んだそのときから時間をかけてゆっくりと。その隅々にまで呪縛が行き渡るように。かけられ続けた、呪詛。
それに冒された身を有して青の番人たる自分に立ち向かうなど、愚かしいと嘲る笑みにかえた男は、優雅にその腕をシンタローに差し出した。
「起爆剤はなんだと思いますか?」
ゆっくりと伸ばされ、その身へと近付く指先。そのまま首をもぎ取られる錯覚に身震いするより早く、それが爆発した。
意識も何もしていなかった。ただ、肉体が反応した、条件反射のように。
目の前にあったその腕は確かに衝撃を受けた証を宿し、赤く染まっていた。そのまま肉片が蠢き再生するかと思えば、そうではなかった。
「………ええ、そうです」
まるで正解を言い渡したものへの褒美のように微笑んで、その指先を振払った。
振払った指先から滴る血が、飛んだ。眼前に構えたままの、シンタローへ。
瞬間の、灼熱。
「……………………っっっっ」
目を見開いて音にならない叫びが喉奥に響いた。
張り付いた赤い刻印を中心に、腐食しはじめる。否、腐食ではなく、浸食か。段々と脳裏に確かな形で理解してきた事態に、忌々しいと舌打ちもできない。
この事実を前に、決定的な結果が確かにあったのだから。
「わかったでしょう?」
その身に走っているのであろう激痛を、それでも見せまいと唇を噛んで耐える己の影であった男にアスが笑う。嫌味なほど、優しく柔らかな物腰で。
のばされる指先。先ほどは無秩序だった浸食が、今度は確かな意志をもって与えられる予感。
逃れなくてはと体を動かすが、足先はまるでいうことをきかない。アスの余裕ある所作を見れば、解る。確かにこの身は青に支配されているのだ、と。
赤く彩られた指先が、触れる。心臓の、真上。
じゅくりと、熟れた果実が潰される音が、脳裏で響いた。
感覚が響き渡る。他者の血が入り込み、蠢き、己と成り代わろうとする、一切の剥奪の感覚。
回避の方法を必死で考えれば、最悪の答えしか導き出されない。あるいはそれもまた、用意された答えなのかもしれない。
それでもと、指先に力を集中させる。見えない触手が心臓に巻き付くより早く、取り除かなくては。時間はないのだと警鐘が響いた瞬間、己の腕はのびた。
冒される血肉を剥ぎ取るように、己が胸を抉るために。
そうして目に映る自身の血飛沫の先、男は笑っていた。正しい答えを導けたと、満足そうに。
己の身より長く宙を舞っていた黒い髪の毛先をその指先に絡め、恭しく、口吻ける。
…………仕上げは任せろと、そう囁くように、唇は柔らかく微笑んでいた。
「………シンタ…ロー………」
掠れた声が耳に触れる。こんな声は、久しぶりだ。
ずいぶん昔……彼を傍に置くことを決めた頃、時折聞いていた心許ない子供の声。自分が眠っている時にだけ出される、殺意とごちゃ混ぜの、縋る子供の祈る声。
膝をつき吐き出した血を見つめる。辺り一面が赤く染まっていた。鈍く日に光る、赤黒い血。鮮明な赤。
入り交じったあらゆる赤は、それでも全てが自分の身のうちに内包していたものだ。
随分たくさんあるものだと、どこかのんきにそう思っていれば頭皮が引き攣れる感覚が伝わった。力なくそれに従い持ち上げられた顔は、長い金の髪を目に映した。
優しい目が、自分を覗く。
「役目は終わった。今日までその身を守る任、ご苦労だったな、影」
血の溢れてはいない指先を差し出し、彼は頬を撫でる。まるで子供をあやすような、仕草。
「その入れ物はこちらで処分する。お前はまた、主の元に還り、肉を得ろ」
そうしたなら自分達はまた一つに戻るとそう、囁く。
瞬間、自分へと向けられた爆風を避けるようにアスは遠く後方に退いた。
目を向ければそこには青ざめた金の獅子が、いた。狂いそうなほどの本流をその身の中に潜ませたまま、叫ぶ言葉も知らない男が立ち尽くしている。
ただ彼から男を引き離そうと放たれた眼魔砲は鮮やかに男を屠るだけの力を有していた。
それを相殺するわけでも消滅させるわけでもなく、ただ後方へと退いた相手の真意など考えることなくキンタローはシンタローの傍に駆け寄った。
「シン………」
言葉が、出なかった。確かに自分はこのシーンを知っている。腕には確かな重みを知らしめる彼の肉体。自身でその身を支えることが出来ず、自分に寄りかかっている。そんなこと、今まで一度だってなかったというのに。
胸には肉を抉った痕。指先は己の血で赤く濡れ、吐き出した血に口元はもうその肌の色を見せてはいなかった。
何故と問いたかった。
自殺など、彼らしくないではないか。しかもいま目の前には屠らなくてはいけない敵が存在しているというのに。何故自ら命を絶つなど、そんな真似をしたというのか。
握りしめた拳には爪が食い込み、皮膚を突き破る。微かに流れた血が彼に触れた瞬間に、その体に走った戦き。
「…………………っ」
噛み締められた唇。戦慄きながら、キンタローの拳が触れる肩へとのばされた指先が、ずぶりと肉に喰い込んだ。
「シン………っ!」
「それ以上壊さなくてもいいですよ」
息を飲むように叫ぶキンタローの声に被さり、呆れたようにアスが呟く。わざわざ先ほどの攻撃をあえて避け、自分の血を被ることがないように計らった意味もないというように。
睨むキンタローの視線を受け流し、まっすぐに自分を見ているシンタローに声をかける。
「鍵は壊れました。もう、青の体液はどんな薄くされようと、あなたには毒でしょう?」
呟き、微かな哀れさを含んで、付け足した。
「もういきなさい。後の片づけは、私の役目だ」
その目はいっていた。もうお前は自分の一部なのだ、と。青の一族の中で生きた赤の番人の肉を持つシンタローという生き物ではなく、アスという青の番人の影になったのだ、と。
そう笑うアスを見つめ、シンタローは血を吐く衝動に耐えながら喉を震わせる。
自分を守るように支えるキンタローの手のひらに指を添え、その指先に力を込めながら。
「俺……は………」
掠れ、聞き取りづらい音。彼がそんな音を紡ぐことがあるなど、誰も考えはしなかった。いつまでもいつまでも若い頃のまま、変わることのないその姿と同じように、きっと自分達の前で彼が動かなくなることは永遠にないのだと、どこか不変を彼に見いだしていた。
指先に力がこもる。肉体的な力ではない、内なる力。それがキンタローに移され、溜められていく。
「この先も…シンタローの、まま、だ……っ」
喉が裂けるように声をしぼり、断言する。決してアスの影になど甘んじないと。
そうして指し示された指先は、僅かに眉を顰め笑んでいるアスへと向けられる。
問いかけを含む眼差し。それを振払い、込められた力は解放された。
二人分の力は相乗効果の元、まっすぐにその標的を貫く。それを土煙の合間、確かに見定めたキンタローが腕の中のシンタローを抱き寄せた。血の気の失せた体は凍えるように冷たい。
こぼれ落ちた涙が彼の頬に触れた。同時に焼ごてでも押し当てたようにその皮膚は黒ずみ僅かな煙を上げながら焼け爛れる。
もう、彼のために流す涙すら、彼の体を害すものでしかないのだと見せつけられる。
その事実が苦しくて、血の溢れるその身をあたためる術を必死で考える。どれほど有能と誇られても、いま彼を救う術を思い付くことのできない自分は愚かだと、そう蔑(さげすみ)ながら。
子供のようにすがるキンタローを霞んだ視界の中の朧な影として捕らえる。もう、感覚はなく、彼が自分を支えていくれていることも、その影の近さ故に理解できる程度だった。
見上げた空は暗い。確かに快晴だったはずなのに、日差しすらもう見えない。
夜になったのかな、と考えながら、疲れた体から力を抜いた。
「ちょっと……」
眠るだけだと、彼は小さく笑った。
いつもの、あの、何気ない笑みでそういった彼は静かに目蓋を落とす。
そうして、動かなくなった、その体。
はい、死ぬ瞬間まででした。
映像的にあまりにグロイと思った場所は自主規制。
ここでシンタローサイドは終わりです。あとは物語を神話へと昇華させるために、パプワ島の惨劇で終了。
その辺でアスとシンタローの対話の中で説明されなかった部分が解明されます。
まあぶっちゃけ、パプワを追いつめるためだけに説明されるんですけどね(死)