叫んだ、つもりだった。
 その名を。かつては毎日幾度となく呼び、答えてくれたその名前を。
 嘘だと思いたくて綴ったはずの名は、けれど空気を振るわす吐息と同じ空しさで霧散し消える。
 「解るのでしょう、あなたたちは、本当に似ていた」
 喉奥で笑いながら、滑稽な喜劇でも語るようにアスが呟く。
 「だから、影はこうなったとも言えますけどね」
 「……………な…に……?」
 「忘れたんですか? 昔、私はいったはずですよ。あなたを殺すように言われている、と」
 「それは、お前の………!」
 「ええ。ですから、私の影であるあの男にも、刻まれた命令です」
 それに逆らう術は、何でしょうか。口角が卑しく持ち上げられ、相手を食らう獣の目で、アスは問いかけた。
 それは簡単で単純な答えしか知らしめない、問いかけ。
 そしていま、最もこの青年にとって衝撃となる、問いかけ。
 「………………!」
 戦慄く唇を手のひらで隠し、漏れる呼気を飲み込もうと青年は喘ぐように息をする。
 まさかと、ずっとそんな言葉が巡っているのだろうその脳裏に、きっと自分の見つめる男の叫び声など届きはしないだろう。そう、その奇妙な対話を眺めながら、笑んだ。
 自分を裏切り他のものを選んだ報いだ。せいぜい、痛み続けるといい。
 この世で最も守りたかった子供が自身のことで切り刻まれるその姿を、何も出来ずただ見つめるといい。
 そうして自分は、その滑稽極まりない二人の劇を拍手を送り観賞しよう。その美しい涙が枯れ果てるその瞬間まで。
 「解るでしょう、その結果くらいは」
 ゆったりと呟く。震える肩からは、赤い陽炎が洩れはじめている。
 ぎくりと、影が瞠目している。肉体から離れたせいか、自分達の目的さえ感知しているのだろう。同化はしなくとも、同調はしているのか。どちらにせよ、彼には何の力もないことに変わりはなかった。
 「嘘………だっ……!」
 必死の虚勢で青年は叫んだ。その言葉だけがまるで灯火のように。
 藁をも縋る空しい叫びは、だからこそ踏み躙り甲斐があった。決してそれが叶わないことを知っている声音を切り裂くこの心地よさ。
 自分を睨む憎悪を孕んだ影の眼差し。なんと、心地よいことか。そうして二人朽ち果てた先ですら、自分を思うだろうか。憎しみという枷に捕われて。
 それは何という愉悦。
 同じ肉に交わらなくとも、彼を自分と同じにできる。眼前の青年も、まして影自身さえも最も嫌悪するだろう、その事実。
 それならば、もっと極上の舞台を。
 この青年を壊せるだけの材料は、こんなちっぽけな髪だけではまだ足りない。言葉巧みに誘導することも可能だけれど、それではつまらない。妄言に翻弄されただけだと、そんなくだらない言い訳すら与えない彼自身の意志による現実が必要だ。
 自分の足下、踏みにじられた黒髪を一房すくい上げる。
 硬直したように動かない青年。まるで、先ほどの光景を人を変えて見ているようだ。本当に、人というものは似ている。あるいは、影がそうしたものを好み傍に置いたのか。
 掬った髪に唇を近付け、小さく呟きを与える。まだ実験段階の能力だが、大分使い方が解ってきた。
 だから可能だろうと捨ておいてきた。
 すぐに回収できるのだから、せいぜい嘆きを深め破滅するといいと、そう思いながら。
 うっとりと髪に口吻けながら、震える空気の振動に目を細めた。
 実験は、成功。
 どさりと重々しい音をたてて、肉が転がり落ちてきた。
 己で抉った胸、肩。そして所々ではあるが熱した鉛でも浴びせたかのように黒く淀み炭化した皮膚。
 先ほど離れたときよりも悪化している状態は都合がいい。愁嘆場は、確かにより深められたのだろう。
 さらりと崩れるように髪が揺れる。黒い、短くなった髪。その髪の合間、見え隠れするその面。
 解っている。面影の変わらない、その顔。
 決して見間違うはずもない。青年は見開いた目を凍り付かせ、叫ぶ音を忘れたように大きく唇を開けたまま、音も出せずに震えていた。
 決定的な、その事実。
 もしかしたらと思いながらも否定していた、現実。
 それでも最後の砦のように、呟く。
 愚かな抵抗と解っている、震えた音。
 「……シンタ…ロー、は、人間だ。お前とは、違う」
 小さくその名を呟く。掠れてしまうのは、あまりにもその名を心の底にしまい、守ってきたから。
 自分と一緒に生きた人間。同じ肌を有し、自分を守り導いてくれた、たった一人の友達。
 だから姿が変わらないなんてはずがない。別れの日からどれほどの時間が流れたのか数えることさえ切ないほどだ。
 幼く小さかった自分の腕が逞しくしなやかに伸びたように、彼もまた年輪を重ねているはずだ。
 だから、目の前の肉体はまやかしだと、願うように呟いた。
 思っていたことが現実であるというなら、そんな悲しいことは、ないではないか。
 ……………それでもいつだって、否定したいことこそが、真実、なのだ。
 「人でしたよ。あなたと関わるまでは、ね」
 にっこりと笑んで、優しい声音で告げる、残酷な音。
 「だからこそ年もとりましたし、成長もしたでしょう。人間として。でも……あなたに出会った」
 運命の悪戯なのか、決定されていた必須事項だったのか。そんなことはどうでもいい。ただ、その事実だけが大切なのだと力を込めてアスがいう。
 それ故に自分達は分ち、そして別の答えを得てしまった。眼前には青年に寄り添い自分を憎む、眼差し。
 それは自分とともにあるはずだった。自分にこそ寄り添い、溶け合うはずの影。
 「あなたはね、鍵だったんですよ。プログラムを起動させるためのキーワード。もしかしたら出会わないかもしれなかったあなたに、それでもこの男は出会った」
 すばらしい茶番劇だったとアスは笑う。子供だましの演劇にほど近いと。
 「だから、動き出したプログラムはもう止まらない。そうしてこの男は、それを悟ったから、選んだんです」
 地面に落ちたままの肉体を無操作に持ち上げる。片腕を力任せに引いて、その全面が見えるように。
 がくりとその首が落ちる。確かに命の消えた、ただの肉塊のように。
 そらしそうな眼差しを、それでも縫い付けたのは、再会できたその姿を懐かしむが故か。………それとも、その視界から外したなら世界が崩壊していくような、そんな恐怖感からか。
 どちらにせよ、自分には好都合だ。見せつける、絶好のチャンス。
 「ほら、見えますか? なかなか見事な抉り方だと思いませんか?」
 ついと、その心臓に近い部分を指先でたどりながら確かめる。どろりと黒に変色した液体が指先を汚した。
 粘膜のようなその液体を指先で弄びながら、実験結果を報告する博士のようにアスは淡々と呟いた。
 「第一のキーワードはあなただった。そうしてこの男は肉体を捨てて、青の一族を完全に復活させた」
 両目とも秘石眼のものがここまで揃うことは史上初だと喉奥で笑いながら、呟く。
 だからこその、絶好の時期だった。今を逃せばもっとずっと時間がかかってしまう遠大な計画。
 それを遂行するために、自分達は生まれた。布石は打たれ、潜められた伏線は消化されていく。
 「ラッキーなことに、私と交じるのではなく、赤の番人の肉を得ましたしね。よく、働きましたよ。この影は」
 たとえその自覚はなくとも十分な働きをした。青の一族への多大な影響力。この青年への、揺さぶり。すべてをたった一人でまかなえる、そんな存在にまでなれたのだから。
 「青ではどうしたって聖域には溶け込めないのに、影が溶けたことが中和点になり、私もこうしてずいぶん楽に動き回れますしね」
 この肉は本当に役に立ったと凍り付いてしまった指先に口吻ける。甘い、血の味がした。
 戦慄く青年の肩。陽炎のようにのぼる、赤い幻想。
 「第二のキーワードは、私です。正確にいえば、青の血ですかね」
 爛れた皮膚に指を滑らせながら戯れのようにアスは己の指先を傷つけてその皮膚に血をなすり付けた。
 同時にじゅっと、肉の焦げる音が小さく起こり、黒く爛れた新たな皮膚がどろりと肉を覗かせた。
 「ね? 赤に交わった青の拒絶反応はなかなか凄いでしょう? 特に私の血であれば、成分が近い分、私の入り込む素地に化す」
 そうして入り口が出来たなら、昔のようにまたその身を乗っ取ればいい。とても簡単なことなのだから。自分は主であり、彼は影。拒むことなどできるわけもない。
 「そんな……勝手な………っ!」
 「勝手? どこがですか?」
 不可解なものを見るように叫ぶ青年を見る。本当に、訳の分からない生き物だと、そう思いながら。
 「人の世で年をとらない身の意味が解りますか? ………聖域でしか生きたことのないあなたには解るわけもありませんか」
 悩みも尽きず、そのくせ青と赤のせめぎ合いで内部はズタズタだった。それでも変わらずに過ごし続けた胆力は、ただひたすらに影の功績だろう。
 震える青年に寄り添う影の眼差しに生まれた、微かな悔恨。
 誉れなどではないと、そういうかのようなその目の影は、どこかアスの支配欲を満たさせる。
 「元々そのために彼は動いていたんですから、彼の行動が実るのが近付いただけですよ。それでも、どうしてもこの男は、それを拒みましたけど。なんでだと思いますか?」
 にっこりと微笑んで問いかければ、勘付いた影が青年の耳を覆う。
 もっともその姿すら認識されていないのだから徒労以外のなにものでもないけれど。
 必死で、影は青年を守ろうとしている。気づきもしないその命を、それでも、自分に反して。
 まっすぐに見つめる自分ではなく、見向きもしないその青年を。
 本当に、思いどおりにならない生き物だ。昔から、自分の一部だというのに。無意識に動く部分以外の全ては、反発ばかり。操られない限りは意志に沿うことがない。
 元は同じだったはずなのに、どこで変わったのか。変質の理由は、この島とこの青年なのだろうけれど。
 「影は自分の利用価値を知っていますね。あなたを殺すために、自分の体を使わせたくなかったのでしょう」
 「………………え…」
 「わかりませんか? この男はね、逆らうために、自分で死んだんですよ。舌を切れば事足りるというのに、わざわざ損傷を激しくしてね」
 ボロボロの、その体。凍り付いた今でさえ傷だらけの、屍骸。
 理由は簡単だった。過去に、確かに言っていたから。そのために己で己を嬲った。
 「痛かったでしょうね。死にきれないから苦しんだでしょうし。それでも、壊せば壊した分、自分の体であなたを殺しにいくことはなくなるから、耐えたんでしょう」
 空気が震えた。遠く遠く、遥か彼方でもまた、振動が起こる。暴走は、始まった。
 「いかがですか? 欲しければ、この肉もあげましょうか?」
 青の一族も欲しがっていま、暴れていますけどねと、スポーツ観戦でもする気安さで教える声音は、歓喜に近い。
 「ねえ………あなたのために死んだ男の死骸、いりませんか?」
 叫び声が聞こえる。影の、悲痛な叫び。否定の声音。
 眠りについたものの唄は決して生者には聞こえない。その声音は空しく響くだけで、神話を作る素地となる。
 彼には解るのだろう。遥か彼方、自分の生きた土地で悲しみに箍(たが)の外れた一族の力の暴走が。過去に弟が起こした規模よりも格段に激しい、破滅の音色が。
 そうしてまた、この音色も聞こえるのだろう。
 目の前の青年の内で奏でられる怨嗟の音色。もっともこの青年に似合うことのない、負の感情の爆発。
 己自身を恨み憎み謗る音。
 自分を守るために死んだものを求める、禁断の願いが、神話より続く力に共鳴、する。
 「裏切った罰に、特等席を用意したんだ。目を逸らすなよ………?」
 既に声など聞こえはしない青年にではなく、その青年に語り続ける影に、呟く。
 ゆっくりと世界は崩壊をはじめた。
 そうして最後のプログラムの起動。

 聖域に響き渡る地響きと、死者にだけ聞こえる悲痛な悲しみの、唄。
 その唄から耳を塞ぐこともできず暴走を食い止めようと抱きしめる亡霊に気づかない、青年。

 フィナーレは、飾られた。

 








   

 さあ、世界が破滅に向かいます。
 …………どうよ、それ。

 ほんとうはね、パプワサイドも初めはほのぼのとしたくり子とのお話からにするつもりだったの。
 でもね。………それが壊されるのがあんまりにも痛々しくなったので削除。
 女の子が悲しんでも救われない話なんて書きたくないよ!
 そのせいでパプワが暴走すごくあっさりしているように見えますけど。まあ、それはそれで妄想で補完でもしておいて下さい。
 私は書きたくなかったんですよ。悲しいから。